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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

聖イグナチオ・ロヨラ

2009-07-31 10:24:50 | キリスト教関連

 今日7月31日は、カトリックの聖人、聖イグナチオ・ロヨラの記念日である。
 1491年、スペインはバスク地方の貴族の家に生まれた聖イグナチオ・ロヨラは、幼名をイニーゴといった。Ignigo Lopez de Loyoraが生まれたときの名である。生まれたのはその名もずばりロヨラ城という城の中であった。

 そして、彼は1556年7月31日、ローマで死去している。つまり、今日は彼、イグナチオ・デ・ロヨラの命日というわけである。列聖は1622年である。

 彼は、1538年、パリ大学の学友の中から集まった6人の若き男たちとともに、パリ・モンマルトル大聖堂で誓いを立て、イエズス会を設立した(ローマ教皇による正式認可は1540年)。そのとき定められた標語は、Omnia Ad Maiorem Dei Gloriam(すべては神のより大いなる栄光のために)であった。この最初の6人の中に、日本へキリスト教をはじめてもたらしたとされる聖フランシスコ・ザビエルもいた。ザビエルもまた、スペイン、バスク地方の貴族の出身である。彼もやはり、父祖の地に建つザビエル城で誕生している。

 朝、霊感に打たれたように、はっとそのことに気づいて、本棚から岩波文庫版の『霊操』(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉訳)を取り出してきた。はてどんなことが書かれていたっけかと、何とはなしにぱらぱらとめくった。そこで最初に目に飛び込んできたのが、その冒頭の一文である。そこにはこう書かれている。

 人間は創造されつつある。

 この一文がぼくにひらめかせたのは、ティヤール・ドシャルダンの『現象としての人間』である。邦訳はみすず書房から刊行されている(美田稔訳、1969年初版/1985年新装版)。進化論の考えを受容しつつ、神と人間との関係をつきつめようとしたすぐれた著作である。生前はしかし発禁処分にされていた。このシャルダンもまたイエズス会員である。

 そしてこの著作の中心テーマは「かつて進化し、今もまた進化し続け、これからもさらにまた神へと向かって進化し続けるであろう人間」を描き出すことであった。まさにそれは、神によって、「創造されつつある」人間である。

 つまり、このことはティヤール・ドシャルダンの手にした進化思想の底に、『霊操』があることの証拠ではないか?

 『霊操』の続く部分を含めてあらためて引用してみよう。

 人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で、それらのものが人間を助けるためである。 (『霊操』岩波文庫版P88)

 「人間は(日々、あるいは時々刻々)創られつつある」

 この言葉は、イグナチオの霊的実感に基づいている。そしてそのことが「人間が生きる」ということなのであると、イグナチオは言うのである。まさに瞬間ごとに人間は新たにされ、更新されて、次の瞬間に新しい自分となっていく。それを神の側から観ずればたしかに「創造されつつある」人間と言うことになる。

 『霊操』とはまさに、そのような神のなし給うわざに積極的に参与するために、人間が日々なさねばならない霊的行為のすすめである。神の創造の働きかけに率直に応ずるために、人間はいかにしなければならないか。
 『霊操』は続ける。

 従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、すべての被造物に対してわれわれ自身を不偏にする必要がある。
 <中略>
 ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。(同上)

 シャルダンのこの著作の原稿は、彼の死後もしばらくの間発表されることがなかったが、それは生前のティヤール・ド・シャルダンが、当時ヴァティカンが否定していた進化論を認めていたということからである。進化論に妥協した著作はすべて発禁にされていたのである。
 けれどもそれがどれほどに皮相な理解であったか。
 ティヤール・ドシャルダンの思想の根は、イエズス会士が必ずそれによって修養すべきであると定められていた、イグナチオ・ロヨラのこの『霊操』の中にあったのである。

 あらためてそのことに気づいた。