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 詩・韻文(短歌、俳句)

時間について

2008-01-22 03:22:30 | アフォリズム・思想のフラグメント

Sony Style(ソニースタイル) Sony Style(ソニースタイル)

「時間」には三つの機能がある。

一つは、人間の意識における「時間」である。あるいは個々の人間によって経験された時間と言い換えてもよい。人間の理性は時間的順序性を超えて思考することができない。感情も同様であるが、いずれにしても人間の言語行為は、時間を逆転させて発動することはない。時間の流れの中で継起的に言語は生み出される。
 こうして言語によって行われる思惟というものは、時間の順序性に支配されていると言うことができる。「支配」という言葉が言い過ぎならば、順序性のフレームにわく取りされている。もっと軽く言えば、「思惟」は「時間」の順序性にしたがって行われる。
 言うなれば、「思惟の場」は「時間の場」なのである。

第二に、「時間」の客観的測定機能。物理的単位としての「時間」である。これは人間が宇宙的時間系列から、人間の測定に都合のよいように切り取ってきた「時間」単位の系列である。背景には宇宙の運行と宇宙の歴史とがある。物理的時間単位はこの宇宙の運行と歴史を認識世界の時間を数えるために人間世界におろしてきたものと、言ってもよい。

第三に、「時間」の歴史的機能である。これは個々の人間に意識され、刻まれていく時間ではなく、人間の歴史意識へと還元される「時間」である。あるいは、宇宙の歴史性、地球の歴史性を認識するための「時間」である。いわば、共同認識化された「時間」的順序性である。これは個々人によって体験され続けている「時間」には同一化することのできない「時間」である。個々人が「同一化」されたあるいはされうると感ずるのは、「並行」感覚である。人間の個々によって体験された「時間」は、歴史的「時間」に並行させて認識することができる。
 個人があるいは群衆が感覚的に歴史と一体化していると感じている「時間」は、この歴史的「時間」の並行認識の爆発的発現と言ってよい。あるいは瞬間的な接触と言ってもよいかもしれない。

 これらのうち、人間が個々に直接的に体験している「時間」はもちろん第一の「時間」である。それは人間の意識に継起的に次から次へと生ずる「いま」の意識の連続である。「いま」はだから、物理的測定単位としての極小点とは一致しない。そのような極小点を人間は意識としてつかむことができないからである。それは体験されない。人間がとらえる「いま」はかなりアバウトな「いま」である。その「いま」の底に、物理的極小点としての「いま」は隠されている。あるいは埋め込まれている。そのことを人間が知るのは、第二の機能に基づいて、物理的にあるいは数学的に「時間」が処理されたときである。それは「処理」ないしは「作業」による「時間」の技術化(物理化)を経て人間の認識となる。けれども、そのような技術化を経た後も、人間の意識とはなり得ない「時間」であることにはかわりがない。

 アバウトな「いま」と言った。
 これは不断の「いま」の否定を通して新しい「いま」の意識を獲得する。ついさっきの「いま」は、「いまのいま」とは異なるものだからである。人間の言語行為において「いま」の使用がアバウトであるのは、人間に意識される「いま」の分節化がアバウトだからである。
 「いま勉強している」という「いま」と、「いま食べ終わった」という「いま」とは「いま」の用法が異なる。あるいは「いましたいことはダンス」という場合の「いま」は、どんな「いま」にもなりうる。「いま」を「今日のところ」はとか、「ここのところ」という意味にも、「いまただちに」という意味にも、「最近ずっと」という意味にもとらえることができる。そこで意味される「時間」のもつ期間ないし区間は、長短さまざまである。「いま学校に行ってます」という場合の「いま」となると、その期間の長短はさらに多様なものとなる。
 これは個々人において意識されている「いま」という期間にばらつきがあるからである。個々人が個々人の意識の相において「いま」をとらえ、「いま」の期間を決めているのである。

 ここでいう「いま」とは、個々人における現在完了進行形として考えることもできる。これはアリストテレスの示唆に基づく。完了しつつ継続するのが「いま」という「時間」なのである。アリストテレスはその運動論において、「時間は運動ではないが、運動なしには存在するものではない」(『自然学』第十一章)。そして、「時間とは前と後に関しての運動の数である」という、名高い「時間」の定義も、この章に書かれている。
 この「時間」についての言説をもとにすると、次の言説がよく理解されるであろう。

