フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

フェミニズムについて

2005-12-31 20:09:53 | 詩と思想

●フェミニズムは女性をだめにしたのではないか?●

 長く、ぼくはフェミニストだったつもりだ。女権伸張主義としての「フェミニズム」だ。不当な女性差別に、義憤を感じたものだ。けれども、今は少し違う。不当な女性差別なのかどうか検討を要するものもありそうだと、考えている。それは、女性不浄という考え方だ。女性は不浄である、と最近感じるようになった。いや、もっと下世話な言い方をするなら、「女はきちゃない。不潔」という感じを強く受けるようになったと言うことだ。

<電車の中で>
 女性についてよく見かけるもののひとつに、髪の毛をいじっている女性がある。一心に枝毛を抜いている。その枝毛を平気で、電車の中に捨てている。
 あるいは、自分の服についている小さなほこりを一生懸命ひとつひとつ取っては、電車の床に捨てている。
 あるいは、これは夕方から夜のことだが、チョコレートやクッキーを指でつまんで食べている。そこまではいいのだが、そのチョコレートなどで汚れた指を、くいくいっとつり革の輪の部分にこすりつけている。あるいはドアのそばのつかみ棒に。きちゃない。ほんとにきちゃない。クッキーのかすは電車の床にそっとばらまかれる。
 よく、渋谷などでたむろしている女子高生まがいの女たち。やたらに濃くけばい化粧。ぷんぷんとにおう香水。この子たちは、1週間も1週間も風呂に入らずに平気でいるのだ。

 あまりに不潔なのは、女がもともと不浄な生物だからだ、と思いたくなる。
 『旧約聖書』や仏典の教えるところでは、女性には不浄な期間があり、その間は触れてはならない、とする。仏典はもっとひどくて、女性は成仏できないとまで、断言する。

<日本のサンクチュアリの思想における女性観>
 またぎや山窩と呼ばれる人たちが、山を神聖視したように、山の森は神の領域だった。東京近郊では奥多摩や奥武蔵の山々に入ると、しばらく登ったところに必ず小さなほこらがある。そのほこらにまつられているのが「山の神」。女神だ。このほこらより上部の山はすべて、この女神なる「山の神」の領域とされて、特別なルール、特別なタブーが支配した。それを破れば、狩猟はまったくできないだけでなく、そのルールを破った者の里への帰還も保証されなかった。
 「山の神」が女神であるところに、神聖視される山のタブーのひとつが現れる。それはそのほこらより上には女性は一切入ってはいけないということだった。女神は女性に焼きもちを焼くというのだ。

 ところで、修験道による山岳信仰の地、たとえば北アルプスの立山、東北の鳥海山や月山では、女人の立ち入りは長く禁止されてきたが、その修験道による女人禁制と、「山の神」による女人禁制とでは、質的に異なっていることには、注意が肝要だ。
 修験道では、仏教が教えるとことの女人の不浄をその理由とする。仏教では、女人は男性の悟りの妨げとなる欲望の誘い手、不浄の存在とされてきた。男は往生を遂げることができるが、女性はけっして解脱することはない、それゆえ必ず男性の解脱の妨げとなる、と言うのが仏教の教えるところだったからだ。さらには、仏教伝来の前、日本人がずっと持ち続けてきた、女性への不浄観も、それに重なった。

