●里芋・マムシグサ・水芭蕉●
ヒガンバナ(曼珠沙華まんじゅしゃげ)のシロバナ品種。
この根(球根)をすりおろしてから5,6回水でさらすと、アルカロイドを除去することができ、かなり良質のデンプンが精製できる。
◆四つの農耕文化と照葉樹林文化◆
里芋が栽培作物として日本列島に入ってきた時期は、前回指摘した風土記の成立以前であったことは間違いないのですが、では具体的にいつ頃か? というと、有力な仮説はあるにしても、いまだこれと断定できる事実は知られていません。
現在までのところ、里芋の渡来が恐らく縄文時代の早い時期、遅くとも縄文前期であったろうとする説が最も有力です。縄文時代は地球が温暖な時期にあたり、南方からの熱帯性の食用植物の伝播もある程度は可能であったと思われるからです。その温暖な気候の証拠となる里芋がレリクト・クロップ(「遺存作物」または「廃用作物」)として、長野県や鳥取県には見られるというのです(これについては後述します)。そして、この説の背景にあるのが、「照葉樹林文化」なのですが、それがどれほど説得力をもつ魅力的な説であるにしても、考古学的に実証されたという話はこれまでのところ聞かれません。
その理由もはっきりしています。
一つには、定住農耕をするようになったとされる縄文中期ないし後期以降なら、そのような栽培遺跡を発掘することも可能です。その場合、ごくごくわずかな偶然の助けが必要であるにしても、何らかの微細な痕跡を手に入れることは、まったく可能性がないわけではありません。けれども、それ以前の何年かごとに移動して農耕を行っていた「焼き畑農業」では、そのような遺跡は残りようがありません。それぞれの農耕地は5年か6年ごとに放棄されて、その後は雑木林になってしまうからです。農耕遺跡そのものが消滅するのです。
もう一つは、日本の里芋はほとんど花もつけず、その結果種子もつくりません。種子から栽培するのではなく、種芋からコピー(つまりクローン)をつくるという栄養繁殖によって苗を殖やして栽培しますから、固い殻をつけた種子が土中に残ることもありません。多くの植物の種子は、大賀ハスの開花でも知られているように、土中に眠りながら何百年も何千年も発芽のときを待つことができますが、種芋では腐ってしまいます。つまり、里芋栽培が遺跡から考古学的に発掘されることはまず期待できないのです。
縄文期の栗の木の栽培で知られる青森県の三内丸山遺跡から、真っ黒に炭化した多数の食用植物が出土していますが、芋に関しては、里芋も山芋もまったく出土が報告されていませんから、痕跡を探し出す困難さは知られるでしょう(まったく栽培されなかったという可能性も否定できませんが、縄文期が温暖期であったことを考えると、その可能性はきわめて低いと思われます)。
考古学的な実証はされなくとも、アジアにおける農耕文化の歴史として、その伝播の経路をたどるという研究から、初期の農耕民族にとって、里芋がどのような地位にあったかが知られるようになってきています。つまり、現在の空間的な広がりのなかの農耕文化、民族文化を、農耕の歴史展開へと置き換えてみるという手法から、里芋が「照葉樹林文化」における重要な作物の一つであったことが知られてきたのです。考古学的な実証の代わりに、近代になお並存する多様な農耕文化の形態を、時間的な推移軸にそってとらえ直そうというのが、「照葉樹林文化」の考え方の重要なポイントのひとつだからです。
ヒトツバテンナンショウ
さて、「照葉樹林文化」という概念は最近あまり関心が払われなくなっていますが、「文化」をとった「照葉樹林」は植物地理学の世界では基本的な用語の一つです。
「照葉樹林」とは、「照葉樹」が優占する森林のことです。その「照葉樹」とは、光が当たるとてらてらと輝くように見える常緑樹のことですが、それは葉が厚ぼったくてすべすべしているからです。まさに読んで字のごとしです。ツバキの葉を連想していただければいいでしょう。東北地方以北を除く日本の太平洋岸側の多くの暖温帯の森林が、この照葉樹を中心にして構成されています。それを「照葉樹林」と名づけるのです。タブ、トベラ、スダジイ、マテバシイ、シラカシ、アカガシ、アラカシ、ウバメガシ、モチノキなどがその代表的なものです。そうそう、クスノキもそうです。
「照葉樹林」という用語について、植物地理学の泰斗であった故吉良竜夫氏が『照葉樹林文化』(中公新書、1969年=上山春平氏編)の対談の中でこんなことを言っています。