「……、時間のある部分は、かつてあったが、いまはもうあらぬ、しかし他の部分はまさにあろうとしているが、なおいまだあらぬ。しかも時間は、無限な時間にしても、任意に切り取られたその時々の時間にしても、これらから(かつてあったがいまはもうあらぬ過去とまさにあろうとしているがなおいまだあらぬ未来から)合成されている。」(『自然学』第四巻第十章/今道友信『アリストテレス』P241から孫引き)

 つまり、いまこの現在において、完了しつつ生起しているものとして、「時間」はとらえられているのである。「いま」の完了と「いま」の生起とが相接して進行している。新しい「いま」は完了した「いま」を過去へと押しやりながら、個人の意識の上に次々とやってくる。これが「現在完了進行形」の意味である。

<参考図書>
○中島義道『時間論』(ちくま学芸文庫2002)。
ただし、この著書には、「時間」の機能は二つだけしかあげられていない。第一と第二である。また「いま」を個々人に意識された「いま」の幅として論じている。
○今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫2004)
かつて講談社から刊行されていた「人類の知的遺産」シリーズのひとつ、『アリストテレス』(1980)をもとにして加筆・増補したもの。

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いじめ・いじめる・いじわる

2006-11-13 03:21:51 | アフォリズム・思想のフラグメント

●「いじめ・いじめる・いじわる」、言葉の定義●

 小学校・中学校でのいじめが大きな問題になっている。
 けれども、今の大人たちのあわてようはいささか度を超している。ちょっと頭のいい子なら、そうした大人をからかってみたくなるのだろう。それにしも、区内のすべの学校の電灯を一晩中つけっぱなしにしている東京都豊島区は、よほどおびえているのであろう。いたずらに死ぬことを恐れているのではなく、自区の小学校から自殺者が出るということをだ。

 だれもが教育者として問われているのではなさそうである。学校管理者として、自殺者が出ることを問われているかのようである。本当はそこにこそ問題がある。電灯をつけっぱなしにするという安易な発想で、自殺を食い止めることしか考えつかなかったのだろうか? すべての区立の学校に、何人かの先生が泊まりがけで、寝ずの番をして、もしかしてやってくるかも知れない生徒の説得に当たる、というようなことは、だれも考えつかなかったのだろうか?

 教育とは、学校に一晩中で電灯をともして、自殺をやりにくくする、あるいは妨害するということではなかったはずではないか? どこかで、教育者と呼ばれる人たちははき違えてしまったのだろう。

 ◆「いじめ」と「いじめる」、その辞書的意味◆

 「いじめ」をたとえば、国語辞典で引いてみよう。三省堂の最新の『新明解国語辞典』第六版ではこのように説明されている。

いじめ 【苛め】いじめること。「いじめにあう/いじめをなくす/弱い者いじめ」 いじめっこ【苛めっ子】何かにつけて弱い子供を苛める、仲間内でも恐れられている子。

いじめる【苛める】①[弱い立場にある者に]わざと苦痛を与えて、快感を味わう。「下級生を苛める」 ②限度を超えて、ひどい扱いをする「イチゴも寒冷地に移して苛めると早く実る」

 ついでに岩波書店『広辞苑』第五版でも見ておこう。

いじめ【苛め】いじめること。徳の学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛めつけること。 いじめっこ【苛めっ子】弱い子をいつもいじめる子供。

いじめる【苛める】弱いものを苦しめる。「下級生を苛める」

 残念ながらこの二つの辞書では、今学校で起こっている「苛め」なるものを、正確に把握することはできない。三省堂の『新明解国語辞典』第六版は2005年の、岩波書店の『広辞苑』第五版の方は1998年の刊行である(なお、どちらの辞書からの引用も、品詞などの文法的説明は省略した)。つい先日出たばかりの三省堂の『広辞林』第三版はまだ手元にないので見ていないが、それほど大きな異同があるとは思われない。

