●自然史(自然史学)の歴史について●
(3) 動物学・解剖学の流れ その1
①動物学の流れ/それはアリストテレスに始まる
ここでいったん植物学を離れて、動物学の歴史をひもといてみよう。
文献史的に見れば、動物学の歴史はギリシアに始まる。アリストテレスの動物学である。アリストテレスは、ギリシア哲学の歴史の中で、プラトンに次いで大きく扱われるが、彼はいわば近代以前の古い意味での博物学者でもあった。アリストテレスは、世界のあらゆる事物、つまり形而下の事象の中に形而上の原理を見つけ出すということに力を注いだからである。アリストテレスの師であったプラトンは、形而下の事象を、形而上の原理から考察するものであったから、イデアとしてのロゴス(原理)にすべての自然界の事物が起因するとしたのと比べてみれば、アリストテレスはこのプラトンとは、いわばほとんど逆方向の思考形式をもって自然(ピュシスphysis)を考究したと言える。
結果としては、両者とも、物理学も天文学も化学も地学も生物学もともに、形而下の自然学(physikeピュシケ=フィジックスphysics)として、形而上の原理を反映させるものであった。言い換えれば、プラトンはまず形而上のものとして、イデア=ロゴスから考え、それを自然に降ろしてきたが、アリストテレスは自然そのものから考えて、形而上の原理に至ろうというものであった、といえばよいだろうか。
Ⅰ. アリストテレス。自然科学の祖
アリストテレスには主著『形而上学』とともに『自然学』をはじめとして、自然学に関する膨大な著作が残されている。といっても、『形而上学』や「オルガノン」と呼ばれる論理学関係の著作など、あの膨大な哲学の大系の中に踏み込むのはなるべく避けることにして、現在われわれのために残されている動物学に関連する書物をざっと見ることにしたい。前にも書いたように、アリストテレスの自然学のうち、文献として残っているジャンルの一つが動物学なのである。アリストテレスの真作として現存するものは、『動物誌』、『動物部分論』、『動物運動論』、『動物進行論』『動物発生論』の5書であると言われている(偽書という説もあるにはあるが)。
このうち、『動物誌』は岩波文庫に収録されているので、比較的手に入れやすい。他の4つは『動物誌』とともに、岩波書店から刊行された「アリストテレス全集」(初版1968~1973年/第四版1993~1995年)に収録されているが、岩波書店のウェブサイトでは「品切れ重版未定」となっている。*1
さて、アリストテレスの考え方の基本を、少し書いておこう。なぜなら、アリストテレスの基本的な考え方は、彼自身の長い年月をかけた自然観察、わけても動物観察に基づいているからである。たとえば、彼のカテゴリー論(範疇論)の最初の説明には、このように書かれている。今道友信氏の『アリストテレス』*2から引用しよう。
○カテゴリー論(範疇論)
カテゴリーという言葉は、ギリシア語における「述語する、述語付ける」という意味の「カテゴリオkategoreo」という動詞から派生した「カテゴリアkategoria」、つまり「述語」という言葉に基づくものである。つまり、ある命題を考えるとき、その主語に対する述語に当たるものの種類がつまり「カテゴリー」である。いわば、述語の文法的性格と考えてもよい。この述語にどのようなものがとれるか、というのがアリストテレスの「カテゴリー論」である。それには「実体」、「量」、「質」、「関係」、「場所」、「状態」などがあげられるが、十を数える場合と八つの場合とがあり、必ずしも明確なものではないようである。
また、アリストテレスは次のようにも言う。
「すべての命題は、その命題すなわち定義を含めて類か特有なものか付帯的なものかを明らかにする。なぜなら、種差について言わないのは、種差もまた類に属するものとして類と同列に置かれなければならないからである。しかし、特有なもののうち、あるものは本質を示し、他のものは本質を示しはしないから、特有なものは、本質を示すものと、そうでないものとの二つに分かれる。そして本質を示すものを定義と呼び、残りの他方のもの、本質を示さないものを、それらについて無差別に与えられた共通の名に従って特有性と呼ぶことにしよう。そこで、上のことから明らかなことは、なぜ、今の分類に従ってすべてのものはちょうど四つ、すなわち定義か特有性か類か付帯性かになるという理由である。」
