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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

里芋・マムシグサ・水芭蕉<その2>

2008-04-21 20:30:31 | 自然誌・自然史の歴史

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●里芋・マムシグサ・水芭蕉●

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ヒガンバナ(曼珠沙華まんじゅしゃげ)のシロバナ品種。
この根(球根)をすりおろしてから5,6回水でさらすと、アルカロイドを除去することができ、かなり良質のデンプンが精製できる。


 ◆四つの農耕文化と照葉樹林文化◆

 里芋が栽培作物として日本列島に入ってきた時期は、前回指摘した風土記の成立以前であったことは間違いないのですが、では具体的にいつ頃か? というと、有力な仮説はあるにしても、いまだこれと断定できる事実は知られていません。
 現在までのところ、里芋の渡来が恐らく縄文時代の早い時期、遅くとも縄文前期であったろうとする説が最も有力です。縄文時代は地球が温暖な時期にあたり、南方からの熱帯性の食用植物の伝播もある程度は可能であったと思われるからです。その温暖な気候の証拠となる里芋がレリクト・クロップ(「遺存作物」または「廃用作物」)として、長野県や鳥取県には見られるというのです(これについては後述します)。そして、この説の背景にあるのが、「照葉樹林文化」なのですが、それがどれほど説得力をもつ魅力的な説であるにしても、考古学的に実証されたという話はこれまでのところ聞かれません。
 その理由もはっきりしています。
 一つには、定住農耕をするようになったとされる縄文中期ないし後期以降なら、そのような栽培遺跡を発掘することも可能です。その場合、ごくごくわずかな偶然の助けが必要であるにしても、何らかの微細な痕跡を手に入れることは、まったく可能性がないわけではありません。けれども、それ以前の何年かごとに移動して農耕を行っていた「焼き畑農業」では、そのような遺跡は残りようがありません。それぞれの農耕地は5年か6年ごとに放棄されて、その後は雑木林になってしまうからです。農耕遺跡そのものが消滅するのです。
 もう一つは、日本の里芋はほとんど花もつけず、その結果種子もつくりません。種子から栽培するのではなく、種芋からコピー(つまりクローン)をつくるという栄養繁殖によって苗を殖やして栽培しますから、固い殻をつけた種子が土中に残ることもありません。多くの植物の種子は、大賀ハスの開花でも知られているように、土中に眠りながら何百年も何千年も発芽のときを待つことができますが、種芋では腐ってしまいます。つまり、里芋栽培が遺跡から考古学的に発掘されることはまず期待できないのです。
 縄文期の栗の木の栽培で知られる青森県の三内丸山遺跡から、真っ黒に炭化した多数の食用植物が出土していますが、芋に関しては、里芋も山芋もまったく出土が報告されていませんから、痕跡を探し出す困難さは知られるでしょう(まったく栽培されなかったという可能性も否定できませんが、縄文期が温暖期であったことを考えると、その可能性はきわめて低いと思われます)。

 考古学的な実証はされなくとも、アジアにおける農耕文化の歴史として、その伝播の経路をたどるという研究から、初期の農耕民族にとって、里芋がどのような地位にあったかが知られるようになってきています。つまり、現在の空間的な広がりのなかの農耕文化、民族文化を、農耕の歴史展開へと置き換えてみるという手法から、里芋が「照葉樹林文化」における重要な作物の一つであったことが知られてきたのです。考古学的な実証の代わりに、近代になお並存する多様な農耕文化の形態を、時間的な推移軸にそってとらえ直そうというのが、「照葉樹林文化」の考え方の重要なポイントのひとつだからです。

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ヒトツバテンナンショウ

 さて、「照葉樹林文化」という概念は最近あまり関心が払われなくなっていますが、「文化」をとった「照葉樹林」は植物地理学の世界では基本的な用語の一つです。
 「照葉樹林」とは、「照葉樹」が優占する森林のことです。その「照葉樹」とは、光が当たるとてらてらと輝くように見える常緑樹のことですが、それは葉が厚ぼったくてすべすべしているからです。まさに読んで字のごとしです。ツバキの葉を連想していただければいいでしょう。東北地方以北を除く日本の太平洋岸側の多くの暖温帯の森林が、この照葉樹を中心にして構成されています。それを「照葉樹林」と名づけるのです。タブ、トベラ、スダジイ、マテバシイ、シラカシ、アカガシ、アラカシ、ウバメガシ、モチノキなどがその代表的なものです。そうそう、クスノキもそうです。
 「照葉樹林」という用語について、植物地理学の泰斗であった故吉良竜夫氏が『照葉樹林文化』(中公新書、1969年=上山春平氏編)の対談の中でこんなことを言っています。

 しかし、照葉樹林ということば自体は、外国語からの訳語で、原語は、ドイツの人たちが1915年ごろから使い始めたLaurisilvae(ラテン語)またはLorbeerwalder(ドイツ語)です。それは日本の森林を見て命名されたのではなくて、地中海気候の地帯で、すこし高い山に登ると、雨量が多くなって低地とはちがった森林がでてくるのですが、それに対してLaurisilvaeということばが与えられたのです。日本の常緑広葉樹林をそのカテゴリーにふくめ、「照葉樹林」という訳語をつくったのは、当時東大の教授であった中野治房博士でしょう。1930年ごろのことです。(同書P66・P67)

 なお、現在は、地中海気候のもとで、オリーブ、コルクガシなどが優占する森を「硬葉樹林」と呼びます。照葉樹林は暑い夏に輝きますが、硬葉樹林は冬の硬質な輝きが見逃せないのです。その冬の輝きはやはり夏の日差しのもとでのものとはかなり違うからです。Laurisilvae(ラウリシルヴァーエ)もLorbeerwalder(ロールベールヴェルダー)はともに、「月桂樹の森」という意味です。月桂樹(ローレル)に代表される硬葉常緑樹が優占する森のことです。
 このように、「照葉樹林」は戦前からの、しかももともとの意味とはすこしずれた輸入概念でありましたが、一方の「照葉樹林文化」という言葉をはじめて使ったのは、故中尾佐助氏でした。中尾氏はその著書『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書1966年初版)のなかで、こう書いています。これも引用しておきましょう。

 東南アジアの熱帯雨林の中でおこった根栽農耕文化は北方に伝播し、温帯林である照葉樹林に到達する。環境の変化に応じておのずから農耕文化基本複合の変化をおこしてくる。いまや純熱帯性のバナナの栽培は不可能である。ヤムイモでは別の温帯性の野生種から栽培種を作りあげなければならない。タローイモの中からは、サトイモの一部だけが温帯で栽培できるだけである。照葉樹林の中で、こうして発達してきたのが照葉樹林農耕文化複合である。この文化は熱帯のものより根づよく、高度に成長していくことになった。その文化は、農耕文化複合以外の文化複合の上からも把握できるので、ここでは照葉樹林文化と呼ぶことにする。日本の農耕文化は直接的に照葉樹林文化の一端となるものである。(P62・P63)

 ここで言われる「農耕文化複合」とは、稲や小麦などそれぞれ単一の作物だけをばらばらに取り上げるのではなく、それらの作物を中心としたさまざまな農作物の組み合わせを一つのセットとしてとらえ、一つの農耕文化として考えようとするものです。
 たとえば小麦を中心とする「地中海農耕文化複合」では、小麦・大麦を中心として農耕が行われますが、小麦や大麦などの畑に混じって生える雑草からさらに、ライ麦、エン麦などが作物化してきます。そして、エンドウ豆、ホウレンソウなどの作物、ウシ・ヒツジ・ヤギ・ウマ・ロバなどの家畜飼育が密接に絡み合った独特の農牧兼業の農耕文化複合をつくりあげます。そこにはまた、これらの農牧業に関する祭祀・宗教儀礼や、土地制度・家族制度なども当然含まれます。そしてそれらは、その地域一帯の社会制度、婚姻儀礼あるいはタブー(禁忌)などと複雑に絡み合って、その「農耕文化複合」に共通する特有の文化を創出します。そのように考えると、農業だけでなく、商工業、政治制度、思想、芸術なども含めた地中海地帯の文化の総体として大きくとらえることができるわけです。
 いま、例としてここにあげたものは「地中海農耕文化」と言われるものです。
 中尾氏は、この同じ考え方で、世界の農耕文化を四つの類型に分類します。
 一つは、「根栽農耕文化」です。
 中尾氏によれば、「根栽農耕文化」は、ヤムイモ・タローイモ(タロイモ)という根栽に、バナナとサトウキビを組み合わせたものを言うようです。作物としてはこれにパンノキやインドコンニャク、ハトムギなど若干のものが加わります。先に「照葉樹林文化」について引用した部分では、人類がはじめて栽培化した作物がバナナであることを踏まえて書かれています。食料作物を栽培するという発想が伝播したとしても、気候条件のほうが人類最初の栽培作物であるバナナの伝播を許さなかったというわけです。
 このバナナは熱帯アジアの雨林にはふつうに見られるものですが、もともとの野生のバナナの果肉は細かい種だらけで、食べるのには大変な困難があります。このような野生のバナナとの長い年月のつきあいの中で、熱帯アジアの人類はたまたま受粉しなくても果肉を実らせたバナナに出会ったのです。受粉していないのですから、果肉の中に種子は形成されていません。当然、人類は喜び勇んでこのバナナを守り育てようとします。このとき、バナナは人類の日常の食料としての道を確実に歩み始めます。きっとさまざまな試行錯誤があったことでしょう。けれども、人類はこのバナナを自分たちの住居の周りで多数育てることに成功しました。それこそが「栽培」というものの始まりでした。
 人類に食べ物を「栽培する」という思想をもたらしたのがまさにこのバナナだったのです。

 二つ目は、この「根栽農耕文化」が北方へと伝播・影響して成立した「照葉樹林文化」です。上で、中尾佐助氏の著書から引用した部分がそれです。この「照葉樹林文化」は「根栽農耕文化」を受け取り、照葉樹林の環境に適合させたいわば二次的な文化とみなされています。
 三つ目はアフリカのサバンナから起こったとされる雑穀中心の「サバンナ農耕文化」。これが東アジアまで伝播して、各地で特徴ある雑穀や果菜類を生み出します。たとえば、雑穀ではシコクビエ・キビ・アワ、果菜類ではナス・ウリなどです。
 そして四つ目は、上に例として紹介した「地中海農耕文化」というわけです。稲作はこのうち「サバンナ農耕文化」の周辺部地域で発生したというのが、中尾氏の説です。

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カミコウチテンナンショウ。上高地特産である。

 ◆照葉樹林文化と縄文文化◆

 上の引用でもわかるように、熱帯アジアの「根栽農耕文化」が北へと伝播したとき、それまで利用されてきたヤムイモやタロイモは、地球が比較的温暖であった当時(紀元前5000年前後をピークとする時期)であってもなお、気候が若干涼しいために野生から手に入れることはできませんでした。けれども、「根栽の利用」という思想は伝播していましたから、照葉樹林の人々は、そのイモに代わるものを探したのだと思われます。
 中尾氏によれば、その最初の利用は、なんと同じサトイモ科ではあるけれども、現在は見向きもされないマムシグサでありました。マムシグサの根を利用したのです。けれども、マムシグサは根も茎も毒をもちます。その成分はシュウ酸カルシウムの結晶で、食べれば一発で死ぬかも知れないというような毒、植物毒で名高いアルカロイド系の毒ではありませんが、口の中が麻痺し腫れ上がるほどの毒性をもっています。ほんの少し口に入れるだけでも、苦みやえぐみが非常に強くて、とてもまずい。食べるには、この毒を何とか処理しなければなりません。しかもこのシュウ酸カルシウム、水に溶けません。
 そのため、毒処理の方法は「ゆでる」という加熱によるものでした。このような加熱処理をする食べ方は、いまの日本にもわずかに残っているとして、中尾氏は、次のように書いています。

 離島の伊豆御蔵島や八丈島ではシマテンナンショウ(Arisaema negishii=アリサエマ ネギシイ)の野生球根を掘り、ゆでてから皮をむき、臼でついて餅のようにして食べる。(前掲書P64)

 けれども、この餅はかなりひどい味がしたようです。佐々木高明氏の『照葉樹林文化の道』(NHKブックス、1982年初版)には、こうあります。

 ……、それはアク抜きをしたとはいうものの、舌に当たらないようにまる呑みしなければならないほど、非常にえぐい食べものだったようである。(同書P41)

 これほどまずいものであっても、とにかく腹に収まりさえすれば、飢えをしのぐことができたわけですから、ヒガンバナなどと同様に、救荒植物として貴重なものであったと言えます。それに、シマテンナンショウはこれらの島では照葉樹林の林下にたくさん自生していて、芋も大きく育ち、掘り出すのも簡単であるということです。
 ヒガンバナが稲作と同時に日本に伝わり、稲の不作の年には、大切な救荒植物となったのと好対照です。こちらは、里芋や山芋の利用より先に始められた「根栽」利用の形態であるからです。また、ヒガンバナはその根をすりおろしてから水で何度もさらします。それに比べると、根を加熱して餅にする方法は、「水さらし」処理よりも、いっそう古いやりかたであるとされています。「水さらし」であれば、えぐみもほとんどとれますから、「まずい、まずい」と言いながら、無理に食べるというつらさからは脱することができるのです。ヒガンバナのアルカロイドが水溶性であったことが、ヒガンバナの利用を「水さらし」の方法へとたどり着かせたのでしょう。

 佐々木高明氏の前掲書では、この熱処理法は照葉樹林文化の発明ではなく、どうやら熱帯アジアの「根栽農耕文化」から導き入れられたもののようです。

 しかし、このような加熱処理によるアク抜きの方法は、照葉樹林帯ではやや例外的なもので、それはかならずしも普遍的にみられた現象とはいえないようである。むしろ加熱処理によるアク抜きは照葉樹林帯ではなく、熱帯森林地帯にひろくみられる技法のように思えるのである。
 例えば、インドや東南アジアからオセアニアに至る熱帯地域のどこでもよく見かける巨大なイモに、インドクワズイモ(Alocasia indica=アロカシア インディカ)というのがある。タロイモの一種で、太くグロテスクな茎のようなものが出て、その上に大きな葉がいくつも直立し、丈の高いものは二~三メートルにもなる。太く茎のようにみえるのがじつはイモである。このイモはひどく苦いため普通には食べることはないけれども、飢饉のときなどには救荒食として食べることが少なくない。そのときには、たいていイモをよく煮てから、水にさらす加熱処理法が用いられるという。(同書P42・P43)

