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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

『ヨハネ伝』についての覚え書き-その1-

2011-12-11 12:34:58 | キリスト教問題

『ヨハネ伝』についてn覚え書き-その1-
 
 四つの福音書の中で『ヨハネによる福音書』(『ヨハネ伝』。以下『ヨハネ伝』と書かせていただく)は特別である。特に高校生から大学生の頃は、ぼくの聖書はこれ一つとばかりにもっぱら『ヨハネ伝』を読み、『ヨハネ伝』の記述についての考察を好んだ。
 『ヨハネ伝』はそのすべてが命題で埋めつくされている感がある。命題の連続は読む者に強い緊張を強いるものである。そのような緊張から脱出したいときには、素朴な『マルコ伝』をぱらぱらとめくった。その素朴なイエスの物語にホッと一息ついたものである。これがじつは若い頃ばかりでなく、いまも同じであると気づいた。
 ここのところ三共観福音書をもっぱら読んでいたのは、『ヨハネ伝』はしんどいという思いがあったからである。確かにしんどいのである。命題だらけだから、気が休まらない。常に心と頭脳とを働かせていないと、わけがわからなくなる。だが『ヨハネ伝』は避けては通れない。いや、それ以上にヨハネの読みを深めねばならない、と感じている。
 若い頃と違い、さまざまな思想や哲学に触れてきた後である今ならば、『ヨハネ伝』の命題にある種の光を当てることができそうだからである

●『ヨハネ伝』の位置はどこにあるか

 最近の研究では『ヨハネ伝』の最初の筆を執ったのはあの十二使徒のひとり、主イエスに最も愛されたというゼベダイの子、見目麗しいヨハネではないという。ヨハネは主イエスからその母マリアを託されて、ともに小アジアのエフェソスに住みそこで終焉(おわ)ったとされている。そのエフェソスはだから、原始キリスト教団では、エルサレムなどと並ぶ有力なグループを形成していたようである。ヨハネ教団とでも言うべきグループである。その「ヨハネ教団」の中で徐々に形作られていた「原ヨハネ伝」をヨハネの弟子たちが数人で、あるいは一人で執筆したのが『ヨハネ伝』であるという。
 だから、当然ヨハネの生前に完成したものではなく、ほぼ1世紀末から2世紀初頭にかけての時期の成立であるとするのが有力である。他の三つの共観福音書は最も遅い『ルカ伝』でも紀元80年代の成立と言われているから、さらにそれより遅い時期になってから使徒ヨハネをかたって新たに福音書を著す意味、あるいは必要性があったのであろう。その執筆の主題が明らかに他の三福音書と異なっていると目されるからである。

 他の共観福音書にもそれぞれの成立事情があったように、『ヨハネ伝』にも固有の成立事情があったと考えるのは当然のことであるが、『ヨハネ伝』と三共観福音書との決定的な違いは、神学の違いである。
 『ヨハネ伝』では、イエスは最初から「神」である。
 他の共観福音書においては、イエスは「人」である。あるいは「人」であることを印象づけるかのように描かれている。「神」であることよりも「人」としての面が大きな要素となっているのである。「神」に最も近い、「人」として「父なる神」から人間救済の使命を負わされてこの世にやってきた「人」、それがイエスであった。つまり、「神人イエス」か、「聖化された人イエス」かの違いである。三共観福音書、わけても最初に成立した『マルコ伝』におけるイエスはどうひいき目に見ても、エリアなどと並ぶ預言者の一人であり、その上に立ってメシアとしての資格が与えられているように読める。『マルコ伝』ではキリスト・イエスはまだ「神」ではないと言ってよい。そのような意識あるいは認識でこの福音書は書かれていないと考えられる。時代が下るに従って、キリスト・イエスはどうしても「神」でなくてはならなくなる。その意識が芽生えているのが『マタイ伝』である。護教的にイエスは「神」でなければならないと意識されるようになったこの時にあっても、まだ描かれるイエスは「神人」と「人」との間を行きつ戻りつしている。「預言者イエスがメシア」という思いがぬぐい去れないのである。
 『ルカ伝』にいたってようやくキリスト・イエスが「神」であるという認識が定着する。それでもなお、描かれるキリスト・イエスには人間としての成長や苦悩の跡が見られる。人間はすべからく成長するものである、という認識の上に立ってイエスを捉えている。「神」であるイエス、しかれども人間としての面を失わない。人間(じんかん)に降り立った神。卑俗な肉をまとった救済者、神ならぬ神イエスである。
 カトリック教会が『マタイ伝』をトップに持って来たがるわけは、つまりそこにある。『マルコ伝』には神なる主イエスの意識がないか非常に希薄だからである。どうしても神なる主イエスを前面に押し出すには、『マタイ伝』から始めなくてはならないのである。
 『マルコ伝』から『マタイ伝』、それから『ルカ伝』へと神学上の展開を想定することができるが、パウロの書簡に見出されるパウロの神学的展開は、このような見方を補強してくれる。パウロの書簡群についてはまた別の機会に書いてみようと思う。ちなみに、原始キリスト教の神学的出発がパウロの書簡群にあることは忘れてはなるまい。パウロもまた神なる人キリスト・イエス認識に到達している。そしてこれらの神学上の進展の最後尾に、別格のごとく『ヨハネ伝』が位置する。この『ヨハネ伝』の神学的位置づけについては、カトリック・プロテスタントはほぼ共通の認識を持っているようである。

 実際、現在の共同訳聖書では、『マタイ伝』が新約聖書の筆頭に出されている。成立順で並べるなら、先にも書いたように最も素朴な『マルコ伝』が最初に来るべきである。だが、共同訳聖書を編纂することになって、いちばん最後までもめたのが、この四つの福音書のうち、『マルコ伝』と『マタイ伝』を並べる順序であった。『マルコ伝』が最初か『マタイ伝』が最初かである。この二つの福音書の順序が決まればあとはおのずから順序は決まる。
 カトリック教会は『マタイ伝』を筆頭にしたいと頑強に主張した。プロテスタントはもちろん成立順にと、『マルコで』をいちばん最初にするべきだと主張した。カトリック教会には『マルコ伝』がトップでは教義上、不都合だという意識があるからである。先にも書いたように、イエスが神であるという認識がマルコにはたぶんなかったらしいということを、カトリック教会は読者に印象づけたくないのである。極めて宗教政策的な理屈がそこにはある。実際にカトリック教会の教義や祭典などはおもに『マタイ伝』を基本としている。その『マタイ伝』では足りない部分を『ルカ伝』の記述によって補完しているのである。よく知られているのは、聖母マリアによる「マニフィカト(Magnificat)」=「聖母マリアによる讃歌」である。これは『マタイ伝』に記述がない。

