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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

早稲田大学カトリック研究会

2012-02-23 06:37:49 | インポート

 かつて早稲田大学にカトリック研究会という早大文連所属のクラブがあった。いまはもうない第一学生会館の二階に、プロテスタント諸団体と共有の部室をもっていた。第一学館の消滅と同じようにこのクラブはもうない。
 だが、存続当時は都内でも、いや日本でも、カトリック研究会として有数の歴史を誇る団体であった。

 日本で最初にカトリック研究会がつくられたのは東京大学である。それから程なくして、早大と慶大の双方にほぼ時をおなじくしてカトリックの学生団体が創設された。そのまま素直にカトリック研究会を名のったのは早大だったが、慶大のほうは慶応義塾大学カトリック栄誦会と名のっていた。

 この三つのカトリック学生団体が互いに連絡を密にして東京の学生たちへのはたらきかけを強めていこうと、東京カトリック学生連盟が創設されたのはこの二つのカトリック学生団体ができてすぐであった。

 残念ながら、早稲田大学カトリック研究会はもうない。
 昭和五十年代に創立七五周年を数える行事が行われているから、昭和年間には存続していたようである。
 東京カトリック学生連盟のほうは、1969年夏に、当時の常任委員会の発議で解散が決定したが、この解散の発議をした常任委員会委員長は早稲田大学カトリック研究会から選出されたN君であった。日本カトリック学生連盟横浜大会で、東京カトリック学生連盟の解散が宣言され、同時に日本カトリック学生連盟の解体も議決された。日本カトリック学生連盟はそれまで、京都大学カトリック研究会を中心とした京都カトリック学生連盟と東京カトリック学生連盟とがリードしていたが、すでに京都のほうは日本をリードする力を失っていたから、東京が解散してしまえば、主導的な立場に立つ団体はひとつもない、という事態になったのである。
 (不思議なことに、その後しばらくの間、日本カトリック学生連盟事務局だけは東京の古い真生会館に事務所を構えていた。これは国際的な関係が日本の一方的な離脱を許さなかったからである。新しい真生会館に建て替えられたときにはすでに消滅していたようであるが。)

 早大カトリック研究会の指導司祭だった神父に井上洋治神父という方がいる。もうかなりのお歳で現在は第一線を退かれているが、それまでの数十年間、「風の会」を主催されその指導をされていた。早大のカトリック研究会が井上神父の思いを十分に受けとめることができなかったことから、井上神父は「風の会」を立ち上げられたのだろうと、ぼくは思っている。
 ぼくがカトリック研究会に在籍した昭和四十年代はじめ、井上洋治神父のキリスト教の日本化、ないしは日本に土着するべきキリスト教はどうあるべきかというテーマを、早大カトリック研究会を主導していた学生たちは全く理解しなかったからである。当時の彼らは、唐突に亀井勝一郎研究を会員に強制するような雰囲気だったが、それがカトリックの日本化とどうかかわるのかまったく意識されなかった。井上洋治神父のテーマと願いを当時の早大学生たちがまるっきり理解できなかったからであろう。
 一方でそれに反発する連中は無神論の実存主義者サルトルにかぶれるばかりであったから、神なき議論が沸騰していたのである。トマス・アクィナスの神学が当時のカトリック教会の主流であったから、もちろんトマス神学を研究するグループも僅かながら部室の片隅に額を寄せ合っていた。
 キリスト教系の実存主義哲学者もガブリエル・マルセルやカール・ヤスパースなどが積極的に発言していたが、その影響力は無神論者サルトルの圧倒的な力とくらべると、影が薄かった。一部の学生はさらにニーチェだキルケゴールだとほっつき歩いたあげく、とにもかくにもマルティン・ブーバーに頼ることとなった。彼の『我と汝』があちこちで読まれた。さらにシモーヌ・ヴェイユが注目されたが、これも残念ながらボーヴォワールの圧倒的な人気の前では旗色がよくなかった。
 ちなみにガブリエル・マルセルは早大大隈講堂で実存主義の講演を行っている。
 まだマルク主義が大きな影響力をもっていた時代には、思想状況は混乱を極めていたのである。実存主義の直後には構造主義哲学が現れたが、時代を指導するものではなく、単に流行と言うにすぎないものであった。

 井上洋治神父はその中にあって大きな潜在的な力を持った人物であったが、それを受けとめる側に人がいなかった。かわいがった早大カトリック研究会の学生たちにはどこか思想的ないかがわしさが漂っていたからである。だれひとりとして彼の思想を真っ直ぐに受けとめるものは早大カト研には一人もいなかったのである。