しかし、照葉樹林ということば自体は、外国語からの訳語で、原語は、ドイツの人たちが1915年ごろから使い始めたLaurisilvae(ラテン語)またはLorbeerwalder(ドイツ語)です。それは日本の森林を見て命名されたのではなくて、地中海気候の地帯で、すこし高い山に登ると、雨量が多くなって低地とはちがった森林がでてくるのですが、それに対してLaurisilvaeということばが与えられたのです。日本の常緑広葉樹林をそのカテゴリーにふくめ、「照葉樹林」という訳語をつくったのは、当時東大の教授であった中野治房博士でしょう。1930年ごろのことです。(同書P66・P67)
なお、現在は、地中海気候のもとで、オリーブ、コルクガシなどが優占する森を「硬葉樹林」と呼びます。照葉樹林は暑い夏に輝きますが、硬葉樹林は冬の硬質な輝きが見逃せないのです。その冬の輝きはやはり夏の日差しのもとでのものとはかなり違うからです。Laurisilvae(ラウリシルヴァーエ)もLorbeerwalder(ロールベールヴェルダー)はともに、「月桂樹の森」という意味です。月桂樹(ローレル)に代表される硬葉常緑樹が優占する森のことです。
このように、「照葉樹林」は戦前からの、しかももともとの意味とはすこしずれた輸入概念でありましたが、一方の「照葉樹林文化」という言葉をはじめて使ったのは、故中尾佐助氏でした。中尾氏はその著書『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書1966年初版)のなかで、こう書いています。これも引用しておきましょう。
東南アジアの熱帯雨林の中でおこった根栽農耕文化は北方に伝播し、温帯林である照葉樹林に到達する。環境の変化に応じておのずから農耕文化基本複合の変化をおこしてくる。いまや純熱帯性のバナナの栽培は不可能である。ヤムイモでは別の温帯性の野生種から栽培種を作りあげなければならない。タローイモの中からは、サトイモの一部だけが温帯で栽培できるだけである。照葉樹林の中で、こうして発達してきたのが照葉樹林農耕文化複合である。この文化は熱帯のものより根づよく、高度に成長していくことになった。その文化は、農耕文化複合以外の文化複合の上からも把握できるので、ここでは照葉樹林文化と呼ぶことにする。日本の農耕文化は直接的に照葉樹林文化の一端となるものである。(P62・P63)
ここで言われる「農耕文化複合」とは、稲や小麦などそれぞれ単一の作物だけをばらばらに取り上げるのではなく、それらの作物を中心としたさまざまな農作物の組み合わせを一つのセットとしてとらえ、一つの農耕文化として考えようとするものです。
たとえば小麦を中心とする「地中海農耕文化複合」では、小麦・大麦を中心として農耕が行われますが、小麦や大麦などの畑に混じって生える雑草からさらに、ライ麦、エン麦などが作物化してきます。そして、エンドウ豆、ホウレンソウなどの作物、ウシ・ヒツジ・ヤギ・ウマ・ロバなどの家畜飼育が密接に絡み合った独特の農牧兼業の農耕文化複合をつくりあげます。そこにはまた、これらの農牧業に関する祭祀・宗教儀礼や、土地制度・家族制度なども当然含まれます。そしてそれらは、その地域一帯の社会制度、婚姻儀礼あるいはタブー(禁忌)などと複雑に絡み合って、その「農耕文化複合」に共通する特有の文化を創出します。そのように考えると、農業だけでなく、商工業、政治制度、思想、芸術なども含めた地中海地帯の文化の総体として大きくとらえることができるわけです。
いま、例としてここにあげたものは「地中海農耕文化」と言われるものです。
中尾氏は、この同じ考え方で、世界の農耕文化を四つの類型に分類します。
一つは、「根栽農耕文化」です。
中尾氏によれば、「根栽農耕文化」は、ヤムイモ・タローイモ(タロイモ)という根栽に、バナナとサトウキビを組み合わせたものを言うようです。作物としてはこれにパンノキやインドコンニャク、ハトムギなど若干のものが加わります。先に「照葉樹林文化」について引用した部分では、人類がはじめて栽培化した作物がバナナであることを踏まえて書かれています。食料作物を栽培するという発想が伝播したとしても、気候条件のほうが人類最初の栽培作物であるバナナの伝播を許さなかったというわけです。
このバナナは熱帯アジアの雨林にはふつうに見られるものですが、もともとの野生のバナナの果肉は細かい種だらけで、食べるのには大変な困難があります。このような野生のバナナとの長い年月のつきあいの中で、熱帯アジアの人類はたまたま受粉しなくても果肉を実らせたバナナに出会ったのです。受粉していないのですから、果肉の中に種子は形成されていません。当然、人類は喜び勇んでこのバナナを守り育てようとします。このとき、バナナは人類の日常の食料としての道を確実に歩み始めます。きっとさまざまな試行錯誤があったことでしょう。けれども、人類はこのバナナを自分たちの住居の周りで多数育てることに成功しました。それこそが「栽培」というものの始まりでした。
