フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

詩一編「五月の夜に」

2006-05-15 19:22:30 | 詩と思想

       
      五月の夜に
      
    
    夜の闇に窓を開け放つと
    風が部屋の中を突然かき乱す
    よどんでいたハンバーグのにおい
    卵のケーキの焼けるにおいが
    湿ってひんやりする夜の空気のなかへ
    流れるようにまぎれていく
    五月のはじめの日
    漆黒の夜には
    分厚い雲がおおっていて
    求めているかぐわしさには
    行き当たらないのに
    五月は五月
    この暗夜もまた五月
    五月のうるわしさを
    どこからか漂わせるというのか

    ああ
    それなら 願おう
    この夜にもう一度見ることのないようにと
    若い日の五月の闇の美しさを
    そこに見ていた 切ない夢を
    夢のかけら散りばめた夜の
    悲しい想い出を
    五月の風の小さなそよぎよ けっして
    ぼくの心に 運び入れないように
    五月の若い風の息吹を
    若い日のそれと寸分も違わず
    頬に触れていくこの風ならば ぼくは
    あのとき夢見た
    遙かな幸福を
    手の届かぬ喜びを
    あこがれと希望の火を
    いまだに忘れないのだよ
    この五月の闇に懐かしさを知るときには

    
            
            [POEM-未完詩稿集から]

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五月は聖母月考。ある植物の学名から

2006-05-15 19:06:14 | 植物学・生態学

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●五月の「聖母月」考●

 五月はカトリック教会では「聖母マリア」にささげられた「聖母月」です。なぜ、五月が「聖母月」になったのか、聖母と五月の関係を、ある植物の学名にヒントをもらって、考えてみました。

 ◆植物図鑑◆

 ぼくは植物図鑑を3,4種類使っています。平凡社の大図鑑、保育社の図鑑シリーズのものがメインですが、この二種類は専門家も同定に使う図鑑ですが、保育社からは、一般の植物愛好家向けのものも出されています。北隆館から出されている「牧野植物図鑑」は絵がよくないのが欠点です。ほかにも大図鑑はいくつかあるのですが、基本的には上にあげた二つが双璧でしょう。

 さて、ここで話題にするのは、保育社から一般愛好家向けに出ている植物図鑑です。タイトルは『野草図鑑』(初版1984年)。山野にふつうに見られる野草を集めたものです。これは、長田武正氏の同定と解説、奥さんの長田喜美子さんの写真という、珍しい夫婦合作の図鑑です。実際には八冊を全部を持ち歩くことは難しく、簡単に描いたスケッチや撮ってきた写真や特徴のメモ書きをもとにして、家で同定するほかありません。けれども、ここには、夫婦の植物をもっともっとよく知ってほしいという切実な願いがあふれています。好著、と言えばいいでしょうか。全八巻あるすべての巻末に、テーマごとに植物学についての解説がわかりやすく書かれているのも、好感が持てます。別冊として索引と植物用語を解説のある小冊子が付属します。
 第一巻「つる植物の巻」を開いて、その巻末を見てみると、そこには「植物入門入門観察講座1」として、葉の形態についての説明がなされています。さらにその後ろには、「植物学名の話」として、リンネによって創意・工夫された二名法や種小名のラテン語などが解説されているのです。

 本文では、各植物名にそのラテン語学名が併記され、その読み方がカタカナで書かれているだけでなく、種小名のもつ意味が簡単に書かれています。現在では、一般愛好家向けであっても、和名、別名に、学名が併記されている図鑑はごくふつうになりましたが、当時として画期的なものでした。
 と、ここまでほめあげておいて、次は問題となった学名をあげつらうことになるのですが、けれども、その学名の訳語のまちがいこそが、今回のお話しのきっかけをつくってくれたものだったのです。

 ◆学名の意味にあったまちがいがきっかけ◆

 それは、この『野草図鑑』の第4巻「タンポポの巻」でした。そこには「アキノキリンソウ」の学名について、こんな風に書かれていたのです。

Solidago virga-aurea var. asiatica ソリダゴ ウィルカアウレア(黄金の乙女) 変種 アシアティカ(アジアの)(『野草図鑑』④「たんぽぽの巻」P85)