闇のなかのきみに

2011-09-09 13:01:15 | インポート

   闇の中のきみに

 きみを襲う闇の深さに
 きみは今 おびえているのか?
 その深い闇に何か見えるのか?
 形あるものがそこに見えるというのか?
 いびつにゆがむ闇の空間の奥に――
 聞け わがいとしの友よ
 よく聞け

 その闇の中に形あるものを見ようとはするな
 その闇の中にひそやかに灯る光をだけさがせ
 その闇の中には愛も真理もないのだから
 ただあるのは多くの苦しみの霊
 あえぎ 痛んでいるこの世の悲しい人たちの思い
 ああ すすり泣いている
 きみを求めてたくさんの傷みが 傷ついた魂が
 すすり泣いている・・・・・だから
 ものを見る目ではなく
 心の目を開け
 ものを聴く耳ではなく
 魂の声に心の耳を傾けよ

 もがいているのはこの世の不幸たち
 怨嗟の声がきみを包む
 この苦しみたちを背負っておくれ
 この悲しみの涙たちをぬぐっておくれ
 この張り裂けそうな苦痛を抱きしめておくれ
 祈るような声が聞こえる
 すがるような悲しい目が浮かんでは
 きみの視野の中で消える 求め願う目を
 きみの残像に残して

 けれども魂の目を凝らしてみよ
 心の耳をすましてみよ
 聴こえる ああ 聴こえるだろう?
 静かに ひそやかに 聴こえてくるだろう?
 やさしい声が
 主なる人の励ましの声が
 「わたしとともに歩んでくれてありがとう」
 「わたしの痛みを分かってくれてありがとう」
 主なる人の優しい手がきみの魂に触れる
 その暖かい手から伝わってくるもの
 大きな手から感じられるもの
 すべてを赦す大きな大きな宇宙
 すべてのあがないを果たす無限のわざ

 きみの魂が
 すべてを悟り
 すべてを きみ自身の痛苦も辛酸も
 この世のすべての人の苦しみさえも
 何もかも「仰せのままに」受け入れた時
 きみは知るだろう
 軽い軽い
 羽のように軽い光の一部となって
 きみは少しずつ浮揚し 浮揚し
 それから・・・・・
 それから飛翔を始めることを
 偉大なる天空目がけて
 無限なるものの無限性に向かって
 その永遠の光のなかへ 光の中へ
 そのとき きみは闇を超えるだろう
 闇を光にかえるだろう

 だからきみよ 信ぜよ
 闇の中でこそ 深く信ぜよ


第45回衆議院議員選挙

2009-08-20 10:47:21 | インポート

 いよいよ第45回衆議院議員総選挙が始まった。

 待ちに待ったというか、もうしびれを切らしたというか、じりじりしていた国民もやっと一安心である。
 とにかく、もう麻生のかなりいい加減なキャラ、唇をひん曲げたしゃべりは見たくない、というのが国民大多数の本音。たとえ自民党が政権を維持しても、麻生太郎はいけません。「唇をひん曲げて」しゃべるというのは、そこにたくさんの嘘や方便や、その理屈にも事実に合わない無理矢理があることを無意識のうちに証している証拠。カトリックの信者であられるからには、毎日懺悔をせねばならないのじゃないでしょうか? 懺悔を聞く神父様には「守秘義務」があるから、真実は世に出ないでしょうけれど、だれか心ある神父がリークしてくれないかしらね。

 それはともかく。

 今回の選挙。マスコミにはなかなかうれしいネタばかりのようである。
 「政権選択」が大きな争点として取り上げられ、「小泉チルドレン」がどうなるかも、マスコミの恰好の餌食である。

 けれども、実態は、どうなんだろうか?