<女性を不浄とする見方は伝統的かつ世界的>
 女性を不浄と見なす考え方は原始世界では、世界共通のもので、それは女性の生理と関係がある。子供を産む行為さえ不浄とされた。明治以前の古い伝統を維持する集落では、女性は生理のたびに、そのために特にしつらえられたぼろ小屋をあてがわれ、生理が終わって、体を清らかな水で洗い流すまで、母屋に入ることを禁じられていた。それは悲惨な檻のような小屋で、食事はその小屋の外にそっと置いておかれた。生理の時の女性の体に触れることも不浄とされたからだ。
 それだけではない。女性の産褥もまた不浄とされ、産小屋が別にしつらえられた。『古事記』と『日本書紀』にある産褥小屋の記述が、その事実を如実に現している。妊娠していた豊玉姫(海神の娘)の産褥のため、海岸に鵜の羽をもって産小屋を建て始めたが、それが完成しないうちに、豊玉姫は産気を訴えた。あわててその未完成の小屋のかべの部分だけをしっかりおおって、だれにも見せぬようにして、一人の皇子を産んだ。それが「ウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)」だった。そのまんまの命名だ。
 産むところを見ないでくれと頼んだにもかかわらず、夫の火遠理命(ほおりのみこと=「海幸・山幸」の弟のほうの「山幸」、つまり天津日高日子穂穂手見命=あまつひこひこほほでみのみこと)は、こっそりと産褥の姿を見てしまう。海神の娘は鰐(「鰐」とあるが、いわゆるワニではない。たぶん「サメ」のことであろうと言われている)の姿をしてのたうっていた。見られたことを知った豊玉姫は、子を産み終えるとさっさと海の国へと帰っていった。残された子は、豊玉姫の妹、玉依姫(たまよりひめ)に養育させた。この子供の子が神武天皇というわけで、『紀記』にあっては、天と地を結ぶせ結節点となったできごとだ。この解釈については、また別の機会に書こう。なおこの部分の多くは『古事記』の記述に負う。

 思わず、『紀記』の世界に踏み込んだが、これは日本の伝統的な文化的タブー。仏教にも女性不浄の考えがあったから、日本では、二重三重に女性は不浄視された。

<ユダヤ教における女性の不浄観>
 けれども、女性不浄の考え方は、南アジアや東アジアににとどまらない。ユダヤ教が厳しく女性の不浄を規定していて、その不浄排除の思想はもっと徹底的だった。『旧約聖書』のうち、『レビ記』には細かい不浄と清めの規定が書かれているが、その第12章に「出産についての規定」というのがあり、「妊娠して男児を出産したとき、妊婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。……産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所に詣でてはならない。」とあり、さらに「女児を出産したとき、妊婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。」と規定されている。
 さらには、女性の月経による汚れについては、第15章に細かく規定されていて、月経期間中の女性に着た衣服、ベッド、それらに触れた人もまた汚れる、とされていた。

<なぜ、これほどまでに不浄とされたか>
 なぜ、これほどまでに女性の生理が不浄のものとされたかは、それが「血の漏出」という問題にかかわるからだ。体外に流れ出た「血」は汚れのもととされた。「血」の漏出が人間の命を奪うこと、あるいは体力を奪うことになることが、まず、体外に出る「血」を汚れたものとすることの最初にある。それに、血は腐る。血は傷跡にかさぶたをつくり、それは肉体を汚れたと感じさせる。
 にもかかわらず、定期的に月経という形で「血」を漏出させることは、不浄そのものと映ったのだろう。現代のようにナプキンもない時代。その処理の仕方は困難を極めただろう。ぼくの母親の時代でも、まだ月経のための特別なものをはき、脱脂綿を使っていたと記憶する。いわば、月経のたびにおむつをあてているようなものだった。現在のナプキンも、そう考えれば、小型軽量おむつというわけだろう。おむつメーカーがナプキン開発の先頭を走るのも、逆にナプキンメーカーがよいおむつを開発できるのも、どちらも同じ技術、同じ思想でつくられているからにほかならない。

