「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・満州事変」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER電子書籍

2019-11-16 05:55:42 | 温故知新

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満州事変、日本の中国東北・内蒙古への武力侵略戦争。昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件を端を発し、狭義には1933年5月31日の塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)まで広義には1937年7月7日の露溝橋事件までを指す。15年戦争の第一段階。中国側の呼称は九・一八事変。「前史」日本はポーツマス条約、対華二十一か条要求などにより中国東北地方(満州)南部を勢力範囲を収め、満蒙特殊権益と称していた。しかし、第一次大戦後、中国の反帝ナショナリズムが成長し、特に張学良政権による国権回収運動が進められた結果、日中間には紛争は頻発し、世界大恐怖による打撃も加わって、1930年末頃から「満蒙危機」が叫ばれるようになる。関東軍参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは武力行使による満州の領有を計画し、軍中央の容認の下に、奉天北郊の柳条湖の南満州鉄道路線上で爆薬を爆発させ、これを中国軍による満鉄線爆破と偽り、中国軍を急襲攻撃し、一挙に満鉄沿線を武力制圧をした。「満州国の成立」だ2次若槻内閣は不拡大方針をとったが、関東軍は軍中央の協力のもとに朝鮮軍の協力の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、政府は既成事実の追認を余儀なくされた。関東軍は1932年2月までに東北の主要な都市、鉄道を占領し、3月1日清朝内後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を発足させ、その実権を握った。「日中戦争への道」中国は不抵抗方針をとるとともに国際連盟に提訴し、連盟はリットン調査団を派遣したが、日本は9月15日日満議定書により満州国を承認し、1933年2月連盟総会が日本の主張を否認するリットン報告書を採択すると、3月に国際連盟脱退通告をした。前後して関東軍は内蒙古東部の熱河省さらに河北省に侵攻し塘沽停戦の協定により河北省東部に非武装地帯を設定し、熱河小の一部を満州国に編入した。塘沽停戦協定により日中正規軍間の交戦は一応停止されたものの、満州国内では反満抗日勢力とゲリラ戦争が間断なく続けられた。1934年3月、満州国は帝制を施行し溥儀は皇帝となった。日本への従属性の実態は変わらなかった。日本は軍事優先の経済開発を進めて、1935年以降関東軍・志那駐屯軍は華北分離工作を本格的に推進し、同年末には河北省東部に傀儡の冀東防共自治政府を発足させたが、これは、中国の民族的危機感を強め、盧溝橋事件を機に日中戦争に全面化に連なった。






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