 このように、インドから東南アジアをへてオセアニアに至る熱帯森林地帯には、加熱処理によるアク抜きの技法がひろく分布していることが明らかになったが、水さらし法については、その分布はかならずしもひろくはないようである。(同書P43)

 この水さらし法について、先の中尾氏の著作に戻って見てみましょう。

 (「水さらし技術」という)この多量の水を使用する技術は、その人々の生活する場所を限定する傾向が生ずるはずである。しかしこの技術を獲得すると、照葉樹林の中で食料をうることは容易になる。秋になるとドングリ類が主力である森林の中では、ものすごく多量に食べ物が降ってくる。トチノキの実も同様で、これらは水さえあれば、容易に食糧化しうる。野生の球根、イモ類も、同様に食べやすくすることができる。また、カタクリのように、あるいはクズやワラビのごとく。食用としてすぐれたデンプンが得やすい。水さらし技術は原始人にとって、食糧獲得をいちじるしく容易とし、人間の生活の安定をもたらした。(前掲書P65・P66)

 つまり、われわれ日本人のかつての生活様式、縄文文化の狩猟採集生活の一つの柱である、デンプンの利用の方法が、ここにあらわれてくるのが見てとれます。まさに、われわれの縄文文化とは、この照葉樹林文化の中にあらわれた一つのタイプであったのです。
 これがバナナを栽培化した「根栽農耕文化」からの影響のもとに発達した文化であるとすると、縄文文化がその最初から、単純な「狩猟採集生活」のレベルではなかったのではないかという見解も、なるほどうなづけます。熱帯雨林の中で「根栽農耕文化」が手に入れた「栽培」の思想が、照葉樹林帯への文化の伝播の中でいっしょに伝わって来なかったというのは、やはり考えにくいことだからです。狩猟という点についてはこれまで通りの見方でよいのでしょうが、単純な「採集」生活であったかどうかということについては、縄文時代のきわめて早い時期から、少し考え直してみたくなります。
 ここに「半栽培」という概念が生ずる余地があります。
 「半栽培」とは、近代的な栽培とは違い、たとえば野生の食用になる里芋があれば、その草や蔓は残して、他の草を排除する。あるいは、どこか遠くで見つけてきたトチノキの苗や種を自分たちのすまいの近くに植える。けれども、積極的に施肥をしたり、間引いたり、剪定をしたりというような世話は焼かない。消極的に成長を保護するわけです。それを「半栽培」と呼んでいます。これらは、すでに「根栽農耕文化」において取り入れられていましたから、その農耕思想が伝播するときには、当然「照葉樹林文化」の一帯にも伝わっていたことでしょう。
 ここで、再び佐々木高明氏の著作を見てみましょう。

 ところで、《水さらし法》という高度なアク抜きの技術を開発した照葉樹林帯では、野生の植物を単に採集・利用するだけではなく、いく種類かの植物については、「栽培」とまではいかなくても、人間の側からある種の「保護」や「管理」を加えることにより、よりよく利用するということが行われていたと考えられる。(前掲書P46)

 このように人間によって何らかの保護・育成の手が加えられたような植物を、私はここで「半栽培植物」とよぶことにする。私たちの身のまわりでは、ヒガンバナやワラビのほか、テンナンショウやウバユリ、クズなどのような野生のイモ類は、いずれも自然状態で野生はしているが、その分布はやはり人里の付近が多く、人間によって改変された環境を生活の場として繁殖している。そのことから一種の半栽培植物といえるものである。またトチやクリやクルミのように大形の堅果類を産する樹木も、多くの場合、伐採や山焼きの際には保護されていることが多く、また、カジノキやウルシなども古くから人間が利用を行うために管理しており、広い意味でやはり一種の半栽培植物であったと考えてよい。(P47)

 このことは、最近、青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの栽培痕跡を思い出させます。三内丸山遺跡の時代(縄文前期から中期)にはすでに、クリが「半栽培」という消極的な栽培ではなく、もっと積極的な「栽培」へと移行していたことがわかります。三内丸山遺跡では、栽培されたクリが主食であったというのが今のところの定説です。また、この遺跡からはマメ類、エゴマ、ヒョウタンなども出土しており、縄文文化前期には、高度の農耕文化を達成していたことが知られます。けれども、先に書きましたように、ここからイモ類は出土してません。それは、繰り返しになりますが、イモ類が腐りやすく、遺物として残らないからです。

 また、クリをはじめとする堅果類、カシやシイの実は、人間だけでなく、リスやねずみなども大量に食べますから、これらの実を大量に確保するためには、自然の状態で放っておくわけにはいきません。単純な競争となれば、人間はこれらの小動物には勝てません。いまでも、ちょうど熟した頃には、さっさと彼らの食べ物となってしまっていて、「あぁ、やられた!」とほぞをかむということはよくあることです。そのような失敗は縄文の時代、生存のためにはけっして許されませんから、彼らよりも先に確保する方法を編み出すほかありません。それが、管理、あるいはその樹木の保護・監視ということへと結びついていったのでしょう。
 クリはしかし、他の堅果類に比べると、水さらしをしてアク抜きをする必要のないすぐれた食品でした。ブナの実も水さらしを必要とはしませんが、非常に実が小さい。現代でも東北地方のブナ林近くの山里では、秋から冬にかけて、ブナの実をフライパンで煎って塩を振って食べますが、たいてい酒の肴にしかなりません(とってもおいしいですけれど)。また、現代でも栃餅として知られるトチノキの実は、水さらしをしないと食べられるような餅にはできません。いわゆるドングリと総称されるコナラやクヌギ、シイの実などもえぐ味となるアクを水でさらさなければ食べられません。縄文時代の人々が、数ある堅果類の中からクリを選び出したのには大きな理由があるのです。

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ウバユリ。根をつぶして水にさらし、デンプンをとった。甘いそうである。

 ◆照葉樹林文化における里芋◆

 純粋に野生のサトイモはベンガル湾に面する湿った熱帯の半陰地にきわめてたくさん野生している。カルカッタに行くと、飛行場から都心に行くまでのあいだに野生のサトイモを車窓から見ることができる。この野生のサトイモの特色はやや小型で、クサイチゴの蔓のような、長さ一メートル以上にもなるランナーを出すことである。(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』P37)

 野生のサトイモの起源は熱帯であるというのが、中尾氏の説です。もう少しサトイモの説明を引用してみましょう。

 サトイモはオヤイモ用品種、コイモ用品種など、いろいろ区別されるが、オヤイモ型が原型である。日本ではサトイモは二倍体品種と三倍体品種群に分けられ、形態もそれに対応しているが、東南アジア、オセアニアのサトイモでは三倍体品種が日本と形態的に合わない点がある。四倍体品種も存在している。
 げんざい、サトイモの品種が一番豊富で経済的にも重要なのは。インドのアッサム州のナガ・ヒルで、そこにはサトイモを主食としている部族もある。マレー半島以東の島々では、サトイモの品種はたぶんあまり多くない。それらの島で野生しているサトイモはレリクト・クロップと判断される場合が多い。これらの状態を総合すると、サトイモはバナナやヤムイモの場合のマレー半島付近の起源地と異なり、すこしく西方になるビルマ・アッサム付近が起源地としての可能性が大きい。(同書P37・P38)

 サトイモの起源をビルマ(現ミャンマー)からアッサム地方にかけての一帯と推定しているのですが、先にも説明しましたが、「レリクト・クロップ」とは、“relict crop”。つまり、「廃用作物」あるいは「遺存作物」と和訳されるものです。かつては作物として栽培されていたものが、栽培放棄されたまま、野生化して自生している状態となっているものをいいます。

 ここに書かれている「二倍体」、「三倍体」、「四倍体」については、有性生殖という点から説明しなければなりませんが、ここでは基本的なことだけを書いておきましょう。
 「N倍体」とは、染色体のセット数を表すものです。「二倍体」とは染色体の基本の組み合わせが2セットあるという意味で、生物にとってはこれが有性生殖するための基本的なセットです。有性生殖の場合、受精卵はまず減数分裂をして、「二倍体」が二つに分かれて雌雄の染色体を交換します。交換して後細胞増殖を始めますから、そのときはまた「二倍体」に戻っています。動物の場合は必ず「二倍体」でないと、さまざまな成長異常が現れますが、植物の場合は、なかなかその辺が融通無碍。「二倍体」どうしが、たまたま減数分裂をしないことがあると、子の染色体数は4セット、つまり「四倍体」になってしまいます。子の「四倍体」が成長して親になった場合、やはり二つに分けることができるので減数分裂ができますから、再び「四倍体」の子ができます。そこでまた減数分裂に異常が起きたばあいには、一方は染色体2セット、もう一方は染色体1セットとが交換されることがあり、その場合には「三倍体」の子ができてしまいます。「三」では基本的には二つに分割できないので、減数分裂が起こりませんから、「三倍体」からはふつうは子ができません(「三倍体」どうしが減数分裂しないときには「六倍体」の子ができるというケースがまれにありますけれども)。
 子=種子ですから、「三倍体」の植物からは種なしの果実ができます。これが「種なしブドウ」や「種なしガキ」のできる理由ですが、自然状態では滅多に起きないので、現代では成長点に「ジベレリン」などの薬品を滴下して、生殖異常を発生させて「三倍体」を人為的につくりだしているのです。前回に触れた野生バナナの種なし版もそのような自然の生殖異常からできたものです。
 植物の場合は、基本の「二倍体」がもちろんその植物種では最も多く出現し、その種の中心となっていますが、その倍数体である「四倍体」や「六倍体」などが、わりあいにできやすいのです。もっとも、「八倍体」以上についてはほとんど見かけないようです。

 中尾氏の著書に戻りましょう。さらにこのようにも書いています。

 照葉樹林文化は熱帯降雨林の根栽文化から、わずかばかりの作物品種――タローイモの一部のサトイモ――を受けとることができ、またヤムイモでは温帯性のナガイモをたぶん雲南省あたりで栽培化し、それをさらに東北の方向、日本まで伝播させたが、それら以外に野生のイモ類の栽培化にはあまり成功していない。照葉樹林文化はこのような点より、雑穀類やムギ類を栽培する農業を西方から受けとり、それを吸収して急速に成長する方向で特色を生み出してくる。(同書P66)

 西方からというのは、主に「サバンナ農耕文化」がもたらす雑穀栽培のことを指しています。日本の焼き畑農業の栽培に、粟・稗・黍・蕎麦などの多様な雑穀が見られるのはこのサバンナ農耕文化からの伝播によるものでした。サバンナには、かつて禾本科(かほんか)とよばれた草本のファミリーが多種多様に存在するのです。「禾本科」とはいまの「イネ科」ですが、多様なイネ科の草本類から、長い期間をかけて、栽培に適し、収穫しやすい雑穀を見つけ出してきたのです。なぜなら、野生の粟や稗、黍などは、その実が成熟すると自然に地に落ちてしまうので、収穫するのには非常に苦労するのです。収穫時期を見極めて、シード・ピーターと呼ばれる一種のかごのようなもので、脱落する穀粒をたくみにすくい上げるというような方法で採集するか、成熟する直前に採集してから蒸してついたり乾燥したりして、なんとか食べられるようにするほかないからです。これも、中尾氏の著書から引かせてもらいましょう。

 よく熟した八頭身美人の野生種の穂をつかみ取ろうとすると、アーラ不思議、穂に手を触れるとたちまちこわれ、穀粒はパラパラと地上に落下してしまう。これは粒の脱落性といって、野生種の穀粒のもつ通有性である。野生種と栽培種がよく似ていて、区別がむずかしい時には、この脱落性のあるなしが野生型と栽培型の区別点にされている。この性質は野生のものが、種子を自然散布するのに適応した性質である。栽培種の方はこれに反して、鎌で刈り取る人間の収穫法に便利な性質である。人類は野生の穀類を利用しはじめ、その品種改良の初期に、野生の脱落性から非脱落性に改良したものと想像されている。(同書P5)

 そして、この品種改良は、現代のように意識的に受粉・交配させて新しい品種をつくりだすと言うより、自然な交配が生み出した雑種株や変異株を選ぶというやりかたであったでしょう。選んだ後は、播種や株分けなどで、それを殖やしたのでしょう。現代の人為的な交配による新種開発でも10年や20年の歳月がかかります。ましてや自然交配に頼るほかない時代には、それは何百年の単位であったのかも知れません。

 <照葉樹林文化の農耕方式の発展段階>
Ⅰ 野生採集段階 ナット(クリ・トチ・シイ・ドングリ・クルミ)
         野生根茎類(クズ・ワラビ・テンナンショウ)
Ⅱ 半栽培段階――品種の選択・改良はじまる
         クリ・ジネンジョ・ヒガンバナ
Ⅲ 根栽植物栽培段階 サトイモ・ナガイモ・コンニャク
         焼き畑(ブッシュ・ファロー)
Ⅳ ミレット栽培段階 ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ(グラス・ファロー?)
         西方高地文化の影響下に成立
Ⅴ 水稲栽培段階 イネ水田栽培・灌漑その他の施設・永年作畑
(『照葉樹林文化の道』佐々木高明著P29の表から)