 大学生の頃、ぼくはだからこの『マタイ伝』が理由もなく好きになれなかった。どこか押しつけがましい。やたらに旧約と関連づけたがる。預言の実現」を強調したがるのは、キリスト教がいかにもユダヤ教そのもの、ないしはユダヤ教の子であることを印象づけようとしているようで、不快だったこともある。若い頃のぼくはユダヤ教と一緒にしないでくれ、という迷惑意識があったからである。
 『マタイ伝』に比べれば、『マルコ伝』はよほど素朴である。護教的にみても「すき」だらけの気がしたものである。だからぼくは、神なるイエスを読みたいときには『ヨハネ伝』を、素朴なイエスの物語を読みたいときには『マルコ伝』をもっぱらい愛読した。『マタイ伝』はどこか「臭い」と感じていた。『ルカ伝』はとかく理屈をつけたがっていると感ぜられて、その理屈っぽさに好ましさを感じたりもしていた。若い頭脳は、論理的にしろ、歴史的にしろ、合理的整合性を好むものである。

●『ヨハネ伝』への神学事情

 『ヨハネ伝』は福音書最後尾に置かれる。
 このことはカトリック・プロテスタントともに同じである。

 その理由は先にも書いたが、福音書の成立が最も新しいこと。成立には諸説あるが、ばあいによっては1世紀でなく、その次の世紀にまたがっている可能性もあるとされている。そして、どうやら現在最も有力な説は、1世紀と2世紀の変わり目のころの成立ではないかというものである。
 そして『ヨハネ伝』固有の神学である。
 人の中にまじった神、というよりも、人とともにある神としてイエスは描かれている。
 『ヨハネ伝』は、イエスの物語ではなく、イエスの神学を語ろうとしていると言ってもよい。
 それゆえである。
 『ヨハネ伝』から受ける印象は、他の三共観福音書とはまるで違う。
 『ヨハネ伝』のイエスはすでに神となった人である。他の共観福音書は、どこか、イエスを人と見ているおもむきが拭えない。著者にイエスは神という意識があったにせよである。そこでは、神はイエスという一人の人の外にあり、神がイエスとして肉化したというわけでないかのごとくに読むことができる。三共観福音書が信徒でない人にもとっつきやすいのはそのせいである。
 三共観福音書からなら、「人」としてのイエス、偉人としてのイエスをうまく紡ぎ出すことができる。人間のなかにあって、人間と共に生きる魂の導き手としてのイエスが浮かび上がる。

 けれども、『ヨハネ伝』では、そうではない。
 イエスは、人間の世界の外にいる。けっして人間の世界と交わらないというわけではないが、いつもどこかにそのような側面を持って人間と接している。どこか「人間」であることが拒絶されているおもむきがある。第12章には、「イザヤはイエスの栄光をを見たので」(41節)とある。旧約世界の預言者イザヤが、「イエスの栄光」つまり「復活」を見た、というのである。イエスは時間を超えた存在とされているのである。もしそれが人間であるなら、あまりにも完成された超越的人間である。彼には迷いがない。人間からは何も受け取らず、ただ彼は与えるためだけに来た。人間に「言葉」を与えるためにである。

 この福音書のテーマはだから、『創世記』を意識している。いや、読者に意識させようとしている。
 かつて、父なる神は、物質世界を造られた。その父なる「神の言(ことば)」によってである。その後、物質世界の片隅に、物質世界をすべなう権能を代理させるために、人間を造られた。それはしかし、「言葉」に拠らず、「息吹き」によった。土塊(アダマ)から造られた人の形のものに「命の息を吹き入れられた」(『創世記』第2章7節)とある。

 物質世界が造られた世界の最初の出来事にぴったりと照応するがごとく、『ヨハネ伝』の冒頭ではこう語られる。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言にならずに成ったものは何一つなかった。」(『ヨハネ伝』第1章1節~3節)

 冒頭で、読者はいきなり、『創世記』の記述を思い起こさせられる。ここには、『創世記』冒頭に書かれてあることについて、新たな解釈が行われることの高らかな宣言を見ることができる。「天地創造神話」の読み替えが示唆されるからである。

 それはすぐ次に続く節でさらに深められる。

「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」

 ここで、「万物」は「命」へと読み替えられる。その「命」は、肉の命というより、「魂の命」とでも言えそうなものである。人間の「魂の命」、それがイエスである、という宣言でもある。
 そして、次に『ヨハネ伝』のテーマの一つが記される。

「光は暗闇のなかに輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5節)

 ぼくが学生のころ、この節に潜む命題は、現実のものであった。
 ミッションスクールに学び、日曜日は教会やその活動に過ごし、部活を共にする友人たちはほとんどがクリスチャンであるような、キリスト教が絶対多数の世界に過ごして来た者が大学に入ると、そこはまったくの別世界であった。どこにもキリスト教を理解する人間はいないように思われた。
 まさに「暗闇は光を理解しなかった」ように思われたのである。

 思えば、あの頃、隣に座った友もまた『ヨハネ伝』を愛読していた。だれもが「初めに言があった」の魔力にとらえられていた。『ヨハネ伝』にこそ、真理が隠されている。ほのめかされている。その思いが、他の共観福音書の軽視につながった。

 けれども『ヨハネ伝』を全面的に受けとめるためには、その生活のすべてをキリスト教の世界奥深くに潜ませ、沈ませなければならなかった。修道院にこの身を置くしかないのである。日本ではそれ以外に道はなかった。
 
 神としてのイエスではなく、人としてのイエスを語ること。
 それは『ヨハネ伝』ではなく、共観福音書に多く物語られている。素朴な『マルコ伝』、理屈の『ルカ伝』、それからすこぶる典礼儀式向きの『マタイ伝』。この三つから、特に素朴な『マルコ伝』から、人間イエスを語り出すほか、日本ではなすべき道はない、かのように思われたのである。それはつまり、妥協である。偉人イエスを語ること。けっしてイエスに神の姿を見ないこと。『ヨハネ伝』はずっとずっと後ろに引き下がった。「今はあなたの出番じゃない」。

 『ヨハネ伝』から遠ざかりながら、それでもその特別さを心から払いのけることはできなかった。ぼくの本棚を見ると、『ヨハネ福音書のキリスト論』(間垣洋助著、1984年)など、ヨハネの神学論が何冊か開かれもせず、背表紙を見せている。

 今、もう一度『ヨハネ伝』に戻る気になった。
 なぜかわからぬが、その気になった。この世と妥協する気がなくなったのかも知れない。妥協する必要がなくなったのかも知れない。

 イエスは言われた。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(『ヨハネ伝』第12章35~36節)

 であるから。


アシジの聖フランシスコの伝記について

2011-12-10 23:23:16 | キリスト教問題

アシジの聖フランシスコの小さき花』の伝記について

 まずどんなものか概略を見ておく。
 これはいわゆるエピソード集であって、一般に伝記物語としてに普通に見られる時間的な前後関係は顧慮されておらず、むしろまったく無関心であることに特徴がある。
 その内容は大きく三つに分けられる。。
 第一のパートは本論に当たる主要部分で、第1章から38章まで、聖フランシスコの事跡についての略記である。
 第二のパートはただ二章だけで成っている。この39章と40章のパートは、フランシスコ会士であったパドヴァの聖アントニオのできごと(魚に説教をした聖人である)をまとめてある。
 41章以下53章までが第三パートで、この最後のパートには、その他の小さき兄弟たちのことがランダムに綴られている。

