フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

「神の国」を求める

2009-06-29 16:52:35 | POEMS(詩)

  「神の国」を求める

ぼくは「神の国」を求める者である。
「神の国」。
だがそれは、「天の国」ではない。
死後にぼくらが訪れるという、
あの「神の国」ではない。
ぼくはこの世に、
この地上にこそ、
「神の国」を求める者だからである。
「神の国」。それはぼくらの
理想の国である。
そこでは、だれも、
どんな人間も差別されない。
だれも、どんな人間も捨てられない。
だれも、どんな人間も置き去りにされない。
だれも どんな人間も孤独へと放逐されない。
そして、だれもが自由に、
そして、だれもが自由に幸福である。
だれもが、だれもが正義に結ばれ、
だれもが、だれもが愛されることに満たされ、
だれもが、だれもが愛することに堪能する。
ああ。だれも飢えない。
ああ。だれも渇かない。
そんな国を、ぼくはこの世に求める。
そんな「神の国」をこの世に願う。
だから、さあみんな、
その旗を下ろしてはならない。
それぞれが持っている小さな「愛」の旗。
ぼくらの頭上にへんぽんとひるがえる、
「神の国」の錦の御旗。
大天使ミカエルが手にするその旗を、
もう一度ぼくら自身の手で、
高く、高く掲げようではないか。
この世のすべての不正義と戦い、
この世のあらゆる不平等と戦い、
この世のいっさいの差別と戦い、
この世のいかなる偏見をも乗り越え、、
この世の憎悪という憎悪を乗り越え、
この世の飢餓と、
この世の不和とを滅亡させるために、
金色に輝く「神の国」の御旗を、
ぼくらの虹色の「愛」の旗を、
今こそ押し立てて進もうではないか。
ぼくら自身がつくった精神の荒野へと。
ぼくら自身がもがいているその荒野へと。


愛の杼(ひ)

2009-06-25 11:28:34 | POEMS(詩)

  愛の杼(ひ)

ばらばらなぼくの心を今、
何とか一つにまとめているのはきっと、
「愛」にほかなりません。
「愛」がぼくをやっとこさっとこ統御しているのです。
さもなくば「心」は四分五裂。
ちりぢりの砂洲に埋もれていることでしょう。
さもなくば「知」は、数万の主語と数億の述語の海に、
溺れてしまっていることでしょう。

「愛」というもの。
「知」を愛し、
この世を愛し、
地の平和を愛し、
天の平和を愛して。

主語と述語を上手に取り結ぶ技術なんて、
ぼくにはすこしもありませんから、
ただ真摯の糸で、綯(な)い合わせて、
なんとかかんとか一語の概念に練り上げることだけ。
今はそれだけ願うほかありません。

このぼくにあるのは、ですからただ一つ。
「希望」、あるいは「希望」のようなもの。
「愛」のなしうる世界への静かな希望です。
知と情の横糸波打つ心の面(おもて)に、
ただ「愛」という一つの杼(ひ)が、
一本の丈夫な麻糸を導いて、
だましだまされることのない一つの世界を、
ぼくの想念に織り上げてくれることでしょう、と。
ばらばらなぼくの心に、さまざまな現世の価値で揺れる心に、
「愛」の導く糸がこつこつこつと、
うまずたゆまず一差し一差し、
明日には、あるいは明日の明日には、
美しいタペストリーに、
編んでくれることでしょう、と。

その「愛」の杼に、ぼくのすべてを託すのです。
ただひたすらに、ぼくの心と魂を、
美しい織物に織り上げてもらうために。
絹よりもなお艶やかに輝く織物に。
僕の命の織物に。



*杼(ひ)=機織りの道具。緯(よこいと)を通すために用いる。また「どんぐり」の意味もある。音読みは「ちょ」(漢音)および「じょ」(呉音)である。


六月の風が吹いたら

2009-06-19 23:43:55 | POEMS(詩)

  六月の風が吹いたら

六月の風は南から吹きます。
湿って重たい雨の子連れて、
うっとおしいほどたくさん連れて、
潤いがいくらかすぎた子らを連れて、
髪の毛の間や、産毛の際を、
ぬるり、ぬるりと滑ってゆきます。
濡れた平手で撫でられて、
湿った指でくすぐられて。
でもへこたれてはいけません。
六月の風は生の風です。
青い梅まで生のまま。
干したり漬けたりせねばなりません。
キュウリもナスもトマトもみんな、
なんとかかんとかげんなりしながら実ります。
ぬか床ちゃんとしろよな、と、
おっかない目でときどきにらんでいて。

そうです、そうです。
六月の生はおいしいのです。
オクラにミョウガ、
ショウガのおろしが大活躍です。
タマネギ、ジャガイモだって真っさらのヤツ。
サラダに肉じゃが、もう最高。
でも六月の生は油断ができません。
生のままではすぐに腐ります。
すぐに黴びます。
すぐに匂います。
ああでも、生はいい。
濡れた生はいっそういい。
生の季節はやっぱりいい。
ビールももちろん生がいい。
ゆでた枝豆つまみながら。
湯上がりの生肌には玉の汗。