 このうち、「ミレット」とはmillet。「雑穀」のことです。
 この表では、一つ前の段階のものに加えて、新たに付加された作物があげられています。半栽培段階ではまた、サトイモもあったのではないかと考えられています。佐々木高明氏の前掲書には、その証拠として、長野県や島根県の温泉地に残っているレリクト・クロップとして、コウボウイモ(弘法芋)があげられています(P50・P51)。これは、縄文時代の気候の温暖な時期に半栽培の状態で日本列島に導き入れられたけれども、日本列島の気候が冷涼になったときにはほとんど生き残ることができなかった。ただわずかに、温泉の湧出する温暖な土地にかろうじて残ったものと推定されているのです。このコウボウイモは、東南アジアによく見られるルデラル型(人里型)のサトイモによく似ているものとされています。
 ところが、東南アジアの同じタイプものが二倍体であるのに、日本のコウボウイモはすべて三倍体であると言います。先ほども説明しましたように、三倍体の植物は有性生殖をすることができません。そのかわりに、これらのサトイモは栄養繁殖をするのです。栄養繁殖。つまり、自分の体にムカゴをつくり、それを地上に落下させて自分のコピーを殖やすとか、あるいは匍匐枝または送出枝と呼ばれる蔓(ランナー)を出して、やはり自分のコピーを殖やすというものです。人為的には、株分けや挿し木などの方法がそれです。芋栽培では、サツマイモもジャガイモも、サトイモ同様に種芋を畑に埋めて苗をつくりますが、それもまた栄養繁殖が旺盛な芋の力を利用したものです(ジャガイモやサツマイモが結実しないのは、気候条件がうまく適合しないからで、三倍体だからというわけではありません)。

 つまり、日本列島に三倍体しかないということは、このコウボウイモがもともと日本列島の自生種でなかったことを意味します。人間がどこかからもってきたもの、というわけです。
 となると、だれがいつ? という疑問がわいてきます。佐々木高明氏は、著書の中で次のような説を紹介しています。すこし長くなりますが、この仮説のもつ意味に著者が言及している部分をふくめて、次に引用しておきましょう。

 考古学者の故藤森栄一氏はこの問題をめぐってかつておもしろい意見を述べられたことがある。それは、縄文時代の中期ごろ日本に渡来し、ひろく食用に供されていた野生のサトイモが、縄文時代中期後半以降の寒冷期にも温泉の湯の流れ出るこれらの地にだけ自生し、今日まで生き残ったものではないかというのである。なかなか傾聴すべき意見だと思われるが、江坂氏(=直前のP50に慶應義塾大学教授江坂輝弥として紹介されている=引用者注)はそれらをさらに敷衍して「恐らく縄文早期末から中期初頭の今日よりも暖かかった時代に、中国の長江南部から将来され、縄文人によって、日本列島の各地へ移植されたものではなかろうか」と述べている。
 この江坂氏の意見を証明しうるだけの証拠を、この野生サトイモ群のなかから見出すことは難しいが、前述の東南アジア大陸部のルデラル型の二倍体のサトイモが半栽培状態のまま、インドネシアからオセアニア地域へ伝播したのと同じように、それとよく似たルデラル型の三倍体のサトイモが、気候が現在よりも温暖であった時期に、江南地方からわが国に伝来したとしても不思議ではない。それは栽培種のイモではないのだから、たぶん半栽培の状態でわが国にもたらされたものとみることができる。信州や山陰の山村にのこるコウボウイモは、こうした半栽培の状態で食用に利用されていた野生のサトイモの系統をひくものとみて大きな間違いはないと思うのである。
 もし、この推論が正しいとすれば、少なくとも縄文時代の前期頃には、半栽培の状態で野生のサトイモを利用する文化が、日本列島の中部以西の照葉樹林帯には存在していたことになる。野生のサトイモを半栽培の状態で利用していた文化は、ヤマノイモやヒガンバナ、あるいはワラビやクズなども必要に応じて半栽培の状態で利用していた可能性が少なくない。(P51・P52)

 この引用部で一つ気になるのは、ヒガンバナの扱いです。ワラビやクズは日本列島に自生するものですが、ヒガンバナは長江南部が原産地とされていますから、同断にするのには、今少し慎重であらねばならないからです。
 ヒガンバナは現在、稲作と同時に日本に渡ってきたものと考えられますので、縄文後期以降ということになります。それは、先に挙げたマムシグサが、一つ古い段階の熱処理によって毒性を低減して利用されていたことに対して、ヒガンバナが新しい処理方法である「水さらし法」によって毒性を除去して利用されていたことにも現れています。つまり、イネとヒガンバナと水さらし法は、あるいはセットで日本にもたらされたものではないかということです。
 ただ、稲作にも焼き畑農業に適合する「陸稲(オカボ)」種が先行して日本列島に入っていたという説もありますし、日本列島に渡来した時期の推定についてもだんだん早まっていく傾向にありますので、稲作の伝播にまで踏み込むことはやめておきましょう。

 ◆サトイモの種類と生物学的性質◆

 繰り返しになりますが、サトイモはサトイモ科の植物です。
 サトイモ科には、サトイモが含まれるサトイモ属(Colocasia=コロカシア)のほか、、テンナンショウ属(Arisaema=アリサエマ)、ショウブ属(Acorus=アコルス)、ミズバショウ属(Lysichiton=リシキトン)、ザゼンソウ属(Symplocarpus=シンプロカルブス)、クワズイモ属(Alocasia=アロカシア)などがあります。

 サトイモの学名はColocasia esculenta(コロカシア エスクレンタ)。種小名のエスクレンタは「食用になる」という意味です。里芋畑で、青々と地上に出ているのは、大きなの葉(葉身)と、緑色か赤紫色や茶褐色の長い葉柄で、茎は主に地下にあります。茎のうち主茎と言われるのは、球状のかたまりとなって大きくふくらみます。その形状から「球茎」といわれる部分です。この球茎の周りに側枝が出ます。球茎は親芋と呼ばれ、デンプンが大量に蓄えられています。側枝の部分がいわゆる「子芋」あるいは「孫芋」と呼ばれるもので、通常「小芋」として食べられる部分です。この側枝は一方で蔓状になって伸びるランナー(送出枝・匍匐枝)にもなって、栄養繁殖の形を作ります。
 日本のサトイモは、二倍体のものも三倍体のものも、まず花をつけません。けれども、花をつける場合には、サトイモもやはり仏炎苞をもっています。花はその仏炎苞に囲まれた、棒状の肉穂花序(にくすいかじょ)として現れます。

 『栽培植物の自然誌』(山口裕文・島本義也編著、北海道大学図書刊行会、2001年)によれば、日本のサトイモは11栽培品種群と4野生系統群があるという(谷本忠芳「日本の野生サトイモと栽培サトイモ」P151~P161)。
 このうち、薮芋といわれる栽培品種は野生系統にもあって、野生系統のほうは子芋のえぐみが強いといいます。三倍体です。また「八頭、ヤツガシラ」は唐芋の栽培品種群に含まれ、二倍体ですが、花をつけません。ズイキとして葉柄を食べるのはこのヤツガシラが最もおいしいとされます。栽培品種として日本列島には非常に古くからあったと言われています。あるいは平安の頃にはあったのかも知れません。唐芋と呼ばれる品種の系統は、その名の通り、中国から渡来したものなのでしょう。「唐芋、トウイモ」と呼ばれる品種も味がよく、日本ではやはり古くから栽培されているもののようです。これも二倍体です。唐芋の系統には、されあに味がよいものとして名高いのは京都の「エビイモ」があります。
 
 日本で栽培されるサトイモの二倍体と三倍体の品種群は、互いにまったく別系統のものと考えられています。ほとんど花を咲かせないため、両方の品種群で交雑が起きることはありえないからです。

 野生系統のサトイモとして示唆的な事実が前掲書に書かれています。最後にそれを引用しておきましょう。

 送出枝をつくる野生サトイモは、与論島、沖縄本島、石垣島、西表島などの島々などに多く見られるが、屋久島、徳之島、久米島および宮古島では確認されていない。野生サトイモが生育していない島々では水田耕作が行われていないか水田の面積がわずかであることから、野生サトイモの生育と水田耕作との関係が暗示される。西南諸島に分布する野生系統が、かつて九州以北にも生育していたか否か、または栽培されていたか否かについては現在のところ明らかでない。しかし、九州以北の地域に関する18~19世紀の文書にはこれらの系統に関する記述がみられず、これらの系統は低温に対して弱いので、九州以北では栽培もされず、自生もしていなかったと思われる。(前掲書P160・P161)

 思い出してください。
 前回、風土記の記述を紹介しました。そのうち、『豊後国風土記』には「芋草」という記述があったことについて、すこし考察してみました。
 その考察では、『出雲国風土記』の「芋菜(いへついも)」に対してみると、豊後国ではこの「芋」なるものがほとんど野生の状態であったことを示唆していることを書きました。そのとき、『豊後国風土記』では、はじめに空を飛んできた白い鳥が餅に変わり、次に芋草に変わって何千株も降ってきたという記述と引き比べると、水田耕作とのかかわりを含んで、上の引用部分は示唆に富んでいます。

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カタクリ。かつてカタクリの球根から片栗粉をとったが、葉の方もゆがいて食べたものである。縄文期から食べられていたと想像される。
現在の片栗粉は、ジャガイモからとっている。

 <この項終わり>

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里芋、マムシグサ、水芭蕉 <その1>

2008-04-14 11:34:51 | 自然誌・自然史の歴史

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写真:ウラシマソウ。仏炎苞の外に飛び出した花軸の先を、浦島太郎の釣り糸に見立てたもの。サトイモ科テンナンショウ属(Arisaema urashima=アリサエマ ウラシマ)。

●里芋・マムシグサ・水芭蕉  <その1> ●

 サトイモ(里芋)、マムシグサ(蝮草)、ミズバショウ(水芭蕉)。これにザゼンソウ(座禅草)も加えましょうか。
 これらは同じファミリー(科)の植物です。現在ではサトイモ科と言いますが、かつては天南星(テンナンショウ)科と言いました。その天南星(テンナンショウ)と名のつく植物は、この日本でも多くの種が知られています。
 天南星(テンナンショウ)の仲間には、マムシグサ(蝮草)と総称される一群があります。花茎を抱いている筒状の皮(「葉鞘」=ようしょう=の変化したもので「偽茎」=ぎけい=といいます)が、マムシのようなまだら模様となっていることから、こう名づけられています。きっとたいていの人は、日差しの少ない林内でこの植物を見れば、マムシにでっくわしたときのような、何か不気味な感じをもつことでしょう。この植物が有毒であるというのもうなずけます。きっとだれも、マムシ模様の茎やその根や、毒々しい赤色をした果実を食べたいとは思わないでしょう。
 けれども、じつはサトイモだけでなく、これらのテンナンショウと呼ばれる植物の一群もまた、人間にとってなくてはならない植物だったことがあったのです。その根が重要な食糧とされていた地域、文化圏がかつてあったのです。そのことについては、少し後で書きましょう。

 このテンナンショウの仲間にはなかなかユニークなものもありますが、それはどうぞ図鑑などでお調べください。ぼくの手元にある写真はあまり多くありません。スキャン済みでここに掲載できるものは、ウラシマソウやミミガタテンナンショウくらいです。

 ではまず、サトイモ(里芋)のことから書き始めましょう。
 なお、カタカナで表記するサトイモやテンナンショウという名は、植物学的な目で見つめるときに使います。民俗誌的な目でそれらを見るときには主に漢字表記で、里芋、天南星と書くことにしましょう。もちろんこれは原則ですから、あるいは表記の揺れがあるかもしれません。


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写真:ミズバショウ(水芭蕉)もサトイモ科の植物。白い花弁と見えるのが、仏炎苞と言われるもの(もともとは葉)。その白い仏炎苞に包まれている棒状のものが花序。この花序に多数の小さい花がつく。
ミズバショウ属(Lysichiton camtschatcense=リシキトン カムチャトケンセ)。種小名は「カムチャッカ産の」という意味。

 ◆風土記におけるサトイモ(里芋)◆

 里芋は、それまでの日本人に知られていた山芋(ヤマノイモ)に対して、里でとれる芋、里で栽培される芋という意味でこう名づけられたようです。つまり、いま根菜として日常的に食べられている里芋は、本来、日本列島の自生種ではなかったことが推定されます。里芋が日本列島に姿を見せる前、日本人は芋と言えば、山の芋(ヤマノイモ)のことを指していたと考えられます。それは、里芋がかつて「芋菜」(いえついも)と呼ばれていたことにはっきりとあらわれています。これは「菜」としての芋という意味です。「菜」を現代の「野菜」の意味とほぼ同じと見れば、野菜と認識されている芋であったと言うことになります。「いえついも」という訓読みも「家つ芋」(=「家の芋」)という事実を表現していますから、現在の「里芋」とその命名の発想はほとんど変わっていません。

 この里芋が現存の文献にあらわれる最初は、『豊後国風土記』(730年頃成立)ないし『出雲国風土記』(733年成立)とされています。『豊後国風土記』では「芋草」(いもくさ)、『出雲国風土記』では、上述したように「芋菜」としてあらわれています。ほぼ同じ頃に成ったとされる二つの風土記のあいだの、この「芋草」と「芋菜」の表記の落差には、あるいは何かしらの事実が隠されているかも知れません。たとえばこうです。
 「草」と「菜」のあいだには、ひょっとして自生種と栽培種の認識の違いがあったのかもしれないということです。もしそうであるとすると、現在日本で主に食べられている里芋とは違った品種が九州地方にはあって、当時の人々はかなり重要な食べ物としていた、ということになります。九州や沖縄にだけ、現在も野生種が分布していることが、あるいはそのヒントになるかもしれませんが、気候条件や文化的背景などを考慮すると、軽々しく断定的なことは言えません。もともとの栽培種がいつか野生化して、いかにも自生種のように思われているのかもしれないからです。ここではこれ以上深追いすることはやめておきましょう。