 これは初版でのことです。あるいは、後に訂正されたかも知れませんが、その点については確認していません。最近は書店でもまったく見かけませんので、あるいは絶版になったのかも知れません。それはさておき、いずれにしてもこのラテン語学名の訳語が、今回のお話しのいちばんのポイントなのです。 つまり、この種小名“virga-aurea”の訳語に問題があったのです。
 この図鑑では、「黄金の乙女」と訳していますが、これは明らかなまちがい。実際は「黄金の笏」という意味です。「笏」とは王などが手に持つ権力や権威を示す象徴としての棒のようなものを言います。そのまちがいは、この図鑑を見た当初にすぐに気づいたのですが、ずっと今まで、五月と「聖母月」との結びつきのヒントにはならないままでいました。この間から、五月を聖母月にするには何かいわれがあったのだろうか? という疑問が、急に心を占めるようになって、はっと、このまちがいのことを思い出したのです。
 訳語のまちがいが、ぼくにあるひらめきを与えたのです。


 ◆「アキノキリンソウ」と「アキノキリンソウ属」◆

 本題に入る前に、この花のこと、学名のことをちょっと書いておきましょう。
 日本でふつうに見られる「アキノキリンソウ」はヨーロッパ北西部から大ブリテン島にかけて山野にふつうに見られる「ヨーロッパアキノキリンソウ」を母種としています。変種名は、そのアジア版であることを説明しているのです。母種から若干の変異をとげたもの、と言うのが変種名の意味です。さて、その母種の学名、“Solidago virga-aurea”は、ヨーロッパでも古くから知られた植物でした。属名と種小名による二名法を開発した、かのリンネ自身がこの学名を付していることからも、そのことがわかります。
 今、属名と言いましたが、この「属名」は“Solidago(ソリダゴ)”、日本語学名は「アキノキリンソウ属」です。この属の植物は北米大陸にかなりの種が分布しているようです。そのうちの二種類は日本でも有名ですね。
 その理由は、太平洋戦争後、米軍によって日本にもたらされた外来植物として、他の在来植物を駆逐しながら日本で大繁茂してしまったからです。今では、日本国内いたるところで、ふつうに見られる雑草となってしまっています。その代表格が、やはり黄色い花を密生するセイタカアワダチソウ(学名 Solidago Altissima ソリダゴ アルティッシマ)と、オオアワダチソウ(学名 Solidago gigantea var. leiophylla ソリダゴ ギガンテア レイオフィルラ)です。頭花の密生する様子が遠目には黄色の泡を立てたように見えると言うことから、この名がつけられたものです。、秋の野のあちこちに黄色い花を咲かせます。
 なお、「アルティッシマ」は「最も高い」という意味で、音楽用語の「alto(あると)」でおなじみの“altus(アルトゥス)”=「高い」、「深い」などの意味=の形容詞の最上級、というわけです。一方の「ギガンテア」は英語の“giant(ジャイアント)”と同じ意味です。なお、その変種名として“var.”の後についている「レイオフィルラ」は「滑らかな葉をもった」という意味です。