●「伝記」とは何か

 ラテン語で「legenda(レゲンダ)」と書かれる場合、ふつうには「聖人伝」とか「聖者伝」と訳される。けれどもそこに書かれている「伝」の文字から、現在一般に考えられている「伝記物」を想像すべきではない。この“legenda”、「聖者伝」はふつうの「伝記」とはかなりちがったものだからである。
 “legenda”は動詞“lego(レゴー)”から派生した名詞で、この“lego”には、いわゆる「伝記」の意味はまったくなく、「集める」、「選ぶ」などの意味と並んで「朗読する」や「読んで知る」という意味がある。つまり“legenda”とは「朗読するもの」という意味を言外に含んでいるのである。修道院では食事の時や何かの集会のおりに、この“legenda”が読まれるのである。その目的は福音書などを朗読するのと同じである。その朗読から教訓や生くべき指針、修道生活のあるべき姿を聞くことである。だから、必然的に聖人にかかわる“legenda”では、その聖人が表した奇蹟や德行・言葉が読み聞かせられる。その聖人の人となりや心理、細かい行状などが描写されるわけではない。ラテン語には“biographia(ビオグラフィア)”というギリシア語起源の言葉もあり、こちらはまったく現代の「伝記」に通ずるものである。英語の“biography”である。

 ところが、『小さき花』は「朗読されるべき」“legenda”とはまったく異なるジャンルである。どちらかというと先にも書いたとおり「エピソード集」であり、むしろ現代の「伝記」に近い文学性の高いものである。そのため、この『小さき花』はルネサンスの先取り文学とも称される。そこには聖フランシスコとその小さき兄弟たちの「人となり」や「心の有様」が描写されているからである。これが現代にも広く受け入れられる大きな理由である。

 そして、キリスト教徒なら、カトリック・プロテスタントを問わず、一度は目を通しておきたい書物である。

 それはさておき。
 ここではその「レゲンダ」に関して軽く触れておこう。
  アシジの聖フランシスコについての「レゲンダ」にはどんなものがあるか。これが一筋縄ではない。

 まずこれまでフランシスコ会公認の「レゲンダ」として存在していたのが、聖ボナヴェントゥラが編纂・執筆した『大伝記』(Legenda Maior、1262年完成とされる)であり、これ以外の聖フランシスコにかかわる一切の著作物が、1266年の総集会で「禁書」とされて以降、20世紀初頭に至るまで公式には発禁処分に遭っていたのである。
 その裏には、フランシスコ会の父とされる原初の「小さき兄弟会」を導いたアシジの聖フランシスコの教えと思想とをどう受け止めるかという問題が横たわっている。特にアシジの聖フランシスコ逝去の後、分裂騒ぎを引き起こした「会則問題」が大きくかかわっている。聖フランシスコの定めた会則を厳格に遵守するか、かなり緩めたものとするか、「厳格派」と「緩和派」のかなり激烈な争いがあったのである。聖ボナヴェントゥラはいわばその中間派ないし折衷派であった。
 会則のこの点については、経験主義の源流としてのアシジの聖フランシスコに言及するときにより詳しく述べるが、ここでは簡単に次のことを紹介しておこう。

●いわゆる「会則問題」について

 「会則問題」についての最大のテーマは「清貧」と「書物否定」である。
 聖フランシスコは徹底した人である。
 その「清貧」の会則はどこから受け取ったか?
 もちろん「聖書」からである。
 そのいきさつが『小さき花』第2章に記されている。サンパウロ版『聖フランシスコの小さき花』(永野藤夫訳、2001年初版)ではP14・2行目から書かれている(なお、これ以降はサンパウロ版のページをレファレンスすることにした。前に書いたように、やはり講談社版のものから改訂された新版であるが、カトリック系の出版社にふさわしい表記などに変更されたほかは、内容的に同じとみてよいとわかったからである。そしてこれがいちばん手頃で読みやすい)。

 聖フランシスコは彼の最初の弟子であるクィンタヴァレのベルナルドとともに、アシジの司教館に出かけていって、そこの司祭に頼んでミサ典書(他の訳本では「福音書」とある)を三度開いてもらった。そこにある聖書の中のイエスの言葉を、神の思し召しと受け止めようと考えたのである。

 一回目。金持ちの青年がイエスに尋ねる場面である。イエスは最後にこう答える。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」(マタイ19章21節)
 二回目。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない」(ルカ9章3節)。
 最後に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)。

 ここから、「小さき兄弟会」の最初の会則が発している。命ぜられているのは、完全な無所有、完全な貧しさと自己犠牲である。聖フランシスコの最初の弟子クィンタヴァレのベルナルドは、かなりの金持ちであったが、その財産のすべてをすぐさま貧しい人たちに分け与えた。
 そしてこれが「小さき兄弟会」の出発の出発となった。

 『完全の鑑』では(昭和23年日本評論社版=用語がかなり古めかしいが手許にこれしかないのでご容赦を)会則についてこう書かれている(第一章第一=つまりこの書の冒頭)。ここでは聖フランチェスコとなっていて、聖フランシスコと混在するがこれもご容赦を願おう。
「聖フランチェスコは教団について三種の法度を作られた。第一は法王インノケンティウスが教書を発せずして認定したもの。その後さらに短い法度を書かれたが、これはなくなった。そこで三度つくられたが、法皇ホノリウスは教書を下してこれを承認した。この法度から弟子たちは、聖フランチェスコの意に反して多くの個所を削除した。」
 ここで「法度」とあるのが「会則」あるいは「戒律」である。最初の「法度」はつまり教皇から口頭で得た認可であったことを指している。
 『完全の鑑』のこの個所では、失われた第二の「法度」のために、聖フランチェスコはさらに新しい会則を側近の弟子に書き取らせたが、多数の教団の弟子たちがその会則があまりに厳しいので、そのままでは従えないと訴え出てきた、と記されている。
 つまり、聖人在世中から、会則の遵守について兄弟会の会員たちに大きな不満があったことが知られる。小さき兄弟会の師父である聖フランシスコ(聖フランチェスコ)にとっては、それが聖書に記されているものである以上当然と思える規則であったが、厳しすぎるとして小さき兄弟の多数にはつまずきになっていたのである。

 また「書物」について同じ『完全の鑑』にはこうある(第二・4章)。
 あまりにもしつっこく「聖歌集」を持ちたがった若い教団員に対して聖人は、
「お前に聖歌集を持たせたら、次には祈祷書がほしくなるだろう。その時こそあたかも大僧正のごとく、同門たちに『祈祷書を持って来てくれ』と言うだろう。」
かくおっしゃって聖人は気色ばんで灰をつかんで彼の頭に置き頭を洗う人のように彼の頭を撫で、
「私が祈祷書なんだ、私が祈祷書なんだ」と、
彼の頭を撫でまわし、幾度も繰り返された。