 『豊後国風土記』の記述を見ますと、次のような言い伝えがあったことが知られます。
 昔、豊前・豊後両国は「豊国」(とよのくに)という一つの国でありました。景行天皇の御代、天皇の命でこの「豊国」に派遣された「菟名手」(うなて)という人が、はじめてこの国にやってきたとき、空を飛んできた白い鳥がまず餅に変わり、次に数千株もの芋となって降ってきました。これを見た菟名手は早速天皇のもとに帰り、「至高の徳が感応したためです」と報告しましたところ、天皇は菟名手に「天の神からくださっためでたいしるしの物、地の神から授かった地の豐草(とよくさ)である」とおっしゃり、さらにまた、菟名手に「豊国直(とよくにのあたい)」という姓(かばね)を下さり、豊国を治めさせられました。これによって、豊前・豊後の両国ははじめて「豊国(とよのくに)」と呼ばれるようになりました。その後、この国を二つに分けて豊前・豊後とするようになったというのです。
 この豊前・豊後が、当時「豊かな国」であったこと、その「豊かさ」の原因が空から降ってきた里芋の株であることが記されていて、当時九州のこの地域一帯で里芋が重要な栽培食物であったことが推定されます。中国から伝わったものであるとしても、繁殖力の高い里芋が温暖な気候条件の下で、難なく広範囲に栽培できたことが、「菜」というよりも「草」という感じを、この地の人々に持たせたのかも知れません。「餅」のすぐ後に降ってきたということも、思わせぶりです。あるいは「芋草」は稲の栽培に付随して中国から渡ってきたということを言っているのかも知れません。そうして、長く、稲のかたわらで「半栽培」のような状態を保って、救荒植物であったヒガンバナ(曼珠沙華)以上の貴重な役割を果たしていた、と言えるのかも知れません。ヒガンバナは稲の不作にそなえたものでしたが、「芋草」のほうは米食の傍らに調理されてあったり、米の不足を補っていたりしていたのかも知れないからです。
 この「半栽培」については、照葉樹林文化とからめて、あらためて触れることにしましょう。

 一方、『出雲国風土記』では、里芋の記載はわずかです。それも出雲国の中心部の山野ではなく、和多田島(わただじま、現在は島ではなく、美保関町和多田の鼻)、粟島(あわしま、これも現在は島ではなく、米子市夜見の浜付近の丘=粟島神社がある)、於豆振の崎(おずふりのさき、現出雲市十六島の崎=うつぶるいのさき)の三カ所だけで、いずれも島や岬など、政庁のあった中心部からは遠く離れています。『出雲国風土記』でもっぱら「芋」としてあらわれるのは「山の芋」(ヤマイモ)であることから、この風土記が書かれた700年代初期には出雲国では、里芋の栽培がそれほど進んでいなかったことを思わせます。
 もう一つ、二つ風土記を見てみましょう。『常陸国風土記』は和銅6年(713年)から養老2年(718年)の期間に成立したとされていますが、この風土記の現存する部分には里芋の記述がありません。『播磨国風土記』(713年~715年ころの成立と推定されています)の現存する部分にも同様で、どちらも郡(こほり)ごとの水田の状態が必ず記述されていることからも、『豊後国風土記』の里芋の記述が特異なものであることが知られます。
 じっさいのところ、里芋はどうだったのでしょうか? この710年代の古い風土記のもっぱらの関心が稲作にあったために、記述が一切省かれたのかもしれませんし、あるいはまた現実として、それほど栽培が広まっていなかったのかも知れません。地名に関連して出てくる作物も、『播磨国風土記』では、稲以外には粟と栗だけです。

 さて、風土記の記述から一気に現代まで時代を下ってみましょう。

 
 ◆民俗誌における里芋◆

 坪井洋文氏の『イモと日本人』(未来社1979)には、正月の食べ物として里芋が餅よりも価値あるものとして、上位に位置づけられている事例が多数紹介されています。二つか三つ引用させてもらいましょう。

 事例13 熊本県球磨郡五木村平野や梶原では、元日の朝には、年末の二九日に炊いておいた里芋(親芋も子芋も)を椀に入れて、雑煮を祝う前にまず食べることが行われ、これをイモカンと呼んでいる。(P76)

 事例16 東京都下青ヶ島では、正月にはイモをきれいに洗って島桝という島特有の桝に入れ、トシガミサマに供える。(P77)

 事例31 鹿児島県指宿市宮ヶ浜の農家では、正月に床の間に里芋を供える。これは新芋と種子芋のもっとも大きいのをきれいに洗い清め、皮をむいて供える家が多いという。(P93)

 事例16の青ヶ島では、このほか、餅はついても正月三が日は食べずに飾っておくとも書かれています。

 これらの事例は、もともとあった里芋習俗の上に、後代になって稲作文化が入ったことから生まれた餅習俗が付加されたためであろうというのが、坪井氏の分析です。それは、明らかに里芋よりも稲のほうが食糧としては上位にあるからです。里芋も保存のきく食物ですが、秋に収穫した後、せいぜい半年、翌年の春までしか保存はできません。気温が上がってくると腐ってしまうからです。その点、稲は常温でも2,3年の保存がききます。稲は貯蔵ができるために、人々のあいだに貧富の差をつくった、というのは歴史の定説です。

 また、坪井氏はこうも書いています。

 日本のいわゆる秋祭りは多様な相を見せているが、その儀礼群のすべてが稲の収穫祭と規定することはできない。盆とか八月十五夜・九月十三夜の里芋―豆類の収穫儀礼、十日夜・案山子あげ・亥の子の大根―里芋の儀礼、アエノコト・丑の日や霜月祭り大根―里芋―粟の儀礼などは、畑作物の収穫祭として位置づけることが可能だからである。(同書P243・P244)

 さらに、坪井氏は日本の焼き畑農業の事例を詳しくあつかって、焼き畑農業において、里芋が非常に重要な位置を占めていることを例証しています。その一つは滋賀県浅井町野瀬の事例です。ここでは、焼き畑に多様な作物を収穫しますが、日常食として食用にされるのとは別に、儀礼用に食される作物として里芋が中心的な地位に置かれていることがあげられているのです。なお、カタカナ書きされている「アエノコト」とは、柳田国男の解釈で「饗の事」、つまり、神と人との共食神事を指す言葉で、「田の神」、「アイノコト」などとも呼ばれる儀式です。

 まず里芋についてみると、正月元日の朝はイモのオヤを一つでも食べないことには餅を食べたらいけないということになっていて、イモをまる炊きにして、餅といっしょに醤油味にして神仏に供え人々も食べた。(同書P250)
 野瀬では里芋はゴチソウイモといって、ふだんは食べないようにして、あらたまった日の食料としてイモアナに保存した。(同書P250)

 この後、坪井氏は、日本列島をアジアの農業発達の過程のなかに組み込むという意図を持って、照葉樹林文化のなかに関連づけていこうとします。その照葉樹林文化における里芋については、次の節に紹介するとして、坪井氏が引用している本間トシ氏(論文発表当時東京女子大学。以後不明)の論文『儀礼食物としての芋』(『史論』第18集所収、1967年)農耕儀礼における里芋儀礼の分布では、明らかに東北地方南部以南となっていて、それとは対照的に山芋儀礼の分布が東北地方に濃く、九州南部で空白となっている点が注目されます。
 この点について、里芋と山芋の気温特性に、坪井氏も言及しています。
 近代の改良されたものを除けば、里芋はもともと熱帯性の植物であるため、平均気温が10℃を下回る地域では栽培不可能であること、その点、山芋は温帯性の植物であることが指摘されているのです。坪井氏が事例としてあげている里芋儀礼も、九州から関東地方までで、東北地方については欠けていることが、このことによってうなずかれるというわけです。
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写真:ミミガタテンナンショウ。えらの張った仏炎苞が特徴。丹沢で。丹沢にはミミガタテンナンショウがかなり多い。テンナンショウ属は、雄株・雌株があり、栄養状態で雄株から雌株に性転換するので知られている。これは雄株。雄株には、やってきた虫が逃げ出せる小さなすき間があるが、雌株のほうは一度入り込んだら出られない。受粉の役目をした虫は用なしだからである。まことに恐ろしい植物である。

<その2>に続く。

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自然誌の歴史第五回

2008-01-14 08:34:08 | 自然誌・自然史の歴史

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自然史(自然史学)の歴史について第5回

(3) 動物学・解剖学の流れ その2

①動物学の流れ/それはアリストテレスに始まる

Ⅱ. アリストテレスの自然学について-その1-

○自然学(ピュシケphysike)について

 アリストテレスの思想を特徴付けるものが、その膨大な「自然学」系統の著作の中にある。この「自然学」という分野において、アリストテレスはプラトン*1と決定的に分かたれるのである。あるいは、アリストテレス自身が、プラトンとの違いを強く意識する。
 プラトンの場合、目の前の自然現象を解釈することにおいて、解釈する言葉、説明、概念が自然現象それ自身からの奉仕を求める。すべての自然現象はロゴスに帰され、イデアへと還元されるのである。そのロゴス、イデアは実際の自然現象から離れたところに全く別個のものとして存在する。
 一方のアリストテレスは、自然現象の中にロゴスを発見する。自然現象が自らを論理的に、説明的に語り出すのである。それを忠実に記載することが、アリストテレスの「自然学」であった。その基本的な態度はまさに「観ること」にあった。観察である。観察の重要性をはっきりと認識し、それを方法的に確立したのは、アリストテレスである。それはまた、中世以降のヨーロッパに連綿と続いた博物誌=自然誌=自然を記述すること=の伝統の礎となったものでもある*2。
 アリストテレスの自然学関係の中心となるのがそのもずばりの『自然学』という著作である。ここも今道友信氏の『アリストテレス』に従って、孫引きをお許し願いつつ、その『自然学』を見ておくことにしよう。
 『自然学』の最初の章には次のようなことが語られているという。
 

「およそいかなる研究の部門においても、その対象にそれの原理・原因なしそれの構成要素がある限り、我々がその研究対象をよく知っているとか、学的に認識しているとかいうのは、これら原理・原因・構成要素をよく知ってからのことである。というのは普通に我々は各々の対象事物の第一原因、第一の原理をその構成要素に至るまで知り尽くしたとき、初めてその各々を知ったものと思うからである。それゆえ、明らかに自然についての学的認識のばあいにも、まず第一に我々の努むべきことは、それの諸原理に関する事項を確定するにある」(『自然学』第一巻第一章一八四a一〇~十六/『アリストテレス』P222)

 このことについて、アリストテレスは、「ピュシス(=自然=引用者注)の底にまでロゴスを押し入れることによって、ロゴスをピュシス化する、という自然化の方向である」(『アリストテレス』P223)と、今道氏は解説している。さらにプラトンと対比して、「プラトンの『現象をロゴスで救う』と言うのに対して、アリストテレスは『現象の底にロゴスで達する』と言うことになる。」(同書P224)

 「現象の底にロゴスで達する」とは、現象自体のもつ論理性・歴史性をたぐって、現象の原因・理由・目的をつかみとることである。

○「普遍から特殊へ」または帰納と演繹

 今道友信氏の解説によれば、アリストテレスの方法は「普遍」から「特殊」へという方向をとるという。「普遍」に存在するものを特殊なものへと分析して、それぞれ個々の事象を解明していくという方向をとるというのである。その説明を引用しよう。

「アリストテレスは、『まず、我々にとってより多く知られ、より明らかであるものから自然においてより明らかでより多く知られてあるものへ知識は進まなければならない』という。我々にとってより多く知られ、より明らかであるものとは何か。それは我々が経験する知覚のことなのである。知覚は、それとして見られる限り、我々が現に知覚している通りによく知られ、自明的でさえある。そして、これを出発点としなければ、いかなる認識も成立しない。知覚内容は、しかし、そのまま常に肯定されるとは限らない。」
「すなわち、知覚は人間と現象との最初の遭遇場所であり、初めはそれを足場にしながら、それを脱してゆく。ということは、単に自然の側にロゴスが浸透するのではなくて、それとともに、自然においてより明らかなことが我々に示されて来るのであって、ピュシスの側へ進むことが同時にロゴスの側の明晰化なのである。」
 従って我々の精神が主観的に明らかであるという知覚から、対象に達するのではなくて、精神はそのような知覚から、客観においてより明らかなもの、すなわちピュシスをとらえたロゴスへ進むのである。原因・原理・構成要素というものは、人間がロゴスにおいてとらえたピュシスの姿なのである。」(同書P225・P226)

 最初の知覚については、次のようなアリストテレスのたとえから説明されている。

「『幼子は初めのうちには男ならだれをも父と呼び、女ならだれをも母と呼んでいるが、後になるとこれらの各々を父や母より以外の男や女と区別して、しまいには名指しで呼ぶようになる』(『自然学』第一巻第一章一八四b一二~一四)と言っているが、確かに人間に最初に与えられて来るものは全体的な印象である。これを分析するというところに、普遍から特殊への道がある。」(同書P226)

 ここから、普遍から特殊という過程のもつ二重性が指摘される。

「そして普遍から特殊の道をこのように考えることにおいて、アリストテレスでは演繹と帰納という二つの相反する手続きが基本的には一つになるという思考法が成り立つ所以が隠されている。彼がここでいう普遍から特殊へというのは、構成要素の分析への道であり、それは、帰納の出発点となる個が確保されているという限りにおいて、むしろ帰納への道であって、決して原理から特殊を説明しようとする演繹の道なのではないが、しかし、普遍から特殊化へという限りにおいては演繹と方向を同じくする。」

 ここに説明されている普遍から特殊への過程の二重性は、この限りではよくわからない。けれども、自然科学の原理としてこれをとらえなおしてみると、もう少し理解しやすくなる。それはこうである。まず、個々の事象にあたり、それらに立脚して事象の構成要素、原理・原因が分析される。それが帰納の過程である。その分析結果によって得られた原理・原因は、他の一般的な事象へとフィードバックされて、そこで分析される。一般化された原理・原則から進む過程は演繹の過程である。原理・原因の帰納と演繹とは、自然科学にとっては欠かせない手続きである。そのようなものとして、この普遍から特殊化への行程をとらえると、よりわかりやすいであろう。

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○自然とは何か?