浴衣の前をいくらかはだけて、
男だったら大あぐらをかいて、
生の魂をうちわであおぎます。
ほかほかしている生の魂。
螢の火影ちらちらと、
愛しい人よと、飛び交うのです。
悲しい人よと、忍び泣くのです。
桜桃忌ならさくらんぼ。
真っ赤なトマトは食べてもいいけど、
青いトマトはかじるな、かじるな。
青いキュウリは一塩してはかじるがよい。
裸になった生心。
むしむししても、負けるな心、青心(あおごころ)。
ぺとぺとしても、逃げるな心、正心(まさごころ)。
紫陽花見ながら、四股踏んじゃいましょう。
金太郎腹掛けなつかしく。


すだく

2009-06-14 13:49:17 | POEMS(詩)

  すだく

秋の夜の風が深く止むとき、
こおろぎの鳴く音の夜に満ち、
月のない空を見上げる。
すだく。
夜の静けさにあらがうように、
せつなさのきわみ。
ひたむく祈りのおもむくところ。
鳴いて、鳴いて、
友を呼び、
愛を求めるか。
すだく。
すだく心、
今ぞ涼し夜にあふれて、
むせぶ歌。
こぼれる涙拭きぬ。
湧き出る祈り唇にありぬ。
うつせみの夜の果てるまで、
夢の世の尽きるまで、
歌え。
こうろぎ。
ひたむきにすだけ。



*すだく=漢字で書けば「集く」。もともと「集まる」意。中世には現在のような意味で使われるようになった。→『閑吟集』(16世紀初頭に成立)には、

「人を松虫枕にすだけど
 淋しさのまさる秋の夜すがら」

という小歌が収載されている(175番)。歌の意は読んでの通りである。虫のすだく声しか聞こえない暗夜に一人目を開いている枕辺。虫のやかましいほどの集まり鳴く音は、かえって独り身の淋しさを募らせるであろう。ましてや人を恋う身であるならば。


死者への祈り

2009-06-13 19:35:55 | POEMS(詩)

  死者への祈り

安らかな眠りについて、
今静かに休らいし者らの笑い声か、
わが耳にかすかに聞こゆ。
かすかにかすかに耳の内に聞こゆ。
くすぐったいふるえ。
ほのめく幸福。
そは天の幸福?

そのなすべき事を終えて、
ゆったりと満たされしさざめきが、
わが脳裡にかすかに揺れぬ。
かすかにかすかに意識に揺れぬ。
ろうそくのごと、ゆらりとくゆりて、
ひそやかな恩顧。
そはありあまる報酬?

死の時は遠からず、
眠るべき時はやがてだれにもある。
人よ、そのときを恐れよ。
人よ、そのときを心せよ。
けれども、うろたえるな。
死してなお、人は地上にかかわる。
命果ててもなお。
果ててもなお、人は、
この世を見守り続ける。

天の祈り届け。
地の願い届け。
人みな心合わせて、
生ける人死せる人共に、
その心一に合わせて、
世の平和を希求する。
世の幸福を切願する。
今この時、
今この世界であるからには。

 今でもなお、一昨年亡くなられた濱尾師(濱尾枢機卿)の笑い声が耳についていた。ときおりぼくの柔な心の中をのぞき込むようにして、それから例の笑いをするのである。
 「ふほっはっはっは・・・」
というような。
 心暖まる笑い声であった。なつかしい笑い声であった。
 濱尾師と書いたのには、理由がある。
 ぼくがよく聞いた笑いは、濱尾師がまだ学生指導司祭のころのものである。信徒差し入れのコーヒーをサイフォンで淹れていただいた懐かしさ。到来物のスカッチもまた飲ませていただいた。横浜の大司教になってからは、お酒をやめられたけれども、それまではウイスキーとレギュラーコーヒーは、師の何れ劣らぬ好物であった。司教になられて後は、東京の司教館で5,6回、横浜の司教館で3回ほどと、数えるほどでしかお会いしなかったから、ぼくの記憶の中心は当然、信濃町の駅裏にあった古い真生会館での濱尾師である。今はビルになってしまったが、ぼくらのいた当時は、本館も司祭館もまだ木造の建物であった。
 入口の門の右手には帝都典礼という葬儀屋があって、妙に真生会館の雰囲気に似合っているのがふしぎであった。

 そう、こうした信徒の集まりのある建物のそばには、死者の霊が満ち満ちている。死してなお、この世とのつながりを断つことのできない幾多の霊がそのなかに混じっている。よくない霊も引き寄せられる。
 そうして、霊たちはあるいは信徒を助けるべく、あるいは信徒を魔の道に引きずり落とすべく、うろついているのである。けれどもいちばんたくさん集まっているのは、死してなおいまだ行くべきところを知らないあまたの霊たちである。仏教的にいえば、成仏しかねる霊たちのさまよい集まるところが、こうした場所である。ただの一顧、ただの一瞥の祈りがほしくて、そこここにあふれている。その祈り一つで彼らは確かに弔われるのである。心穏やかに天に昇れるのである。帝都典礼の建物がふしぎにミスマッチでない理由はきっとそんなところにあるのであろう。

 それにしても、濱尾師の笑い声を聞くのは、うれしい。心暖まる幸せである。死してなお、この世に心をかけておられる。その心配にすこしでもこたえられるのであればいいのだけれども。