テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

コレクターの不憫

2013-01-02 23:17:55 | 双眼鏡 望遠鏡
敢えて記事カテゴリーを双眼鏡・望遠鏡にするまでもなかったのですが、今日、SS10x50SK-Dを覗いていたときに感じたコトなので、気の向くままに。

星空観望用として、愛機と云ってもいい勝間光学さんのSS10x50SK-D双眼鏡ですが、TPOによっては、他の双眼鏡と、とっかえひっかえ覗いてしまうのは、コレクターの端っことして当然の行動ではあるのです。ただ、もっと年端もいかなくて、自分の好きなアイテムを幾つも持てなかった頃に、一つしかないその道具に対して抱いていた愛着とは違う思いであることも事実なのです。

例えば、カメラにしても、最初に自分で一眼レフを手にしたときは、レンズも限られていて、もうそれこそ、そのレンズとボディーが手に馴染みきって、無意識に構えたポジションも、毎回寸分の違いもなく決まったものでした。
恐らくは、そのような時代の私に、いま持ってる双眼鏡のどれか一つでも与えたら、それこそ片時も離さず、寝るときですら枕元に置いて磨いたり、使うまでもなく耽溺するようにしげしげと眺めたり、それを使うためにわざわざどこかに行ったり、濃密に接していることでしょう。当然その特徴については知り尽くし、他の機種と見比べる機会があっても、自分のモノのほうが優れている部分が先に分かるような、身びいきっぽい見方になるでしょうし、徒に高価高性能な機種に焦がれることも少ないでしょう。
どのような種類のモノであれ、複数のモノを蒐集してしまうコレクターになってしまうと、時間と集中力の不足から、そういう一つの個体への、のめりこみかたの程度に於いて、不自由というか、制約が出来てしまうなぁと感じた次第です。贅沢が出来る不憫さとでも云ったらいいのでしょうか、一つのモノに執着できないワガママと云うのでしょうか。一台きりの双眼鏡から得ることの出来る満足感や喜びは、二台、あるいはそれ以上になっても、その台数が殖えた分だけ増すものではないと思うのです。

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