 ◆「いじめる」の意味には大きな幅がある◆

 辞書的な意味では『新明解国語辞典』が、現実に用いられている意味・用法をよく踏まえているようである。

 よく、野球の選手などの口から、「今年のオフには徹底的に体をいじめました」というコメントが聞かれる。「体をいじめ抜いて、強いへばらない体をつくる」などとも使われる。
 これらの用例では、「いじめる」はよい意味に使われているように思われる。体を「鍛えて鍛えて鍛え抜く」、というような意味であろうか。あるいは体を「痛めつける」とも言い換えられる。つまり、体の側から、筋肉や骨や神経の側から見れば、ほんとに「意地が悪い」と思えるほど、厳しく、ねちっこく、これでもか、というように体をさいなむということを意味しているのである。その体の「さいなみ方」にルールがあって、筋肉や神経、あるいは心を鍛えるための処方箋をもって体を「いじめている」という点に注意が必要なのである。そこがふつうに「いじめる」というのとは異なるところである。

 逆に言えば、ルールに従って人が人をさいなむことは、人が人をいじめることは、あながち否定すべきことではないということであるのかもしれない。

 ◆どこにでも「苛め」はあるが、しかし◆

 ぼくの手元に『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』がある。リジューの聖テレーズとも呼ばれる、フランスでは聖女ジャンヌ・ダルクに次ぐ人気のある聖女である。その彼女が上長の目によってつづった自叙伝には、たしかには「苛め」とは書かれていないが、(もちろん書かれるはずもないが)、彼女をさいなむ言葉や態度はいくつも現れる。それに対して、彼女はいつも最高のほほえみで返した、ということが書かれている。それはまた彼女の列聖のための調査の中で多くの証言を得た事実だとも言われている。彼女は嫌がらせにもほほえみで返したのである。心は苦しみにまみれていても! それがまた彼女の心を、信仰をも鍛えていたのである。
 修道院の中では、いじめはいじめとして現れはしない。それは相手を鍛えるため、相手の魂を修練するために、その人の上にふるわれるひとつの暴力である。魂をさいなむこともあり、肉体をさいなむこともある。受け止める方はそれを自らの不完全さを鍛えるために、神がくださったものとして心からの善意を持って抱き留めようとする。不快なものであればあるほど、つらいもの、苦いものであればあるほど、しっかりと抱きしめるのである。そして、そのようにさいなむものに対して、何が最も優れた報復であるか?
 ほほえみである。
 ほほえもうとする意志である。

 はずかしめに、からかいに負けない心とは、それに対抗する心ではない。それらを大きく包もうとする心である。大きく抱き留めようとする心である。

 ぼくらはもう、そうした堪える力、堪えて自らを高める意欲を失ってしまったのであろうか? 「試練」という言葉をぼくは好まないが、からかいに対してほほえみで報いようとする心こそ、ぼくらを鍛えるものはない。ぼくらを高めるものはない。そうした心の成長にとって最も基本となる「いじめること」あるいは「鍛えること」あるいは「痛めること」が、忘れられているのではないか?
 そして、苛める方がたとえ、「苛めること」「痛めつけること」だけに快感を得ていたとしても、それを受け止める側が、それをひとつの成長のバネにできるに越したことはない。いや、かつてはみなそうだったのではないか? だれもが、あるいは多くの子供たちが、いじめを自分の心の成長のバネにできたのではなかったか。少なくともそうしようとしてきたのではなかったか。社会も親も、そのような心のたくましさを子供たちに求めていたのである。

 ◆「苛める」ことが快感であるのか、目的のある「苛め」であるのか◆

 さて、見えてきたことはひとつ。
 これまで、「いじめ」あるいは「いじめる」というこことは、「いじめる者」の心の快楽のために行われるものだという共通認識があった。それはいじめる者たちの「満足」のために行われた。その原因がストレスであったり、その子が単にスケープゴートのような存在であったりすることによって、いじめは苛めることそのものを目的として行われてきた。

