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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

『山便り』が届きました。

2008-09-21 08:19:34 | インポート

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●『季節の 山便り』が届きました●

 と言っても、一冊の本です。
 山の大先輩から突然お贈りいただいた本です。
 奥付に「私家版(300部限定)」とありますから、送ってくださった方の贈呈リストにあったことに、先ず感謝せねばなりません。

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『季節の 山便り』の表紙。表紙の版画は著者自身が作製したものです。著者によれば、氷ノ山から扇ノ山へにかけての山稜。氷ノ山は兵庫県の最高峰。日本海側に近くそびえています。

 もう十二、三年ほど前になりますか。
 南アルプスで出会って、それ以来年賀状のやりとりをしているだけの方です。一度、いっしょに富士山に登るというお話があったのですが、ぼくのコンディションがすぐれず、それは実現しませんでした。
 それ以来、富士山に登るチャンスがないと嘆いておられるので、責任を感じてはいるのですが、腰と股関節に痛みがあり、近くの山ならともかく、富士山に登る自信をすっかり失ってしまったぼくとしては、今はもうどうにもなりません。

 著者は昭和九年(1934年)の生まれと言いますから、すでに70歳を過ぎられています。ぼくははるかに年下ですのに、すでに現役を引退した気分ですが、まだまだ山を歩かれる意欲がおありなのは、本当に頭が下がります。
 本当の山好き、というのでしょう。

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「焼岳」の最初のページに掲げられている版画。もちろん焼岳。梓川の田代橋付近からの展望でしょうか。上高地の大正池の対岸にぽっこりと盛り上がり、白煙を上げています。活火山です。

 しかも、現在は心臓のためにペースメーカーを埋め込んでおられる。
 「焼岳」の項(P40~44)では、後半にそのしんどさが書かれています。


 中尾峠からは一歩一歩に気をつけていたのですが、やはりペースメーカーにコントロールされたわが心臓は苦しさを訴えました。手頃な岩に腰掛けて呼吸を整えるのですが、上へ登るにつれて脈拍が抜け落ちるようになります。そこでまた息を整える繰り返しですから、負荷がかかると、なんぼゆっくりでもあきまへん。

 問題なのは負荷かがると不整脈が確実に現れるのです。これらからの我が身の処し方を考えねばならぬ時が来たようです。


 もはやこれが最後の山登りか!

 この思いが著者には常につきまといます。
 著者はかなり以前に、『五十歳からまた始めた登山』という本を出版されています。最初は私家版(自費出版)として出されたものですが、好評なために後から商業出版されました(新風書房、1995年、1529円)。ぼくはその商業出版のほうを買ったのです。今どこにあるかさがしてみましたが見当たりません。どうやら奥にしまい込んでしまったようです。すぐに見つかればそれも写真でお見せしようと思ったのですが。。。。。

 心に残る文章でした。
 その文章よりさらに心にしみいる文章です。


 それは、心のやわらかさを随所に感ずるからでしょうか。

 たとえばそれはこんなところに現れています。気温が高く、雪解けが早い稜線について、「魅力半減です」と言いながら、すぐその後で、


「それでも宿の温泉で日頃の肩の凝りを癒やし、このところ眠っていたピッケルやアイゼンを雪山に連れ出すだけでも良しとしなげればなりません。」(P63)

と書くのです。現実を大きく包みこむやわらかさが感じられます。

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八経ヶ岳のトップページに掲げられている版画。オオヤマレンゲの花が彫り込まれています。


 八経ヶ岳にオオヤマレンゲという美しい花を見に行った話では、過去の登山の思い出が重なります。ぼくは残念ながらオオヤマレンゲを見たことがありません。

「会いたさ見たさに行きました。日帰りですが大峰の八経ヶ岳へ、天女の花といわれる『オオヤマレンゲ』をたずねて。」(P70)

 この山行の最後には、こうあるのです。

「霧の流れるてっぺんに座って、若き日オオヤマレンゲの花を見に雨の中を、ただそれだけに訪れたことを思い出していました。」(P72)

 こうして、著者の山行は、深みを持つのです。そこには、何度となく訪れた山を、心臓と相談しながら、天候と語らいながら、再訪する喜びが静かにあふれています。

 「槍ヶ岳」では、著者は多分何十回と訪れた北アルプスの槍ヶ岳に、燃える思いがうずきます。まるで、風狂の思いにとらわれて、そぞろ神に誘われるように、旅への思いを募らせる芭蕉の心底を思わせます。