 政権党が自・公から民主党主導に変わってみても、ちょっと目先が変わるだけなんじゃないだろうか? 政治も社会もそう大きく変わるわけではあるまい。国民はそれほどは民主党に期待している訳じゃないと思う。民主党だって、自民党と同じように「金に汚い」のだろうと思っているから、政権を得たあかつきには、「集金マシーン」をフル稼働させるに違いない、と思っているんじゃないか。それに政策にも「未知なもの」が多すぎる。

 それでもなお、日本国民が民主党を次期の政権党として選択するとしたら、それはほとんど「復讐」の感情に近いものが、ほとんどの国民の心にわだかまっているからである。「復讐」で言葉がきつすぎるのであれば、俗っぽく「しっぺ返し」とか「意趣返し」とかに言い換えてみてもよい。それほどに、これまでの自民党には大多数の国民の「恨み辛み」がたまりにたまっているのである。

 つまり、

 「こんな日本にだれがした??」

 なのである。

 「小泉改革」と銘打って行われて来たのは、「改革」でも何でもなく、ただの「野放し化」に過ぎなかったことが暴露されたからである。金融危機による経済の破綻が、景気のよいかけ声の影に隠れていたものをすべてぶちまけた。それがどれほど格差社会を残酷なまでにひどくしてきたか。弱者をどれほど切り捨ててきたか。国民の大多数を裏切り続けてきたか?

 小泉純一郎元首相がしたことは、歴史に残る悪政である。小泉純一郎元首相は、つまり「自民党をぶっ壊した」のではなく、日本社会を「ぶっ壊してしまった」のである。それは彼の「郵政民営化」という名目のもとにおこなわれた「なんでもかんでも民営化」、「「なんでもかんでも自由化」が、つまり、規制のほとんどない「野放し社会」を生み出したからである。どんなに強者が弱者を振り回し、抑圧し、あげく切り捨てても、まったく自由放題、という社会に、人々の真の幸福や平和がもたらせるわけがなく、ただ権力闘争を激しくさせるだけである。

 このまま格差拡大と福祉や医療などの弱者切り捨てが進めば、いずれは「階級闘争」が起こるに違いない、とぼくは見ていたが、その前に「政権交代」という選択肢があった、ということらしい。「政権交代」が実現すれば、「階級闘争」は不発である(残念!)。

 麻生太郎首相やその一派が、いくら声を大にして小泉純一郎とその改革と名付けられた一連の失政を悪者にしても、その小泉純一郎を奉じてきたのが、これまでの自民党である。

 小泉純一郎元首相の「郵政民営化」を旗印にした、「なんでもかでも民営化」と「なんでもかでも自由化」が、これほどまでの破綻を引き起こし、健全な社会システムや社会生活を破壊してしまっている現在、その責任を自民党はとらねばならないのである。

 国民の「怨嗟」の声は社会のすみずみにまで満ち満ちている。

 「自分は建設業だから、自民党支持です」と言明した若い建設業従事者のような愚かな人間以外は、自民党に責任をとらせることを求めるだろう。これまでずっと、不況となればすぐに土木や建設業に重点的に割り振られてきた多額の国家予算が、自民党であれば、これまで以上に回されると信じているこうした愚かな人間たち以外は、自民党を忌避するのが自然である。
 函物作り、道路作りをもっぱらとするいわゆる「函物経済」に、よってたかって、それらの大盤振る舞いのおこぼれにあずかろうとする国会議員や地方議員、地域の権力者たちとその追従者たち、取り巻き連中は、これまでと変わらず、自民党を支持すると考えてよいだろう。官民こぞっての国家財政への「たかり」の構造を維持してきたものが、無用の長物やほとんど役立たずとも言える多数の「函物」や、不要不急の道路建設であった。

 そしてそのような予算を組んだのが、ほかならぬ官僚たちである。

 自民党はたんにお気楽に、無思慮に、それに乗っかったにすぎぬ、
 乗っかって、「わが地域に、わが地方に予算をぶんどってきた」と誇示してきたのである。「ぶんどってきた予算」はほとんどが土木・建設予算であった。だが、「金力こそが力」とするそのような政治の影で、地方の荒廃はますますもって進んでいる。

 地方の荒廃が最も先鋭的に現れているのが、教育である。
 その最も典型的な例が「大分県教委の教員不正採用事件」であった。あるいは小学生から高校生に至るまで、ほとんど「いじめ」を主因とする自殺が多いのも、教育現場の荒廃を如実に物語っている。さらにまた子供による父親殺しが後を絶たないのも、こうした社会の生んだ一つの象徴的な現象である。

 そして、官僚に主導され、その言いなりになってきた自民党が決定的に破壊したのが、日本の医療であり、福祉である。

 国家というものが、官僚のためだけに存在し、官僚の権力維持装置となり果てて、一部の権力者や特権的な地位にある者らが、この権力官僚層と手を組んで、日本という国の政治を壟断してきた結果が、崩壊の危機にある現在の社会生活であり、破壊されて希望を持つことができなくなったわれわれの未来なのである。