 自然というものがどんなものであるか、何であるか、アリストテレスは、『自然学』第二巻の中でさまざまに言い換えて定義している。
 まずこう書く。

「自然的存在とは動物やその部分、植物、そして土、火、空気、水のような単純物体のことである。なぜなら、我々はこのようなものや、これに類するものを自然によって存在するというからである。」(第二巻第一章一九二b九~一二/P231)

 さらに、自然的存在は「これらの自然物と呼ばれるもののどれをとってみても、それぞれ運動変化(kinesis)と静止(stasis)の始まり(arche 原理)を自分自身の内に持っている」(一九二b一三~一四/P231)ものである。

「あるものは場所的運動に関して、あるものは増大と減少の面で、あるものは性質的変化という面で、それぞれの運動と静止の原理を内に持っているのである。他方、寝台や着物や、その他それに類したものは、それぞれその呼び名で語られているものである限りでは、すなわち、それが技術の人工品である限りにおいては、運動変化を始めようとするなんらの傾向をもそれ自身の内には本来的には植えつけられていない。しかし、それらがたまたま石や土や両者の混合からできていると考えられる限りでは、すなわち、その質料的構成要素の面から見られる限りにおいてだけ、それらのものは生成消滅という運動変化の傾向をそれ自身の内に持っているのである。」(一九二b一六~二〇/P231)

 そして、「自然とは」と最も基本的な定義を記している。

「自然とは運動と静止の原因が付帯的にではなく、直接的、本来的に内蔵しているようなものにおいて、そのものが運動したり静止したりする原因となっている何ものかのことにほかならない」(一九二b二一~二三/P232)

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○運動(kinesisキネーシス)

 これらの自然の定義から、アリストテレスの説く自然においては、「運動」が大きな意味を持っていることが知られる。そこで、その重要な鍵を握る「運動」についてアリストテレスがどう考えていたかを見てみることにしよう。
  『自然学』第三巻第二章にはこうある。

「運動とは何であるかを考えなければならない。というのも、これが認識されなくては必然的に自然も認識されないからである。」(二〇〇b一四~一五、P234)
「ところで運動とは連続的なものに属していて、そして無限が現れるのは何よりもまずこの連続的なものにおいてであると思われる。従って、連続的なものを定義しようとするときも、人はしばしば無限の概念を用いる。例えば、“連続的なものとは無限に分割され得るもののことである”と言えよう。これら連続や無限のほかにも、場所や空虚、そして時間を離れては運動はあり得ないと考えられる。」(二〇〇b一六~二一)

 このような運動はつまり、空間や時間との関係によって語られるものである。
 運動(キネーシス)の定義は以下のように語られている。

「可能態においてあるものがその完全現実態においてあり、現実的に活動しているとき、しかもそのあるものそのものとしてではなしに動かされうるものとして、そのように現実的に活動しているとき、この可能態にあるものの完全現実態が運動である。」(二〇一a二七~二九)

 かなり難しい定義である。これはこう解釈されよう。
 可能態が完全現実態にあるというのは、その可能態が内包する可能性がいままさに発現されつつあるという現在完了進行形として、次々に完了しつつ進行するという、その過程を経過しているということである。このような過程にあること、あるいは状態を「運動」と言うのである。このことを、アリストテレスは同じ章で言い換えている。


「運動はある現実態である」(二〇二a一)、「それは動かされうるものとしての限りにおける動かされうるものの完全現実態である」(二〇二a七~八)

 運動は運動自体として、完全現実態とみなされる。
 そして、自然は自然自体の中に運動をもつことができる。自然はそのものの内から内発する運動によって空間移動するだけではなく、変化生成し、また衰滅・増減するのである。その意味で、運動とは生成消滅や質的変換をも含む広義の概念となる。逆にこの運動から、先に紹介したような自然の定義がなされるのである。
 そして、自然がもつ運動として、最も自然の特質をよく表しているのが、種の再生産過程、つまり生殖に基づく種の維持ないし展開である。アリストテレスはこのことを「人間が人間を生む」として再三表現している。

 この運動は、どこで行われるか?
 それは場所である。アリストテレスは、その場所について、
「包むもの。包まれるものの部分ではない。事物の占める場所はその事物より小さくも大きくもない。事物から離れうる。」(二一〇b三四~二一一a三)という四つの属性を考えている。そして、「場所はそのうちにある物体とともに成長増大することはない」、「点には場所はない」、「二つの物体が同時に同一の場所にあることはない」、「場所は物体と物体の間隙ではない」「場所は場所を限界づける限界面としてある」のであり、このような場所にあっては、「存在するものすべてが場所の内にあるというわけではな」く、「場所の内にあるものは動かされうる物体だけである」。

 さて、運動には時間の観念がつきものである。その時間はどう考察されていたか。

「時間は運動ではないが、運動なしには存在するものではない」(二一九a一)。

 
そして時間は、運動の始まりと終わりとにおいて運動を限定するときに、その運動として認識される。つまり、「時間とは前と後とに関しての運動の数である」(二一九b一~二)という定義が提示されるのである。そして、このように運動の数=単位として定義された時間は、「今」において、われわれ人間に意識された時間となる。それは時間そのものではないが、時間の数の意識であり、人間の時間認識である。
 つまり、アリストテレスにとっては、時間はそれを認識する主体があってはじめて存在するものであった。言い換えれば、時間は、すでに数えられたか、あるいはこれから数えられ得るかという、運動の数であるから、その数を数える存在がなくてはならないのである。数える存在とは人間の魂であった。

○自然には目的がある。

 アリストテレスは「自然によって生成し存在するもののうちに目的因が内在する」(『自然学』第二巻第八章一九九a三〇)と言明している。また、『動物部分論』第一巻第五章には次ような確信も述べられる。

「……、われわれもためらわずどんな動物の研究に向かわねばならない。そうすればどんなものにも何か自然で美しいものが認められるであろう。というのは、自然物には偶然性ではなく一定の目的性が、しかも最もよく認められるからであって、その存立や生成の目的は美の領域に属することである。
 また、もしヒト以外の動物の考察はくだらないと思う人があるとすれば、その人は自分自身についてもうそう考えないわけにはいかないはずである。なぜなら、誰でも人体を構成する血、肉、骨、血管等のような部分を見れば、激しい嫌悪の情を禁じえないからである。さらに考えなければならないのは、何かの部分とか器具について論ずる人が注意を向けたり、主題にしたりするのは、質料ではなくて全体の形であるし(建築を例にとっても主題はやはり家であって、煉瓦や漆喰や木ではないように)、自然について論ずる人も同じように、その主題は組成や実体の全体で、実体を離れては存在し得ないようなもの[質料]についてではない、ということである。」(『動物部分論』六四五a二一~三〇/岩波書店アリストテレス全集版第八巻P282・P283)

 ここでアリストテレスは、「その存立や生成の目的は美の領域に属することである」とまで言明している。生物の存立や生成を「美の領域」と見るところに、アリストテレスの自然観があるといってよく、この自然観はプラトンにはないものである。プラトンが美を感ずるのは、数学や形而上の世界だからである。
 続いて、その目的性は身体全体として、「霊魂のため」とされる。まずは、その箇所を引いておこう。

「さて、およそ道具[器官]というものはすべて何かのためにあり、身体の各部分も何かのためにあり、この目的というのは一定の活動のことであるから、身体の全体も何かある総括的活動のために出来ていることは明らかである。なぜなら、鋸のために木をひくことがあるのではなく、『木をひくこと』はある種の使用であるから、木をひくために鋸が出来ているのである。したがって、身体も結局は霊魂のためにあるので、身体の各部もそれぞれ目的とする機能のためにあるのである。」(同上六四五b一二~二〇/同上P283)

 すべての自然は、質料と形相とをもち、このうち、形相はたとえば、種としての成長した姿であり、これを目的として存在する。つまり、形相は目的因であると同時、その種の生成の原因でもある。

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<注>
*1 プラトン(紀元前428~347)=アテナイの哲学者、ソクラテスの弟子。アテネの郊外にアカデメイアを設立して、教育と研究に当たった。プラトンはその哲学思想をソクラテスの口を通して語らせる。それらの著書として、『ソクラテスの弁明』、『饗宴』、『国家』など多数が残されている。
*2 「自然誌」は日本語ではまた「自然史」とも書かれるが、英語ではnatural historyナチュラル・ヒストリーである。「自然史」とも訳し得るが、それよりも「自然誌」としたほうが日本語としては意味がいっそう近いように思われる。というのも、この場合のhistoryヒストリーは、歴史というよりも物語であって、自然が自らの歴史あるいは出自、原因・理由などを物語る事柄を記述するのが、「自然誌」なのである。この「自然誌」の考え方こそ、アリストテレスの自然に対するアプローチと観念に端を発している。
 なお、英語のnatural historyは、フランス語では、histoire naturelle(イストワール ナチュレール)、ラテン語では、historia naturalis(ヒストリア ナチュラーリス)で、ここに使われる「イストワール」、「ヒストリア」に「物語」、「(自然についての)系統だった記述」という意味がある。「natural historyナチュラル・ヒストリー」は「自然の出来事、事物についての論理性、系統性のある記述」という意味として、「博物学」や「博物誌」と訳されるよりも、「自然誌」のほうがより原意に近いということになる。

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自然誌の歴史第四回

2007-12-30 01:32:30 | 自然誌・自然史の歴史

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●自然史(自然史学)の歴史について●

(3) 動物学・解剖学の流れ その1

①動物学の流れ/それはアリストテレスに始まる

 ここでいったん植物学を離れて、動物学の歴史をひもといてみよう。
 文献史的に見れば、動物学の歴史はギリシアに始まる。アリストテレスの動物学である。アリストテレスは、ギリシア哲学の歴史の中で、プラトンに次いで大きく扱われるが、彼はいわば近代以前の古い意味での博物学者でもあった。アリストテレスは、世界のあらゆる事物、つまり形而下の事象の中に形而上の原理を見つけ出すということに力を注いだからである。アリストテレスの師であったプラトンは、形而下の事象を、形而上の原理から考察するものであったから、イデアとしてのロゴス(原理)にすべての自然界の事物が起因するとしたのと比べてみれば、アリストテレスはこのプラトンとは、いわばほとんど逆方向の思考形式をもって自然(ピュシスphysis)を考究したと言える。
 結果としては、両者とも、物理学も天文学も化学も地学も生物学もともに、形而下の自然学(physikeピュシケ=フィジックスphysics)として、形而上の原理を反映させるものであった。言い換えれば、プラトンはまず形而上のものとして、イデア=ロゴスから考え、それを自然に降ろしてきたが、アリストテレスは自然そのものから考えて、形而上の原理に至ろうというものであった、といえばよいだろうか。

Ⅰ. アリストテレス。自然科学の祖

 アリストテレスには主著『形而上学』とともに『自然学』をはじめとして、自然学に関する膨大な著作が残されている。といっても、『形而上学』や「オルガノン」と呼ばれる論理学関係の著作など、あの膨大な哲学の大系の中に踏み込むのはなるべく避けることにして、現在われわれのために残されている動物学に関連する書物をざっと見ることにしたい。前にも書いたように、アリストテレスの自然学のうち、文献として残っているジャンルの一つが動物学なのである。アリストテレスの真作として現存するものは、『動物誌』、『動物部分論』、『動物運動論』、『動物進行論』『動物発生論』の5書であると言われている(偽書という説もあるにはあるが)。
 このうち、『動物誌』は岩波文庫に収録されているので、比較的手に入れやすい。他の4つは『動物誌』とともに、岩波書店から刊行された「アリストテレス全集」(初版1968~1973年/第四版1993~1995年)に収録されているが、岩波書店のウェブサイトでは「品切れ重版未定」となっている。*1
 
 さて、アリストテレスの考え方の基本を、少し書いておこう。なぜなら、アリストテレスの基本的な考え方は、彼自身の長い年月をかけた自然観察、わけても動物観察に基づいているからである。たとえば、彼のカテゴリー論(範疇論)の最初の説明には、このように書かれている。今道友信氏の『アリストテレス』*2から引用しよう。

○カテゴリー論(範疇論)
 カテゴリーという言葉は、ギリシア語における「述語する、述語付ける」という意味の「カテゴリオkategoreo」という動詞から派生した「カテゴリアkategoria」、つまり「述語」という言葉に基づくものである。つまり、ある命題を考えるとき、その主語に対する述語に当たるものの種類がつまり「カテゴリー」である。いわば、述語の文法的性格と考えてもよい。この述語にどのようなものがとれるか、というのがアリストテレスの「カテゴリー論」である。それには「実体」、「量」、「質」、「関係」、「場所」、「状態」などがあげられるが、十を数える場合と八つの場合とがあり、必ずしも明確なものではないようである。

 また、アリストテレスは次のようにも言う。

「すべての命題は、その命題すなわち定義を含めて類か特有なものか付帯的なものかを明らかにする。なぜなら、種差について言わないのは、種差もまた類に属するものとして類と同列に置かれなければならないからである。しかし、特有なもののうち、あるものは本質を示し、他のものは本質を示しはしないから、特有なものは、本質を示すものと、そうでないものとの二つに分かれる。そして本質を示すものを定義と呼び、残りの他方のもの、本質を示さないものを、それらについて無差別に与えられた共通の名に従って特有性と呼ぶことにしよう。そこで、上のことから明らかなことは、なぜ、今の分類に従ってすべてのものはちょうど四つ、すなわち定義か特有性か類か付帯性かになるという理由である。」
(『トピカ』第一巻第四章=『アリストテレス』P119・P120から孫引き)

 この分け方では、述語となる部分は、①そのものの本質を記述する、つまり定義を示すことになるか、②そのものに固有の特有性を叙述する記述になるか、③あるいは種差の叙述を含めて類を記述するか、④それともそれらのものに付随する事項の記述となるかの、いずれかであるというのである。これは先にあげた「カテゴリー論」の分類の仕方と切り口がかなり異なる。アリストテレスの自然学をひもとき、理解する上では、こちらのほうが都合がよかろうと思われる。