 けれども、たとえば、どこかの小学校では、五年生の女児からお金を巻き上げている。どこかの中学校では暴行を働いて、場合によってはけがまでさせている。これは「いじめ」ではない。明らかに犯罪である。暴行、傷害、恐喝。これらの犯罪は、もう「いじめ」の範囲を超える。
 不思議なのは、犯罪を犯罪と呼ばず、それでもない「いじめ」と呼ぶことである。それが児童であろうと少年であろうと、犯罪は犯罪である。暴行は暴行。傷害は傷害。恐喝は恐喝。ましてや金品を脅し取るなど、もってのほかではないか。これは「いじめ」ではない。やくざや暴力団と同じ犯罪行為である。

 児童や少年が犯罪を犯した。

 この事実からすべては出発する。教育をきれい事にしようとする心理が、「いじめ」という狭い領域にあらゆる犯罪行為を閉じこめようとするのではないか?
 この事実から、児童や少年の更生計画がはじまる。どのようにして、健全な精神へとガイドしてやれるかが、大人たちに問われる。鍛えること。それはあるいは心の切開手術であるかも知れない。傷つくことを恐れては、子供を鍛え得ないであろう。ともに生きることが大人に問われる。共に傷を痛むことが大人に問われている。

 そして、「いじめること」の中には「意地悪」ではない「いじめる」があるのかもしれない。その人のためを思って行われる「いじめ」があるかもしれない。それを「試練」と呼ぶかどうかは、それぞれの人生観によるだろうが、自分のためになる「いじめ」があるのだ、と考えることも人生には大切なことであるのかもしれない。
 キリスト教徒には究極のいじめの物語がある。「旧約聖書」の一書『ヨブ記』である。神と悪魔の賭け事のさいころのように、運命を転がされ、もてあそばれたヨブが、それでもない自らの宗教的信念を捨てなかったこと、それによってかえって神に嘉されたことが記された究極の「いじめ物語」に、ぼくはそんな無茶な! と怒ってみたが、けれども人生には理不尽なできごと、不条理はいくらでもある。いじめもまたそのような不条理と思って、戦うことが、求められているのであろう。どのように戦うかは、ひとそれぞれである。堪えるか、怒り、憤るか、目には目を、歯には歯をもって報いようとするか。

 ◆九十九敗しても最後の百戦目に勝利した者が本当の勝利者である◆

 どのように対処するにしても、いじめに屈しない心を持つべきであろう。負けない心をぐっと肝に銘じ、歯をかみしめて戦うべきであろう。何度も言うようだが、戦い方はさまざまである。どのような形をとろうと、敗北はあってもよい。でも敗北者になってはいけない。敗北者になることは死ぬことであるのだから。一度や二度負けてもそれは人生の敗北ではない。一度や二度倒されても、また起き上がればよい。倒されることなど、つまずかされることなど、人生にはよくあること。百戦してはじめに九十九敗しても、最後の一戦に一勝すれば、それこそが本当の勝利であろう。ひとはそして、だれにも本当の勝利を得られる権利と力があるのである。

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洗者聖ヨハネの記念日6月24日に

2006-06-25 03:20:22 | アフォリズム・思想のフラグメント

 昨日の6月24日は、「洗者ヨハネ」の記念日でした。
イエスの誕生日を12月24日に祝いますので、ちょうど6ヶ月前の6月24日に洗者イエスがが誕生したこととして、祝うのです。

 「新約聖書」の『ルカ伝』によれば、洗者ヨハネを身ごもったエリザベトはマリアの親戚に当たると書かれています。そのエリザベトが洗者ヨハネを身ごもってから、ちょうど
「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」(『ルカ伝』第1章26節・27節)
とあることにちなんでいます。
 もっとも、イエスの誕生日とされる12月24日自体が、史実とは違いますから、もちろんこの洗者ヨハネの誕生日も、単に『ルカ伝』の記述に数字をあわせたというにすぎません。

 『ルカ伝』では、年老いたエリザベトが神の恩寵によって身ごもった経緯が記されています。この当時のユダヤの世界では、女が子を産まないことは、その女が神に嘉されていないことを示すことの現れとされ、当の女だけでなく、その夫もまた恥とされました。その夫婦に子ができたことは、大きな喜びでありました。『ルカ伝』では、こんな風に書かれています。
(エリザベトの夫であるザカリアは、当番で神殿のつとめをしています。また、聖所に入って香をたく役目を、くじで引き当てます。さて、)