人類に食べ物を「栽培する」という思想をもたらしたのがまさにこのバナナだったのです。
二つ目は、この「根栽農耕文化」が北方へと伝播・影響して成立した「照葉樹林文化」です。上で、中尾佐助氏の著書から引用した部分がそれです。この「照葉樹林文化」は「根栽農耕文化」を受け取り、照葉樹林の環境に適合させたいわば二次的な文化とみなされています。
三つ目はアフリカのサバンナから起こったとされる雑穀中心の「サバンナ農耕文化」。これが東アジアまで伝播して、各地で特徴ある雑穀や果菜類を生み出します。たとえば、雑穀ではシコクビエ・キビ・アワ、果菜類ではナス・ウリなどです。
そして四つ目は、上に例として紹介した「地中海農耕文化」というわけです。稲作はこのうち「サバンナ農耕文化」の周辺部地域で発生したというのが、中尾氏の説です。
カミコウチテンナンショウ。上高地特産である。
◆照葉樹林文化と縄文文化◆
上の引用でもわかるように、熱帯アジアの「根栽農耕文化」が北へと伝播したとき、それまで利用されてきたヤムイモやタロイモは、地球が比較的温暖であった当時(紀元前5000年前後をピークとする時期)であってもなお、気候が若干涼しいために野生から手に入れることはできませんでした。けれども、「根栽の利用」という思想は伝播していましたから、照葉樹林の人々は、そのイモに代わるものを探したのだと思われます。
中尾氏によれば、その最初の利用は、なんと同じサトイモ科ではあるけれども、現在は見向きもされないマムシグサでありました。マムシグサの根を利用したのです。けれども、マムシグサは根も茎も毒をもちます。その成分はシュウ酸カルシウムの結晶で、食べれば一発で死ぬかも知れないというような毒、植物毒で名高いアルカロイド系の毒ではありませんが、口の中が麻痺し腫れ上がるほどの毒性をもっています。ほんの少し口に入れるだけでも、苦みやえぐみが非常に強くて、とてもまずい。食べるには、この毒を何とか処理しなければなりません。しかもこのシュウ酸カルシウム、水に溶けません。
そのため、毒処理の方法は「ゆでる」という加熱によるものでした。このような加熱処理をする食べ方は、いまの日本にもわずかに残っているとして、中尾氏は、次のように書いています。
離島の伊豆御蔵島や八丈島ではシマテンナンショウ(Arisaema negishii=アリサエマ ネギシイ)の野生球根を掘り、ゆでてから皮をむき、臼でついて餅のようにして食べる。(前掲書P64)
けれども、この餅はかなりひどい味がしたようです。佐々木高明氏の『照葉樹林文化の道』(NHKブックス、1982年初版)には、こうあります。
……、それはアク抜きをしたとはいうものの、舌に当たらないようにまる呑みしなければならないほど、非常にえぐい食べものだったようである。(同書P41)
これほどまずいものであっても、とにかく腹に収まりさえすれば、飢えをしのぐことができたわけですから、ヒガンバナなどと同様に、救荒植物として貴重なものであったと言えます。それに、シマテンナンショウはこれらの島では照葉樹林の林下にたくさん自生していて、芋も大きく育ち、掘り出すのも簡単であるということです。
ヒガンバナが稲作と同時に日本に伝わり、稲の不作の年には、大切な救荒植物となったのと好対照です。こちらは、里芋や山芋の利用より先に始められた「根栽」利用の形態であるからです。また、ヒガンバナはその根をすりおろしてから水で何度もさらします。それに比べると、根を加熱して餅にする方法は、「水さらし」処理よりも、いっそう古いやりかたであるとされています。「水さらし」であれば、えぐみもほとんどとれますから、「まずい、まずい」と言いながら、無理に食べるというつらさからは脱することができるのです。ヒガンバナのアルカロイドが水溶性であったことが、ヒガンバナの利用を「水さらし」の方法へとたどり着かせたのでしょう。
佐々木高明氏の前掲書では、この熱処理法は照葉樹林文化の発明ではなく、どうやら熱帯アジアの「根栽農耕文化」から導き入れられたもののようです。
しかし、このような加熱処理によるアク抜きの方法は、照葉樹林帯ではやや例外的なもので、それはかならずしも普遍的にみられた現象とはいえないようである。むしろ加熱処理によるアク抜きは照葉樹林帯ではなく、熱帯森林地帯にひろくみられる技法のように思えるのである。