 繰り返すが、そのような無惨な社会を生んだのは、官僚と結託した自民党政治家である。
 一部の権力者や富裕層とタッグを組んで、国政を牛耳ってきた官僚に鼻面を引き回されてきたのが、現在までの自民党である。
 このような自民党に「怨念」を抱かない国民がいるとしたら、よほどの脳天気か、よほどの無知である(「無恥」と書いてもよいが)。

 当然、第44回総選挙で大躍進した「小泉チルドレン」がただですむとは思われない。「小泉改革」と言われた失政を象徴するのが、この「小泉チルドレン」たちだからである。
 
 すでに、比例名簿搭載第24位(東京ブロック)とされた猪口邦子元少子化対策担当大臣は、事前に立候補を断念している。東京ブロック第35位に比例搭載されてぎりぎり当選した「フリーターの星」杉村太蔵氏も立候補を早々と断念している。杉村太蔵氏のような泡沫的候補には当選の見込みがないのはは当然としても、猪口邦子元少子化対策担当相は、前回の第44回総選挙では、東京ブロック名簿搭載第一位であったにもかかわらず、今回の逆風下ではまず当選の見込みがないと思われる順位にまで落とされている。
 このことは、「郵政民営化選挙」と言われた前回の第44回総選挙における、「小泉チルドレン」の役割がすでに終結していることを物語っている。杉村太蔵のようなほとんどフロックと言っていいような、ちんぴら議員は別として、猪口邦子氏というような見識も能力も高い女性を、この逆風下ではほとんど当選するとは思えない地位で名簿搭載するということには、「もうおまえはそれほど必要がなくなった」と三行半を渡しているのと同じだからである。(ちらりと「民主党が拾ってやればいいのに」などと思ってもみたりしたが。。。。。。)

 猪口邦子氏は、上智大学法学部教授から世界軍縮会議特命全権大使に任じられた人物である。「小泉シスターズ」と一時はもてはやされた中で、佐藤ゆかり氏や片山さつき氏らと比べて、国際感覚も知性も豊かな人物であるけれども、自民党の本線からは完全にはずされた。どろどろとした権力欲や野心がそれほどなかったために、恥も外聞もかなぐり捨てるほどにはごねられなかったのであろう。そこに、猪口邦子氏の人間としてのプライドの高さがあるとも言える(つまり、佐藤ゆかり氏や片山さつき氏には、そのような気高さを求めるプライドはない、ということ)。

 このような知性派の猪口邦子氏とは違って、自民党執行部とも、野田聖子少子化対策担当相とも、岐阜1区で、どろどろの権力闘争を演じて、ごねまくった佐藤ゆかり氏が、東京5区への国替えとはいえ、自民党の本線に残ったことは、自民党という政治集団の特色を見事に現していて、なかなか興味深いものがある。自民党という腐臭漂う「泥沼」を生き抜くバイタリティがなければ、国会議員でいられるチャンスも可能性もないのである。そして「泥沼」を生き抜くための知恵のかぎり、エネルギーのかぎりをつくすために、国政に真っ正面から向かい合い、真剣に努力する余力は微塵も残されない。たとえば、野田聖子議員と岐阜1区の激しい公認指名争いの真っ最中、佐藤ゆかり氏が、岐阜1区で公認を求める署名を集めるために、衆議院の委員会の採決を無断欠席していることでも、それは明らかである。

 けれども、どんなに自民党の「泥沼」を生き抜けることができても、すでに「小泉チルドレン」の役割は終わっている。
 「小泉チルドレン」といい、「小泉シスターズ」といい、「小泉改革」の象徴のようにもてはやされていたとしても、彼らが演じた役割は衆議院の「2/3」の数のための一議席でしかなかった。つまり彼らは衆議院で再可決するための「員数」に過ぎなかったのである。
 その「小泉改革」が「改革」ではなく、ほとんどすべての局面にわたって「改悪」、「失政」であったことがわかった現在、「2/3」は国民の怨嗟の対象でしかない。「2/3」以上でさえなければ、これほど自民党は数による暴政を極め、国民を追いつめることはなかったであろうからである。
 つまり、「小泉チルドレン」あるいは「小泉シスターズ」は、二重の意味で、もう不要の議員たちである。

 その彼ら「小泉チルドレン」あるいは「小泉シスターズ」が、今衆議院議員総選挙で、当選できるかどうか、ぼくの関心はほとんどそこにある。国民の怨嗟の声が、国民の大多数の心に吹きだまっている「意趣返し」や「仕返し」を願う感情が、彼らの上にどれほどの猛威をふるうか、この目でしかと見たいからである。
 そして、その象徴的存在とも目される、片山さつき氏や佐藤ゆかり氏が、選挙区選挙で一敗地にまみれるだけでなく、さらには比例代表にも選出されないとしたら、どんなに溜飲が下がることか!