 けれども、女性が生物的にそうして漏出物を抱え込んでいることは、見方を変えると、女性は自分の漏出物による汚れに対して、鈍感ということをも意味する。神経質にしていては生活できないからだが、潔癖な女性の苦悩もここにあった。
 潔癖であればあるほど、自分が女性であること、あるいは生理があることを憎んだに違いない。それは生活の破綻、あるいはもっと進んで性格の破綻さえ生みかねない危険な性癖だった。鈍感にならざるを得ないのだ。
 それゆえ、その鈍感さに歯止めをかけるために、『旧約聖書』では月経を不浄のものとし、その後には必ず清めを求めたのではなかったか。鈍感が鈍感を生めば、果てしなく不潔な存在に落ちてしまう。そして、現代の女性のなかに、そうして不潔さが蔓延しているように思われてならない。
 電車の中での最近の若い女性の「きちゃない」ふるまいを見るたび、日本の古い月経への不浄観は行き過ぎであるとしても、ユダヤ教の「月経不浄観」は、あるいは女性自身のためにある程度の合理性があったのではないかと考えてしまうのだ。女性は自分では自分を清潔に保つことができない。その不潔性にブレーキをかける必要があったのだろう。
 ユダヤ教の発祥の地は砂漠などを背景にした炎暑の地域だった。そこでは、かすかな不潔さも伝染病や腐敗のもととなった。食事や子の養育という役割を預かっている女性に清潔にたもってもらうのでなければ、部族が、あるいはユダヤ民族全体が滅亡する危険にさらされる。そのような合理的な目的をもって、女性の不浄の規定が厳しくなされたのだろう。

<もっときれいにして! お願いだから>
 ぼくのような潔癖な男には、だから、女性の不浄が感じられてならない。折口信夫という民俗学の泰斗にして、歌人釈迢空は、潔癖すぎて愛する女性とも結婚できないという人物だったが、潔癖な男性の典型だった。
 だからといって、女性のすべてを否定するわけではない。女権伸張、大いに結構。自分で自分を律することができるのなら大いに結構。けれども、電車の中で見る限り、電車を自分の肉体からの廃棄物で汚しているのは明らか。チョコレートのついている指を平気でこすりつける姿は、無責任な心情をそのまま現している。公共道徳のまるでない、こうした女たちが権利を拡張したらどうなるか? いや、どうなっているか。
 こうした女たちが母親になって子を育てているから、子供はきちんと自分自身を律することもできない。王様子供ができてしまう。自分はこの世の王様だと錯覚して、世界は自分を中心に回っていると信じようとする。それが現実に否定されると、否定する現実を破壊しようとする。あの京都での塾講師の殺人がまさにそれだった。
 女性の権利の伸張が、子供の、特に男の教育に与えている無責任な自己中心主義の元凶であることはまちがいがない。女性がみずからの権利の意味を真っ正面から受けて止めて、権利とは責任とが一体のものであることに気づいてもらいたい。
 さもなくば、ユダヤ教社会のように、女は父権のもとに厳しく統制されるべきだという考えが世の中に再びはびこってくることになる。

 ぼくは、女性の権利を奪うことは、あってはならないと考える。今のようなえせ男女同権は早急に改善されなければならないと思っている。本当の意味での男女同権とは、女性が女性として、きちんとみずからの存在を把握して、自律的に社会に参画していくことを前提としてる。

<ハンナ・アーレントのような傑出した女性でも>
 ハンナ・アーレントは傑出した社会思想家だが、彼女の出自はユダヤ教社会だった。早くに父親を亡くした彼女は、その父親の代わりをかの有名な哲学者マルティン・ハイデッガーに見た。彼女はそしてハイデッガーを愛した。父親、師、そして一人の男として。
 彼女のような傑出した人物であっても、このハイデッガーについての評価は曇らされてしまう。ユダヤ教的父権社会の空気を吸った彼女は、師であり父である愛する人を批判しきれない。ハイデッガーは、何と彼女たちの民族、ユダヤ人を根絶やしにしようとしたヒトラーのナチズムの信奉者だったのだ。彼はアーリアン主義を信奉していた。
 けれども、あれほど、ナチズムを憎み、あれほど精緻にナチズムの姿を分析、批判したにもかかわらず、ハイデッガーのナチズムを認めることができなかった。
 このことは、ぼくには強いショックを与える。
 あれほど、冷静で理知的な女性が、これほどまでにユダヤ教的父権性の陥穽に陥ってしまうとは! アーレントは理性ではハイデッガーの犯罪を知っていながら、その感情では彼を弁護し、擁護し続けた。ナチズム協力者として世界的な批判の中にあったハイデッガーを救い出したのは、このアーレントにほかならなかったのだ。