(『トピカ』第一巻第四章=『アリストテレス』P119・P120から孫引き)
この分け方では、述語となる部分は、①そのものの本質を記述する、つまり定義を示すことになるか、②そのものに固有の特有性を叙述する記述になるか、③あるいは種差の叙述を含めて類を記述するか、④それともそれらのものに付随する事項の記述となるかの、いずれかであるというのである。これは先にあげた「カテゴリー論」の分類の仕方と切り口がかなり異なる。アリストテレスの自然学をひもとき、理解する上では、こちらのほうが都合がよかろうと思われる。
○アリストテレスの三分法
アリストテレスは学問を三つに分けた。ギリシアの伝統的な二分法、理論(テオリア)と実践(プラクシス)である。ここから、例えばソクラテスの「知行合一」という理念が生まれるのである。これに対して、アリストテレスは別の切り口をもっていた。それがアリストテレスの三分法である。それは、「思い見ること(テオリア)の学問としての理論学」、「行うこと(プラクシス)の学問としての実践学」、「作ること学問として制作学」の三つであった。
このなかで最も重要なものは「理論学」(エピステーメーepisteme、またはテーオーレーティケーtheoretike)であり、この「理論学」もまた三つに分けられている。
一つは「自然学」、二つ目は「数学」、三つ目は「第一の(哲)学」である。
この三つについて、彼の『形而上学』第六巻第一章に次のような説明がある。
「すなわち、自然学は、離れて[独立の個体として]存するがしかし不動ではないところのものどもを対象とし、数学的諸学のうちのあるものは、不動ではあるがおそらく[質料]から離れて存しはしないでかえって質料のうちに存するところのものを対象とする。しかるに第一の学は離れて独立に存するとともに不動であるところのものどもを対象とする。ところで、およそ原因たるものはすべて永遠的なものであるのが必然であるが、ことに第一の学の対象たるものどもは必然的にそうである。なぜなら、これらは、神的諸存在のうちの明らかな事象にとってその運行の原因であるからである。」(岩波文庫版出隆訳『形而上学』上P216・P217)
「独立の個体として」存在し、生成し、また衰滅するする事物を対象とするのが、「自然学」である。「数学」は不動のものであるが、実体としては個別に存在し得ないものを対象にする。「第一の(哲)学」は不動であり、また独立して個別に存在するものを対象とする。「第一の哲学」はつまり、「神学」でもある。
こうして[論理学」はアリストテレスの体系の最も基礎に置かれるものである。その一分野として「自然学」がある。そして、アリストテレスの「論理学」の基本には、アリストテレスが十年以上もの期間をかけて観察し、記載して「動物誌」などを生んだアリストテレスの「自然学的知見」がある。
○四原因論
プラトンは物事の原因として、形相と質料という二つをあげ、すべての物事がこの二つによって説明されるとした。これに対して、アリストテレスは、形相因に混然として含まれていた目的因、起動因を分離して、これを形相因、目的因、起動因とした。そして、「事物の本質や原型」を表すものを形相因、「事物の転化、静止の始まる起点」を表すものを起動因または始動因とよび、これは物事の発生因ともなる。目的因は始動因の逆のもの、つまり「作用や運動の目ざすもの」を表す。プラトンでは運動の要素を含んでいた質料因は、それをそぎ落とされ、純粋に素材としての要素のみに限定されることとなった。
こうして、アリストテレスにあっては、すべての事物はこの四つの原因となるものの結合・組み合わせによって生じるとした。たとえば、家を建てる大工の場合を見てみると、家を建てるための設計図は大工が作業するための「起動因」であり、またその作業は建てるべき家を目ざしているという「目的因」であり、そして、大工がそれに基づいて作業をしている設計図は真の「形相因」である。これらを広義の「形相因」とし、この広義の「形相因」と、家を建てるための材料である木や石などという「質料因」とを結合することによって「家」という事物が成り立つのである。このとき、設計図は大工が家を建てるための家の本質(姿)を描く「形相因」であるとともに、大工が家を建てるための指示書としての「起動因」であり、目ざされるべき家を示している「目的因」でもあるという関係が成り立っている。これが、アリストテレスが、教義の「形相因」(家の本質を示す)と「起動因」、「目的因」を広義の「形相因」に集約する理由である。逆に言えば、アリストテレスはプラトンが「形相因」としてくくっていたものを分析して、新たに三つの原因として提示した、ということが言えるであろう。
