「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「千利休の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-03-05 06:55:53 | 温故知新

「千利休の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
千利休(1522~1591)安土桃山時代の茶人、和泉国堺に生まれる。父の田中与兵衛(1540年没)は姓を千と改め、魚問屋を営み倉庫業も兼ねる納屋衆と呼ばれる豪商であった。堺の開口神社蔵「念仏差帳日記」天文4年(1535)4月28日付けの「念仏寺築地塀修理帳」に「今市町、与四郎殿」とある。利休は当時14歳で、与四郎が通称であったが、24歳頃剃髪して宗易と号した。17歳で北向道陳に、ついでその引き合わせで武野紹鴎に茶の湯を学んだ。その修得の課程で大徳寺大林宗镸に参じたとされる。35歳で師の紹鴎と死別するが、師が利休に書き与えた「紹鴎侘の文」両者の交流を伝える。そして利休が完成した。侘茶を理論化した「南方録」にも具体的に紹鴎と利休の関係が述べらえている。堺の豪商を背景として成立する茶の湯は勃興する在地武士団と軍需品の取引を含む経済活動を絡めている。利休も1568年(永禄11)入洛した織田信長との連携を強めてその茶頭となり、次の豊臣政権下では諸大名に対する秀吉との仲介役の役割を果たした。1587年の北野台茶会など秀吉の茶の湯興行で大きな役割を果たした。このことを通じて利休が政権内の地歩を得たことは茶の湯文化の全国的な浸透に決定的な効果をもたらした。そかし、秀吉政権下大陸への武力侵攻を企策し、経済的支援を博多商人に求めるようになり。利休を代表とする堺の地盤が低下していった。1591年(天正19)正月、豊臣秀長の病死をきっかけで利休の処罰が表面化し、2月13日堺に蟄居命じられた。再び上洛した利休は2月28日に聚楽第で自刃した。秀吉による利休賜死の理由は、その2年前に大徳寺山門に自分の木像を掲げたことなどが理由と思われているが、結果的に石田三成派に政策抗争に敗れたことにある思われている説もある。いずれにせよ明白な理由は解っていない。


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