 「私が祈祷書なんだ」という言葉は、祈祷は天からの啓示によって生まれる言葉をもって祈られなければならないという意味である。アシシの聖フランシスコは常にそうであった。また、この前の章(3章)には福音書に「何も持たぬ」とあることは書物についても同じだという言葉を残している。アシジの聖フランシスコによれば、祈るにしても説教するにしてもあるいは考えを深く巡らす場合にも書物に頼ってはいけないのである。

 聖フランシスコの最初の兄弟たちは、当たり前のごとく師父の魂と言葉に直接触れて、師父に素直に従ったが、それから後の小さき兄弟たちは、会則の緩和を要望する者がほとんどだった。聖フランシスコの死後師父を継いだ教団の幹部は、多くの点で規則を書き換え、削除して少しずつ貧しき托鉢兄弟団を豊かな学識研究集団に変容させてしまったのである。
 このため、聖フランシスコ時代の初心は忘れ去られ、中世以降、ドミニコ教団と並ぶ神学研究の拠点となった。その新しい戒律のゆるやかな状態を「小さき兄弟会」の在るべき姿とする伝統に対して、きびしく異を唱えるものとなり得るすべての書物を「小さき兄弟会」は禁書処分としたのである。こうして、フランシスコ会によって唯一承認された聖フランシスコに関する書物は聖ボナヴェントゥラの編纂になる『大伝記(Legenda Maior)』のみとなった。禁書となった他の伝記類はすべて歴史の闇に葬り去られた(はずであった)。

 19世紀末になって、それらの秘匿された伝記類、チェラノのトマスの執筆になる三つの伝記、つまり『アシジの聖フランシスコの第一伝記』(1228年頃完成)、同じく『第二伝記』(1246年頃完成)、さらに『奇蹟の書』(1250年頃完成)。および、聖ボナヴェントゥラ以降の小さき兄弟会の主流となった弛緩した会則に反発する人たちの鋭く厳しい批判によって編まれたと考えられている後世の『完全の鑑』、およびより穏やかな批判が下敷きにある『小さき花』とそれに続く小さき兄弟たちの伝記類(『兄弟ジネブロの伝記』『兄弟エジディオの伝記』などの一連のエピソード集)が歴史の明るみに出されて、聖フランシスコ研究は一気に進んだのである。こうしてヨーロッパおよびアメリカで聖フランシスコは一躍脚光浴びたことが、日本でも明治末期から大正時代にかけて和訳が進む動因となったのである。それまで化石のような姿だった聖人像が、これら一連のエピソード集によって息を吹き返し、近代に生き生きとよみがえったと言ってよい。アシジの聖フランシスコ人気はかなり新しいものなのである。
 その人気がかの小さき兄弟会(通称フランシスコ会)とローマ教皇庁に、アシジの聖フランシスコ伝の復活を渋々認めさせたことになる。

 「フランシスコ会」や「フランシスカン」という名称は通称である。現在でも彼らの修道会の名称は「小さき兄弟会」である。彼らの三つの修道会がいずれも“OFM”を名のっているところに注意すればよい。“OFM”は“Ordo Fratrum Minorum”(オルド フラトゥルム ミノールム)の略であってその意味は正に「より小さき兄弟の会」である。

●チェラノのトマスによる三つの伝記
 
 現在残されているものを簡略にまとめると以下のようになる。

『第一伝記』
 グレゴリウス9世が聖フランシスコを列聖したときに、聖人の聖徳を書き残すことを目的として、教皇がチェラノのトマスに命じて執筆させたものであるが、聖フランシスコの事跡は聖人没後2,3年間に収集されたものであると見られる。

『第二伝記』
 先の『第一伝記』は聖人の列聖にちなむものであったために、奇蹟中心で聖人に関する大切なエピソード類が大部分抜け落ちていることから、奇蹟集ではなく、聖人にまつわる重要なできごとに重点を置いて編纂しなおしたものである。筆力について夙に名高かった先のチェラノのトマスに執筆を指示したのである。これは1244年の「(フランシスコ会の)ジェノアの総集会」にて決定され、『第一伝記』編纂時よりさらに多数の資料や証言が集められたという。

『奇蹟の書』
 『第二伝記』ではその編集方針により聖人の奇蹟が多数割愛されたことを補うために、聖人の起こした奇跡を集めた書を編纂したものである。これもまたチェラノのトマスの執筆である。

 チェラノのトマスについては多くを知られていないが、1215年頃教団に入会したと見られる。1221年のアシジの総集会後数年間ドイツで布教活動に従事し、ドイツ管区の管区長代理をつとめたこともある人物である。アシジの聖フランシスコの葬儀には列席しているので、その1226年までにはイタリアに帰っていたと思われる。また、時の教皇から編纂・執筆の指示が出る程だから、その資料整理力や執筆力はすでに定評があったのであろう。


イギリス経験論の源流としてのアシジの聖フランシスコ

2011-12-10 23:01:23 | キリスト教問題

 アシジの聖フランシスコと言えば、キリスト教圏では知らぬ者はいないと言ってよかろう。カトリック・プロテスタントを問わず、今も多くの信徒から尊崇を集めている。日本でもある程度は知られているようである。その証拠に、戦後すぐの時期、わら半紙のような印刷用紙がまだ配給制度の中にあって、『フランチェスコ聖者の 完全の鑑』というのが、日本評論社から文庫本で出版されていることである。奥付には「昭和23年6月1日発行」とある。ぼくの生まれた年である。

 それはともかく、アシジの聖フランシスコと言えば、「小鳥に説教するアシジの聖フランシスコ」というテーマの絵画、たとえばジョット一派の描いた聖フランチェスコ大聖堂の(アシジにある)壁画などは夙に有名である。
 さらには、フランツ・リストの作曲によるピアノ曲「小鳥に説教する聖フランシスコ」というものまである。これは『二つの伝説』の第一曲で、小鳥たちのにぎやかでかわいいさえずりに始まるなかなか美しい曲である。作曲されたのは1861年から1863年頃と言われる。ちなみに第二曲は「波の上を歩むパオラの聖フランシスコ」と題されている。こちらの聖人については、同じフランシスコ会の修道士というほかは、あまり詳しいことを書けない。この聖人はメッシーナ海峡を歩いて渡ったとして名高く、その時の聖人の姿をイメージして作曲したようである。漁師たちが彼を乗せることを拒んだためだが、彼はさっさとその漁師たちを尻目に海の上を歩いて行ったという。
 それにしても、あまりに有名なアシジの聖フランシスコとタグを組むには知名度もいくぶんか劣り、どこかバランスがよくないとずっと思っていたが、どうやらこちらの聖人はフランツ・リストその人の守護聖人だったということのようだ。フランツはパオラの聖フランシスコからもらってきた名前だったのである。

 その名前について少し書いておこう。
 ここでは最初から「フランシスコ」と表記しているが、イタリア本国では「フランチェスコ」が本来である。フランスではフランソワ、ドイツ語圏ではフランツ(フランツィスクスの簡略形)、ラテン語ではフランシスクスとなって、フランシスコという形はこれらの中には出てこない。
 実はフランシスコというのは、スペイン語表記からきたものである。日本でフランチェスコよりフランシスコのほうがとおりがいいのは、スペイン人であった聖フランシスコ・ザビエル(ザベリオの聖フランシスコ)の名に引かれたとみてよい。