 ◆“virgo”=処女=と、“virga”=若枝=◆

 さて、この種小名に間違った訳をつけたことについては、ラテン語をいくらか知っている人ならだれでも、大きな理由があったということがすぐにわかります。ほかでもありません。とてもよく似た言葉があるからです。
それは、“virgo(ウィルゴ)”という名詞です。これこそが「乙女」の意味の言葉なのです。英語のァージン“virgin”に当たるものです(というより語源なのですが)。 と言えばもうわかるでしょう。
 アキノキリンソウの種小名の、“virga-aurea”の“virga(ウィルガ)”とは、ほんの一字違いなのです。しかも、この“virga”の、「笏」の意味は派生的なもので、もともとは「若枝」「挿し木」などの意味をもっている言葉なのです。詳しく書けば、「今年新しく伸びた、緑の葉の新芽におおわれた、鮮度の高い枝」ということになります。
 この名詞は“viere(ウィエーレ)”=「緑色をしている、新鮮である、まだ一度も使われていない状態である」などの意味をもつ=という動詞から派生したものです。これは想像にすぎませんが、「乙女」の意味をもつ“virgo”もまた、この動詞にかかわるものではないでしょうか。「新鮮で、未使用である」という意味も含まれているからです 。また、この動詞からは「緑の」、「若々しい」と言う意味の“virens(ウィーレンス)”や“viridis(ウィリディス)”という形容詞も派生しています。「緑の枝」が萌え出す時節にふさわしい言葉です。

 つまり、「乙女」の意味の“virgo”も「緑の新芽をもった若枝」の“virga”も同根の単語だと考えると、「聖母月」が五月とされてきた意味が分かるように思われるのです。五月はヨーロッパでは、新しい枝が伸び、新芽が伸び、あるいは花のつぼみを膨らませる季節です。“virga”の五月を、“virgo”の五月と連想し、関連づけようとするのは、人間にふつうの心理なのではないでしょうか? 日本では「聖母マリア」という呼び方がふつうですが、ヨーロッパでは「ノートルダーム」という呼び名や「乙女マリア(Virgin Mary)」などのような呼称が一般的ですから、“virgo”=乙女マリアを連想するのは不思議なことではありません。

 ◆ヨーロッパの二元論的発想と日本の一元的感性◆

 これは余談ですが、あるいは、ヨーロッパでは、「聖母マリア=神の母」であることと「乙女マリア=聖処女」であることとは、一体のものとして認識することにある種の抵抗があるのかも知れません。一種の使い分けをしているような感じを見受けます。日本人の場合はあるいは、最初から「乙女マリア」という認識そのものが欠落してしまう傾向にあるのでしょうか? 隠れキリシタンがなぞらえたという「慈母観音」には、「聖処女」のイメージはまったく付与されていませんから、案外このあたりに、ヨーロッパと日本との女性観の違いが現れているのかも知れませんね。 もともと日本人は女性の処女性を大して重要視しておらず、むしろ生産との深い関連を感じさせる母性のほうにこそ、女性の本質を見ようとしていたのかも知れません。
 ヨーロッパでは、「母性」と「処女性」とを、「永遠の乙女にして神の母マリア」としてどちらかというと二元的なものの統一体を観念としてとらえるのに対して、日本では、あるいは二元的なものの統一という発想は、生まれ得ないものだったのかも知れません。二元的なものの統一ではなく、二元的なものの一方を他方に無媒介的に吸収してしまうか、最初から統一体とすることをあきらめて、一方を完全に切り捨てて平気でいられる、という感性をもっているのかもしれません。

 このことは、日本人の自然観にも大きな問題をはらませることになった、とも言えるでしょう。対立項となる二つのものの闘争と統一あるいは止揚という発想がないために、ずるずると自然破壊が連続する、ということにおいて。

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手段と目的

2006-05-09 19:56:34 | わが断想・思想の軌跡

◆手段と目的◆

● 物理的な手段をとるとき

その手段の“物理性”あるいは“物理特性”によって、目的なり目標は制約を受けること。
手段が目的を制約することがあること。

●選択基準 最も便利

      経済効率のよいもの
      経済的効果の高いもの
      立派という基準
      倫理的基準として、“善”は?