「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。』(『ルカ伝』第1章11節~17節)

 こうして、洗者ヨハネはイエスに先駆けてイスラエルの民に「悔い改めよ」と告げ歩き、ヨルダン川でそのための「洗礼」を授けました。この記事は、四つの「福音書」のいずれにも記されています(『ヨハネ伝』は他の三つの福音書と少し違った面から記述していますが)。そのとき、洗者ヨハネはこう宣言したと記されています。
 例えば一番古い「福音書」とされる『マルコ伝』では、冒頭に洗者ヨハネのことが記されています。

「神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道を真っ直ぐにせよ。』』
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』
(『マルコ伝』第1章1節~8節)

 ここで語られている「わたしよりも優れた方が、後から来られる」というのが、まさにイエスのことだとされたのです。自分、洗者ヨハネは「水で洗礼を授ける」が、イエスは「聖霊で」洗礼を授けると言うのです。
 けれども、イエスもまた、この洗者ヨハネの「洗礼」を受けています。

 このことから、イエス自身が、洗者ヨハネ教団から独立した教団を導き出したと考える人もいます。たしかに、イエスが洗者ヨハネから洗礼を受ける必要は全くなかったわけですから、いずれの「福音書」の記述にも、イエスが洗礼を受ける合理的理由が記されていません。ただ『マタイ伝』だけが、イエスのこんな言葉を記しています。
洗者ヨハネが、イエスに向かって、
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言うと、イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです。」
と答えます(『マタイ伝』第4章14節・15節)。
 これもあまり合理的な理屈ではありませんが、いずれにしても、イエスが洗礼を受けると、天が開いて「神の霊が鳩のように」降ってきて、声が聞こえます。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(『マタイ伝』第4章16節・17節)、あるいは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(『マルコ伝』第1章11節)という記述もあります。

 ここでは、指摘するにとどめておきますが、「これは」という形と「あなたは」という形の意味の違いに注意しておいてください。いずれにしても、天がイエスを「わたしの愛する子」と告げたことを、ここで読者に示しておきたかったのかもしれません。

 イエスが洗礼を授かったことは、イエスもまた洗者ヨハネ教団の一員ではなかったかという疑念を持たせます。実際にも、イエスはすんなりと洗者ヨハネから信徒たちを引き継いだのではありません。イエスの死後も、キリスト教はかなりの期間を洗者ヨハネ教団との間で、信徒の継承だけでなく、ユダヤの神の継承をめぐっても、正統性を争っていたことが知られます。『マタイ伝』11章(2節~14節)にもその一端がほの見えています。『マルコ伝』では、洗者ヨハネ教団とはそれほどの争いがなかったかのように見えます。洗者ヨハネについての記述は、この冒頭の部分と、ヘロデ王に殺された場面に現れますが、教団どうしの争いの痕跡は見られません。
 このことから、『マルコ伝』の書かれた紀元70年前後には争いは表面化せず、『マタイ伝』の書かれた紀元80年代には厳しい信徒争奪戦が始まっていたのでしょう。その争いに決定的な力を持たせようとしたのが、どうやら『ルカ伝』ではなかったでしょうか?  つまり、洗者ヨハネ教団に対して、キリスト教団からの決定打として書かれたのが、『ルカ伝』第1章の記述でありましょう。
 明らかに、ルカは、イエスの正統性を主張すべく、洗者ヨハネの先行者としての位置づけを、明確にさせています。このルカの記述が実際の史実であるかどうかは別として、これによってアブラハムとモーゼを受け継ぐイエスの正統性、つまり、キリスト教の正統性を、ルカ一流の物語ないしはエピソードの形にして、訴えたと考えるべきでしょう。

 これらの記述がしかし、実際のできごと、つまり史実であるのか、単に伝えられてきた伝承としてのエピソードに過ぎないのか、今ではだれにもわかりません。それを思えば、『ルカ伝』第1章の記述は、確かにルカという人の単独の作為、あるいは創作であったとも言うことができます。
 けれども、たとえそれが史実と異なっていたからとしても、ルカの創作であったとしても、そのこと自体が、そこに神の意志の導き、あるいは聖霊の働きがなかったということを、証明することにはなりません。それはすでに、史実検証の枠を通り過ぎて、一人ひとりの信仰のありようにかかわっているのです。神はあるいはルカの筆を借りて、創作されたエピソードを通して、イエスの正統性を語ろうとした、ととらえることも可能だからです。