 ハイデッガーの哲学は、ぼくの最も尊敬するものだった。若い頃にはその難解な『存在と時間』に何度も何度も食らいついたものだった。そして、ハンナ・アーレント。ぼくの尊敬する女性社会学者のひとり、アーレント。『全体主義の起源』を書き、『人間の条件』を書き、『イスラエルのアイヒマン』を書いたアーレント。
 その彼女が父権的社会の情に流されて、ナチスト、ハイデッガーを擁護したこと。そのことは、ぼくに言いしれぬショックを与えている。
 女とはこれほどまでに度し難いのか、と。それをハイデッガーに巧みに利用されて。

 女性の不浄という思想には、このようなぬぐいがたい根があるのだ。感覚的、感情的に父親やそれに代わる者から自立できないという根。父親の権力の働かなくなった日本では、監督者がいなくなったことをいいことにしたい放題の女たちの無責任。自分の汚れを何とも感じないその不潔さにその一端が現れているのだ。
 その非自立性を乗り越えなければ、本来の意味での男女同権もない。本来の意味での女性の自律的自立もない。

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古き日本民族にとっての山や森

2005-12-29 21:24:50 | わが断想・思想の軌跡

●日本人にとっての山や森-「またぎ」の例●

 「サンクチュアリ sanctuary」としての山や森の意味を考えてみよう。

<「またぎ」によるサンクチュアリとしての山や森>
 「またぎ」または「山窩(さんか)」と言われる人々はもう、里人の中に紛れ、すでに現存していないが、これらの人々は、昭和20年代までは、確かに独特の生活習慣や文化を維持していたと見られる。
 これらの人々のことを、かつて柳田国男は、日本の本土の里人とは別個の出自を持つ外来の民族、と考えていた。その当否をここでは検討しないが、それほどまでに、里や村住まいの定住する大和民族とは異なる民族文化を、明治時代まで、色濃く帯びていたと言うことだ。

 この「またぎ」ないし「山窩」が、猟に入るときのきまりごとがあった。
 山に、と言うより山の森に入るとき、これらの人々は「精進潔斎」をして、その身を清めた。山の森は神の住まうところだからだ。また、山に入ってからは、けっして里言葉を使わず、山の森だけの言葉を用いた。里言葉はタブーとされた。さらに、身内に死者が出たりするなどの不浄があれば、その猟師は山を下りなければならなかった。
 焼き畑農業によって暮らす人々の場合にも同様なタブーが見られるという。
 その山の森を支配する「山の神」は女神であって、非常に嫉妬深く、山の森に入れるのは男性のみとされた。女性と一緒に男性が山に入ることは許されない。
 このことは、現実的にもある程度合理的だった。なぜなら、古い時代の山での生活は非常な重労働で、そのような労働には女性は適していなかったからだ。

 今でも、山に入ると、そのふもとから少し入ったところに小さなほこらがまつられているのを見る。たいていどこの山にもある。奥多摩や奥武蔵などの山には必ずある。古くから人との交わりの深い山々は必ずと言っていいほど、ほこらがまつられる。長い間江戸幕府の「お止め山」だった丹沢山塊の中央部には、このほこらは見られない。丹沢でも見られるのは、前衛や周辺の山々だけ。
 ここにまつられているのは「山の神」だ。
 里からこのほこらのところまで入ってくると、猟師たちはここで御神酒を捧げ、供物を捧げて、狩りの豊饒を祈り、自分たちの無事を祈った。ここが、里と山との境界なのだ。このほこらから上部は「山の神」の支配領域。ここから、猟師たちは「山言葉」をもっぱら使うようになる。ここから先はもちろん、女は入れなかった。
 「木地師」と呼ばれる人たちもまた、森から森を渡り歩いた。「木地師」とは木による細工物をもっぱらにする人たちのことだ。椀や鉢、あるいは曲がり細工などをつくって、それを里人に提供することで生業とした。これらの人々は森の恵みによって暮らしを立てているため、ことさらに森でのタブーがうるさかった。材料とする木の伐採には、ことのほか神経が使われた。けっして必要以上の木を切らなかったのはもちろん、一度木を切った森には、十年以上の間隔をあけなければ再訪しなかった。