○アリストテレスの三分法
 アリストテレスは学問を三つに分けた。ギリシアの伝統的な二分法、理論(テオリア)と実践(プラクシス)である。ここから、例えばソクラテスの「知行合一」という理念が生まれるのである。これに対して、アリストテレスは別の切り口をもっていた。それがアリストテレスの三分法である。それは、「思い見ること(テオリア)の学問としての理論学」、「行うこと(プラクシス)の学問としての実践学」、「作ること学問として制作学」の三つであった。
 このなかで最も重要なものは「理論学」(エピステーメーepisteme、またはテーオーレーティケーtheoretike)であり、この「理論学」もまた三つに分けられている。
一つは「自然学」、二つ目は「数学」、三つ目は「第一の(哲)学」である。
この三つについて、彼の『形而上学』第六巻第一章に次のような説明がある。

 「すなわち、自然学は、離れて[独立の個体として]存するがしかし不動ではないところのものどもを対象とし、数学的諸学のうちのあるものは、不動ではあるがおそらく[質料]から離れて存しはしないでかえって質料のうちに存するところのものを対象とする。しかるに第一の学は離れて独立に存するとともに不動であるところのものどもを対象とする。ところで、およそ原因たるものはすべて永遠的なものであるのが必然であるが、ことに第一の学の対象たるものどもは必然的にそうである。なぜなら、これらは、神的諸存在のうちの明らかな事象にとってその運行の原因であるからである。」(岩波文庫版出隆訳『形而上学』上P216・P217)

 「独立の個体として」存在し、生成し、また衰滅するする事物を対象とするのが、「自然学」である。「数学」は不動のものであるが、実体としては個別に存在し得ないものを対象にする。「第一の(哲)学」は不動であり、また独立して個別に存在するものを対象とする。「第一の哲学」はつまり、「神学」でもある。
 こうして[論理学」はアリストテレスの体系の最も基礎に置かれるものである。その一分野として「自然学」がある。そして、アリストテレスの「論理学」の基本には、アリストテレスが十年以上もの期間をかけて観察し、記載して「動物誌」などを生んだアリストテレスの「自然学的知見」がある。

○四原因論
 プラトンは物事の原因として、形相と質料という二つをあげ、すべての物事がこの二つによって説明されるとした。これに対して、アリストテレスは、形相因に混然として含まれていた目的因、起動因を分離して、これを形相因、目的因、起動因とした。そして、「事物の本質や原型」を表すものを形相因、「事物の転化、静止の始まる起点」を表すものを起動因または始動因とよび、これは物事の発生因ともなる。目的因は始動因の逆のもの、つまり「作用や運動の目ざすもの」を表す。プラトンでは運動の要素を含んでいた質料因は、それをそぎ落とされ、純粋に素材としての要素のみに限定されることとなった。
 こうして、アリストテレスにあっては、すべての事物はこの四つの原因となるものの結合・組み合わせによって生じるとした。たとえば、家を建てる大工の場合を見てみると、家を建てるための設計図は大工が作業するための「起動因」であり、またその作業は建てるべき家を目ざしているという「目的因」であり、そして、大工がそれに基づいて作業をしている設計図は真の「形相因」である。これらを広義の「形相因」とし、この広義の「形相因」と、家を建てるための材料である木や石などという「質料因」とを結合することによって「家」という事物が成り立つのである。このとき、設計図は大工が家を建てるための家の本質(姿)を描く「形相因」であるとともに、大工が家を建てるための指示書としての「起動因」であり、目ざされるべき家を示している「目的因」でもあるという関係が成り立っている。これが、アリストテレスが、教義の「形相因」(家の本質を示す)と「起動因」、「目的因」を広義の「形相因」に集約する理由である。逆に言えば、アリストテレスはプラトンが「形相因」としてくくっていたものを分析して、新たに三つの原因として提示した、ということが言えるであろう。
 この考え方は、トマス・アクィナス以来、中世の哲学・神学の世界に取り入れられて、現代に至るまで長くヨーロッパの思想に大きな根を下ろしている。つまり、ヨーロッパ思想世界は、十字軍によってもたらされたアリストテレスの再発見によって大きく進展する力を得たのである。最初のヨーロッパへのインパクトは、アラビア語に訳されていたアリストテレスの諸著作から生じ、そのラテン語訳を経て、ヨーロッパに導入されたのである。ギリシア語から直接ラテン語に訳されるためには、さらに数世紀を要した。このため、翻訳の翻訳という制約から、誤訳や意味不明の箇所が少なからず生じ、長く誤解されるアリストテレスという側面も生じた。特に自然学方面での解釈の混乱を招いたとされる。

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○現実態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)、そして完全現実態(エンテレケイア)
 アリストテレスを語るとき、この二つの様態=状態を抜きにはできない。それほど重要な概念である。この考え方はアリストテレスによってはじめて提示されたもので、それは自然学的諸観察、とくに動物の観察から得られた事物の生生発展、衰滅の事象に基づいたものである。つまり、自然学諸関係では特に重要な概念と言うことができる。
 現実態とは、潜在能力、潜在資質としての可能態が、現にそこに実現した様態・状態を言う。それは今、われわれが言うところの「可能性」とは意味合いがかなり異なる。というより、「可能性」として潜在する領域が広範なのである。たとえば、「ある一つの木材のうちにヘルメスの像がある」と言われるがごときものも含むからである。またいわゆる可能性としても、、現に研究活動のために準備をしている学生や、あるいは将来そうなる能力のある少年は「可能態として研究者である」と言える。また、ある限定された一つの直線のうちにその半分があるという場合、その半分の直線は可能態である。これらが現実態となるのは、その一本の限定された直線が実際に半分に分割された状態そのものとなるときであり、実際にその者が研究者として研究活動を行うときであり、またその木材からヘルメスの彫像が切り出され、刻み出されたときである。

 アリストテレスはこうも言う。

「だが、明らかに、いま我々の言おうと欲するところは、その個々の場合からの帰納によって示される、そしてまた一般にひとはあらゆるものついてその定義を求むべきではなくて、(場合によっては)ただ類比関係をひと目見るだけで足れりとすべきである。(たとえばいまの場合では)現に建築しているものが建築しうるものに対し、目ざめているものが眠っているものに対し、現に見ているものが視力をもってはいるが目を閉ざしているものに対し、ある材料から形作られたものがその材料に対し、完成したものが未完成なものに対してのような類比関係を。<中略> けだし、その或るものは運動の能力(可能性)に対する現実の運動のごときであり、他の或るものは質料に対するそれの実体(形相・本質)のごときものであるから。」(岩波文庫版出隆訳『形而上学』下P32・P33)

 同じ書からさらに「現実態」の説明を引いてみよう。

「諸々の行為のうち、限りのある行為は、①いずれの一つも目的(終わり)そのものではなくて、すべて目的に関するものである。例えば<痩身にする>ことの目的は<痩身>である。しかるに②痩せる身体部分そのものは、<痩身にする>過程においてあるかぎり、運動のうちにあって、この運動の目的を含んではいない。それゆえに、③<痩身にすること>は行為ではない。あるいはすくなくも完全な行為ではない(なぜならそれは終わりではないから)。ところが、行為(すくなくも完全な行為)は、それ自らのうちにその終わり(目的)を含んでいるところの運動である。たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時に思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終わってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終わってはいない。よく生きているときに、かれはまた同時によく生きていたのであり、幸福に暮らしているときに、かれはまた同時に幸福に暮らしていたのである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった。そこで、これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言われるべきである。けだし、およそ運動は未完了的である。すなわち、痩せること、学習すること、歩行すること、建築することなど、すべてそうである。これらは運動であり、しかもたしかに未完了的である。というのは、ひとは歩行しつつあると同時に歩行し終わっておりはせず、またかれは家を建てつつあると同時に建て終わっておりはしない。そのようにまた、なにかが生成しつつあると同時に生成し終わっておりはせず、動かされていると同時に動かされ終わっておりはしないで、かえって(動かされていることと動かされたこととは)別のことである。しかるに、見ておったのと同時に見ているのとは(別のものがではなくて)同じものがであり、またおなじものが思惟していたのである。そこで、このような現在進行形と現在完了形とが同時的な)過程を私は現実態と言い、そして先の過程を運動という。」(前掲書P34・P35)

 「可能態」のほうは「現実態」に続いて説明されている。本論はわかりにくいので、たとえの部分だけを引用してみよう。

「たとえば、この箱は、『土製』であるとも『土』であるとも言われないで『木製』であると言われるが、そのわけは、木が可能的に箱であるからである。」
「たとえば、もしも『土』が『空気的な(または空気でできた)』ものであり、『空気』は『火』ではなくて、『火的なもの』であるならば、『火』が第一の質料であって、或る『これ』なるものではない。」(前掲書P37)

 さて、エンテレケイア(完全現実態)である。
 完全に目的と一致して達成された現実態である。
 現実態が、そのものの終局目的として達成された状態と言ってもよい。生成発展する事物が、もうそれ以上生成することも発展することも、まったく余地がない状態である。いわば、絶対的終局の状態である。一応の達成とか、相対的にそうであるとか、類比的な関係とかではなく、それらをを突き抜けたところにある状態である。

<注>
*1 アリストテレスの動物学関係の著作として、手に入るもの=本文にも書いた『動物誌』岩波文庫版(初版1998年)。これは先に刊行されていた『アリストテレス全集』第7巻・第8巻(岩波書店)を底本としていて、訳者も同じ島崎三郎氏であるが、この文庫版のために、あらためて記載されている動物名を再検討したものである(訳者あとがきによる)。また、京大学術出版会から、「西洋古典叢書」の中の1冊として『動物部分論・動物運動論・動物進行論』が出版されている(訳者=坂下浩司氏、2005年)

*2 今道友信=1922年生まれ。1948年東大文学部哲学科卒。東大名誉教授。岩波書店『アリストテレス全集 第17巻 詩学』(1972年)を翻訳している。著書に『美の位相と芸術』(東大出版会、1968年)、『アリストテレス』(講談社「人類の知的遺産シリーズ→現在講談社学術文庫に収録)、『西洋哲学史』(講談社学術文庫、1987年)、『エコエティカ』(同、1990年)、『ダンテ神曲講義』(みすず書房、2002年→2003年マルコ・ポーロ賞を受賞)

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[参考文献]
『アリストテレス』(今道友信著、講談社学術文庫2004) 『古代ギリシアの思想』(山川偉也著、講談社学術文庫1993)
 ●以下はここでひもといたアリストテレスの著作●
『形而上学』上・下(出隆訳、岩波文庫1959初版)、『動物誌』上・下(島村三郎訳、岩波文庫1999初版)、『アリストテレス全集第7巻動物誌上』『同第8巻動物誌下・動物部分論』(島崎三郎訳、岩波書店初版1968)、『天について』(池田康男訳、京大学術出版会1997)、『動物部分論・動物運動論・動物進行論』(坂下浩司訳、京大学術出版会2005)

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自然誌の歴史-3-

2006-10-12 06:27:52 | 自然誌・自然史の歴史
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自然史(自然史学)の歴史について (2) 植物学の流れ その3

⑩ フランス植物学の流れ

 ジョン・レイを受け継ぐ者は、スエーデンの自然誌家、植物分類学者カール・フォン・リンネだが、その前に、英国の対岸、大陸及びフランスにおける植物学の伝統を見ておこう。ここにも、リンネに先行する植物分類のこころみがあった。

 ちょうど、ジョン・レイの『一般植物誌』(全三巻、1684~1704)が刊行されている頃、フランスでは、ツルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefortジョゼフ・ピトン・ツルヌフォール、1656~1708)*1が、花の形を基準にした植物分類法を確立していた。いくつかの種を「属」としてグループ化した点に、以後の合理的な植物分類への大きな貢献があったと言われる。彼は、それぞれの種を、花の形態に共通した特徴を持つまとまりを、それぞれ注釈付きで「属」としてグループ化した。「種」分類に、「属」というもう一段高い階層分類を、合理的な意味づけをもって与えたのである。
 それまでも、確かに「属」という考え方があった。たとえば、スイスのガスパール・ボーアン(1560~1624)*2では、経験的にいくつかの種の間見られる共通の特徴から、種をさらに大きな分類階層で分類できることに気づいていた。彼がその死の前年に世に出した『植物対照図表』(1623)では、約6000種の植物について、「属」概念に近いものによっていくつかの「種」をまとめるというこころみが行われているのである。けれども、「種」概念そのものが、いまだ、アリストテレス以来の形態的な特徴による分類意識に支えられていたこともあった、明確な「属」概念には達していない。

 つまり、経験的には、同じ親から生まれた子はどれも、どんなに形態が違っても同じ「種」であるという認識は、17世紀に入ると広くヨーロッパで一般化していた。では「属」は、どういう認識によってたてられた分類階層であったか? 「種」は異種動詞でも交配して種間雑種というものがつくられることがある。動物ではウマとロバの間のラバなどが有名である。植物では動物よりはるかに大きな広がりをもって種間雑種はつくられる。動物では種間雑種は不妊であるのに、植物では稔性をもつ場合がある。たとえば、最近の研究では、ヨツバヒヨドリとヒヨドリバナの雑種に、稔性のあるものが六甲山などで知られている*3。
 種間雑種はあり得るけれど、さらに遺伝系統の離れた属間雑種というのは動物ではまず見られない。動物よりおおらかな植物でもそれほど多くはない。ましてや動物はもとより、植物にも、属間雑種には稔性は見られない。つまり属間雑種の子孫は普通は存在しない。 現代では、遺伝子、あるいはDNAやアロザイム*4などの酵素による解析によって「種」の系統分類がかなり的確に行われて、「属」という分類が合理的なものであることが証明されているが、今から400年近く前には経験的にしか、しかもぼんやりとしか、「属」分類は認識され得なかったのである。それゆれ、「属」という分類階層は一見気まぐれで恣意的なものにも見えた。けれども、むしろそのような時代にあって、「属」という、系統分類へと導いていくはずの分類階層を置いたことの予見性、先見性は称賛に値する。

