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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

希望についての断章

2008-05-02 05:09:29 | わが断想・思想の軌跡
Sony Style(ソニースタイル)

   希望についての断章

  <希望とは?>

  希望とは何だろう?
  希望とは明日を信じることだろうか?
  希望とはあなた自身を信じることだろうか?
  宗教者は言うだろう。
  あなたの神を信じなさい、と。
  あなたの信仰が希望を生むのです、と。


  <何を信ずるのか?>

  そう。
  希望とはそのように、「信ずる」ということなのかもしれぬ。
  何かを信ずる、として。
  ぼくらは何を信ずるのか?
  あなたの力を? あなたの才を?
  あなたの運を? あなたの夢を?
  ああ。
  こころざしが高ければ、明日に希望を抱けるのだろうか?
  正しい行いに身を包んでいれば、あなたに、
  あなたに善き明日、善き裁きが下されるというのだろうか?


  <人生は信ずるところから遠い>

  信じても、信じてもなお、かなえられぬ。
  それがぼくらの人生というものではないか?
  それがあなたの苦悩のみなもとではないか?
  それなのに、今日もあなたは信じる。
  あなたの明日を信じようとする。それが、
  それが結局、どのようなつまらぬ明日であっても、
  明日は明日なりの明日。
  そして、あなたの上に何かを落として行くのだろう。
  明日は明日。
  明日でしかないのだから。

  <何も信じないところに希望がある?>

  希望とはつきつめてみると、
  何も信じないことかも知れぬ。
  明日は明日の風が吹くと、
  何食わぬ顔して、今日を一心に生きること。
  それ以外にぼくらの希望の源泉はないのではないか。
  信じようと、信じまいと、明日は明日の顔をして、
  幸福と不幸と、幸運と不運をないまぜて、
  きっと素っ気なくやってくるのだろう。

  ああ。だから明日に心奪われるな。
  希望にその心託すな。
  明日のためになんか生きようとするな。
  明日は、明日は、ぼくらの友であるけれど、
  真実の友であるとはかぎらぬ。
  裏切りの友でさえあるかも知れぬ。
  ただ、ただいまのおのれを見据えよ。
  おのれの内なる希望の種子(たね)を見据えよ。
  今日のその芽生えを見据えよ。


  <希望とは今日そのもの>

  そうだ。そうなのだ。
  きっと、きっと、希望とは今日を生きること。
  今日の正義を生きること。
  今日の愛をたたかうこと。
  今日の中に明日への接ぎ穂をつなぐこと。
  希望とは、希望とは、
  そして、今日を乗り越えるための力であろう。
  今日がぼくらに提供する今日の力なのであろう。

  希望。
  美しい言葉、希望。
  その純粋な響きに酔い痴れてもよい。
  その崇高な輝きに目を奪われてもよい。
  けれども、その明日を生きてはならないのではないか。
  その明日に今日を乗り換えてはいけいないのではないか。
  ぼくらはけっして急行列車には乗れぬ。
  ぼくらは一日、一日をきちんと止まる各駅停車だ。
  だから、ちゃんとそこで立ち止まろう。
  今日を立ち止まろう。
  それ以外に、明日へ向かうすべはない。
  明日へと進むことはできないのだから。

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悪は欠如である/ライプニッツ形而上学序説から

2006-10-29 11:50:34 | わが断想・思想の軌跡
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●悪は善の欠如である/ライプニッツ『形而上学序説』に関して思うこと●

 ○「悪」は「善」を構成する諸要素の一要素の欠如。
  あるいは「善」の一要素の部分的欠如である。

 つまり、「善」に対立する「悪」は存在しない。
 「善」「悪」を二元的に理解してはならない。

 そうでなければ、なぜ人間世界に「悪」が残るのか、「悪」が横行していながら「善」と共存しうるのか、また、なぜ人間の個々のうちにも集団のうちにも、「善」と「悪」が共存しうるのか、あるいは、矛盾しつつもなお、分かちがたい領域にあいまいなまま両者を置いておくことができるのか、理解できないであろう。
 人はまた、容易に「善」から「悪」へと向かい、「悪」から「善」へと戻ることができるのはなぜか、「善」「悪」二元の対立からは、だれも理解できないであろう。
 「善」は欠如としての「悪」をそのうちに含むのである。