◆ “善”の定義の問題◆

●団体が選択する場合

  
主体はその団体。団体を構成する個人ではない。団体における倫理ないし倫理綱領の必要性。 しかし、団体を構成する個人の倫理との二重性あるいは二層構造において、団体の倫理の読替をどうするか。

●モラルとマナーの問題。モラル≠マナー

 モラルは内化するが、マナーは外化したもの。マナーは内化しない。マナーの形式性→ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を再読のこと。

●「天知る地知る己知る」の理念

 儒教思想との関連の考察

●知の作業

 理念の創造。ideaの形象化。
 理念に具体を一体化させようとする意欲のもと。
 内面化する作業。知力。
 “恥じ”の意識との関連は?
 理念に一体化され得ないことは“恥じ”の意識を生むか。理念に一体化され得ない自己の具体に対する感情的反応が“恥じ”ではないか? 正義の意識ではなく「美」の意識がそこにある。

 日本では形象化されないideaは“恥じ”の意識を生む。それはideaが美であり、それを形象化する行為そのものに、日本人は美意識を感ずるからだろう。ideaの実現が義であるというのが、ギリシアの意識ではないか。あるいはオリエントの意識。


◆アリストテレスの『ニコマコス倫理学』◆


 Nikomachosは、アリストテレスの甥っ子で、アリストテレスの倫理学講義をまとめた。

●“目的”の自明性を前提
 
 “目的”を実現するための可能な“手段”を、ほぼ同時的な物として列挙し、その中から、最も“立派”で、最も“容易”な“手段”を選ぶ。

◆現代では“手段”の自明性が前提される◆

●まず“手段”から実現可能な“目的”が多数導き出され、それらの“目的”から選択がなされる。

 その選択基準は、1,最も便利。最短で達成できる
         2.最も効果の高いもの
         3.最も経済効率のよいもの
 倫理学的な見地からはこの選択基準に、もうひとつ、アリストテレスのごとく“立派”が入る。

 逆に見ると、“目的”は用いることのできる“手段”によって制約を受ける。特に、“手段”の“物理特性”によって、“目的”はその“物理的制約”の枠内に押し込められる。

●「時は金」という思想の近代性。

 機械的な時計のもたらす時間。
 それに基づく賃金体系が、「時は金なり」の基本にある。
それまで職人は、成果主義による報酬だった。

1524年の「コヴェントリの賃金規定」=「八十ポンドの毛織物一反織る賃金五シリング」
1563年「徒弟法」=
「すべての職人および労働者-日給または週給で雇われる労働者は、三月中頃から九月中頃の期間では、朝は時計の示す五時または五時前に仕事につき、夜は時計の示す七時と八時の間まで仕事を続けるべし。ただし、朝食、午餐あるいは飲酒の時間を除く。その時間は多くても一日に二時間半を超えてはならない。九月中頃から三月中頃までの期間については、職人・労働者は朝は夜明けから晩まで、朝食と午餐のために定められた時間を除いてはたらかねばならない。それに違反した者は、怠惰一時間につき一ペンスを賃金から差し引かれるべし。」

 一時間さぼったために日給から差し引かれる一ペンスがいかに過酷なものであったかは、当時の実労働時間約十二時間半の労働者の日給が、だいたい六-七ペンスであったことを思えば想像がつくであろう。これによって「タイム・イズ・マニー」が既に現実生活の中で重みをもっていたことがわかる。
以上『時計の社会史』(角山栄著、中公新書1984)P20~21から。

 
●技術的な抽象とモラル

 
科学技術の成果。つまり、複雑な経過、プロセスを捨象する近代技術によって、操作技術・技能の習得という経過を不要にするシステム。
 現代の手段のあり方。この抽象された手段こそが、近代技術による人間の疎外をもたらしている、考えるべきだろう。疎外はモラルハザードを生む。そのモラルハザードの成果こそ、現代の社会のモラルの堕落を生んでいる。

 マナーとモラルの違いは、社会へのそれぞれの人間の内的参加(=モラル)、外的参加(=マナー)としてとらえてみよう。内的参加をバックボーンとしてはじめてモラルはそれぞれの人間によってそれぞれのうちへと内化される。