この考え方は、トマス・アクィナス以来、中世の哲学・神学の世界に取り入れられて、現代に至るまで長くヨーロッパの思想に大きな根を下ろしている。つまり、ヨーロッパ思想世界は、十字軍によってもたらされたアリストテレスの再発見によって大きく進展する力を得たのである。最初のヨーロッパへのインパクトは、アラビア語に訳されていたアリストテレスの諸著作から生じ、そのラテン語訳を経て、ヨーロッパに導入されたのである。ギリシア語から直接ラテン語に訳されるためには、さらに数世紀を要した。このため、翻訳の翻訳という制約から、誤訳や意味不明の箇所が少なからず生じ、長く誤解されるアリストテレスという側面も生じた。特に自然学方面での解釈の混乱を招いたとされる。
○現実態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)、そして完全現実態(エンテレケイア)
アリストテレスを語るとき、この二つの様態=状態を抜きにはできない。それほど重要な概念である。この考え方はアリストテレスによってはじめて提示されたもので、それは自然学的諸観察、とくに動物の観察から得られた事物の生生発展、衰滅の事象に基づいたものである。つまり、自然学諸関係では特に重要な概念と言うことができる。
現実態とは、潜在能力、潜在資質としての可能態が、現にそこに実現した様態・状態を言う。それは今、われわれが言うところの「可能性」とは意味合いがかなり異なる。というより、「可能性」として潜在する領域が広範なのである。たとえば、「ある一つの木材のうちにヘルメスの像がある」と言われるがごときものも含むからである。またいわゆる可能性としても、、現に研究活動のために準備をしている学生や、あるいは将来そうなる能力のある少年は「可能態として研究者である」と言える。また、ある限定された一つの直線のうちにその半分があるという場合、その半分の直線は可能態である。これらが現実態となるのは、その一本の限定された直線が実際に半分に分割された状態そのものとなるときであり、実際にその者が研究者として研究活動を行うときであり、またその木材からヘルメスの彫像が切り出され、刻み出されたときである。
アリストテレスはこうも言う。
「だが、明らかに、いま我々の言おうと欲するところは、その個々の場合からの帰納によって示される、そしてまた一般にひとはあらゆるものついてその定義を求むべきではなくて、(場合によっては)ただ類比関係をひと目見るだけで足れりとすべきである。(たとえばいまの場合では)現に建築しているものが建築しうるものに対し、目ざめているものが眠っているものに対し、現に見ているものが視力をもってはいるが目を閉ざしているものに対し、ある材料から形作られたものがその材料に対し、完成したものが未完成なものに対してのような類比関係を。<中略> けだし、その或るものは運動の能力(可能性)に対する現実の運動のごときであり、他の或るものは質料に対するそれの実体(形相・本質)のごときものであるから。」(岩波文庫版出隆訳『形而上学』下P32・P33)
同じ書からさらに「現実態」の説明を引いてみよう。
「諸々の行為のうち、限りのある行為は、①いずれの一つも目的(終わり)そのものではなくて、すべて目的に関するものである。例えば<痩身にする>ことの目的は<痩身>である。しかるに②痩せる身体部分そのものは、<痩身にする>過程においてあるかぎり、運動のうちにあって、この運動の目的を含んではいない。それゆえに、③<痩身にすること>は行為ではない。あるいはすくなくも完全な行為ではない(なぜならそれは終わりではないから)。ところが、行為(すくなくも完全な行為)は、それ自らのうちにその終わり(目的)を含んでいるところの運動である。たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時に思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終わってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終わってはいない。よく生きているときに、かれはまた同時によく生きていたのであり、幸福に暮らしているときに、かれはまた同時に幸福に暮らしていたのである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった。そこで、これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言われるべきである。けだし、およそ運動は未完了的である。すなわち、痩せること、学習すること、歩行すること、建築することなど、すべてそうである。これらは運動であり、しかもたしかに未完了的である。というのは、ひとは歩行しつつあると同時に歩行し終わっておりはせず、またかれは家を建てつつあると同時に建て終わっておりはしない。そのようにまた、なにかが生成しつつあると同時に生成し終わっておりはせず、動かされていると同時に動かされ終わっておりはしないで、かえって(動かされていることと動かされたこととは)別のことである。しかるに、見ておったのと同時に見ているのとは(別のものがではなくて)同じものがであり、またおなじものが思惟していたのである。そこで、このような現在進行形と現在完了形とが同時的な)過程を私は現実態と言い、そして先の過程を運動という。」(前掲書P34・P35)
「可能態」のほうは「現実態」に続いて説明されている。本論はわかりにくいので、たとえの部分だけを引用してみよう。
「たとえば、この箱は、『土製』であるとも『土』であるとも言われないで『木製』であると言われるが、そのわけは、木が可能的に箱であるからである。」
「たとえば、もしも『土』が『空気的な(または空気でできた)』ものであり、『空気』は『火』ではなくて、『火的なもの』であるならば、『火』が第一の質料であって、或る『これ』なるものではない。」(前掲書P37)
さて、エンテレケイア(完全現実態)である。
完全に目的と一致して達成された現実態である。
現実態が、そのものの終局目的として達成された状態と言ってもよい。生成発展する事物が、もうそれ以上生成することも発展することも、まったく余地がない状態である。いわば、絶対的終局の状態である。一応の達成とか、相対的にそうであるとか、類比的な関係とかではなく、それらをを突き抜けたところにある状態である。
<注>
*1 アリストテレスの動物学関係の著作として、手に入るもの=本文にも書いた『動物誌』岩波文庫版(初版1998年)。これは先に刊行されていた『アリストテレス全集』第7巻・第8巻(岩波書店)を底本としていて、訳者も同じ島崎三郎氏であるが、この文庫版のために、あらためて記載されている動物名を再検討したものである(訳者あとがきによる)。また、京大学術出版会から、「西洋古典叢書」の中の1冊として『動物部分論・動物運動論・動物進行論』が出版されている(訳者=坂下浩司氏、2005年)
*2 今道友信=1922年生まれ。1948年東大文学部哲学科卒。東大名誉教授。岩波書店『アリストテレス全集 第17巻 詩学』(1972年)を翻訳している。著書に『美の位相と芸術』(東大出版会、1968年)、『アリストテレス』(講談社「人類の知的遺産シリーズ→現在講談社学術文庫に収録)、『西洋哲学史』(講談社学術文庫、1987年)、『エコエティカ』(同、1990年)、『ダンテ神曲講義』(みすず書房、2002年→2003年マルコ・ポーロ賞を受賞)
[参考文献]
『アリストテレス』(今道友信著、講談社学術文庫2004) 『古代ギリシアの思想』(山川偉也著、講談社学術文庫1993)
●以下はここでひもといたアリストテレスの著作●
『形而上学』上・下(出隆訳、岩波文庫1959初版)、『動物誌』上・下(島村三郎訳、岩波文庫1999初版)、『アリストテレス全集第7巻動物誌上』『同第8巻動物誌下・動物部分論』(島崎三郎訳、岩波書店初版1968)、『天について』(池田康男訳、京大学術出版会1997)、『動物部分論・動物運動論・動物進行論』(坂下浩司訳、京大学術出版会2005)