 信仰とは何か? その意味をみずからに厳しく問いながら、あるいは神に尋ねながら、現代という不信の時代を生きる。信仰箇条はなるべく少なく、なるべく本質にかかわるところにおいて、科学が疑うものは脇へ置く、あるいは信仰箇条としては留保することが、正しい現代の信仰のあり方なのかも知れません。

 洗者ヨハネの信徒と、キリスト教徒が、その信仰の正統性を争った日から、2千年に近い年月が流れています。かの天の国にあって、洗者ヨハネはみずからの生きた証を、どこに見ているのでしょうか? あれほどのルカの思いにもかかわらず、われら不信の徒は、今もまだ不信の人生を生きているというのでしょうか? 科学が拒んだものを、信仰は受け入れられるのでしょうか? ディディモのトマスのように、見なければ信じることのできない、手で触れなければ信じることのできないわれわれでありますから。

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アフォリズム:NHKと巨人

2005-11-19 18:02:08 | アフォリズム・思想のフラグメント

●NHKはどうしようもありませんね●

 <NHKの「紅白歌合戦」の司会者に みのもんた ですってね! 松任谷由実も出演ですって!>
 とにかく金に飽かせ、力に飽かせて、あっちこっちから知名度や人気の高いのを集めまくっているようですね。紅白に初めてという 松任谷由実 まで出るという。でもね、松任谷由実 は一頃ほどの絶大な人気はもうないんですね。それでもNHKは彼女を出演させるという。つまり、人気低落傾向の 松任谷由実 とNHKの利害が一致したと言うことでしょう。

<歌手の人気ってね、BookOff っていう中古ショップに行けばわかるんですよ>
 ついでながら、歌手の人気度は、中古ショップにCDがどれほど並んでいるかでわかるんですよ。たぶん大量に売れ残った流通在庫が、そのまま中古ショップに流れるんでしょうね。
 このチェーン店のどれかで、松任谷由実の棚に行ってご覧なさい。何百枚と並んでいますから。そうそう、並んでいると言ったら、宇多田ヒカルも多いですね。中山美穂なんて一時は「えっ? どれだけあるの?」という具合。さすがに店でもそれでは困るのでしょう。しばらくしてかなり置くのを減らしたようです。
 中島みゆきは今も本当に少ないですね。根強い人気があるのでしょう。この人の人気は底堅い。
 そうそう、大貫妙子が最近増えてきています。一昨年あたりはどの中古店に行ってもほとんどなかったのに(あっても大型店でやっと2枚、3枚)、この間なんかほとんど幻のようだった『コパン』というアルバムまで中くらいの規模の中古ショップに出てくる始末。十七種類くらいある他のアルバムもずらずら並ぶようになっていますから、大貫妙子のファンも少しずつ大貫妙子離れを起こしていると見ました。
 CDだけじゃありません。小説家も。ひところ、吉本ばななの単行本『キッチン』『つぐみ』なんてのがどの店にもずらずら並んでいた。中を見ると、古本じゃない。いわゆる新古書。それが1冊100円で売られていたんです。ファンじゃなかったけれど、思わず買ってしまいました。流行作家の単行本なんて、まあ1年か2年待てば、100円なんですよ。これが日本の創作文化を壊すことになるのかどうか? どう思います? ついでながら触れてみました。

<長期低落のジャイアンツの末期現象>
 今年もまた、読売ジャイアンツはお金に飽かせてあっちから、こっちからピッチャーをかき集めていますね。去年もその前の年も、金さえ出せば転ぶと思っているらしい。それで腐らせてだめにする。かつて存在した近鉄球団にいたあの黒人選手、名前なんか忘れてしまいましたけれど、もうお払い箱なんでしょ? 「あなたが是非とも必要です」と言って入団させておいて、使ったり使わなかったり。これじゃ腐ります。自分に能力があると信じる選手ほど。かつて広島の四番打者だった江藤を飼い殺しにして、ついに海の底に沈めてしまったのもジャイアンツですものね。こうなると犯罪です。人間の持てる能力に対するね。そうやって能力をつぶしていくチームに夢も希望もあるはずがないのです。