 イタリア語で「フランチェスコ」は、「フランスの」とか「フランス風の」という意味である。
 彼が誕生したとき、父ピエトロ・ベルナルドーネは不在で、母のピカが一人で名づけたのは「ヨハネ」(イタリア語ではジョヴァンニ)であった。ピカの洗者ヨハネに対する信心が篤かったからだと言われる。
、ところがフランスへの商用から帰った父ピエトロ・ベルナルドーネはヨハネの名に不満で、自ら名づけ直した。それが「フランチェスコ(フランシスコ)」であった。彼がフランスかぶれであったからだと言われている。ピカもフランス人であった。
 それにしても、フランチェスコ、フランソワ、フランシスコ、フランツが人名として採用されるようになるのは、この父親の名づけたフランチェスコ(フランシスコ)が最初だったのである。
 とはいえ、父が後から名づけた「フランチェスコ(フランシスコ)は、洗礼名簿にはない通称に過ぎないのである。母ピカがすでに「洗者ヨハネ」と名づけてしまっているからである。
 フランチェスコ(フランシスコ)の呼び名は本人も気に入っていたようで、自分でも決してジョヴァンニとは名のることがなかったようである。

 後世、おびただしい数の名高いフランチェスコ、フランシスコ、フランソワ、フランツ、フランシスが輩出している。イギリスではフランシス・ベーコンや海賊のフランシス・ドレイクまで。もちろん、フランシスコ・ザビエルも彼にちなんだ命名であったはずである。聖人ではほかにサレジオのフランシスコ(フランソワ・ド・サル)、音楽家にはフランツ・シューベルトやフランツ・ヨーゼフ・ハイドンなどという錚々たる人たちもいる。
 こうして、フランチェスコ、フランシスコなどの名から「フランスの」などのもともとの意味は忘れ去られていった。


アシジの聖フランシスコの経験主義

2011-12-10 22:56:54 | キリスト教問題

●アシジの聖フランシスコの「経験主義」

 ここで「経験主義」と言っているものは、普通に言われる「経験主義」とほぼ同じ意味であると考えてよい。つまり、「何事も経験によって学ぶ」あるいは「経験重視」というようなことである。
 アシジの聖フランシスコがイギリス経験論の源流に位置するにしても、彼自身がその「経験論」の考え方や、あるいはそれに近いものを持っていたということではない。

 アシジの聖フランシスコの「経験主義」にはしかし、彼特有の原理がある。
 それは神によって与えられた経験であるということである。彼の経験はすべて神の啓示に結びつく。彼の回心の過程がまさに経験によっている。その意味で言えばあらゆる大回心は、そうして神によって与えられた経験に発している。その最初がサウロから聖パウロへの奇蹟のような大回心であったが、それもまた神を劇的に、あるいは過激に経験したことによると考えられるからである。
 アシジの聖フランシスコの場合は、癩者(ハンセン病患者)に対して感じた突然の愛の熱意が回心のはじめであった。彼は馬を下り、そのハンセン病の人の手に口づけをし、さらに抱きしめた。それから、持っていた財布を手渡した。財布をそっくりそのまま上げてしまうことはこれまで幾度となくあったから、これが初めてではない。だが、手から手へと手渡し、さらにはその手に口づけをしたのはこれが初めてのことであった。彼はその直後、突然至福の感情に包まれる。彼の心で始まっていた回心が、大きく彼を進ませた一瞬である。このような行為を、誰かに指示されあるいは教えられ、諭されて行ったものではない。これは恩寵である。彼の回心をさらに決定的に進ませるための神の後押しであった。聖フランシスコは神に背を押され、その上愛の業のもたらす甘美な報酬をもこのとき神からいただいたのである。

 彼は神の教えに従うことがいかにすてきなことであるかを、このときはじめて実感した。

 このときから、これまでの回心の小さな歩みは一気に加速した。歩幅も広がった。
 神の導きは巧妙である。
 アシジの聖フランシスコはこうして神の罠にはまった! なんとすてきな罠であろうか。神は常にこうして思いがけないときに思いがけないやりかたで、神の騎士をお育てになる。その人間の弱さを、怠惰を乗り越える勇気の報酬は、甘美な杯である。神はこれはと思う人間にこの杯を飲ませてしまう。アシジの聖フランシスコもまた甘美な恩寵の葡萄酒を飲んで、神に酔った一人である。

 これがアシジの聖フランシスコの「経験主義」である。
 彼は、さまざまな場所と手段とで天から降りてくる神の恩寵を、啓示をその体いっぱいで受け止め、その魂のすべてをかけて、神に従うのである。その報酬は……、報酬は彼のうちにますます燃え上がる神への愛である。愛する心を深めること、強めること、それこそが彼への神からの報酬である。
 
 『完全の鑑』の中で聖フランシスコは叫んでいる。
「わたしが祈祷書、わたしが祈祷書なんだ!」(第一章第四節)

 これは、教会によって定められた祈祷書によらず、それぞれがみずからの言葉で祈れ、という意味ではない(それも望ましいが)。この言葉は、まさにアシジの聖フランシスコ自身が祈祷書の一ページ、一ページであると宣言しているのである。その一ページごとに神から下された言葉が書かれている。ここには、聖フランシスコの「経験主義」=「恩寵主義」あるいは「啓示主義」とでも言うべきものが端的に表れている。

 これはしかし、ある種の危険をはらんでいる。ある種の異端と言ってもよい。

 それは、聖フランシスコの行動を規範するものがただ一つ神との直截な関係、対話であって、突き詰めると、そこにカトリック教会が介在する余地がまったくないというところにまで達する。聖人と異端は紙一重なのである。だが聖フランシスコはカトリック教会の内側に踏みとどまった。踏みとどまらせたものは彼の従順と謙遜である。

 アシジの聖フランシスコはその全生命を、生涯のすべてを、心も肉も神に捧げてしまったのであるから、彼の経験はすべて神による神に向かっての経験である。
 ここに一般的に言われている「経験主義」とまったく次元の違う異質な別世界が開いている。いやむしろ、聖フランシスコの精神そのものがその別世界にのみ開かれているのである。神と語り合う世界では、すべての経験が恩寵であり、啓示である。
 『ヨブ記』の世界とそれは同じである。ヨブは神と結ばれ、神にのみ開かれた心ですべての苦しみを受け入れた。ヨブにとっては、どのような苦難もそれは啓示であり、恩寵なのである。「神からいただいた苦しみを感謝して抱きしめよ」と、『ヨブ記』は読む者に迫っている。苦難に耐えるのではない。苦難を愛と感謝の心で生き抜くのである。『ヨブ記』のメッセージはそこにある。神のなされることはそれが災厄であっても「よいこと」なのである。
 そのヨブは神によって身ぐるみはがされたが、聖フランシスコは自らすすんで裸になった、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(1章21節)と悠然と言ったが、聖フランシスコは主がそれをそのように求められるから裸になったのである。天からおろされた受身の貧困と、自分からすすんでイエスに倣った積極の貧困とでは、天と地ほどの差がある。あるいはここにこそ、旧約の時代と新約の時代との本質的な差異があると考えることもできる。
 新約の時代に決定的なのは、救世主イエスは神に生きようとする者たちすべての実践的指導者でもあるからである。
 『完全の鏡』には誇らしげにこう書かれている。
「彼は、最初同行が彼のもとに集まった時から、御最後の時まで、聖福音をまったく文字どおりに守った。」(第一章第三節)