 一方、属分類の認識は、リンネの「二名法」へと道をつけることにもなった。というよりもも、「属」という概念によって分類されることは、生物の種について、簡潔でなお他とはっきりと区別すべき徴表において、「属」+「種名」という名づけ方が便利であることはだれにも気づかれる。人名にしてからが、基本は二名法ではないか。家族の名+固有の名が唯一の本人を表す。けれども、人間の場合、名前はファミリーネームにしても偶然が支配しているから、世の中の幾十ものあるいは幾百、幾千もの家族が同じファミリーネームを戴いていることが当然のごとく起きてしまう。学名ではそれはそうあってはならない。その種の固有の名称は、その種だけのものでなければならない。そうでなければ、幾人もの中村康夫さんが出てきては種分類にならないではないか。
 さきほどのスイスのボーアンも、そのことには気づいていた。その試みはなされたが、種の上位分類についての明確な指針のもてない時代である。分類に恣意性が紛れ込んでいた時代には、それはきわめて不徹底に成らざるを得なかった。そして、ツルヌフォールの時代となる。
 おもしろいことに、ツルヌフォールは、イギリスのジョン・レイとは違って、花の仕組みをもとにして、植物の大分類を行っている。それは合弁花と離弁花の区分であった。もっとも、ツルヌフォールは合弁花を「単弁花」、離弁花を「多弁花」と呼んでいた。ジョン・レイが葉の成り立ちから、単子葉類と双子葉類に分けたのと好対照を見せる。
 そして、「種」の分類の観念はジョン・レイ、属分類の観念はツルヌフォールと、いよいよ植物分類学の基本的な観念は出そろった。これらをまとめると、リンネの分類学が成立する。だが、そう単純には科学というものは進まない。なぜなら、ここでもう一つ注意が必要なのは、ジョン・レイの種分類が同時代の哲学者ジョン・ロック*5に多くを負っていたのと比較して、ツルヌフォールの属分類の観念は実は、その多くをアリストテレスの分類に負っていたことである。

⑪王立(パリ)植物園と植物分類学

 ツルヌフォールは、1683年、パリの王立植物園の教授に就任し、植物標本園を拡充して、その植物分類学の確立に役立たせた。このツルヌフォールの後継者が、アントワーヌ・ド・ジュシュー(1686~1758)*6である。と言っても後に、『植物の属』(1789)を著したアントワーヌ・ロラン・ド・ジュシュー(1748~1836)*7とは別人である。フランスで植物分類学に献身的に尽くしたのは、このリヨンの医師から出たジュシュー一族とド・カンドル父子*8であった。先のアントワーヌにはベルナール・ド・ジュシュー(1699~1777)*9という弟がいたが、このベルナールこそ、フランスの植物分類学を完成の域にまで導いた人物である。
 ベルナールは、ヴェルサイユ宮殿に付属するトリアノン植物園に、自然分類体系で構成した分類花壇をを造成している。彼は著作がほとんどないが、この実験的な分類花壇が彼の植物分類学の成果を見事に現していた。残念ながら、マリー・アントワネットがルイ16世の王妃として宮殿に入ると同時に、この分類花壇は跡形もなく壊されてアントワネットの好みの花で飾られてしまったという。実は、このとき取り壊されてしまった分類花壇にあった植物分類を発展的にまとめたのが、先述したアントワーヌ・ロラン・ド・ジュシューの『植物の属』だったのである。

 話は前後してしまうが、ベルナールが王立植物園の教授を努めていた1738年に、リンネが彼を訪ねている。そこで、リンネとベルナールが激しくやり合ったという記録が残されていないことからも、おそらくこの二人は、同じような考え方で植物分類を実践する同士として互いに認識しあっていたようである。けれども、ベルナールは本を残していない。一方のリンネについては少し後に書くが、彼の方は、たてつづけに所を刊行して、時代の寵児となっていたから、パリ植物園の側にはかえって反発する人物も現れる。その一人が、ベルナールの弟子のミシェル・アダンソン(1727~1806)*10である。
 ミシェル・アダンソンは、植物分類について大きな貢献を一つしている。彼は属分類の段階の一段階高い分類として、科(ファミリー)という分類階層を与えたのである。アダンソンはリンネの「性の体系」を批判して、植物の分類には、性的な特質だけでなく、それぞれの植物のすべての構造を総合的に比較考量することによって行われなければならないとした。その考え方に基づいて著したのが『植物の科』(1763)である。こうして、植物分類は、「種」→「属」→「科」と三層構造の分類体系に生まれ変わった。この点では、フランスの植物分類学の分類体系は、リンネのそれよりすぐれたものであった。

 実際、分類の階層構造が三層まで考察されるようになると、より高位の分類階層にグループ化できないかと考えるのは、ことのしごく自然な成り行きであろう。こうして、先にあげたアントワーヌ・ロラン・ド・ジュシューの『植物の属』の出番となるのである。この著書では、植物は大きく三つに分けられる。無子葉類・単子葉類・双子葉類である。このうち、無子葉類は隠花植物(コケやシダ類など、花を持たない植物)のこと、単子葉類は発芽の時に現れる子葉が一枚の植物(ユリ科やイネ科などの植物)、双子葉類は発芽時の子葉が二枚で、この仲間はさらに四つに分類される。無弁花類・単弁花類・多弁花類・不規則の雌雄異花類。単弁花類は現在の合弁花類のこと、多弁花類は現在の離弁花類のことで、無弁花類も現在はこの離弁花類に含まれる。不規則の雌雄異花類は、現在は、花の構造によって、離弁花類・合弁花類に分類され、雌雄異花、雌雄異株という分類項目はない。この下位分類として、綱という階層が与えられて、全体で15の綱に分けられることになった。こうして、分類体系はさらに多段の階層分類となり、「種」→「属」→「科」→「綱」→「類」とされた。しかもそれは人間の恣意に任されたのではなく、自然のもつ共通な性質をもって分類されるという、自然分類として、いっそうの完成度を高めたと言えるのである。

 さて、この次を引き受けたのが、ド・カンドル父子であった。父親のA・P・ド・カンドル(1778~1841)は、同じくスイスのジュネーブ生まれでありながらも、フランスの比較動物学の父と言われるジョルジュ・キュヴィエの盟友として、フランスの植物分類学の発展に貢献したスイス出身の人物である。が、これは先を急ぎすぎてしまった。これからはいったんフランス植物学を離れて、リンネに戻ってみることにしよう。

⑫リンネの二名法

 現代の植物分類・動物分類は、このリンネが定めた「二名法」によって種名がつけられている。それは、先にも述べたように「属名+種小名」によるものである。「属名」は「種」をグループ化したものだが、「種小名」はその「種」の特色を表すネーミングとなるように定められている。たとえば、漢方で名高い「甘草」は英名は「リコリス(liquorice、licorice)」、独名は「ラクリッツ(lakriz)」だが、この学名は“Glycyrrhiza glabra(グリキルリーザ グラーブラ)”とリンネは命名する。属名はその根が甘いことからギリシア語で「甘い根」を意味することばとし、種小名の方は、茎に毛がないことから「無毛の」という意味の形容詞“glabra”を用いた。このように、種小名はその「種」の特色をとらえたことばを使う。同じ仲間でもウラル産のウラル甘草は“Glycyrrhiza uralensis(グリキルリーザ ウラレンシス)”という学名をつけられている。種小名の“uralensis”は、「ウラル産の」という意味で、こちらの場合は原産地あるいは標本採取地がとられている。漢方の世界では「東北甘草」という名でも呼ばれる。
 また、日本で甘味料のグリチルリチン酸を生産するために大量に輸入されている「新彊甘草(しんきょうかんぞう)」は、学名“Glycyrrhiza inflata(グリキルリーザ インフラータ)”で、根のふくらみに特徴があることを示している。また、中国に自生する「イヌ甘草」は“Glycyrrhiza echinata(グリキルリーザ エキナータ)”で、茎に剛毛が生えていることから、「エキナータ」=「剛毛のある」という種小名がつけられている。もっとも「イヌ甘草」と呼ばれるように、「甘草」とは言ってもその根にはまったく「グリチルリチン酸」は含まれていない。標準和名で「イヌ○○」と名づけられているものは、「イヌ」のつかない本種と似てはいるが、ものの役に立たない物を言う場合が多い。「イヌザンショウ」などがそうである。「サンショウ」によく似ているが、あの「サンショウ」の香りは全くない。

 ついでながら、ヨーロッパ産の「リコリス」には、変異が少なくないため、基準種となるものと、若干の形態的な違いを遺伝的に見せるものについては、変種の地位が与えられている。スペイン甘草は“Glycyrrhiza glabra var. typical”と後ろに「変種」を示す“var.”という表示を付してから(varietasヴァリエタス=変種の略)、さらに変種名をつけている。その“var. typical(ヴァル ティピカル)”の「ティピカル」とは「典型的な」「基準の」という意味で、最も「リコリス」らしい「リコリス」という意味をもっている。また、ペルシャ甘草は、変種名に“var. violacea(ヴァル ウイオラケア)”とつけられているが、これはその花が「すみれ色をしている」ということから名づけられたものである。
 もっともリンネの時代には、こうした変種は知られていなかったので、リンネ以降、次第に分類が進んで、このように変種が登録されることになった。そして、学名の命名規約では、最初にその学名が付されて登録されてしまうと、それは永久不変の学名とされことが原則となっているため、おかしなことが起きる場合もある。
 たとえば、日本からシーボルト*11が持ち帰った標本をもとにして、学名がつけられた「ハナショウブ(花菖蒲)は、その葉の形から“Iris ensata(イリス エンサータ)”と名づけられた。属名“Iris”は「アヤメ属」のことで、アヤメ科の花である。種小名の「エンサータ」は「剣の形をした」という意味を持つ。ところが、この「花菖蒲」は本来は栽培種、園芸種で、野生の「ノハナショウブ」をもとにして品種改良したものであった。けれども一度学名登録してしまった「花菖蒲」のもともとの種であるにもかかわらず、こちらの野生種には“Iris ensata var. spontanea”と、変種名「ヴァル スポンタネア」がつけられてしまった。その変種名「スポンタネア」は英語の“spontaneous”と同じ意味の形容詞、つまり「自生の、自然に育っている」という意味なのである。「花菖蒲の変種で、その自生タイプ」という学名がつけられるという奇妙な、座り心地の悪いことになってしまったのである。本来は、「ノハナショウブ」が基本種あるいは基準種となって、「花菖蒲」のほうがこの「ノハナショウブ」の変種でなければならないからである。いや、「変種」というより、品種改良によった大量につくられたさまざまな「花菖蒲」は単に「品種」とすべきであるのかもしれない。
 ここに、進化の系統をほとんど顧慮しないまま、学名が付されていった弊害が現れている。あるいは、現行の学名命名規約*12にもかかわらず、今後はDNA解析などによる系統分類の精度が上がってくると、学名の根本的な見直しが行われることも考えられる。いや、学名を進化の系統性から、正確にその種分化の分岐をたどれるようになれば、当然、分類体系そのものに変更を求められることになるのだから、学名もまた大きな見直しを迫られるのは当然のことであろう。

⑬リンネのこと、そして、その分類体系

 スエーデンの生んだ世界的な自然誌家、カール・フォン・リンネ(Carl von Linne)は、ラテン語名ではリンネウス(Linneus)と表記されるが、セイヨウボダイジュ(リンネンバウム)にちなんだ名だと言われている。彼は貧乏牧師の長男として、1707年生まれた。後に詳しく触れることになるが、フランスの王立植物園長で、膨大な『博物誌』を著したビュフォン(後述)も同じ年に生まれている。
 父がルター派の牧師であったため、彼もまた父親のあとを継いで牧師になるものと期待されていたが、彼には牧師になる才能はなかったようである。語学の才能はあるが、神学にはほとんど興味を示さず、山野を歩いて、植物採集をするのが彼の楽しみであった。この植物の趣味はどうやら父親から受け継いだらしい。父親にとってはそれはあくまでも趣味の範囲であったが、息子のカールはそれを一生の仕事にしてしまった。当時は植物分類が正確にできることは、医者にとって重要な素養であったことから、彼は牧師ではなくそのような資質を生かせる医者の道へと進んだ。
 彼は1728年、スエーデン最古の大学、ウプサラ大学に進んで医学を学んだ。ここで貧乏学生であった彼を救ったのが、ウプサラ大聖堂の主任牧師を務めていたセルシウス*13であった。彼の尽力によって得られた奨学金で、リンネは心おきなく勉学に励むことになった。その彼をさらに押し上げてくれたのが、ウプサラ大学の植物学の教授オルフ・ルドベック*14であった。ルドベックはリンネの才能を高く評価して、ルドベックの子供たちの住み込みの家庭教師としてくれた。そこで、ルドベックのすべての蔵書、標本類をリンネは自由に利用することも許された。
 リンネは、1728年に出版されたセヴァスチアン・ヴァイアン*15の『花の構造』という小論文を読んで衝撃を受けた。そこでは、花の構造の中で最も重要なのはおしべと子房であるということが述べられていた。おしべは男性器官であり、子房は女性器官であるという主張がそこにはあった。花の性の器官こそが最重要なものであるという考え方は、リンネを直撃したようだ。1730年には『植物の婚礼序説』を書いている。そこにはこんなことが書かれていると言う。

 「そうだ、愛は植物に広がり、その雄花と雌花とに達し、両性花ですら彼らの婚礼を祝う。それについてわたしはここに物語り、植物のどれが生殖器か、どれがオスで、どれがメスか、どれが雌雄両性花かを示そう。」
 「花の葉(花弁)は生殖に関係しない。それはかくも美しい帖で飾り、かくも甘い香りをくゆらし、たかくも美しく、偉大な神が準備した婚礼の床である。ここは、夫が高まる荘重さで婚礼をとりおこなうところだ。新床が準備されたら、夫は可愛ゆい花嫁を抱き、彼女に贈り物を捧げるときなのだ。わたしは言おう。どんなように葯testicle(ふぐり)が開いて花粉を柱頭stigma(われめ)に注ぎ、子房ovary(子宮)を受胎させるかが、いまや理解できた、と。」
(木村陽二郎『ナチュラリストの系譜』中公新書1983から)

 このような表現を指して、シーゲスベック*16は「みだらな」と嫌悪したのである。まだ、性的表現についてはかなり厳しい禁忌のはたらいていた時代である。会えてそのような時代にこの表現は、科学者の態度ではない。もっと穏当な表現を用いることは可能であったはずだ。それをこのようにわざと人間の婚姻になぞらえたのはなぜか?
 若く貧しいリンネがねらったのは一種のセンセーションである。それによって、彼が注目されることは、彼の今後について大きな意味があったろう。しかもそれは、植物に性的器官があることについての着目は、リンネの創意ではない。すでに先人*17があったことは、リンネにとって二重の安全弁であったろう。先人が着目したことに、自分も賛同できるのであるから、雄しべや雌しべを性的器官と見なすことは間違いではなかろう。そして、それでも非難されたときには、先行者の存在が彼の逃げ道になる。「いやあ、若気の至り」とか「ついつい影響されて」とか言えば逃げられる。リンネにとって致命的にはならないはずであった。歴史は、リンネの賭が成功したことを伝える。彼はこのときから、自分の新しい明日への道を切り開くことができたのである。

 
⑭ リンネの「性の体系」とはどんなものだったか?