 もうあんな恥知らずな女たちを国会の場で見たくないからである。


むらあやでこもひよこたま

2009-08-12 17:24:07 | インポート

 「むらあやでこもひよこたま」

 一種の呪文のようなものでしょう。
 これで、「今宵は恋しい彼氏にどうかどうか会えますように!」と、静かに祈る心を表しているのです。なに、種明かしをすればはカンタン。

 逆さに読むといいのです。

 「またこよひもこでやあらむ」
 つまり、
「また今宵も来でやあらむ」

 「また今夜も(彼は)来ないのだろうなぁ。」

 これを逆さから読めば、反対の事柄が起こる! はじめに呪文のようなものと書きましたが、しばらく姿を見せなくなった恋しい人。自分は飽きられちゃったかも知れない、自分のほかにあの人に好きな人ができたのかも知れない、と憶測ばかりか去来します。
 そして、半ばあきらめたように半ば一縷の望みをいだいて。

 待つ女にとっては、そうしておまじないをするほか、手だてはないのでしょう。
 ふと、現代の歌の歌詞の一部を思い出しました。
 
 
ずっとそばにいると あんなに言ったのに
 今はひとり見てる夜空 はかない約束

 平原綾香の「明日」の冒頭の歌詞です。
 けれどもここに現れるのは現代女性。男に遠ざかられても、「新しい明日が始まる」と歌えるのは、現代ならではでしょうか。ここに取り上げたおまじないのような、、呪文のような歌は、室町時代のものです。

 じつは、これは室町時代の謡(うたい)集『閑吟集(かんぎんしゅう』のなかにある小歌の一つなのです。昨日も彼は来なかった。今日も来ないかも知れない。いや、きっと来ない。彼が来ないとはわかってはいても、来てほしい、と心切に願わずにはおれない。「あなたを恋い焦がれて、さびしさに泣き明かした夜は昨日のことだけれども、でも望みは棄てられない」
 逆さに読んで、彼が今夜来るためのおまじないにしよう、という心理には大人の女の諦念が同居しているのです。(『閑吟集』の歌番号273番)

 こんなのもあります。

 文は遣りたし 詮かたな 通ふ心の 物を言へかし (同上292番)
(ふみはやりたし せんかたな かようこころの ものをいえかし)

 手紙を送りたいけれど、その方法もないの。わたしのお慕いするこの心はでも、今もあの人の所に通うのだもの、その心があの人にこの思い伝えてくれたら。
 手紙を書けない相手、となると、あるいは相手の男性は妻子もちかも知れません。今で言えば不倫の間柄です。あるいは自分は街の女、相手は身分のあるお方、ひょっとするとお武家様かも知れません。それならおいそれと手紙を差し上げるわけにはいきません。

 この思い募る心が自然に通って行って、その心自身が彼に声をかけてくれるのなら、どんなにすてきなことか。女の一念岩をも通す、という感じでしょうか?

 けれども,男のほうもこんな事を呟くのです。

 待つと吹けども 恨みつつ吹けども 篇ない物は尺八や (同上276番)
(まつとふけども うらみつつふけども へんないものはしゃくはちや)

 彼女を心待ちに待って一心に吹いても、彼女が来ないのを恨んで吹いてみても、この尺八、ちっとも効果がないじゃないか。

 こちらは、彼女を思って尺八を吹くと、彼女に思いが通じて逢える、という俗信があったようです。でも、ちいとも効き目はありません。

 逆さ読みには,恋の呪文ではなく、ある種のサインのときもあったようです。

 きづかさやよせさにしざひもお (同上189番)

 これも逆さに読むと、
 
「おもひざしにさせよやさかづき」、つまり「思ひ差しに差せよや盃」です。

 「思ひ差し」とは、相手に特別な思いを込めてお酒をつぐように求めることです。
 「ねぇ、あたしについでちょうだい」と、色っぽくせまっておくれ、という男からの呼びかけ。お酒の席で歌われた小歌であったと言います。きっと、たくさんの宴席の人たちの前では、はっきりとは言いづらかったのでしょう。だれかがこんなことをはじめたのかも知れません。それが小歌になりました。