<焼き畑農業のローテーション>
 その事情は、焼き畑農業も同様だ。だいたい、焼き畑農業の場合は、二十年ごとに同じ場所に戻ってくる、という循環型の農業を営んでいたようで、その二十年で地力が盛り返し、木々がある程度の成長を見るまで、同じところには戻らなかった。さらには、一つの場所では焼き畑を数年行った後、そこを立ち去るときには、できるだけ「ハンノキ」や「ヤマハンノキ」の苗を植えたという。
 「ハンノキ」の仲間は、実はその根に根粒バクテリアを寄生させる。マメ科の植物と同じだ。田にレンゲの種をまいて、レンゲ畑にするのと理由は同じ。レンゲもマメ科の植物で、その根に根粒バクテリアを寄生させる。根粒バクテリアは、窒素同化作用が盛んで、その宿主の根に、多量の窒素化合物を供給する。つまり、化学肥料の硫安や硝安の役割をする天然肥料というわけだ。
 今でも、田畑のあぜなどにハンノキが植えられていることがあるが、これも同じ理由から。ハンノキはまた成木となると稲を干すための「稲架(はさ)」(=「稲木」・「稲掛け」とも)として用いられたから、ハンノキを植えることには二重の合理性があった。
 ちなみに、焼き畑時の火のかけ方は「下手から稜線部に向かって火を放つ」。風の少ない、あまり乾燥していない雪解けすぐの春に行う。火の手を制御可能な状態で火を放ち、必要な面積だけを焼くために、さまざまな決まりがあったようだ。
 植えられる作物にも、順番があって、まで焼かれたばかりで地力がうまくなじまない最初の年は、荒れ地に強いソバ、いちばん地力がこなれて豊かなときに植えるのは、アワかヒエだった。日当たりのよい土地にはアワ、少し日照が恵まれない土地にはヒエを植える。三年目にはいちばん地力を吸い上げてしまうアズキを植える。これで、木灰などによって得られた地力を消耗し尽くすので、四年目は別の場所に移り、そこで再び、焼き畑をする。
 タイやブラジルなどで焼き畑が森を破壊するのは、従来の焼き畑の合理的な決まりを知らない人たちが、勝手に森を焼き、あるいはあちこちで見境なく焼いて、その森の復活再生のための手だてや期間をまったく与えないことによる。また、森の焼き方にもルールが守られず、必要な面積だけですまないで、広い面積を山火事にしてしまうことにも、これらの地域での森林破壊の原因がある。
 焼き畑農業が、非難されるが、焼き畑農業自体は、自然にとっては非常に合理的なシステムであって、焼き畑農業は森をうまく維持しながら農業生産を行うという「持続可能な自然利用」の原型とも言えるものだ。

 つまり、山の森は、人の領域ではなく、「神の領域」として神聖視された。そこでは一木一草もおろそかにされない。これが、日本の古来の「サンクチュアリ」だった。

<現代のサンクチュアリ>
 現代「サンクチュアリ」として「聖域化」されるのは、たとえば、白神山地のブナ林だったり、どこかの鳥類保護地域の森だったりする。
 そこでは、原則人間はオフ・リミット。ほぼ完全に閉め出す。そこで、人間が自然と交感する生活を禁止する。森をうまく維持しながら利用するという方式が、たとえば白神山地のブナ林を維持してきたという、人間と自然のかかわりを、こうしたサンクチュアリは否定するものだ。
 近くの例で見れば、狭山丘陵の放棄された二次林(薪炭林として長く維持されてきたコナラやクヌギなどの雑木林)では、林床に落ちた木の枝や木の葉が回収されずに、ひどい状態になっているため、林床植生がかなり荒れてしまった。人間が長く維持してきた環境を、人間の都合で放棄した結果が、荒廃した森をつくる。
 その事情は白神山地も同じ。
 現代にあっても「サンクチュアリ」は、人間との適切なつきあいを維持させるような形での森の保守の方式を確立する必要がある。「サンクチュアリ」=「人間の立ち入り禁止」という短絡的な思考には、注意が必要なのだ。