例えば、インドや東南アジアからオセアニアに至る熱帯地域のどこでもよく見かける巨大なイモに、インドクワズイモ(Alocasia indica=アロカシア インディカ)というのがある。タロイモの一種で、太くグロテスクな茎のようなものが出て、その上に大きな葉がいくつも直立し、丈の高いものは二~三メートルにもなる。太く茎のようにみえるのがじつはイモである。このイモはひどく苦いため普通には食べることはないけれども、飢饉のときなどには救荒食として食べることが少なくない。そのときには、たいていイモをよく煮てから、水にさらす加熱処理法が用いられるという。(同書P42・P43)
このように、インドから東南アジアをへてオセアニアに至る熱帯森林地帯には、加熱処理によるアク抜きの技法がひろく分布していることが明らかになったが、水さらし法については、その分布はかならずしもひろくはないようである。(同書P43)
この水さらし法について、先の中尾氏の著作に戻って見てみましょう。
(「水さらし技術」という)この多量の水を使用する技術は、その人々の生活する場所を限定する傾向が生ずるはずである。しかしこの技術を獲得すると、照葉樹林の中で食料をうることは容易になる。秋になるとドングリ類が主力である森林の中では、ものすごく多量に食べ物が降ってくる。トチノキの実も同様で、これらは水さえあれば、容易に食糧化しうる。野生の球根、イモ類も、同様に食べやすくすることができる。また、カタクリのように、あるいはクズやワラビのごとく。食用としてすぐれたデンプンが得やすい。水さらし技術は原始人にとって、食糧獲得をいちじるしく容易とし、人間の生活の安定をもたらした。(前掲書P65・P66)
つまり、われわれ日本人のかつての生活様式、縄文文化の狩猟採集生活の一つの柱である、デンプンの利用の方法が、ここにあらわれてくるのが見てとれます。まさに、われわれの縄文文化とは、この照葉樹林文化の中にあらわれた一つのタイプであったのです。
これがバナナを栽培化した「根栽農耕文化」からの影響のもとに発達した文化であるとすると、縄文文化がその最初から、単純な「狩猟採集生活」のレベルではなかったのではないかという見解も、なるほどうなづけます。熱帯雨林の中で「根栽農耕文化」が手に入れた「栽培」の思想が、照葉樹林帯への文化の伝播の中でいっしょに伝わって来なかったというのは、やはり考えにくいことだからです。狩猟という点についてはこれまで通りの見方でよいのでしょうが、単純な「採集」生活であったかどうかということについては、縄文時代のきわめて早い時期から、少し考え直してみたくなります。
ここに「半栽培」という概念が生ずる余地があります。
「半栽培」とは、近代的な栽培とは違い、たとえば野生の食用になる里芋があれば、その草や蔓は残して、他の草を排除する。あるいは、どこか遠くで見つけてきたトチノキの苗や種を自分たちのすまいの近くに植える。けれども、積極的に施肥をしたり、間引いたり、剪定をしたりというような世話は焼かない。消極的に成長を保護するわけです。それを「半栽培」と呼んでいます。これらは、すでに「根栽農耕文化」において取り入れられていましたから、その農耕思想が伝播するときには、当然「照葉樹林文化」の一帯にも伝わっていたことでしょう。
ここで、再び佐々木高明氏の著作を見てみましょう。
ところで、《水さらし法》という高度なアク抜きの技術を開発した照葉樹林帯では、野生の植物を単に採集・利用するだけではなく、いく種類かの植物については、「栽培」とまではいかなくても、人間の側からある種の「保護」や「管理」を加えることにより、よりよく利用するということが行われていたと考えられる。(前掲書P46)
このように人間によって何らかの保護・育成の手が加えられたような植物を、私はここで「半栽培植物」とよぶことにする。私たちの身のまわりでは、ヒガンバナやワラビのほか、テンナンショウやウバユリ、クズなどのような野生のイモ類は、いずれも自然状態で野生はしているが、その分布はやはり人里の付近が多く、人間によって改変された環境を生活の場として繁殖している。そのことから一種の半栽培植物といえるものである。またトチやクリやクルミのように大形の堅果類を産する樹木も、多くの場合、伐採や山焼きの際には保護されていることが多く、また、カジノキやウルシなども古くから人間が利用を行うために管理しており、広い意味でやはり一種の半栽培植物であったと考えてよい。(P47)