 ○要素の欠如としての「悪」

 ・善なる意志の欠如 要素としての全体の欠如
              要素の一部分の欠如

  =全き「善」を意欲する意志には「充足律」が考慮・勘案される。
  それは、量的かつ質的な「善」の意欲の程度である。単純化すれば「充足率」となるで     あろう。
  完全な「善」であろうとする意志または意欲は、「可能態」としての完全性である。「可能態」が「可能態」において即時的に実現しないのは、人間が時間を超えることができないためである。「実現態」は神と異なり、人間にあっては常に未来の姿、時間のかなたにあるからである。

 ・善なる意志ないし意欲の表象の欠如
  善なる意志または意欲は常にそれに特有の表象を持って刻印されなければならないが、表象が欠如したとき、善は一定の欠如の相のもとに不安定な動揺を受けるであろう。

 ・善なる意志ないし意欲の表出の欠如 
  善なる意志または意欲が、「可能態」であることはつまり、「実現しつつある可能性」でなければならないであろう。だが、時間の相において、それが「実現しつつある」という表出のパースペクティブを得ていなければ、「善」は「可能態」であるとは言われないであろう。
  「可能態」ではない「善」は「善」とは言えないから、つまりその欠如において「悪」と呼ばれるわけである。

 ・神=絶対の神、全能の神、全善の神=においては、欠如がないゆえに絶対の「善」と言われるのである。

 ・また、「神」が完全なる「善」であるのは、「神」においては、「善」の「可能態」は即時的「善」の「実現態」であるからである。「可能態」における「時」の要素を「神」は即時的に乗り越えている存在だからである。
 言い換えれば、「神」における「善」はいまここに実在する「善」の「可能」そのものである。完全なる「可能」の実在である。


手段と目的

2006-05-09 19:56:34 | わが断想・思想の軌跡

◆手段と目的◆

● 物理的な手段をとるとき

その手段の“物理性”あるいは“物理特性”によって、目的なり目標は制約を受けること。
手段が目的を制約することがあること。

●選択基準 最も便利

      経済効率のよいもの
      経済的効果の高いもの
      立派という基準
      倫理的基準として、“善”は?

◆ “善”の定義の問題◆

●団体が選択する場合

  
主体はその団体。団体を構成する個人ではない。団体における倫理ないし倫理綱領の必要性。 しかし、団体を構成する個人の倫理との二重性あるいは二層構造において、団体の倫理の読替をどうするか。

●モラルとマナーの問題。モラル≠マナー

 モラルは内化するが、マナーは外化したもの。マナーは内化しない。マナーの形式性→ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を再読のこと。

●「天知る地知る己知る」の理念

 儒教思想との関連の考察

●知の作業

 理念の創造。ideaの形象化。
 理念に具体を一体化させようとする意欲のもと。
 内面化する作業。知力。
 “恥じ”の意識との関連は?
 理念に一体化され得ないことは“恥じ”の意識を生むか。理念に一体化され得ない自己の具体に対する感情的反応が“恥じ”ではないか? 正義の意識ではなく「美」の意識がそこにある。

 日本では形象化されないideaは“恥じ”の意識を生む。それはideaが美であり、それを形象化する行為そのものに、日本人は美意識を感ずるからだろう。ideaの実現が義であるというのが、ギリシアの意識ではないか。あるいはオリエントの意識。