 現代も「倒語」というのがあります。
 「ずーじゃー」とか「ひーこ」とか。バンドマンたちがいきがってはじめた逆さ言葉ですが、その品のなさ、底の浅さと比べると、こちらはなかなかおしゃれです。

 ただ、こんな風に逆さ読みをした小歌は、長くは続かなかったようです。その後の『宗安小歌集』などには一つも残されていません。室町中期までの流行だったのでしょうか。時代が下るにつれて、恋の告白がもっともっとあからさまになってしまうからでしょう。

 ついでながらもう一つ。驚くことには、『閑吟集』にも『宗安小歌集』にも、明らかに猥歌と言えるたぐいの小歌がごくわずかながら見られることです。もちろん男の歌ですけれど、男たちはこの頃からすでに女性たちに対して野卑で、無粋なところがかなりあったようです。ということは、現代のセクハラの根は思ったより深いところにあるということかも知れません。だとすれば、恥ずかしい限りです。


家畜人ヤプーとジョージア コーヒー

2009-03-06 05:35:50 | インポート

 『家畜人ヤプー』という怪奇小説をご存知だろうか?

 1960年代はじめだったか、三島由紀夫の紹介と推薦で、ひとわたり文学好きの世界を震撼させた小説である。
 ぼくもその一部を人に聞いたり、いくらか自分で読んだりもしてみたが、読み進めるに堪えなかった。もう驚きの、嫌悪の筋立てであった。

 ヤプーは Japuu または Japou である。
 それが日本人の蔑称「Jap」から来ていることは、だれに聞くまでもなく、ただちにわかることである。そして、その「Jap]のなれの果てが、「家畜人ヤプー」だという設定なのである。蔑まれ、家畜扱いされて、そのことに喜びをさえ感じている、未来の日本人という被虐的願望のかたまりのような民族が描かれている。
 日本人の白人コンプレックスを極大化させ、それを白人崇拝において微分し、なおかつすべての知識人の被虐的正義感を積分すれば、このような忌まわしい、醜い世界が生まれる。三島由紀夫の推薦するわけである。もちろん、三島由紀夫はその根底のところで、被虐⇔加虐が逆転するのであるが。

 それを思い出させるのが、コカコーラ、ジョージア コーヒー MAXのTVコマーシャルである。
 それは、Human Car Race とタイトルされたわずか15秒ばかりのものであるが、激しい嫌悪を催させた。
 それは、人間の手足にそれぞれタイヤを付けて、フォーミュラ・レースをさせている図である。それが明らかに日本人。コース・サイドのテクニカルや、監督たちはもちろん、白人である。

 まさに『家畜人ヤプー』の世界。
 
 このコマーシャルを放映しているのが、あのアメリカ合衆国の白人企業、コカコーラ社である。しかも race は race である。
 つまり スピード競走の race であると同時に、
 racial discrimination(人種差別)の race=人種である。

 このことが含意するものは激しく鋭い人種差別である。白人企業の白人中華思想の決定的表明であり、完全な黄色人種差別の宣言である。

 かつて日本人、沼正三は嗜虐妄想にとりつかれたように、『家畜人ヤプー』を自らの意志と願望とによって小説に描いたが、今度は白人企業に飼われている新しいヤプーたちが、白人に媚び、へつらい、白人のためのTVコマーシャルを、なんのためらいもなく流している。

 コカコーラ 缶コーヒー ジョージアの不買を!!
 いや、コカコーラ製品すべての不買を!

 ぼくはどうしても許せない。
 たとえ、虚構であっても、人間をこのような醜い姿に改造して、平気な感覚が、である。

 もう、現代のTVも、TVコマーシャルも、あるいは日本の社会もまた、人間が人間としての尊厳を投げ棄てることに、これほどまでに鈍感になってしまったというのだろうか?

「アメリカにぎょうさん買うてもらわな、日本人生きて行かれへん」

とでも主張したいのだろうか(関西弁で失礼)!?

 そしてそのためなら、人間としての尊厳や品性などどうでもいい、とでもいうのだろか?

 このTVCMを見たことがないという人は、youtubeで、Georgia Coffee Max TVCM、あるいはジョージア マックス CM などで検索してみたら、引っかかってくるはずである。