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詩一編:「恨みよ溶けよ憎しみよほどけよ」

2006-05-09 16:38:39 | 詩集『愛に生きたい』から

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     恨みよ溶けよ憎しみよほどけよ       
       
 人は、誰かを恨まずにいられないときがある。誰かを恨み、誰かに暴言を吐きかけ、ようやく自らであると思えるときがある。自らの矜持にかけて、自らをかろうじて支えるために、怨みの火をかき立てるときがある。傷つき、ずたずたにちぎれ、ぼろぼろに崩れそうになる心を、激しい熱に焼きながら恨む。傷ついた魂をなおいっそう痛ませて、恨みに恨み、なおも怨む。
 憎しみもまたそうである。憎しむことが彼のあるいは彼女のエネルギーとなるときがある。憎しみにすがりながら、絶望する未来の淵からはい上がろうとするときである。そうたしかに、人は恨みにかられて恨み、憎しみに追われて憎しむ。恨みたくて恨み、憎みたくて憎む。その心にはだが、いつかこの思いほどけよと、せつない願いが渦巻いている。固く結ぼれた怨みよ、憎しみよ、きっといつか溶けよ、解けて流れ出よと。氷のように冷たい切っ先をもったわが憎悪よ、わが身を撃つなと。
 そのためにはしかし、彼の彼女の憎しみよりさらにいっそう大きな翼が、彼の彼女の恨みよりもっともっと力強い柔らかな翼が、彼を彼女を愛と赦しの大地へと、運ばねばならぬ。彼を彼女を碧空のもとに包まねばならぬ。彼を彼女を幸福へと羽ばたかせなければならぬ。すべの傷をくるみ、抱き留め、じんわりと癒す大きな大きな寛容の翼、
その愛の羽毛が、彼を彼女をあたたかくゆるさねばならぬ。

 だから、その心にかろうじて祈ろう。その肉体に叱咤して祈ろう。憎悪より熱いエネルギーよ、恨みより深い熱誠よ、矜恃より高い希望の火よ、いまこの心に燃えよ。赤々と燃え上がり、轟々と音立てて、愛、愛ひと筋に、その胸に燃えよ、と。
 恨みよ溶けよ、憎しみよ溶けよ、恨みよほどけよ、憎しみをほどけよ、と。
       
            

            [POEM-詩集『愛に生きたい』から]

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サンカヨウのこと、学名のこと

2006-05-06 00:36:55 | 植物学・生態学

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●サンカヨウのこと、その学名の“grayi”のことなどなど●

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サンカヨウ(メギ科サンカヨウ属)

 「サンカヨウ」はメギ科サンカヨウ属の植物です。花はこのように白く、中部では亜高山に群生していますが、東北へ行くと、たとえば尾瀬沼畔にも群生します。花後、濃紫色の果実をつけますが、この果実はどうやら食べられるようです。とは言え、それほどおいしいというわけではありません。ほどほどにジューシーで甘みもまあまああります。ぼくは若い頃から何回か食べていますが、いまだに生きています。一度にたくさん食べなければ、体には問題がないのでしょう。非常食代わりに使えるかも知れません。

 メギ科の代表種「メギ」は、生け垣などに用いられる落葉低木です。木肌に小さなとげがあるため、防犯の意味ももたされているのでしょう。「メギ」は「目木」で、葉や木部を煎じて洗眼に用いたことから名付けられたものです。
 メギ科のラテン語名は“Berberidaceae”。もともとアラビア語の名の同じ科の木の名からとられたもののようで、残念ながら、その意味はわかりません。この科の植物には、ベルベリンというアルカロイドを含むものが多く、たいてい薬用にされます。日本で最も有名なものに、実を煎じて咳止めに用いる「ナンテン(南天)」がありますね。樹皮は知覚に関する末梢神経を麻痺させる力もあるといいます。
 また、ハーブの本では、北アメリカ大陸のアメリカ西北部からカナダ西部にかけて自生する、同じ仲間の「ヒメヒイラギ」が、皮膚病の治療や食欲増進剤として用いられると書かれています。