「北アルプスに雪と聞きますと血が騒ぎ、天気図と睨めっこが始まります。ペースメーカーを植え込んだ私には三千米の槍ヶ岳はもう無理かも知れませんが、槍沢の行けるところまで登りつめて、こらあかんな、となれば池に槍の穂先を映す天狗原(てんぐっぱら)へまわろうと思いました。二段構えの計画です。」

 ここには著者の柔軟な発想があります。「こらあかんな」と感ずるところで、計画を変えることができるというところには、著者の山の経験がいかに厚いか、いかに深いかがうかがわれます。

 著者の登山の苦しさは、若い人にはないものです。それはこんなところにさりげなく書かれます。高度が高くなればなるほど、寒さを感じれば感じるほど、それは単独行の不安を募らせます。


さあ、それからが大変、まさに自分自身との静かなる戦いの始まりです。ヒマラヤを行く登山者がひと足ごとに呼吸を整えながら登高するのをテレビでご覧になった方はご存知でしょうが、全くそれなんです。三千米が近づくにつれて、一歩一歩が滞るのです。それに立ち止まる時間が長いから寒さをもろに受けますね。今まで経験したことのないものでした。」(P75)

 引用はもうこのへんにしておきましょう。
 わずか130ページほどの小冊子ですから、読み始めると一気です。ぼくはわずか二時間ほどで読んでしまいました。読んでから、しみじみと語り合ったという実感がありました。一方的におしゃべりしているのではないのです。それはこちらの思いを深めて、こちらの言葉を引き出します。この著者の筆の力のなすところです。

本のデータ: 書名=『季節の 山便り』
        著者名=谷本蝉丸(本名であられます)
        判型=A5判 130ページ
        発行日=2008年9月1日

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お贈りいただいたご本の中にはさまれていたお手紙。版画の中にあるのは、ツチノコです。


キク科の植物

2008-03-25 18:41:21 | インポート

Plant green webストア(ザ・ノース・フェイス) Sony Style(ソニースタイル)

●人間に寄り添うものたち(2)●
-キク科の植物-

 レタス、ゴボウ、フキ、ツワブキ、アーティチョーク、チコリー。これらはすべて同じファミリーです。これにシュンギクを加えれば、そのファミリーがキク科であることはすぐにわかることでしょう。

 ◆レタスのこと◆

 レタスは、ペルシャ原産の植物とされています。和名「チシャ」。『倭名類聚抄(わめいるいじゅうしょう)』(923~930成立)に、「チサ」として記載されているものがそれのようです。この頃には、絹の道(シルクロード)をたどって、日本にもやってきていたということなのでしょう。けれども、この「チサ」は、ふつうに店にならんでいるレタスとは違って、あんなふうに丸まっていません。今、「カキヂシャ」とか「セルタス」と呼ばれているものにあたります。
 現在、レタスとしてお店に出ているものは、「タマヂシャ」というタイプのもので、日本には幕末にアメリカ合衆国から紹介されたようです。けれども、この「タマヂシャ」が本格的に栽培されるようになるのは太平洋戦争後でした。進駐軍の要求によって、米軍将兵のために栽培されたのが始まりと言われています。その後、日本人の食生活が洋風化するようになって、日本人の食卓にもよく並ぶようになったものです。
 花は一見してキク科とわかるものです。
 白いタンポポのような花、と言えばいいでしょうか。
 タンポポの仲間と同じように、茎を折ったり傷つけたりすれば、茎からは白い乳液状の液体がでます。この花の学名はその白い乳液にちなんで名付けられています。
 Lactuca sativa(ラクツーカ サティウァ)。
 このうちの、Lactucaが「乳液の出る」という意味です。種小名のsativaは、「栽培された」という意味で、この植物に学名がつけられた頃には、すでにヨーロッパ各地で栽培されていたことを意味します(命名者はリンネ)。日本語属名はアキノノゲシ属と言います。
 なお、サラダ菜と呼ばれているものも、レタスの一種で、品種が異なるだけです。

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トネアザミ。関東の山地や高原ではふつうに見られるアザミ。