◆アリストテレスの『ニコマコス倫理学』◆


 Nikomachosは、アリストテレスの甥っ子で、アリストテレスの倫理学講義をまとめた。

●“目的”の自明性を前提
 
 “目的”を実現するための可能な“手段”を、ほぼ同時的な物として列挙し、その中から、最も“立派”で、最も“容易”な“手段”を選ぶ。

◆現代では“手段”の自明性が前提される◆

●まず“手段”から実現可能な“目的”が多数導き出され、それらの“目的”から選択がなされる。

 その選択基準は、1,最も便利。最短で達成できる
         2.最も効果の高いもの
         3.最も経済効率のよいもの
 倫理学的な見地からはこの選択基準に、もうひとつ、アリストテレスのごとく“立派”が入る。

 逆に見ると、“目的”は用いることのできる“手段”によって制約を受ける。特に、“手段”の“物理特性”によって、“目的”はその“物理的制約”の枠内に押し込められる。

●「時は金」という思想の近代性。

 機械的な時計のもたらす時間。
 それに基づく賃金体系が、「時は金なり」の基本にある。
それまで職人は、成果主義による報酬だった。

1524年の「コヴェントリの賃金規定」=「八十ポンドの毛織物一反織る賃金五シリング」
1563年「徒弟法」=
「すべての職人および労働者-日給または週給で雇われる労働者は、三月中頃から九月中頃の期間では、朝は時計の示す五時または五時前に仕事につき、夜は時計の示す七時と八時の間まで仕事を続けるべし。ただし、朝食、午餐あるいは飲酒の時間を除く。その時間は多くても一日に二時間半を超えてはならない。九月中頃から三月中頃までの期間については、職人・労働者は朝は夜明けから晩まで、朝食と午餐のために定められた時間を除いてはたらかねばならない。それに違反した者は、怠惰一時間につき一ペンスを賃金から差し引かれるべし。」

 一時間さぼったために日給から差し引かれる一ペンスがいかに過酷なものであったかは、当時の実労働時間約十二時間半の労働者の日給が、だいたい六-七ペンスであったことを思えば想像がつくであろう。これによって「タイム・イズ・マニー」が既に現実生活の中で重みをもっていたことがわかる。
以上『時計の社会史』(角山栄著、中公新書1984)P20~21から。

 
●技術的な抽象とモラル

 
科学技術の成果。つまり、複雑な経過、プロセスを捨象する近代技術によって、操作技術・技能の習得という経過を不要にするシステム。
 現代の手段のあり方。この抽象された手段こそが、近代技術による人間の疎外をもたらしている、考えるべきだろう。疎外はモラルハザードを生む。そのモラルハザードの成果こそ、現代の社会のモラルの堕落を生んでいる。

 マナーとモラルの違いは、社会へのそれぞれの人間の内的参加(=モラル)、外的参加(=マナー)としてとらえてみよう。内的参加をバックボーンとしてはじめてモラルはそれぞれの人間によってそれぞれのうちへと内化される。

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知と人格

2006-04-11 04:39:08 | わが断想・思想の軌跡
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●アイデンティフィケーションと自己イメージ●

自己のアイデンティフィケーションを自己のイメージに一致させること。
たとえばぼくは、よく山に登る。あの山の頂に風に吹かれて立っている自分をイメージすると、無性にその山に登りたくなる。スポーツ選手、特にマラソン選手が走るとき、その選手は自分の走る姿をイメージして練習し、そのイメージに従ってマラソン・コースを走るだろう。先頭を切って、ある一定のペースで駆け抜ける自分に、そのイメージに自分自身をアイデンティフィケートする作業こそが、実際にそのマラソンを走るということなのだ。

 つまり、自分自身についてのイメージに、実際の自分を一体化させていくことが、自己のアイデンティフィケーションの作業。その意欲を生むものは何か?

 外面的な動機。恥をかかない。かっこよく見られたい。

 内面的な動機。自分を試したい。自分を信じたい。自分の勇気があると確かめたい。

 それだけで、たとえば、マラソンで35キロ過ぎでスパートをかける意志の力、あるいは勇気というものの源泉と言えるか? ハードなトレーニングがその勇気や意志の力を生むことになるのか?


