所持リスト
「基本第二版」
「陰謀」
「繁栄」
の3つのみ。
ヨドバシカメラでユーロサイズのハードスリーブに入れて、サプライカードは全部袋詰めして名前シールを貼って毎日遊び相手を探すぐらいには熱中。
〜ドミニオンに着手したきっかけについて〜
もともとカードゲームは好きだった。とはいっても小学生の頃に兄の影響でMTGを初めて以来しばらく熱中した程度で遊戯王や他のモノには手を出してないのだが、MTGへの熱意はなかなかのものだったと思う。投資額が半端じゃないとかそういうレベルではないが、当時の学業以外に自由な時間を戦略の研究で満たしてしまうほどにはまっていた。自室のスペースにカードをずらりと並べては腰痛をものともせずに、ああでもないこうでもないと時間を忘れて没頭していた。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、今思えばMTGにはまったからカードゲームが好きというよりかは、もともとストラテジー好きな傾向と素質を持ち合わせていたような気がしていて、それはなぜかといえば今でもタワーディフェンス系のゲームを筆頭にハマりやすく、もちろんアクションゲームもやるし好きなのだが、昔っから好きだったなぁと思わずにはいられないのだ。
そんな自分に対し当時のMTGはある意味劇薬だったなあと染み染み思う。本音をいえば、今現在気楽に遊べる知人ともMTGをプレイしたいと思うのだが、必要投資額やプレイ難度を筆頭に第一歩のハードルが信じられないぐらい高く、はまってしまった際には投資を続けなければMTGの楽しさを味わい続けることができないという入り口が極めて狭いのに加えてその奥は底なし沼だなんて、だからこそとてもじゃないが健全な友達をこんな陰キャ勢の巣窟に招待することを躊躇せずにはいられない。
だがそれもドミニオンなら話は別だ。カードゲームの面白い世界へ招待したい俺自身が、決してそこまで高くはないお金(平均¥4500程度)を出資するだけで、入り口(とても簡単なルール)がMTGとは真反対なこの遊びをみんなと楽しめる。なんて素晴らしい選択だったのだろうと、ドミニオンを始めた直後の俺は思ったのだ。
以前にナショナルエコノミー(無印とメセナ)を絶賛して仲間とのプレイも楽しんでいたが、ボードゲームの世界に腰まで浸かろうというところで、せっかくなら超有名どころを押さえておくべきかもしれないと思ってカタンと一緒に試しに購入したのがドミニオンだったのである。
〜そもそも現代において今時なぜアナログゲームなのか?〜
なぜだろうね。確かにドミニオンほどファンが多いようなカードゲームならブラウザ上で完結できるオンライン対戦などがあって、わざわざ複数人が同じ空間で物理的に時間を共有しなくとも、ネット上で行えば時間的制約や物理的制約をかなり軽減できる。だというのに、カードゲームではなくともアンプラグドでアナログなボードゲームはいまだかつてないほど盛り上がっているように思える。
効率的な面で勝ち目がないことには疑う余地がない。しかし、俺は五感を使ってプレイすることの充実感が大事なのだと思っている。特にそう強く感じるのは、500枚という凄まじい枚数のカードを1時間以上ぶっ通しでハードスリーブに詰めている時だ。MTGの時もそうだったが、新品のカードは独特の匂いをしていて、あれを嗅ぐと当時の少年の心が蘇ると同時に不思議な高揚感に包まれるのだ。次いで、デッキをシャッフルしている時や、デッキから手札のカードを5枚ぱちんぱちんと軽く音を立てながら並べていく時が該当する。音が立つほど反らせて弾くのは厳密に言えばカードやスリーブへのダメージを懸念すると避けるべきことなのだが、どうしても軽く音を立てたくなってしまう。「ぁ〜、俺今カードゲームをプレイしてる」という実感を抱くための行為なのである。
勉強や会話も同じようなものだと考える。先ほどの匂いフェチや音フェチの話は度外視するとして…、理科の実験や音楽、購入したい商品の実際の質感や重量、恋人とスキンシップ以外の時間が欲しいだけなら音声通話やビデオ通話だけで済むはずだが、実際はそうではない。やはり五体満足で生まれたからには触覚や嗅覚にも刺激が欲しい。特にこのボードゲームで遊ぶという行為の根本的な目的は「感性の充足」つまりは「楽しむ」ことにあるわけで、ならば五感をフルに刺激しないわけにはいかないよね、ということだ。ボードゲームによくある付属品の安っぽいプラスチックの模型よりも別売りで質感が良いアイテムに取り替えてプレイしたいという性にもそうした原理が働いているように思える。