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日本人の信仰の多様性

2005-12-27 04:43:59 | わが断想・思想の軌跡

●日本人の信仰の多様性●

 日本は八百万(やおよろず)の神が存在すること。
 それは、こういうことだ。
 日本の各地に小さく分散していた集落あるいは村落は、それぞれにそれぞれの神をもっていた。水の神、風の神、岩の神、滝の神、森の神などなど。それぞれの集落にはあるいは唯一の神ではなく、いくつかの神があったろう。アニミズムの神々だった。
 いくつもの小さな集落は、力をつけた有力な集落によって吸収され、併呑されていったが、おもしろいことに、一回り大きくなった集落では、もとの旧集落の神が併存してまつられた。大きな有力な方の、つまり支配者の側の神は、その大きくなった集落の主神となったが、吸収された方の神が排除されたわけではなかった。
 こうして、中央集権国家が形成されるまでの、小国家では、いくつもの神が存在することとなった。その残滓あるいは名残あるいは影響は、天皇を中心とする中央集権国家の形成後においても、残った。『日本書紀』には、中央集権国家を構成する各豪族の出自が書きとめられていることがある。あるいは各地ごとに編まれたという『風土記』の存在。
 各地の『風土記』には、その地における地の神との地域部族のかかわりを記したものだった。それらの地の神信仰が根強く残っている飛鳥朝に、仏教が導入されたのだ。地の神信仰の部族は、国家の中枢イデオロギーとして採用された仏教に抵抗した。

 その抵抗はやがて、それぞれの一族が、それぞれの「氏の神信仰」から仏教による祖先信仰へと乗り換えることで、吸収された。いや、「氏の神」信仰が形を変えたというほうが正しかろう。そうして、たとえば藤原一族は奈良に興福寺を建立して、これを氏寺として奉じた。

 仏教受容の後も、こうして氏神は残り、やがて習合した。本地垂迹。その実際の習合の様子は、ここでは詳述しない。すでに幾多の研究書やガイドが出版されている。


●はれの食べ物は「餅」であって、「米」ではなかったこと●

  日本人が真っ白に精米したいわゆる「白米」を食べることを習慣とするようになったのは、江戸時代に入ってからだ。しかもそれは江戸や大坂などの都市部に限られた。
 江戸詰となって地方の各藩の藩士は、江戸にやってくると、多くが脚気に悩まされたという記録があると言う。その原因は、白米食。地方では日常に食する米は「玄米」。それに少しの野菜と干物など。
 江戸で突然「白米」食になるため、一気にビタミンのバランスが崩れる。「江戸病」とまで言われたのは、こうした藩士が、藩主の供をして国元に帰るとほどなく脚気の症状が消えるからだ。

 こうした玄米食であっても「米」を食べられるのは、武家と商工業者。農民は、米は年貢に取られるために滅多に食べることはできない。食べてもしかし、真っ白なお米ではない。玄米。あるいは玄米に麦を混ぜたり、粟を混ぜたり。それに芋類。芋類と言っても、先に書いたように里芋か山芋。芥川の『芋がゆ』は後者の山芋と玄米とを用いたもの。

 このような食生活にあって、本当のはれの食べ物は何であったか。
 それこそが、「餅」だった。真っ白な「餅」
 「餅」こそが、正月や盆に食べることのできるごちそうの主役だった。白く精米した米を日常的に食べるようになった、「餅」の白さはそれほど印象深くなくなったが、ちょっと想像してみるといい。ふだんは五穀を混ぜたかゆ。あるいは玄米と麦を混ぜたもの。その褐色の(粟は美しい黄色をしているが)三度三度の食事を思えば、あの真っ白なむちむちする肌をもった「餅」のありがたみが理解されるだろう。