 さて、肝心の「サンカヨウ」ですが、漢字では「山荷葉」と書きます。意味は不明です。もともと中国原産のユキノシタ科の植物にこの名があったものを、日本で取り違えて、この名がつけられたともいわれています。
 学名は“Diphylleria grayi”と“D.cymosa ssp. grayi”という二通りがあります(D.は“Diphylleria”の略)。属名“Diphylleria(ディフルレリア)”はギリシア語起源の言葉で、「二枚の葉をもったもの」という意味をもちます。属名通り、たしかに茎の上部にたった二枚だけ、大きな葉を互生するのです。その上側の葉のすぐ上に花を5,6個ひとかたまりのようにしてつけます。
 “cymosa(クモーサ)”は、「集散花序の」、「集散花序をもつ」というラテン語種小名です(形容詞の女性形)。花の付け方が簡単な「集散花序」となっているからです。茎から枝分かれした側枝にもいくつか花をつける、枝々に分散して花のかたまりをつけるタイプをいいます。

 この花は、非常によく似たものが、北米大陸にもあり、日本の中部地方以北からサハリンにかけて分布するものと、北米大陸に分布するものがまったく同じ種であるとする立場では、学名ははじめにあげた方の“D. grayi”とします。
 両方は全く同種というわけでなく、形態上の違いがかなりあるという立場に立った場合には、後者の学名が用いられます。このとき、北米産が母種(基本種)とされますので、北米産のものの学名は“D. cymosa ssp. cymosa”となり、日本などに産するものに“D. cymosa ssp. grayi”という学名がつけられます。

 ところで、この“grayi(グラウイ、グレイイ)”は人名“Gray(グレイ)”を、「グレイの」という意味にするために、名詞を所有格(ラテン語文法では「属格」と言います)にしたものです。人の名前の所有格(属格)をつくるには原則として、人名の綴りの末尾に、“i”か“ii”をつけます(男女同形、末尾が“a”のときは“e”)。つまり、グレイという人物にちなんだ名ということですが、北米産の植物などにはこの「グレイ」の名がよくつけられています。
 このグレイは、ダーウィンの進化論のアメリカ合衆国における最初の支持者となった、アメリカ合衆国が誇る植物分類学者、エイサ・グレイ(Asa Gray、1810~88)のこと。進化論発表の先取権をダーウィンが主張するために、エイサ・グレイ宛の手紙が用いられているのです(手紙は、1858年7月のリンネ協会で発表されました)。
 なお、グレイは長く、ハーヴァード大学で自然史を講じていました。その関係からでしょう、ハーヴァード大学植物学研究室は、グレイの収集した植物標本や蔵書をもとにして設立されています。
著書には、しばしば「グレイのマニュアル」と略称されて長く親しまれてきた『合衆国北部の植物マニュアル』(1848)などがあります。

 日本原産の植物についても、植物学者グレイに献じられた学名があります。若い頃に調べたリストが残っていましたので、ここに列記しておきましょう。

○イソスミレ=Viola grayi(ウィオーラ・グラウイ)……スミレ科スミレ属(ウィオーラ=スミレ属)
○ノビル=Allium grayi(アルリウム・グラウイ)……ユリ科ネギ属(アルリウム=ネギ属)
 「グラウイ」が正しいラテン語読みに近いのですが、通俗的には「グレイイ」と読むことが多いようです。

 さらに「グレイを記念して」あるいは「グレイに関する」というような意味の形容詞とする場合には、次のようにします。
 男性形=“grayanus(グラヤヌス)”
 女性形=“grayana(グラヤナまたはグレイアナ)”
 中性形=“grayanum(グラヤヌム)”

 この形容詞を種小名に用いたものには、次のようなものがあります。

○ウワミズザクラ=Prinus grayana(プリヌス・グラヤナ)……バラ科サクラ属(プリヌス=サクラ属)
○ネコノメソウ=Chrysosplenium grayanum(クリソスプレニウム・グラヤヌム)……ユキノシタ科ネコノメソウ属(クリソスプレニウム=ネコノメソウ属)
○ハナヒリノキ=Eubotryoides grayana(エウボトゥルオイデス グラヤナ)……ツツジ科ハナヒリノキ属

 アメリカ原産のものは、おなじみがないので省略します。

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