 それにしても、金で転ぶにしても、自分がレギュラーで使ってもらえるかどうかわからないような球団に、だれもかれも行きたがるのはなぜでしょう? ジャイアンツの人気はもう回復しないと気づかないのでしょうか? 原監督が就任したとしても無理です。あの渡辺がすべてをだいなしにし続けている限りはね。彼はジャイアンつのファンをないがしろにしている人物の最右翼。いえ、ジャイアンツだけでなく、プロ野球のファンを馬鹿にしていますね。こんな人間をさっさと球界からほうり出さないと、ジャイアンツばかりか、プロ野球全体がだめになるんでしょうね。まだ、国民のプロスポーツと言えば野球とレスリングしかなかった時代のつもりなんでしょうね。あの老人権力者渡辺恒雄という人は。太閤秀吉の死ぬ前と同じ状況ですね。自分の権力感情だけがすべてなんです。知性のかけらもない。

 もっとも、ぼくはプロ野球のファンをやめましたから、どうでもいいですけれど。
 阪神の優勝、なんて言っても、阪神が強いからじゃないですもの。巨人や広島が弱すぎるんです。こんなあほなプロ野球、だれがつきあいます?

<このジャイアンツと同じ軌跡を描いているのですね。NHKは>
 NHKも金に飽かせてあちこちから歌手やタレントを集めまくっているようですけど、肝心のドラマがつまらなくなった。特に時代劇。「金曜時代劇」って言うのをやっていますが、やたらにモラル重視。ドラマの中で視聴者に向けて主演者がモラル演説までやる始末では、くそおもしろくもないのです。テレビ朝日のような医者が殺人を犯してそれが正義というのも困りものですけれど。いい加減にすべきでしょ? 犯罪者を殺せばいいという論理は。テレビ朝日は、そうやって世の中にテロを奨めていらっしゃるのです。目を覚ましなさいね。
 NHKのことに戻りますが、NHKは、あの一連の不祥事以来、自分たちの守るべきモラルを、ドラマの中で視聴者に強要している感じがします。それも、 あのジャイアンツの渡辺式モラルです。つまり、自分の得手勝手な、自分に都合のいいモラル、という意味ですけれどもね。どんどんドラマをつまらなくして、「NHKは世の中のためになっている」って主張したいんでしょうか? 「だから、お金払って!」ってね。
 だから本当のモラルは守られない。自分のストレスの解消法に「放火」するなんて手合いまで出てくるのですものね。NHK以外のマスコミは、NHKの体質がこのような犯罪を引き起こしたと論証したいようですけれど、人ごとでしょうかね。
 「現場にいる記者の資質の問題です。資質がなかったということでしょう」と言って、切り捨てようとしたテレビ朝日は、それをわかっているのでしょうね。会社の体質にされたら、自分のところにも火の粉が飛ぶ心配があるのでしょう。あるいはテレビ朝日はNHKと似た体質を持っているかも知れません。
 きっと、NHKにもテレビ朝日にも夢や理想はもうないのでしょう。モラルというのは、夢や理想に向かって進むその緊張感の中で明確に形をとって現れるものなのですから。

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アフォリズム:現世に思うことさまざま

2005-11-16 08:49:11 | アフォリズム・思想のフラグメント
●愛川欽也とうつみ宮土利がベストカップル賞をもらうという不思議●

 少し前のことになるが、愛川欽也とうつみ宮土利が「ベストカップル賞」なるものを受賞したという。でも、この二人、不倫結婚だったんではなかったろうか? かなり古いことだが、当時はTVをにぎわしたものだ。たしか、あのとき涙にくれていた糟糠の妻を、ぼくは見た記憶がある。
 愛川欽也には家庭があり、この奥さんと二人の子があったはずだ。それを、いわば捨ててうつみ宮土利といっしょになったはずだ。今で言う「略奪愛」。うつみ宮土利が奪った。かなり強引だったと聞く。