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日本人の心性:その多様的受容

2005-12-26 03:17:01 | わが断想・思想の軌跡

●日本人の心性 多様的な様式●

 日本人のカオス。それが持つ特質は、心的受容力において強みを発揮するが、科学的ないし客観的解析力において、それは闇に転ずる。

<多様的な受容>
 食生活ひとつとっても多様的な受容力は明らかに見てとれる。

 おそらく北東アジアからもたされたと考えられるソバ食。ヨーロッパにもたされたそれは、たとえばフランスのソバ・クレープに結実している。日本では「そばがき」。ソバがあのような細い裁ち切りソバになったのは、江戸時代中期以降と言われる。
 また、東南アジアからは芋が導入された。芋と言っても、現在食べられることの多いジャガイモやサツマイモではない。里芋と自然薯などの山芋。山芋はたぶん日本に従来からの自然に自生していて、縄文人も食べただろう。一方の里芋は、明らかに日本の自生品種ではない。
 日本に米が入ってくるまで、日本の主食は里芋だったとされる。今でも、地方の正月などに里芋が重要な料理として行われていることがその証拠と言われる。日本の里芋食は数千年の時を経て今に至っているのだ。

 不思議なことは、たとえば、保存にしても調理にしても、運搬や生産にしても、あるいはエネルギー価にしても、数倍すぐれた米が入ってきても、日本人は里芋も粟も稗も捨てなかったことだ。五穀豊穣とは、これらの雑穀も含めたものであることからも理解される。
 日本人は、新たに取り込んだものによって、古い物を捨てたりはしない。主役の座を譲るだけなのだ。

<イネの輸入はイネだけにとどまらなかった>
 イネが突出するのは、その生産性と栄養価などの優位性が、他の雑穀やそれまで主役の位置にいた里芋などより数段高いからだが、このイネにはイネ特有の文化がついてまわっていた。
 イネを中心とする文化は、家系の中心を男系へと、あるいは「父系性」へと根底的に変更することを要求する。それまで、狩猟が男の領域であったことは、男が家庭に常在しないことを意味していた。常在するのは女。つまりその一家の母親の位置にあるもの。それが採取と若干の栽培をもって家庭にとどまる。外に出ている男にかわって、女が、つまり「母親」が一家の中心となる。
 男は部落総出で狩猟に出る。場合によっては、二日、三日帰らないこともあったろう。あるいは一週間程度になる狩猟旅行もあったかも知れない。南米など原始的な部族の男たちが今もそのような狩猟に出ることが少なくないからだ。

 けれども、稲作は男性を家庭にはり付けることになった。女だけの作業ではとうてい稲作は行いきれないからだ。田を「すく」という作業は男の仕事だった。深くすきこめば、稲の収量は飛躍的に高まったから、それゆえ、すくための金属器の導入は画期的なものだった。当然、男の領域。水の管理、草取り、重労働は男を田に縛り付けた。
 長期保存がきくことが生む一種の資本の蓄積は、間の争いも引き起こし、ますますもって男中心の家系が整備され、整理される。
 父系性の発展。それがもたらす混乱。
 卑弥呼の時代の女性統治の場合の安定性と、男性統治の場合の騒乱の横行は、この母系制から父系性への移行の混乱と考えることができる。日本は、稲の渡ってきた向こうの国々、朝鮮半島の国、中国の王朝から父系性をも導入していたのだ。だが、日本の社会は混乱した。混乱から日本の社会が父系性によって大きく統一される過程こそ、日本の大王による統治の成功へと結んでいく過程だった。

<日本の王朝、天皇におけるイデオロギー>
 日本の王朝は父系性文化の国、中国の国家統治のイデオロギーの導入によって、成立した。『日本書紀』などに見られる神話的天皇の存在は、つまり中国から移入された天帝思想の強い影響を思わせる。天孫降臨という発想。帝が天によって価値づけられているという思想こそ、中国大陸由来のものだ。
 いわば、その天において、中国とは異なり、日本には女神たる天照大神が皇統の祖としてまつられるが、ここに、日本的母系制の名残が見られる。
 日本の神は天の神というより、アニミズム的な地の神。精霊神が本来のもの。その地の神、あるいは精霊神をまつる部族を平定していったのが、中国的イデオロギーによって天孫降臨をうたう部族だった。その部族は、さらに武器などにおいても、米生産においても日本列島では先進的な部族であったために、各地の遅れた部族を併呑することができたのだった。
 『古事記』『日本書紀』に見られる各地の部族、熊襲や隼人などの征服譚を見ればそれは納得されるだろう。