話がかなり逸れた気がする。気のせいじゃないなこれは。ドミニオンのオンライン対戦と実際の知人と卓を挟んでのプレイを比較すると雲泥の差があってはっきりとわかる。1ゲームが長引いてデッキが分厚くなってくるあの感じには、液晶に表示されたデッキの枚数とは比較にならないほどの情報量を含んでいるように思う。鍛冶屋を獲得して回転数をあげなければならないという切迫感を視覚よりも手にのしかかる重さから神経伝達スピードで感じ取るができる。村と祝祭をぱちんぱちんと連打して属州をかっさらわれる相手の顔の歪みを見て得られる快感の強さはデジタルに勝ち目がない。余談だが、対戦相手が見つからなかった夜は一人でランダマイザとにらめっこして面白いサプライや戦略を練るのが習慣になっているんだが、デモンストレーションは面倒でしかたがないのに触りたいという願望から結局やらずにはいられない。それぐらいに、そもそも手の欲求というものが強大なのかもしれない。
〜今回の本編。ボードゲームの行く末〜
「異郷」と「暗黒時代」を新たに買おうか検討している時の話。この2つは現在(2018年09月15日)amazonでもヨドバシカメラでも取扱っていない。厳密に言えば、英語版だったり並行輸入版は数週間先なら届くらしいが、通常通りに入手することは困難になっている。ユーザーから中古や新古品を購入することもできるが、卒業勢や副業勢やコレクター勢によるものが多く、そのほとんどが定価以上〜プレミア価格になっている。こうした状況は俺のような「新規〜マニアへの途中な層」にとって由々しき事態である。既出の拡張で比較的簡単に手に入るものを楽しんで気長に待つべきなのは言うまでもないことなのだが、プレイがグンと面白くなりそうな王国カードを見て、日々実況動画を漁ってランダマイザカードを延々と睨むような俺が落ち着いていられるわけがない。
メーカーはなぜ再販を始めないのだろうか?欲しけりゃ先述した方法であれば即時でなくとも入手することは不可能ではないが、可能であれば新品でなおかつ日本語版という純正を入手したい。プロキシを考えたが、拡張1つにつき300~500枚の印刷代はインクだけで破産必至である。英語版の購入も検討したが、絶賛どハマり中の俺はともかくとしても、読めないカードのプレイに付き合わされる知人が気の毒である。中古品を購入してそれを新品のスリーブに詰めなければいけない時の気持ちは想像すらしたくない。
やはり時代遅れなのだろうか、とも考えた。なぜなら先述したとおり、既にブラウザ上で全拡張(要課金)が多くの翻訳付きでかつ基本無料で世界のプレイヤーと遊べるのだから。原材料である紙のための木々伐採も不要で地球にも優しく財布にも優しい。それをあえてわざわざ実際のカードにして印刷してお金を払って、となると金持ちによるこだわりに過ぎないわけで、それはもうフォアグラと言っても過言ではないのだ。
非効率で非合理的だという事実は常に感じていて痛いほどわかっているのだ。これからドミニオンで遊ぼうという時に、片道20分~30分の開催現場までこのクソ重たいカードを慎重に運搬し、並べるテーブルの表面を綺麗にして、スリーブに詰められているとはいえシャッフル時やプレイ時の反りに過敏になったり、終了解散する際には王国カードが各10枚で紛失していないことを確かめてから袋に詰めて…etc、etc。実際に遊べているのは費やした時間のうち何割だというのだろう。「今からどうだい?」というお隣さんからの連絡の5分後にその人が自室に訪れてドミニオン専用卓に座った瞬間から既に用意された銅貨7枚と屋敷3枚を手にゲームを開始できるなら話は別だが。
カードのみで完結するボードゲームが好きだ。というのはそもそも、人生ゲームやカタンのように、小物がばらばらとしていたり卓の準備に時間がかかったりというのがあまり好きではないのだ。話は単純で、腰がとても重くなるからだ。開始と終了が非常に手間で、なおかつ広いスペースを必要とする。拡張をいくつも手にした際のドミニオンにも同じことが言えるが、「基本版」のみで王国カード全てをランダムにしながらというわけでもないならかなりコンパクトに済むことだろう。ナショナルエコノミーのポテンシャルもそうしたコンパクト感に、俺は強みを感じていた。