 もう、日本社会では、陰で捨てられて泣いた者がいたとしても、現在結婚生活が成功していれば、それをベスト・カップルとして評価するようになったのだろうか? ぼくには肯んじえない。
 賞を出す方も出す方だが、「ベストカップル」と言われてべたべたのたのたくちゃくちゃしている二人も二人。
 良心があるなら、ふつうのコモンセンスがあるのなら、賞を辞退するのがふつうの感覚。捨てられた家族はどう思うのだろう? 時間がたてば何でもOKなんでしょうか? どこかモラルのたがが外れていますね。

 けれども、だれかが非難したという話を聞かない。
 彼らもまた「勝ち組」として賞賛されていると考えるべきなのでしょうか?
 わかりません。ぼくはこんな社会はいやです。

●男の子が女の子を殺したこと(町田の高校生)●

 ジェンダーの問題もあるのでしょうね。
 あるいは女性の地位や立場が向上して、女の子たちの社会的な意識も変わって、かなり古い人間関係や男性上位の価値観からは自由になっている。それなのに、男の子の側では何十年前と同じ意識のまま。
 母親はいまだに、
「あなたは男の子なんだから」と
男の子は女の子の上位にあるかのような教育をしている。
 その一方で女の子をもった母親は、逆に娘の自由な意識に引きずられて、自分までも自由になったような錯覚の中に
ある。
 その男の子の家庭と女の子の家庭の、特に母親の意識の差が、男女の精神のギャップをつくっているように思える。

 もともと、女性は性的な成長も早く、また男子に比べて肉体的に劣位にある関係から、社会的な成長を早めることで男の子に対抗しようとする傾向がある。女子の状況に対する柔軟な対処能力も、同年齢の場合では、男子のかなり上を行く。
 そのようなもともとの精神的なギャップに加えて、男女平等の、同権の恩恵を目一杯享受し、自分の願望や欲望を実現しようとするどん欲な女の子たちと、いまだに男社会の古い価値体系をひきずって、存在として男子の方が女子の上に位置するのだと、どこかで信じている男の子たちでは、社会的な成長、という点ではまったく勝負にならない。

 いまだに男の子という存在にあぐらをかいて、どこか物事に淡泊、人生もどこかの大人にそうさせられている、やらされている受身の男の子。受身一方だったかつての立場をかなぐり捨てて、受身の立場を演じるにしても、それは誘うための受身。いわば戦略的な受身に打って出る女の子たちに、男の子のかなうはずもなく、結局最後に飛び出すのは、唯一男の子が女の子にまさっている、筋肉の力。その粗暴な力に頼るほかない。

 今、ドメスティックバイオレンスが問題になっているが、根はそれと同じ。
 夫婦の場合は、妻の泣き寝入りに陥る場合が多いが、そうでない男女関係では、男は女の上に暴力でも君臨できない。暴力はそれゆえ、殺人まで突っ走る。

 男女共同参画社会などといううたい文句の陰で、いまだに古い男尊女卑の、あるいは父系性、男性上位の意識から抜け出せない日本人。その矛盾にこそ、思春期の男の子たちの、いわば苦悩がある。大人たちの感覚が、いまもって古いままで、「男はこうあらねばならぬ」「男のロマンだ」「男の甲斐性」式の発想を、子どもたちに押し付けているのだ。
 「女はこうあらねばならぬ」という古い鋳型が崩れ去ってしまった現在、男の子の価値観もまた新しい革袋に注ぎ直さねばならない。

 教育・そして家庭、特に大人たち全体の根源的な意識変革が今、緊急の課題なのではないか。

●小泉首相の後継者の筆頭が安倍晋三官房長官だそうだが、危険だ●

 安倍晋三官房長官のかつての発言を見ていくと、かなり感情的、ヒステリックなところが多々感じられ、場合によってはエキセントリック言動をもやがて表れてくるのではないかと思わせる。理性的な冷静な判断のできない人物なのではないだろうか。
 だとすると、後継候補の中で、最も危険な存在が安倍晋三氏ということになる。

 このことについては、もう少し観察、精査して、もう一度語ることにしよう