●イギリス経験論の楽天主義
 話は前後するが、ここで、少し「イギリス経験論」なるものついて概略説明しておこう。
 これは近世に入って、特に一七世紀のイギリスで独自に発達した考え方である。その頂点はジョン・ロック(1632~1704)で、主著『人間知性論』(1690)にその全容が記されている。邦題はこのように「知性論」であるが、原題には“understanding”とあって、意味はもう少し動作的である。つまり、「理解力」とか「認識力」についてのエセーである。実際、そこでテーマとされているのは人間の「観念形成の仕組み」である。深入りするのは避けて、概略を述べると、次のようなことである。

 人間の観念には、生まれつきのものは一つもなく、それらはすべて生まれて後の「経験」から成立してくるものである、というのがロックの主張である。ここで「経験」とは、感覚によるものと内省によるものとを言う。感覚は外的なものをそのまま受け止めることであり、内省とは受け止めたものを精神の内部で振り返り、検討し、分析し、結合・整序するはたらきである。一つ一つの「経験」から得られる「単純観念」を結合し、組み立てて生まれるのが「複合観念」である。人間のすべての観念はこうして組み立てられるのであって、生まれつき人間は特定の観念を持ってはいない、というのである。

 これまでのスコラ哲学の流れでは、人間はもともと神から与えられた善悪の観念、あるいは神という観念さえその精神のうちに刻みこまれて生まれてくるものと考える。これに対して、ロックは神の観念もまた「複合観念」として形成されたものとみなす。けれどもそれは人間の側から見たときには、みずからの経験をもとに形成した神の観念であっても、人間が経験知から神の存在の帰結を得るのは、そうなるように仕向けている神の配慮であるとする。

 思えば、このような仕掛けを想定するのは、どうやら イギリスの思想的伝統のようである。
 
 たとえば、アダム・スミスの『諸国民の富』に記される「神の見えざる手」という発想である。人間の自由な経済活動が、一見無秩序に見えても、最終的には調和的に均衡し、秩序が保たれることをアダム・スミスは「神の見えざる手」と表現する。つねに神の均衡がこの地上に実現するのであるから、人間の自由な活動は決して無秩序に陥ることなく、国民経済を豊かにするという楽天主義を見ることができる。これは、ジョン・ロックの民主主義の思想にも見えるものである。
 面白いのは、あのチャールズ・ダーウィンの『種の起原』にも、「神の見えざる手」は影を落としていることである。てんでんばらばらに無秩序にまったく無目的に進化していくかに見える生物の身体機構も、最終的には均衡のとれた調和的な構造へと収斂するという考え方を、ダーウィンは捨てきれなかった。そこに見えざる目的性、つまり「神の手」が働いていると彼は信じていたはずである。明言は避けているものの、進化の過程にダーウィンはほぼ直感的に、あるいは経験的に「神の手」を感じていた。『種の起原』の初版ではそのような曖昧模糊とした表現か随所にみられたのである。それゆえ、こちんこちんに凝り固まっているキリスト教神学者や聖職者は別として、ある程度の範囲ながら保守的な人たちにも『種の起原』を受け入れさせることになった。『種の起原』は第六版まで改訂され続け、少しずつ曖昧な部分は削除されたり、修正されたりして、現在のように明確な形の進化論へと完成しいったのだが、それはかえって強い批判を浴びることになった。初版のもっていた曖昧さは、人の目をごまかす「ペテン」だったというわけである。
 ダーウィンは黙しているが、その進化論の発展とは裏腹に、最後まで、あるいはひそやかに、「神の手」のはたらきを信じていたのは間違いないところである。彼の信仰篤い愛する年上の妻エマが、彼を認め、尊敬して受け入れていたことを思えば、その一事だけでも、ダーウィンの信仰心を察することができる。実際には、進化論を最初からもっと徹底させていたのはダーウィンとほぼ同時進行で同じ進化論に達したと言われる年若いアルフレッド・ラッセル・ウォーレスである。ウォーレスはダーウィンより14才若く、また無神論的であった。

 つまり、「イギリス経験論」ないしは無神論と結びつく前のイギリスの科学主義、科学実証主義は、かように神への信頼に満ちた楽観主義の器の中にあった。
 歴史をさかのぼってみても、イギリスの思想を、その現実主義とともに強く特色づけるのががこの楽観主義である。イギリス経験論のさきがけと言われるロジャー・ベーコンは、経験知の重要性を説く一方で、イギリスのフランシスコ会士として、アシジの聖フランシスコの言葉のぬくもりの失われない時代に、その精神を生きようとしていた。ロジャー・ベーコンが生まれたのは、アシジの聖フランシスコよりも20年ほど後である。聖フランシスコの帰天と入れ違うようにフランシスコ会士となっている。ロジャー・ベーコンの創始したと言われる帰納法的な実証主義には、聖フランシスコの実例主義の指導法が見事に反映していると考えてもよい。聖フランシスコは、イエスの生涯に見倣いつつ、さらに自分自身が兄弟会の弟子たちの模範、実例とならねばならないと考えていた。彼が人一倍「清貧」や「禁欲」に厳しかったのは、「よき手本」とならんがためであった。今も知られる『キリストに倣いて』という修道生活の手引き書/指導書の精神はまさにこの聖フランシスコの「聖書に描かれたイエス」を命がけで生きた精神を、後世に忠実に跡付け、実践的に結実させようというものであった。

 「イギリス経験論」を含むイギリスの実証主義的な哲学や科学は、大胆な言い方をすれば、アシジの聖フランシスコと同じ思想の根を持ち、同じ精神を吸収していたのである。神への完き信頼という根である。実例主義、実践主義はそのための栄養である。聖フランシスコの「経験主義」はさらに、彼が経験するものすべてに神のメッセージが込められているという強い確信によっていっそう苛烈なものとなる。あるいはその徹底ぶりが滑稽とも思える行為を導き出す。

 たとえば、『アシジの聖フランシスコの小さき花』の第44話を見てみよう。
 聖フランシスコは、四つ辻の真ん中に兄弟マッセオを立たせ、ぐるぐるとその体を回した。そして突然「止まれ」と命じる。そのときマッセオの顔がシェナの町の方角を向いていた。聖人は言う。「それが神の望まれる行くべき道です」。ここには聖人の楽天主義が、神への完全なる信頼と結びついて、子供の無邪気な遊びとも受け取れる。それは滑稽なほどである。だが、このような行為の一つ一つが彼の「経験主義」を形作っていたのである。