このことは、最近、青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの栽培痕跡を思い出させます。三内丸山遺跡の時代(縄文前期から中期)にはすでに、クリが「半栽培」という消極的な栽培ではなく、もっと積極的な「栽培」へと移行していたことがわかります。三内丸山遺跡では、栽培されたクリが主食であったというのが今のところの定説です。また、この遺跡からはマメ類、エゴマ、ヒョウタンなども出土しており、縄文文化前期には、高度の農耕文化を達成していたことが知られます。けれども、先に書きましたように、ここからイモ類は出土してません。それは、繰り返しになりますが、イモ類が腐りやすく、遺物として残らないからです。
また、クリをはじめとする堅果類、カシやシイの実は、人間だけでなく、リスやねずみなども大量に食べますから、これらの実を大量に確保するためには、自然の状態で放っておくわけにはいきません。単純な競争となれば、人間はこれらの小動物には勝てません。いまでも、ちょうど熟した頃には、さっさと彼らの食べ物となってしまっていて、「あぁ、やられた!」とほぞをかむということはよくあることです。そのような失敗は縄文の時代、生存のためにはけっして許されませんから、彼らよりも先に確保する方法を編み出すほかありません。それが、管理、あるいはその樹木の保護・監視ということへと結びついていったのでしょう。
クリはしかし、他の堅果類に比べると、水さらしをしてアク抜きをする必要のないすぐれた食品でした。ブナの実も水さらしを必要とはしませんが、非常に実が小さい。現代でも東北地方のブナ林近くの山里では、秋から冬にかけて、ブナの実をフライパンで煎って塩を振って食べますが、たいてい酒の肴にしかなりません(とってもおいしいですけれど)。また、現代でも栃餅として知られるトチノキの実は、水さらしをしないと食べられるような餅にはできません。いわゆるドングリと総称されるコナラやクヌギ、シイの実などもえぐ味となるアクを水でさらさなければ食べられません。縄文時代の人々が、数ある堅果類の中からクリを選び出したのには大きな理由があるのです。
ウバユリ。根をつぶして水にさらし、デンプンをとった。甘いそうである。
◆照葉樹林文化における里芋◆
純粋に野生のサトイモはベンガル湾に面する湿った熱帯の半陰地にきわめてたくさん野生している。カルカッタに行くと、飛行場から都心に行くまでのあいだに野生のサトイモを車窓から見ることができる。この野生のサトイモの特色はやや小型で、クサイチゴの蔓のような、長さ一メートル以上にもなるランナーを出すことである。(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』P37)
野生のサトイモの起源は熱帯であるというのが、中尾氏の説です。もう少しサトイモの説明を引用してみましょう。
サトイモはオヤイモ用品種、コイモ用品種など、いろいろ区別されるが、オヤイモ型が原型である。日本ではサトイモは二倍体品種と三倍体品種群に分けられ、形態もそれに対応しているが、東南アジア、オセアニアのサトイモでは三倍体品種が日本と形態的に合わない点がある。四倍体品種も存在している。
げんざい、サトイモの品種が一番豊富で経済的にも重要なのは。インドのアッサム州のナガ・ヒルで、そこにはサトイモを主食としている部族もある。マレー半島以東の島々では、サトイモの品種はたぶんあまり多くない。それらの島で野生しているサトイモはレリクト・クロップと判断される場合が多い。これらの状態を総合すると、サトイモはバナナやヤムイモの場合のマレー半島付近の起源地と異なり、すこしく西方になるビルマ・アッサム付近が起源地としての可能性が大きい。(同書P37・P38)
サトイモの起源をビルマ(現ミャンマー)からアッサム地方にかけての一帯と推定しているのですが、先にも説明しましたが、「レリクト・クロップ」とは、“relict crop”。つまり、「廃用作物」あるいは「遺存作物」と和訳されるものです。かつては作物として栽培されていたものが、栽培放棄されたまま、野生化して自生している状態となっているものをいいます。
ここに書かれている「二倍体」、「三倍体」、「四倍体」については、有性生殖という点から説明しなければなりませんが、ここでは基本的なことだけを書いておきましょう。