生命の尊厳は

2006-04-09 19:26:54 | わが断想・思想の軌跡

 生命の尊厳は、地球上の(あるいは全宇宙の)生命との共生、共存という迂回過程を通過して、人間の尊厳と等価のものと見ることができる。

    生命の尊厳=人間の尊厳

一方、「人間の生命」だけが重視されている社会では、けっして等号では結ばれず、

    人間の尊厳≠生命の尊厳

この「≠」の状態を端的に表現した言葉が、

    「人間の命は地球よりも重い」

 これは修辞的な表現であって、実際にだれも客観的に「地球より重い命」があるなんて考えていない、と主張する人もいるかも知れない。本当だろうか? 地球なんぞより、人間のほうが大事だ、と本気で考えているのではなかろうか?

 日本人は伝統的に生命主義的な感性、心情をもっていると言うが、本当だろうか? 単にご都合主義だったのではないだろうか? ご都合主義でなかったら功利主義的な生命観だったのではないのか? 
 山でぜんまいを摘むとき、その群落の中でいちばんの親株はけっして摘まずに残した。魚もある程度以下のものはすべて川や池に戻した。などなど。これを生命主義とは言えまい。再生産の保障のために、採取方法や採取量を経験的に制限しているだけではないか。

 このご都合主義がよく現れているのが、日本の民話の「猿の婿」話だ。それはこういうものだ。

 娘が三人いるお百姓さんがひとりで畑を耕していると、一匹の猿が現れる。その猿が言うには、
 「手伝ってやろうか? うんでもな、ひとつ約束してくれんかの?」
 「そりゃありがたいけんど、どんな約束すればええんだね?」
 「いやぁ、ほかでもねえけんどな。おまんさんとこに三人、娘こがおろうが」
 「うんにゃ、娘こは三人おるがな」
 「そのうちの一人な、おれにくれんかなぁ。嫁っこになぁ。そしたらなぁ、この畑もあっちの田んぼもみんなやってやるけんどな」
 お百姓さんは、急に仕事が楽になると思って、深く考えもせずに、答えた。
 「あぁ、娘こ、三人おるでな。そのうちの一人なら、嫁にやってもええよ。そのかわり、たんとたんと働いてくれな。あさってまでにできたらうれしんだけどな」
 「約束したで。嫁こな、おれにくれるんだでな。ほたら、今からしゃかしゃかやるだで、鋤も鍬もな貸してくれや」

 こうして、この猿は三日間で、畑も田んぼも耕してしまい、三日目の夕方、畑に仕事を見に来たお百姓さんに言った。見事にあれだけ広い畑も田んぼも耕されていて、後は田植えやら、種まきやらが待っているだけだった。田植えなら、お百姓さんの娘三人なら、一日もかからずにできてしまう。それが終わったら、麻だのなすだのきうりだのの種まきだ。けれども、お百姓さんはすっかり忘れていた。

 「そんでもってな、約束通り、畑も田んぼもこの通り、全部耕したでな、おまんさんの娘こひとり、おれに嫁御にくれな。だれをくれる? あのほっそりした姉さんかね?」
 「ああ、そうだった。そうだった。そんな約束しておったな。ほたら、いちばん上の娘に言うてみるだから、明日の朝まで待ってくれろな」
 「おおよ、わかった。保田ら、明日の朝迎えにゆくだでな」

 お百姓さんは、猿との約束のことを後悔しながら、我が家に帰ります。いちばん上の娘に「こうこう、しかじか、かくかく」と説明して、
 「なぁ、だからよ、嫁に行ってくれんかな。おとうの願い、聞いてくれんかな?」
 「いやあじゃ。猿の嫁なんてこん、こん、金輪際いやあじゃ」
いちばん上の娘はこうして、猿なんぞに絶対嫁に行かない、と突っぱねます。