 日本の天皇制が日本古来のもの、という学者先生がいるが、それは真っ赤なウソ。中国古来の天帝思想を日本に輸入した結果が、日本の天皇制のイデオロギーだ。日本人の文化受容力の高さの証明にはなるのだが。

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カオスとしての自然:日本人の自然観として

2005-12-25 02:30:04 | わが断想・思想の軌跡

◆テーム1:日本人はカオスをカオスとしてそのまま受け容れているのではないか?

<日本人には、伝統的に、自然はカオスとしてとらえられていたのではないか?>
 カオスとしてのエネルギーの総体。あるいはカオスという生命の総体。
 得体の知れないもの。無秩序に人間を取り囲み、あるいは人間を取り込んで、目には見えつつ目には隠れつつ、それはそこにあるようにある。あるいはそこにあふれてくるもの。天界と冥界とのはざまにあって、霊さえあふれ出してくる世界。それが日本人の自然感覚だったのではあるまいか。

<カオスはだから様々な相貌を、様々な形態をとって現れる>
 人間の前に顕在化するカオスは、だから時に「物の怪」、「妖怪」、「鬼」、「天狗」あるいは地霊、精霊。カオスとしての自然はだから多様性の自然でもある。多様な様相を見せる自然界をその多様な姿のまま受け容れる。

<日本人の自然の受け止めは詩心・風狂の心>
 多様な自然の姿をその多様なまま、あるように受け止める心から、美意識としての詩の心がまず最初に立ち現れる。日本人の文学性はそのようにして立ち上がった。叙情は叙景の中にあった。それは立場を変えれば、自然の理への究明をはじめから断念していることになる。日本人にとって自然は情として、情理として存在した。
 日本の言語が論理的でないこと、分析的でないことはつとに言われてきていることだが、そのことの理由は、実は日本人のカオス的自然観にあった。対立しているものは論理的な対立ではなく、単にコントラストとしての対句的対比だった。あるいは修辞的対立。であるからには、そこに矛盾は生じない。葛藤は生じても論理矛盾を生まない。


<カオス的自然ではすべてが対等の資格で存在する>
 そこに論理的序列、論理的な構造は認識されない。すべての現象は対等の視覚で認識される。序列は受け取る心における美の階梯。平安から鎌倉期にかけて、春がよいか秋がよいかで、あるいは春秋どちらがより感銘を与えるかで、たびたび風雅がたたかわせられたが、それはどちらにも対等の資格が与えられているからこそ可能な争い。
 対等な資格で目の前に現れている美の現象のどこに着目してその何を上位の位階とするかは、まったくもって個人の感性あるいは情意のみ。
 このような自然への態度に、科学的感性の入り込む余地はない。科学的直感、科学的イマジネーションのはたらく余地はない。科学的であるためには論理構造がそこに感知される心性が要求されるからだ。現象に切れ目を看取し、その切れ目をつたって論理構造を分析していく必要を感じない態度では、科学的な自然観は生まれない。

<日本のカオス的自然観に西欧の合理的自然観をもってきたことの不幸>
 西欧の分析的、立体的論理構造を持つ自然認識に基づく科学・合理的技術をそのまま無批判に持ち込んでしまったことの悲劇。日本の自然破壊の基底にあるものは、つまり自然認識のまったく異なるものが、伝統的な日本人の自然観の上に、砂上の楼閣のように、まったく危うい状態のままのせられていることが最大の要因だろう。

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
                               藤原敏行(『古今和歌集』)
の細やかな心性の上にブルドーザーががりがりと走る姿が、現代日本の自然なのだ。

                                   (1995年2月のノートから)

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