教皇ベネディクト16世とイスラム教

2006-09-19 04:44:52 | キリスト教問題
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●ローマ教皇ベネディクト16世の発言の奥にある偏見の大きさ●

 ◆まず、どんな発言をしたか振り返ってみよう◆

  「毎日新聞」9月17日朝刊の記事から引用させてもらうことにしよう。
 ローマ教皇ベネディクト16世がとんでもない発言をなさったというのである。それは、9月12日のことであった。ドイツのレーゲンスブルク大学での講演に先立ったあいさつで、こんなことをおっしゃったというのである。


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  ビザンチン帝国のマヌエル2世パレオロゴス皇帝が1391年にペルシャ人と交わした対話録を読んだ。その中で皇帝はジハード(聖戦)に言及していた。

 皇帝は「(イスラム教の預言者)ムハンマドが新しくもたらしたものを見せてみよ。彼が説く信仰を剣で広めたような邪悪と残酷さだけだ」と語った。

 皇帝はなぜ暴力で信仰を広めることが非理性的かについて「暴力は神や精神の本質と相いれない」と説明した。さらに、「神は血を喜ばず、非理性的な行為は神の本質に反する。信仰は肉体ではなく、精神に宿るものだ。信仰に導くものは誰であれ、暴力や脅しによるのではなく、適切に論じることが求められる」とも語っている。

 対話録の編集者は「ギリシャ哲学に通じた皇帝は理性的でない行為が神の本質に反することを強調している。だが、イスラム教は神が絶対的に超越した存在と説く。神の意思は我々の合理の範ちゅうさえをも超えている」と観察している。「(イスラム教の預言者)ムハンマドが、戦いの指揮により邪悪と残酷さをもたらした」

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 以上が、記事の内容である。

 またしても、イスラム教開祖のムハンマドにすべての責任を負わせようとする発言である。このように、現在頻発するイスラム教徒によるテロのすべてを、その開祖ムハンマド(マホメット)の責任だと決めつけるのなら、「イラクでのアメリカ合衆国の暴虐、破壊、無差別殺戮、人権侵害のすべての悪は、イエス・キリストの責任である」というのと同じ乱暴な論理である。
 キリスト教諸国家による19世紀から20世紀にかけての帝国主義的世界侵略は、アジア・アフリカの植民地化のすべては、彼ら西欧人がイエス・キリストの教えに従った結果である、と非難する論理とまったく同じ暴論である。
 もっとも、マックス・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、あの資本主義の思想がプロテスタンティズムの産物であると、見事に分析して見せているのであるから、ことキリスト教の帝国主義への思想的、精神的関与という点では、西欧プロテスタント諸国民がイエス・キリストの教えに忠実だったからだ、と言う主張はあながち的外れではない。
 そう考えれば、キリスト教徒はイスラム教徒より残虐である。イスラム教徒同様、彼らも確信犯であり、なおかつそれが組織的、恒久的であり、理論的な冷徹さで行われたという点で、イスラムのテロより悪質である。

 ◆ビザンチン帝国のマヌエル2世のことを振り返ってみよう◆

 ここで言及されているビザンチン帝国の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(1350~1425、在位1391~1425)は、ヨハネス5世パレオロゴス(1332~1391、在位1341~1391)の次男である。その父、ヨハネス5世の死の間近まで、彼はオスマン帝国に捕虜となっていた。彼は、父の死期が近いのを知って、オスマン帝国の宮廷からようやくのこと脱出し、ビザンチン帝国の首都であったコンスタンチノポリス(コンスタンチノープル=現イスタンブール)に逃げ帰った。だが、これを知ったオスマン帝国のバヤズィト7世は、すぐさま軍を出してコンスタンチノポリスを包囲させた。
 彼は、父の死後ただちに、オスマン帝国の無言の圧力の中で、父のあとを継いで皇帝に即位する。このときもそうだったが、彼は幼少の頃からオスマン帝国の脅威をその肌で感じてきていたのである。

 その父のヨハネス5世を見てもそうだった。彼は、ビザンチン帝国内の権力抗争に巻き込まれ、皇帝としての権威、権力を十分に発揮できなかったばかりか、ほとんどないがしろにされることも少なくなかった。さらに一時は、長男のクーデターによって皇帝を退位させられてもいる(1376~1379)。彼は復位して皇帝の座に戻るのであるが、これらのすべての権力抗争にかかわって、後ろで糸を引いていたのはオスマン帝国であった。彼の復位もまた、オスマン帝国の思惑が後押ししたものである。
 次男であったマヌエル2世はこれらのすべてを見てきたのである。
 何としてでも、オスマン帝国の介入を排除したいと願ったのは一国の為政者として当然のことである。その彼が、トルコ人(「ペルシャ人」とあるが、実際はトルコ人であったようである。オスマン帝国のトルコ人である。)に語ったことばを、ベネディクト16世は引用しているのである。イスラム教のオスマン帝国に翻弄され介入を受け、その脅威と圧力の中で、イスラム教徒を憎むことになった皇帝の言をそのまま引用しているのである。

 オスマン帝国の本当のねらいはヨーロッパ本土への進出にあったこと、また当時勢力を強大化していたティムールの東からの侵略に悩まされ続けていたこと、というこのふたつの理由から、オスマン帝国はビザンチン帝国と事を構えることを差し控えていた。このために、このとき、ビザンチン帝国はかろうじてオスマン帝国の侵略にも、戦禍にも遭わなかったのである。ビザンチン帝国はとにもかくにも、マヌエル2世治下においては、蹂躙されることがなかった。
 けれども、コンスタンチノポリスはかつて、西方のキリスト教徒によって略奪、蹂躙されたことがあった。それは第四回十字軍のときのことであるが、それは少し後で書くことにしよう。

 時にハンガリー王国の国王(在位1387年~1437年)となっていたジギスムントは、このオスマン帝国のヨーロッパに対する脅威を取り除こうと、ドイツ諸侯を率い、「ドイツ十字軍」と称してドナウ川のほとりまで兵を進めた。ちょうど東からのティムールの侵略に神経をとがらせているオスマン帝国を、西から攻めて挟み撃ちにしようとしたのである。1396年、ドイツ諸侯の「ドイツ十字軍」は、ドナウ川畔ニコポリスでオスマン帝国軍と一戦(ニコポリスの会戦)を交えたが、オスマン帝国軍に軽く一蹴されて大敗を喫した。オスマン帝国は当時、それほど強大な軍事力を持っていたのである。オスマン帝国が本気を出せば、力のないビザンチン帝国などはひとたまりもなかったろう。
 なお、ジギスムントは後、神聖ローマ帝国皇帝(在位1410年~1437年)となっている。また、ボヘミアの司教フスを異端と断罪し、1415年、釈明のために訪れたフスを処刑したコンスタンツ公会議(1414~1418)の結果に失望してボヘミアに反乱を起こしたチェック人に対して、その弾圧のためのフス戦争(1419年~1434年)を指揮したことでも知られる。