 で、仕方ありません、次の娘にも頼みます。
 「こうこう、かくかく、しかじかなんだけんども、あんたさぁ、あの猿んとこ、嫁さ、言ってくれんかなぁ? 頼むから、おとうの願い、聞いてくれんかなぁ?」
 でも、やっぱり、中の娘もけっして「うん」とは言ってくれません。

お百姓さんは困り果てました。さて、さてどうしたもんやらと一番下の娘に同じように頼もうとしました。すると、一番下の娘が自分から言います。
 「おらでよかったら、おら、嫁に行ってやるで。その代わりな、嫁入り道具な、二つこうてほしいんじゃ。ほたら嫁に行ってやってもええ」
お百姓さんは、一番下の娘のことをとても不憫に思いましたが、あまりにも明るくそう言うので、それなら、一番下の娘に嫁に行ってもらおうと考えました。
 「おお、すまんな。ほんにすまんな。おとうが馬鹿だったばかりにな。おまんにもいやなこと頼んでな」
 「おとうよ、そんなに心配せんでもええ。それよりな、嫁入り道具な、こうてきてほしいんじゃ。それでな、明日はな嫁入り道具をな町でな買わなんならんからな、嫁入りはあさっての朝にしてもらいたいんじゃ」
 「おお、わかった。それくらいなら、猿も許してくれるだろうて」
 「そんなら、嫁入り道具にな、手鏡とな、それからおっきな水瓶をなひとつこうてきてくれ」
 「なんね? 手鏡はわかるけど、水瓶の大きいのはなんでじゃ?」
 「ええの、おとうは、何も考えんで。それでみんな幸せになるんじゃから」
 「おお、わかった、わかった。ほなら明日町まで行ってこうてくる」

 こうして、一番下の娘は、猿が迎えに来ると、猿に頼みました。
 手鏡は懐に入れ、空の大きな水瓶は、猿の背中に背負ってもらいました。それから二人で猿の家へ向かいましたが、大きな川にかかった橋の上で、娘は、懐から手鏡を取り出し、自分の髪の毛を直し出しました。
 「ちょっと、髪が乱れてたまらんわ。髪を直すからちょっと待ってて」
 「うん。けど、髪はそんなに乱れておらんがな」
 「いや、そんでも気になってしょうがないじゃもの」
 そう言って、手鏡で髪を直し出した。
 「あれっ、あれは何?」
と大きな声で、空を指さしました。猿が空を見上げたとたん、娘は手に持った手鏡を川の中に放り投げました。
 「ぽちゃん!」
 「あれっ、鏡落としてしもたよ。あれ、おかあの形見なんじゃ。あんた、川に落ちたの拾ってくれんか。早く拾ってくれんか。流れていってしまうで」
 猿はあわてて、背中に背負っていた水瓶を降ろそうとしましたが、娘はそれを許しません。そして、大きな声で騒ぎます。
 「あんた、そんなことしてるひまないよ。はよ拾わんと、どこかへ流れていってしまう。おかあの大事な鏡が流れていってしまうよお!」
 猿は水瓶を背中に背負ったまま、川の中に入っていきました。
 空の水瓶に、どどっと川の水が流れ込みます。
 「うげげ。げげげ。ぐぶぐぶ」
 猿は大きな声を出しましたが、背中が重くて、浮かび上がることができません。そのまま猿は川底に沈んでいきました。

 娘は、猿が二度と浮かび上がってこないのをじっくりと確かめてから、ひとり、お百姓さんのおとうの家に戻ってきました。
 「あのな、あいつな、川に溺れてな死んでしまったで、帰ってきた。」
 「ほうほう、それはよかった。よかった」
 「うん。それで、明日、おねえたちと田植えしよな」

 こうして、お百姓さんと三人の娘は幸せに暮らしました。

 ここには、猿を自分の都合のために利用して、邪魔になったらさっさと殺してしまう、日本人の自然観がよくあらわれている。これが、「人の命は地球より重い」の中身だった。

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