「時間」には三つの機能がある。
一つは、人間の意識における「時間」である。あるいは個々の人間によって経験された時間と言い換えてもよい。人間の理性は時間的順序性を超えて思考することができない。感情も同様であるが、いずれにしても人間の言語行為は、時間を逆転させて発動することはない。時間の流れの中で継起的に言語は生み出される。
こうして言語によって行われる思惟というものは、時間の順序性に支配されていると言うことができる。「支配」という言葉が言い過ぎならば、順序性のフレームにわく取りされている。もっと軽く言えば、「思惟」は「時間」の順序性にしたがって行われる。
言うなれば、「思惟の場」は「時間の場」なのである。
第二に、「時間」の客観的測定機能。物理的単位としての「時間」である。これは人間が宇宙的時間系列から、人間の測定に都合のよいように切り取ってきた「時間」単位の系列である。背景には宇宙の運行と宇宙の歴史とがある。物理的時間単位はこの宇宙の運行と歴史を認識世界の時間を数えるために人間世界におろしてきたものと、言ってもよい。
第三に、「時間」の歴史的機能である。これは個々の人間に意識され、刻まれていく時間ではなく、人間の歴史意識へと還元される「時間」である。あるいは、宇宙の歴史性、地球の歴史性を認識するための「時間」である。いわば、共同認識化された「時間」的順序性である。これは個々人によって体験され続けている「時間」には同一化することのできない「時間」である。個々人が「同一化」されたあるいはされうると感ずるのは、「並行」感覚である。人間の個々によって体験された「時間」は、歴史的「時間」に並行させて認識することができる。
個人があるいは群衆が感覚的に歴史と一体化していると感じている「時間」は、この歴史的「時間」の並行認識の爆発的発現と言ってよい。あるいは瞬間的な接触と言ってもよいかもしれない。
これらのうち、人間が個々に直接的に体験している「時間」はもちろん第一の「時間」である。それは人間の意識に継起的に次から次へと生ずる「いま」の意識の連続である。「いま」はだから、物理的測定単位としての極小点とは一致しない。そのような極小点を人間は意識としてつかむことができないからである。それは体験されない。人間がとらえる「いま」はかなりアバウトな「いま」である。その「いま」の底に、物理的極小点としての「いま」は隠されている。あるいは埋め込まれている。そのことを人間が知るのは、第二の機能に基づいて、物理的にあるいは数学的に「時間」が処理されたときである。それは「処理」ないしは「作業」による「時間」の技術化(物理化)を経て人間の認識となる。けれども、そのような技術化を経た後も、人間の意識とはなり得ない「時間」であることにはかわりがない。
アバウトな「いま」と言った。
これは不断の「いま」の否定を通して新しい「いま」の意識を獲得する。ついさっきの「いま」は、「いまのいま」とは異なるものだからである。人間の言語行為において「いま」の使用がアバウトであるのは、人間に意識される「いま」の分節化がアバウトだからである。
「いま勉強している」という「いま」と、「いま食べ終わった」という「いま」とは「いま」の用法が異なる。あるいは「いましたいことはダンス」という場合の「いま」は、どんな「いま」にもなりうる。「いま」を「今日のところ」はとか、「ここのところ」という意味にも、「いまただちに」という意味にも、「最近ずっと」という意味にもとらえることができる。そこで意味される「時間」のもつ期間ないし区間は、長短さまざまである。「いま学校に行ってます」という場合の「いま」となると、その期間の長短はさらに多様なものとなる。
これは個々人において意識されている「いま」という期間にばらつきがあるからである。個々人が個々人の意識の相において「いま」をとらえ、「いま」の期間を決めているのである。
ここでいう「いま」とは、個々人における現在完了進行形として考えることもできる。これはアリストテレスの示唆に基づく。完了しつつ継続するのが「いま」という「時間」なのである。アリストテレスはその運動論において、「時間は運動ではないが、運動なしには存在するものではない」(『自然学』第十一章)。そして、「時間とは前と後に関しての運動の数である」という、名高い「時間」の定義も、この章に書かれている。
この「時間」についての言説をもとにすると、次の言説がよく理解されるであろう。
「……、時間のある部分は、かつてあったが、いまはもうあらぬ、しかし他の部分はまさにあろうとしているが、なおいまだあらぬ。しかも時間は、無限な時間にしても、任意に切り取られたその時々の時間にしても、これらから(かつてあったがいまはもうあらぬ過去とまさにあろうとしているがなおいまだあらぬ未来から)合成されている。」(『自然学』第四巻第十章/今道友信『アリストテレス』P241から孫引き)
つまり、いまこの現在において、完了しつつ生起しているものとして、「時間」はとらえられているのである。「いま」の完了と「いま」の生起とが相接して進行している。新しい「いま」は完了した「いま」を過去へと押しやりながら、個人の意識の上に次々とやってくる。これが「現在完了進行形」の意味である。
<参考図書>
○中島義道『時間論』(ちくま学芸文庫2002)。
ただし、この著書には、「時間」の機能は二つだけしかあげられていない。第一と第二である。また「いま」を個々人に意識された「いま」の幅として論じている。
○今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫2004)
かつて講談社から刊行されていた「人類の知的遺産」シリーズのひとつ、『アリストテレス』(1980)をもとにして加筆・増補したもの。