「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介 江戸時代の封建的時代にも幕政の改革が必要として執り行われたが、何時の時代にも改革はリスクと弊害をもたら

2019-10-22 05:57:45 | 温故知新
『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介
江戸時代の封建的時代にも幕政の改革が必要として執り行われたが、何時の時代にも改革はリスクと弊害をもたらす者である。
江戸時代の中期の徳川幕府八代将軍吉宗が起こした「享保の改革」享保改革は紀州藩主から将軍に就任した吉宗は紀州時代の政策を生かし、より庶民的な立場に立って、概ね好評で自ら政務を執ったので一定の評価を得たと言えよう。
寛政改革」の松平政信は役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。 
 その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。
 結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。 
 定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
 定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
 その後、老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。
 江戸後期の水野忠邦の「天保の改革」は失政に終わり、その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。
 しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、弘化二年(1845)九月、加増のうち一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
 享保・寛政・天保年間の庶民の暮らしぶりと、改革は庶民の暮らしに豊かさをもたらしたか、疲弊にだけに終わったのか、江戸幕閣の幕政の政策と庶民の暮らしぶりの功罪を検証してみた。

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