「N倍体」とは、染色体のセット数を表すものです。「二倍体」とは染色体の基本の組み合わせが2セットあるという意味で、生物にとってはこれが有性生殖するための基本的なセットです。有性生殖の場合、受精卵はまず減数分裂をして、「二倍体」が二つに分かれて雌雄の染色体を交換します。交換して後細胞増殖を始めますから、そのときはまた「二倍体」に戻っています。動物の場合は必ず「二倍体」でないと、さまざまな成長異常が現れますが、植物の場合は、なかなかその辺が融通無碍。「二倍体」どうしが、たまたま減数分裂をしないことがあると、子の染色体数は4セット、つまり「四倍体」になってしまいます。子の「四倍体」が成長して親になった場合、やはり二つに分けることができるので減数分裂ができますから、再び「四倍体」の子ができます。そこでまた減数分裂に異常が起きたばあいには、一方は染色体2セット、もう一方は染色体1セットとが交換されることがあり、その場合には「三倍体」の子ができてしまいます。「三」では基本的には二つに分割できないので、減数分裂が起こりませんから、「三倍体」からはふつうは子ができません(「三倍体」どうしが減数分裂しないときには「六倍体」の子ができるというケースがまれにありますけれども)。
子=種子ですから、「三倍体」の植物からは種なしの果実ができます。これが「種なしブドウ」や「種なしガキ」のできる理由ですが、自然状態では滅多に起きないので、現代では成長点に「ジベレリン」などの薬品を滴下して、生殖異常を発生させて「三倍体」を人為的につくりだしているのです。前回に触れた野生バナナの種なし版もそのような自然の生殖異常からできたものです。
植物の場合は、基本の「二倍体」がもちろんその植物種では最も多く出現し、その種の中心となっていますが、その倍数体である「四倍体」や「六倍体」などが、わりあいにできやすいのです。もっとも、「八倍体」以上についてはほとんど見かけないようです。
中尾氏の著書に戻りましょう。さらにこのようにも書いています。
照葉樹林文化は熱帯降雨林の根栽文化から、わずかばかりの作物品種――タローイモの一部のサトイモ――を受けとることができ、またヤムイモでは温帯性のナガイモをたぶん雲南省あたりで栽培化し、それをさらに東北の方向、日本まで伝播させたが、それら以外に野生のイモ類の栽培化にはあまり成功していない。照葉樹林文化はこのような点より、雑穀類やムギ類を栽培する農業を西方から受けとり、それを吸収して急速に成長する方向で特色を生み出してくる。(同書P66)
西方からというのは、主に「サバンナ農耕文化」がもたらす雑穀栽培のことを指しています。日本の焼き畑農業の栽培に、粟・稗・黍・蕎麦などの多様な雑穀が見られるのはこのサバンナ農耕文化からの伝播によるものでした。サバンナには、かつて禾本科(かほんか)とよばれた草本のファミリーが多種多様に存在するのです。「禾本科」とはいまの「イネ科」ですが、多様なイネ科の草本類から、長い期間をかけて、栽培に適し、収穫しやすい雑穀を見つけ出してきたのです。なぜなら、野生の粟や稗、黍などは、その実が成熟すると自然に地に落ちてしまうので、収穫するのには非常に苦労するのです。収穫時期を見極めて、シード・ピーターと呼ばれる一種のかごのようなもので、脱落する穀粒をたくみにすくい上げるというような方法で採集するか、成熟する直前に採集してから蒸してついたり乾燥したりして、なんとか食べられるようにするほかないからです。これも、中尾氏の著書から引かせてもらいましょう。
よく熟した八頭身美人の野生種の穂をつかみ取ろうとすると、アーラ不思議、穂に手を触れるとたちまちこわれ、穀粒はパラパラと地上に落下してしまう。これは粒の脱落性といって、野生種の穀粒のもつ通有性である。野生種と栽培種がよく似ていて、区別がむずかしい時には、この脱落性のあるなしが野生型と栽培型の区別点にされている。この性質は野生のものが、種子を自然散布するのに適応した性質である。栽培種の方はこれに反して、鎌で刈り取る人間の収穫法に便利な性質である。人類は野生の穀類を利用しはじめ、その品種改良の初期に、野生の脱落性から非脱落性に改良したものと想像されている。(同書P5)
そして、この品種改良は、現代のように意識的に受粉・交配させて新しい品種をつくりだすと言うより、自然な交配が生み出した雑種株や変異株を選ぶというやりかたであったでしょう。選んだ後は、播種や株分けなどで、それを殖やしたのでしょう。現代の人為的な交配による新種開発でも10年や20年の歳月がかかります。ましてや自然交配に頼るほかない時代には、それは何百年の単位であったのかも知れません。
<照葉樹林文化の農耕方式の発展段階>
Ⅰ 野生採集段階 ナット(クリ・トチ・シイ・ドングリ・クルミ)
野生根茎類(クズ・ワラビ・テンナンショウ)
Ⅱ 半栽培段階――品種の選択・改良はじまる
クリ・ジネンジョ・ヒガンバナ
Ⅲ 根栽植物栽培段階 サトイモ・ナガイモ・コンニャク
焼き畑(ブッシュ・ファロー)
Ⅳ ミレット栽培段階 ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ(グラス・ファロー?)