デジタル時代な現代においてボードゲームの肩身は喫煙者のように狭くなっていくのだろうか。それはとても寂しく感じる。ボードゲームの良さの根本には、デジタルゲームのように複雑なコントローラ操作を要求しない点を筆頭に、老若男女に門が開かれているところにあると思っている。現代の親子ならSwitchで一緒に遊べるだろうが、90年代のゲーム好きな子供が親とゲームで遊べるのははっきり言って少数派だっただろう。しかし将棋・囲碁・オセロ・チェス・トランプ・花札・ドンジャラ・ジェンガなどのようなテーブルゲームにおいてはそういうわけでもなかった。実際、俺は大人達と遊ぶために囲碁や将棋を学んだこともあった。一緒に遊べる相手のカテゴリーを「同世代の友達だけ」から「親の世代まで」に広げるために。だからテーブルゲームの中でもトランプという存在は俺にとって偉大である。四則計算さえできれば可能になる遊びの種類が数え切れないほど存在していて、その中のいくつかはかなり広く普及しているものがある。ババ抜き、七並べ、神経衰弱、ポーカー、ブラックジャック、スピード、大富豪、トランプタワー、ブラックレディ、ブリッジ...etc。UNOも良いよね。最近ではDOSとかいうのもあるらしいね。
インドアな遊びばかり肯定しているが、アウトドアな遊びを否定しているわけではない。オートバイは最高に楽しい乗り物であることは俺にとって揺るがないし、真夏に高台から飛ぶ度胸試しやターザンごっこは今でも楽しめる自信がある。ただ、そういった種類は基礎体力や運動神経、現地の地形や天候に大きく左右されたり、屋内スポーツでは施設が必要だし、ボールを使ったものはコートやグラウンドが必要になる。そういう意味で屋内でのテーブルゲームやボードゲームと違ったコストが必要になる。暑さや寒さはダイレクトに影響してくるし、体力も消耗する。場合によっては怪我をするかもしれない。それでも楽しみのほうが勝るという主張に異論はないが、老若男女の老と女にとってかなり門が狭くなる傾向がある。男女差別をするつもりはないが、汗をかけば化粧が落ち、バレーボールでオーバーをすればネイルが剥がれる。当人が良くても彼氏のいる女子にバスケやサッカーでラフなプレーをするのは気がひける。運動神経があまりよくない彼女がいくらバイクを好きだからってレプリカを買うことを簡単に許すわけにはいかない。
外で体を動かすことの楽しさやメリットには否定の余地がない。精神と自律神経の安定回復、健康の維持、体力の向上、汗腺の正常化やダイエット、腰痛の改善、なんでもござれだ。結局のところ、TVゲームが面白い理由には、現実では不可能なことを擬似体験できるからである。シューティング、サバイバル、リアルフライトシミュレーション、ファンタジーRPG、レーシング、etc。これらは物理的にも金銭的にも倫理的にも現実で実際に行おうと思えば極めて困難なものばかりである。TVゲームはそうした問題による溝を埋めてくれるからこそ楽しいという原理は決して小さい要素ではないように思う。屋外での遊びと屋内での遊びの2つに別れてしまう原因はそういうところにある気がする。わざわざTVゲームの中で卵の殻を割って目玉焼きを作ったりしたところで何が楽しいのかわからないでしょう?
TVゲームで擬似的に体験したことを現実に体験したいと思いたくなる人たちが一定数いる。すぐに連想されるのはコスプレイヤーだろう。ついで河原や専用施設内での本格的サバイバルゲームなど。海外ではゼルダの伝説のマスターソードを、本物の金属を本物の鋳造や加工で再現するようなものが多くの再生数を稼いでいる。ミリオタがモデルガンを購入したり、海外の射撃場まで足を運んだりする。もしそれらが目玉焼きと同じレベルで簡単なことなら人のモチベーションをそこまで高めることはないだろう。Youtuberが高熱の鉄球を色々なものに当てたり、Youtubeを見漁ることしかすることがないような暇人かつ貧乏人には難しい課金額でガチャをぶん回す動画だったりは、やはりそうした行為の実現難度が高いからである。
ボードゲーム好きは少数派である。昔のように友達の家に行って遊ぶという選択肢はそこまで強い地位を維持していない。時代はデジタル。わざわざこだわってカードにして印刷したところで、当然ながら需要は少なく、メーカーも生産数を渋ってしまう。利益が見込めないからである。ドミニオンのように硬派でリアリスティックなイラストでは、萌え豚大国日本に浸透しづらいという事実もある。キャラクターやイラストで二次的な生産や市場に繋がらないから拍車がかかる。デジタルと文化と時代の流れに圧倒されてアナログゲームはますます勢いが弱くなっていく。
集中力が下がってきたのでぼちぼちアホなまとめ方をしてみようと思う。
俺はゲームが好き。カードゲームも好き。そして最近ドミニオンにはまった。
けど遊び相手がいない。「異郷」も「暗黒時代」もなぜか再販されなくて購入しようか悩んでる。
ボドゲ人口少ないね。なんでだろうね。俺友達少ないね。なんでだろうね。
文章力ないね。なんでだろうね。
おわりwwwwwwwww
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