 ◆ゴボウのこと◆

 ゴボウは、現在もヨーロッパからシベリア、中国東北部にかけて広く自生しているため、その原産地の特定はかなり難しいのですが、現在までのところ、地中海沿岸から西アジアにかけての一帯が原産地として最も有力視されています。けれども、これらの地方で、ゴボウ、つまりキク科のこの植物の根が野菜として利用されたという歴史はまったくなかったようです。
 ゴボウの学名Arctium lappa(アルクティウム ラッパ)の属名の部分のArctiumとは、「熊の」という意味ですから、ゴボウはまったく人間の食用として顧みられることがなかったことがわかります。その一方で、熊がその根を掘って食べることは広く知られていたようです。これも命名者はリンネです。リンネの時代には熊の食べ物として広く認識されていたのでしょう。
 ちなみに、種小名のほうのlappaは、「毬」という意味です。「熊さんの毬」というわけです。

 ヨーロッパでは顧みられなかったゴボウも、日本ではかなり早い時期から、食用として認識されていたようです。『本草和名(ほんぞうわめい)』(898年)にはすでに、栽培種として掲載されているそうですから、日本では中国から渡来してまもなく、食用とされるようになったのでしょう。とはいえ、中国からは薬草として入ったもののようですから、はじめはかなりの高級野菜だったのでしょう。平安時代の日本では、貴族・皇族たちの食べ物であったのではないでしょうか。藤原道長などの摂関家や、紫式部や和泉式部、清少納言がごちそうとして食したのだとすれば、ゴボウにも光り輝く日々があったのかも知れません。

 ゴボウを食用にする、ということについては、日本人はすでに似たような植物の根を、かなり古い時代、縄文時代以前から、食用にしていた経験によると思われます。それは、アザミやヤマボクチの仲間の根です。アザミ、ヤマボクチの仲間はこのゴボウと属は異なりますが、同じキク科の中でも、かなり近縁の仲間です。特に、アザミ属のモリアザミの根は「ヤマゴボウ」の味噌漬けなどのようにして、地方の名産として知られています。また、富士箱根火山帯から南アルプスにかけて分布するフジアザミは、日本で最も大きいアザミですが、その根もゴボウのように香ばしい香りがして、ゴボウと同じように食べることができます。葉も花もおいしいらしく、日本の鹿さん(ホンドジカ)は葉や花を好物にしています。
 ヤマボクチの仲間、オヤマボクチ、ハバヤマボクチはなどは、花もアザミに似ていますが、その根は深く、またかなり太いのです。実際に掘ってみるとその形状はゴボウそっくりです。また、その名の「ボクチ」は、漢字で書くと「火口」。つまり火をつけるとき、この花の総苞片の白い綿毛を使って、そこに火が移るようにしたことから、このように呼ばれるようになったと言われているのです。縄文時代、弥生時代から、種火の火付けのための利用されてきたという、なじみの深い植物だったのです。春先の若い葉はさっとゆがいて食べますから、ヤマボクチの仲間は本当に日本人には重宝な植物だったと言うことができます。

 これらの根を食してきた経験から、日本の古代の人は、ゴボウが、薬用としてではなく、食用として利用できるものであることにいち早く気づいたのでしょう。


 『私は貝になりたい』で、太平洋戦争中の捕虜虐待を問われて絞首刑になる主人公は、親切心からこの仲間の根を捕虜のイギリス兵に食べさせたのですが、そのイギリス兵はそれを虐待の証拠として挙げます。「雑草の根を食べさせられた」というのです。悲しい誤解でありました。その誤解を解くことができなかったことの裏には、植物の利用の歴史の違いが厳然として横たわっています。そして、裁く側の文化や価値観がどれほどのあってはならない死を生んでいたかと言うことも。

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フジアザミ。根は深く太い。とってもおいしいのだが、もちろん野生の
ものの根を掘り出すことは禁じられている。


うたう人って

2005-03-20 14:43:48 | インポート

   うたう人って

  うたう人って うたう人って
  さびしいから うたうのね
  むねのおくの あついきもち
  だれかにつたえたくて
  うたうのね
  つたえるあいてが そばにいなくても

  うたう人って うたう人って
  むなしいから うたうのね
  むねのおくに ぽっかりあいた
  かなえられないおもいを
  うたうのね
  こんなにも人を もとめているから

  うたう人って うたう人って
  やさしいから うたうのね
  むねのおくは なぐさめみちて
  そっとなでるように
  うたうのね
  あいするひとに であいたくて

  うたう人って うたう人って
  こいしいから うたうのね
  むねのおくの せつないきもち
  すこしわかってほしくて
  うたうのね
  あいするあなに このこころとどくようにと
  いのちのといき きこえるようにと