西方高地文化の影響下に成立
Ⅴ 水稲栽培段階 イネ水田栽培・灌漑その他の施設・永年作畑
(『照葉樹林文化の道』佐々木高明著P29の表から)
このうち、「ミレット」とはmillet。「雑穀」のことです。
この表では、一つ前の段階のものに加えて、新たに付加された作物があげられています。半栽培段階ではまた、サトイモもあったのではないかと考えられています。佐々木高明氏の前掲書には、その証拠として、長野県や島根県の温泉地に残っているレリクト・クロップとして、コウボウイモ(弘法芋)があげられています(P50・P51)。これは、縄文時代の気候の温暖な時期に半栽培の状態で日本列島に導き入れられたけれども、日本列島の気候が冷涼になったときにはほとんど生き残ることができなかった。ただわずかに、温泉の湧出する温暖な土地にかろうじて残ったものと推定されているのです。このコウボウイモは、東南アジアによく見られるルデラル型(人里型)のサトイモによく似ているものとされています。
ところが、東南アジアの同じタイプものが二倍体であるのに、日本のコウボウイモはすべて三倍体であると言います。先ほども説明しましたように、三倍体の植物は有性生殖をすることができません。そのかわりに、これらのサトイモは栄養繁殖をするのです。栄養繁殖。つまり、自分の体にムカゴをつくり、それを地上に落下させて自分のコピーを殖やすとか、あるいは匍匐枝または送出枝と呼ばれる蔓(ランナー)を出して、やはり自分のコピーを殖やすというものです。人為的には、株分けや挿し木などの方法がそれです。芋栽培では、サツマイモもジャガイモも、サトイモ同様に種芋を畑に埋めて苗をつくりますが、それもまた栄養繁殖が旺盛な芋の力を利用したものです(ジャガイモやサツマイモが結実しないのは、気候条件がうまく適合しないからで、三倍体だからというわけではありません)。
つまり、日本列島に三倍体しかないということは、このコウボウイモがもともと日本列島の自生種でなかったことを意味します。人間がどこかからもってきたもの、というわけです。
となると、だれがいつ? という疑問がわいてきます。佐々木高明氏は、著書の中で次のような説を紹介しています。すこし長くなりますが、この仮説のもつ意味に著者が言及している部分をふくめて、次に引用しておきましょう。
考古学者の故藤森栄一氏はこの問題をめぐってかつておもしろい意見を述べられたことがある。それは、縄文時代の中期ごろ日本に渡来し、ひろく食用に供されていた野生のサトイモが、縄文時代中期後半以降の寒冷期にも温泉の湯の流れ出るこれらの地にだけ自生し、今日まで生き残ったものではないかというのである。なかなか傾聴すべき意見だと思われるが、江坂氏(=直前のP50に慶應義塾大学教授江坂輝弥として紹介されている=引用者注)はそれらをさらに敷衍して「恐らく縄文早期末から中期初頭の今日よりも暖かかった時代に、中国の長江南部から将来され、縄文人によって、日本列島の各地へ移植されたものではなかろうか」と述べている。
この江坂氏の意見を証明しうるだけの証拠を、この野生サトイモ群のなかから見出すことは難しいが、前述の東南アジア大陸部のルデラル型の二倍体のサトイモが半栽培状態のまま、インドネシアからオセアニア地域へ伝播したのと同じように、それとよく似たルデラル型の三倍体のサトイモが、気候が現在よりも温暖であった時期に、江南地方からわが国に伝来したとしても不思議ではない。それは栽培種のイモではないのだから、たぶん半栽培の状態でわが国にもたらされたものとみることができる。信州や山陰の山村にのこるコウボウイモは、こうした半栽培の状態で食用に利用されていた野生のサトイモの系統をひくものとみて大きな間違いはないと思うのである。
もし、この推論が正しいとすれば、少なくとも縄文時代の前期頃には、半栽培の状態で野生のサトイモを利用する文化が、日本列島の中部以西の照葉樹林帯には存在していたことになる。野生のサトイモを半栽培の状態で利用していた文化は、ヤマノイモやヒガンバナ、あるいはワラビやクズなども必要に応じて半栽培の状態で利用していた可能性が少なくない。(P51・P52)
この引用部で一つ気になるのは、ヒガンバナの扱いです。ワラビやクズは日本列島に自生するものですが、ヒガンバナは長江南部が原産地とされていますから、同断にするのには、今少し慎重であらねばならないからです。
ヒガンバナは現在、稲作と同時に日本に渡ってきたものと考えられますので、縄文後期以降ということになります。それは、先に挙げたマムシグサが、一つ古い段階の熱処理によって毒性を低減して利用されていたことに対して、ヒガンバナが新しい処理方法である「水さらし法」によって毒性を除去して利用されていたことにも現れています。つまり、イネとヒガンバナと水さらし法は、あるいはセットで日本にもたらされたものではないかということです。