 マヌエル2世は、外交力に長け、よくオスマン帝国のスルタンを懐柔して、その圧力を弱めるために腐心した。また文化への理解も深く、彼みずから文や詩をものした。彼の治世において、ビザンチン帝国は最後の文化の光芒を放ったのである。この文化の隆盛は「ビザンチン・ルネサンス」と呼ばれる。
 けれども、彼の苦労のかいもなく、その治世の晩年には、オスマン帝国に対して臣従の礼を取ることを求められ、屈辱の中に帝位をまっとうした。彼の子には「ビザンチン帝国」最後の皇帝となったコンスタンチノス11世もいるのである。滅亡は1453年のことであった。

 繰り返しになるが、ビザンチン帝国の為政者がイスラム教やイスラム教徒を憎むのは当然のことである。それは、ビザンチン帝国が、オスマン帝国に翻弄され続けてきたことの裏返しである。強大な力をふるっていたオスマン帝国の前では、彼らは風の前のともし火のような状態だったのである。

 ◆「十字軍」で、キリスト教徒はイスラム教徒に何をなした?◆

 そのような立場にあったビザンチン帝国が、イスラム教徒を憎むのは当然であるとは、だれもが認めるところである。であるならば、ひるがえって、キリスト教徒が幾度にもわたってパレスチナに送り出し続けた「十字軍」(1096~1270/正式には第1回~第7回。ほかにも1147年の「ヴェンド十字軍」や、1285年の「アラゴン十字軍」などというものあった)が、イスラム教徒に対してなしたことをどう考えるのか? ということを問わねばならない。そうして、イスラム教徒のキリスト教徒への反発や不信の根の深さが奈辺にあるのかを、深刻に思い起こさねばなるまい。

 その典型を、第一回十字軍(1096~1099)に見ればよい。エルサレムで殺戮と略奪の限りを尽くしているのである。いや、アンティオキアでもだ。エルサレムの殺戮は、時の歴史家が「エルサレムで流された血は膝を没するほどにまで城内に満ちた。」と記すほどであったから、それがたとえ誇張であるにしても、凄惨な、残虐な殺戮が行われたことは、間違いがあるまい。当時のだれもが知っている動かぬ事実だったのである。殺されたのはイスラム教徒、ユダヤ教徒だけでなく、当時イスラム教徒と平和的に共存していた東方教会の信徒たちも多数が含まれていた。エルサレムに総主教座を置いていたこれらの東方教会も破壊され尽くして、その総主教たちはエルサレムを追放されている。 東方教会のローマ教会への不信はこのときに始まった。
 ユダヤ教徒に至っては、シナゴーグに立てこもったのをいいことに、入り口を封鎖してそこに薪をうずたかく積んで、火を放っている。皆殺しだった。

 第四回十字軍(1202~1204)では、エルサレムではなく、その殺戮と略奪をビザンチン帝国の首都コンスタンチノポリスでやってのけた。
 略奪したビザンチンの美術、財宝はすべて西方に持ち帰ってしまったのである。そのおかげで、同じオスマン帝国によるその後の占領(1453年のことである。ビザンチン帝国はこのとき滅亡する)によって、コンスタンチノポリスのキリスト教芸術が破壊され尽くしたとき、その大部分はヨーロッパにあって助かった、というのだから、歴史というのは皮肉である。
 この第四回十字軍は、時のビザンチン帝国(イスラム教国ではない。れっきとしたキリスト教国なのだ!)を滅ぼして、コンスタンチノポリスを首都とする「ラテン帝国」を建国したが、そこでやったことは組織的な富の略奪であった。1204年から57年間の支配で、国家の経済基盤を食い尽くしてしまっていたから、この地にもう一度「ビザンチン帝国」が復活しても、もう往年の力は回復することがなかった。
 その衰運のなかにあるビザンチン帝国末期の皇帝が、イスラムなかりせば、と思ったのは当然のことではあったが、そこには大きな認識の誤りがあったのである。イスラムが彼らを滅ぼしたのではなく、西方のキリスト教徒が帝国存続のための基盤をすっかり奪ってしまっていたのであった。それでもなお、ビザンチン帝国を再建した彼らはよくそこにとどまった、というべきであろう。


 ◆「赤新月社」というイスラムの赤十字◆

 西欧で「赤十字」と呼ばれる機関を、イスラム諸国では「赤新月社」と呼んで、その紋章に決して「十字架」を用いようとしないのは、これらの「十字軍」の侵略に対する根深い不信と遺恨とを忘れ得ないからである。キリスト教徒の暴虐非道は、イスラム教徒の骨身にしみ込んでいる。イスラム教徒にとって、「十字架」は「悪」の象徴そのものでしかないと言ってもよかろう。
 これらのことをキリスト教徒はすっかり忘れてしまっているらしい。イスラム教徒の心に残してきた、みずからなした暴虐の記憶を、イスラム教徒になした取り返しのつかないほどの略奪と殺戮の記憶を、自分たちのほうではすっかり忘れ果てて、イスラム教を危険な宗教と断罪しようとするのは、無責任な、そして不道徳な思い上がりもいいところである。

 歴史を振り返れば、キリスト教徒こそ、世界の至る所で残虐の限りを尽くしてきた。南米のインカ帝国を滅ぼしたのはどこのキリスト教徒だったか? インドを植民地として踏みにじってきたのはどこのキリスト教徒だったか?
 南アフリカや旧ローデシアで残酷な人種差別をしてきたのは何という宗教を奉じる人々であったか?
 アメリカ合衆国における今も消えることのない人種差別は、いったいどの宗教を信ずる人間たちが続けているのか? イスラム教徒だとでもいうのか?
 ファシストのイタリアと妥協して、コンコルダードを結んだのは、いったいどこの教会であったか? 
 ナチスのユダヤ人迫害を許容したのはいったいどこの教会の長であったか? カトリック教徒を守るためという理由で、ユダヤ教徒を見殺しにしてしまったのではなかったか? それもベネディクト16世の母国、ドイツでである。
 

◆ベネディクト16世は、ご退位願うほかないのではないか?◆

 もう一度言おう。これらの殺戮と略奪、人種差別などの悪のすべてを、イエス・キリストのせいにされたら、キリスト教徒はなんと言うだろうか? アメリカ合衆国ならば、そのようなことを言う人間たちを逮捕、監禁して、拷問するのだろうか? イラクでやっているように。

 ベネディクト16世はきっと、猛烈な抗議をするだろう。みずからの責任を顧みることなく。

 でも、本来は、まずはじめに、みずからが指導してきた信徒の不行跡を、その歴史におけるすべての過ちを謝罪するのが筋って言うものだ。

 それであるのに、これが、神に不可謬の権利を付与されたとみずから主張してやまないローマ教皇の宣う言葉だろうか?

 ぼくはキリスト教徒であることをやめる気持ちはさらさらないけれど、このような教皇の下では、みずからをカトリックとは名乗りたくない。本当なら、教皇の廃位ないしは退位というのができればいいのだけれど。

 恥ずかしいかぎりである。