ただ、稲作にも焼き畑農業に適合する「陸稲(オカボ)」種が先行して日本列島に入っていたという説もありますし、日本列島に渡来した時期の推定についてもだんだん早まっていく傾向にありますので、稲作の伝播にまで踏み込むことはやめておきましょう。
◆サトイモの種類と生物学的性質◆
繰り返しになりますが、サトイモはサトイモ科の植物です。
サトイモ科には、サトイモが含まれるサトイモ属(Colocasia=コロカシア)のほか、、テンナンショウ属(Arisaema=アリサエマ)、ショウブ属(Acorus=アコルス)、ミズバショウ属(Lysichiton=リシキトン)、ザゼンソウ属(Symplocarpus=シンプロカルブス)、クワズイモ属(Alocasia=アロカシア)などがあります。
サトイモの学名はColocasia esculenta(コロカシア エスクレンタ)。種小名のエスクレンタは「食用になる」という意味です。里芋畑で、青々と地上に出ているのは、大きなの葉(葉身)と、緑色か赤紫色や茶褐色の長い葉柄で、茎は主に地下にあります。茎のうち主茎と言われるのは、球状のかたまりとなって大きくふくらみます。その形状から「球茎」といわれる部分です。この球茎の周りに側枝が出ます。球茎は親芋と呼ばれ、デンプンが大量に蓄えられています。側枝の部分がいわゆる「子芋」あるいは「孫芋」と呼ばれるもので、通常「小芋」として食べられる部分です。この側枝は一方で蔓状になって伸びるランナー(送出枝・匍匐枝)にもなって、栄養繁殖の形を作ります。
日本のサトイモは、二倍体のものも三倍体のものも、まず花をつけません。けれども、花をつける場合には、サトイモもやはり仏炎苞をもっています。花はその仏炎苞に囲まれた、棒状の肉穂花序(にくすいかじょ)として現れます。
『栽培植物の自然誌』(山口裕文・島本義也編著、北海道大学図書刊行会、2001年)によれば、日本のサトイモは11栽培品種群と4野生系統群があるという(谷本忠芳「日本の野生サトイモと栽培サトイモ」P151~P161)。
このうち、薮芋といわれる栽培品種は野生系統にもあって、野生系統のほうは子芋のえぐみが強いといいます。三倍体です。また「八頭、ヤツガシラ」は唐芋の栽培品種群に含まれ、二倍体ですが、花をつけません。ズイキとして葉柄を食べるのはこのヤツガシラが最もおいしいとされます。栽培品種として日本列島には非常に古くからあったと言われています。あるいは平安の頃にはあったのかも知れません。唐芋と呼ばれる品種の系統は、その名の通り、中国から渡来したものなのでしょう。「唐芋、トウイモ」と呼ばれる品種も味がよく、日本ではやはり古くから栽培されているもののようです。これも二倍体です。唐芋の系統には、されあに味がよいものとして名高いのは京都の「エビイモ」があります。
日本で栽培されるサトイモの二倍体と三倍体の品種群は、互いにまったく別系統のものと考えられています。ほとんど花を咲かせないため、両方の品種群で交雑が起きることはありえないからです。
野生系統のサトイモとして示唆的な事実が前掲書に書かれています。最後にそれを引用しておきましょう。
送出枝をつくる野生サトイモは、与論島、沖縄本島、石垣島、西表島などの島々などに多く見られるが、屋久島、徳之島、久米島および宮古島では確認されていない。野生サトイモが生育していない島々では水田耕作が行われていないか水田の面積がわずかであることから、野生サトイモの生育と水田耕作との関係が暗示される。西南諸島に分布する野生系統が、かつて九州以北にも生育していたか否か、または栽培されていたか否かについては現在のところ明らかでない。しかし、九州以北の地域に関する18~19世紀の文書にはこれらの系統に関する記述がみられず、これらの系統は低温に対して弱いので、九州以北では栽培もされず、自生もしていなかったと思われる。(前掲書P160・P161)
思い出してください。
前回、風土記の記述を紹介しました。そのうち、『豊後国風土記』には「芋草」という記述があったことについて、すこし考察してみました。
その考察では、『出雲国風土記』の「芋菜(いへついも)」に対してみると、豊後国ではこの「芋」なるものがほとんど野生の状態であったことを示唆していることを書きました。そのとき、『豊後国風土記』では、はじめに空を飛んできた白い鳥が餅に変わり、次に芋草に変わって何千株も降ってきたという記述と引き比べると、水田耕作とのかかわりを含んで、上の引用部分は示唆に富んでいます。
カタクリ。かつてカタクリの球根から片栗粉をとったが、葉の方もゆがいて食べたものである。縄文期から食べられていたと想像される。
現在の片栗粉は、ジャガイモからとっている。
<この項終わり>