 リンネは、1731年に彼自身の言うところの「性の体系」をほぼ完成させていた。
 それは、次のようなものであった。
 まず花の構造のうち、「雄しべ」が最も重要なものとされた。それは『創世記』伝来の男性上位(アダムに属するものとしてつくられたエワという創造神話*18)の考え方に基づくものである。この「雄しべ」によって、まず「綱」の分類がなされる。

 第一綱=一雄しべ綱(Monondriaモノンドリア) カンナなど。
 第二綱=二雄しべ綱(Diandriaディアンドリア) イヌノフグリなど。
 第三綱=三雄しべ綱(Triandriaトリアンドリア) アヤメなど。
 第四綱=四雄しべ綱(Tetrandriaテトランドリア) ヤエムグラなど。
 第五綱=五雄しべ綱(Pentandoraペンタンドラ) アサガオなど。
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 第二十一綱=雌雄同株綱(Monoeciaモノエキア) カボチャなど。
 第二十二綱=雌雄異株綱(Dioeciaディオエキア) ネコヤナギなど。
 第二十三綱=雌雄雑性綱(Pologamiaポリガミア) ヤマモミジなど。
 第二十四綱=隠花植物綱(Cryptogamiaクリプトガミア) イチジクなど*19。

 この雄しべによる分類のそれぞれの「綱」に、その下位分類として、「雌しべ」による分類を置いた。 以下の五つである。
 雌しべが単一のもの=単一雌しべ目(Monogyniaモノギニーア)
 雌しべが二つに分かれているもの=二分雌しべ目(Digyniaディギニーア)
 雌しべが三つに分かれているもの=三分雌しべ目(Trigyniaトリギニーア)
 雌しべが四つに分かれているもの=四分雌しべ目(Tetragyniaテトラギニーア)
 雌しべが五つに分かれているもの=五分雌しべ目(Pentagyniaペンタギニーア)

 たとえば、「五雄しべ綱」の「単一雌しべ目」には、サクラソウ属とアサガオ属、キキョウ属が含まれる。
 現代の植物分類を知っている人には奇異に映るのではなかろうか。なぜなら、サクラソウの仲間とアサガオの仲間は近縁種とは見られていない。たしかにサクラソウ、アサガオ、キキョウはいずれも合弁花で、現代の合弁花類には入っている。けれども、「二分雌しべ目」となると、事態は深刻になる。そこに含まれる「ニレ属」は離弁花、「リンドウ属」は合弁花、「ニンジン属」(現代のセリ科)は離弁花と、似ても似つかない遠い関係となってしまう。
 もっと深刻な事態にも直面する。たとえばツツジの仲間には、雄しべが5本のものと、10本のものとが存在する*20が、これが雄しべ5本のものは「五雄しべ綱」に、雄しべが10本のものは「十雄しべ綱」に分類されてしまうと言う、悲惨な結果を生む。これでは、自然分類としては、まったく問題にならないほど粗雑なものになってしまうのである。リンネの「性の分類」体系が現代までにまったく見捨てられてしまったのは、単にセンセーショナルな分類体系であった、というに過ぎなかったのである。けれども、リンネはこのセンセーションによって、時代の寵児となり、1741年には念願のウプサラ大学の教授(臨床医学)に就任、翌年にはようやく植物学の教授となることができた。もっとも、センセーションが災いして、リンネの教授就任には猛烈な反対も起きていたが、人気の方が上回ったのであろう。リンネのセンセーション作戦は成功したのである。そして、「二名法」をリンネの専売特許のようにして、植物学の世界に君臨した。曲学阿世の徒と言ってもよいような人間であった。

 彼の著作の主なものをできるだけあげておこう。
 『自然の体系』第一版1735年、『植物学基礎論』1736年、『植物学文献論』1736年、『植物の属』1737年、『ラップランド紀行』1737年、『ラップランド植物誌』1737年、『植物学論』1737年、『クリフォード植物園誌』1737年、『植物の綱』1738年、『自然の体系』第二版1740年、『スエーデン植物誌』1745年、『スエーデン動物誌』1746年、『セイロン植物誌』1747年、『ウプサラ植物園誌』1748年、『薬剤誌』1749年、『植物哲学』1751年、『植物種誌』1753年、『植物補遺』1767年、『植物補遺第二巻』1771年。
 彼の生物に対する見方は、ただ一つ。すべての生物はこの地上の支配者人間のために、神がつくって贈ってくれたものというものだった。地上の支配者とは、神によって託された人間固有の権利・権限であった。その権利・権限に基づいて、人間の代表者として、自然を分類し、種名をこの世の生物に授けたのである。何という破廉恥で傲慢な思い上がりであったろうか? 彼は神から授けられたと自負した人生を全うしたと信じて、1778年1月10日この世をさった。享年70歳。私有物のようにしていた自らのウプサラ大学教授職を不出来な息子に譲ることもまた抜け目なくすませて。

<注>
*1 ツルヌフォール (ジョゼフ・ピトン・ド、Joseph Pitton de Tournefort、1656~1708)フランスの植物学者。「フランス植物学の父」と言われている。1688年からその死の時までパリ植物園の教授として、植物分類学の基礎を築いた。その分類概念は、リンネによって否定されたが、実際は、現在の一般的な分類法に直接結びついていくものとなった。特に属概念の基本は彼によって打ち立てられている。このことから、リンネが植物分類学の発展を阻害し、遠回りさせたことが、よくわかる。
*2 ガスパール・ボーアン (Gaspar Bauhin、1560~1624)スイスの植物学者、医師。イタリアのパドヴァ大学で学んだ後、イタリア全土を植物採集のための旅行して、故郷のバーゼルに帰る。バーゼル大学の解剖学・植物学教授を務める。その間執筆・刊行された教科書『人体詳説』(1605)は医学教育の分野で多大な影響を与えた。さらに、6000種の植物を扱った『植物対照図表』(『植物図録』とも。1623)は植物の命名法としてはじめて意識的に二名法を採用し、後のリンネに大きな影響を与えたばかりでなく、17世紀当時にヨーロッパで知られていた植物が確認できるという点でも貴重な文献となっている。
*3 ヨツバヒヨドリ・ヒヨドリバナ キク科フジバカマ属の近縁種。互いに雑種をつくりやすく、また無性生殖によって、本来一代限りのはずの三倍体や五倍体などの雑種でも繁殖することができる植物として知られている。ストレスの高い山地では無性生殖の雑種が繁栄していることが、矢原徹一氏の『花の性』(1995)に報告されている。ヒヨドリバナは“Eupatorium makinoi(エウパトリウム マキノイ)”または“E. chinense(イー=エウパトリウム キネンセ)”、ヨツバヒヨドリは“Eupatorium glehni(エウパトリウム グレーニ)”または“E. chinense ssp. sachalinense(イー=エウパトリウム キネンセ スブスペシエス サハリネンセ)”。“マキノイ”は「牧野氏の」、“グレーニ”は「グレーン氏の」。「キネンセ」は「中国産の」、「スブスペシエス」は「亜科の」で、「キネンセ」種の亜科であることを示す。亜科名は「サハリネンセ」で、「サハリン産の」となっている。
*4 アロザイム 同じ機能を持つが、アミノ酸配列の異なる酵素のひとつで、同じ遺伝子座の異なる対立遺伝子によって作られる酵素を言う。まったく異なった遺伝子座でつくられる場合は「アイソザイム」と呼ばれる。
*5 ジョン・ロック (John Locke、1632~1704)イギリスの哲学者。主著『人間悟性論』(1689)は、観念は先験的に存在することはなく、すべて人間の感覚と知覚に基づき後天的に形成され、それが複合化(連合)することによって知性が高められるとした。これによって、イギリス経験論が確立されたとされ、イギリスの思想、科学に大きな影響を与えた。また、フランスでは、フランス博物学の大成者ビュフォンにも影響を及ぼしている。ドイツのライプニッツは、ジョン・ロックのこの著書への反論の書『人間悟性新論』を著している。ただし、出版はライプニッツの死後の1765年であったため、実際には論争は起こらなかった。ライプニッツはプラトンらの伝統を受け継ぎ、人間は、先験的な観念の胚珠のようなものを神から受け継ぎ、その魂のうちに抱いている、と主張している。
*6 アントワーヌ・ド・ジュシュー (Antoine de Juessieu、1686~1758)リヨン出身で、モンペリエ大学に医学を学び、ツルヌフォールをしたってパリ植物園に奉職。ツルヌフォールの死後、パリ植物園教授となり、彼の分類方式を受け継ぎ、増補した。ついにはツルヌフォールの『基礎植物学』を増補・改訂して出版している。リンネの『自然の体系』がヨーロッパを席巻したときにも、パリ植物園はツルヌフォールに固執した。ベルナール・ド・ジュシューは彼の弟。
*7 アントワーヌ・ロラン・ド・ジュシュー (Antoine Laurent de Juessieu、1748~1836)アントワーヌ・ベルナール兄弟の甥。パリ植物園教授。植物学者。叔父ベルナール・ド・ジュシューのつくった植物分類表をさらに発展させ、『植物属誌』(1789)を著した。
*8 ド・カンドル父子 (父ド・カンドル= オーギュスタン ピラム・ド・カンドル、Augustin Pyrame de Candolle、1778~1841 子ド・カンドル= アルフォンス、Alphonse de Candolle、1806~1893)植物分類学の大成者が父ド・カンドルで、フランスでモンペリエ植物園長を務めた後、母国スイスに戻り、ジュネーブに植物園をつくった。1805年『フランス植物誌』を刊行した。また、1813年に出された『基礎植物学原論』は世界的な名著の誉れ高く、多くの言語に翻訳された。日本にもシーボルトによってもたらされて、日本の植物学の基礎的な資料となってもいる。また、美しい図版を配した『植物器官学』二巻(1827)が出され、これによって植物形態学が基礎を確立することになった。さらに、子のアルフォンスにまで引き継がれた大作が『自然分類体系』全17巻。完成は1873年であったが、それでも双子葉植物だけだった。5100属、59000種にも及ぶ。また、子のアルフォンスは植物学における国際命名規約を起草したことで知られ、1867年の国際学会で採択された命名規約は「ド・カンドル規約」と呼ばれることもある。
*9 ベルナール・ド・ジュシュー (Bernard de Juessieu、1699~1777)アントワーヌの弟。兄の招きでパリ植物園で植物学を学んだあと、兄の植物採集旅行に帯同する。パリ植物園ではもっぱら助講師の地位に甘んじて、植物分類の検討に余念がなかった。また、ルイ15世に命ぜられてトリアノン宮殿に、植物分類に従った配列をもった植物園をつくった。その分類花壇は今に残されていないが、甥のアントワーヌ・ロラン・ド・ジュシューが、『植物属誌』の序に「ベルナール・ド・ジュシュー、1759年、ルイ15世のトリアノン庭園における自然配列」として、植物の64綱名とその属名が記されていることで、その概略が知られる。
*10 ミシェル・アダンソン (Michel Adanson、1727~1806)南フランスのエクス・アン・プロヴァンス出身の植物学者。自然分類とは何かということについて、最も近代的な科学的な考えをもっていたが、曲学阿世の徒、リンネの威光の前に無視された。すべての植物の形質を、形質ごとに分類して、その分類が重層的に交錯する属グループには、属どうしの近縁性があるとして、そのグループに「科」の上位分類を与えることを提案している。植物分類学で、はじめて「科」という分類階層を考えた人物として特筆される。1749年から1753年にアフリカ、セネガルで事務職のかたわら、5000種にも及ぶ植物・動物・鉱物の採集を行っている。1757年『セネガル自然誌』、1763~1764年に『植物諸科』を出版している。バオバブの木はリンネによって“Adansoniaアダンソニア”とされた。
*11 シーボルト (フィリップ フランツ フォン、Philip Franz von、1796~1866)ドイツ人。医官として長崎出島のオランダ館に赴任。診療所と学塾を兼ねた「鳴滝塾」を開校して、多数の日本人に西洋医学や自然科学を教授する一方で、日本の多数の自然・人文資料を採集した。帰国に当たって、日本の詳細な地図(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の写し)を所持していたことから、国外追放された(シーボルト事件)。オランダへの帰国後、『日本』(1832~1854)、『日本動物誌』(1833~1849)、『日本植物誌』と、ヨーロッパに日本の自然や文物を紹介。1856年~1862年再来日を果たしている。
*12 学名命名規約 長く国際間で合意された「学名命名規約」が制定されなかったが、動物学では1901年に、植物学では1930年にようやく国際規約が制定された。植物学の分野で遅れたのは、イギリス、ドイツ、アメリカなどの反対があったためである。
 なお、現行の命名規約は、動物学では、1958年のロンドン会議で合意された内容が若干の改訂を加えながら、今も用いられている。一方の植物学会では、1930年移行年おきの国際会議で、改訂が行われ、最も直近のものは2005年ウィーンで行われた第17回会議で合意されたものである。動物学会と植物学会ではその「命名規約」にいくらか違いがある。植物学の命名規約は今もラテン語のみ、となっているのだが、動物学会では、すでに語学的な制限は取り払われている。
*13 セルシウス (オルフ、Olof Celsius 1670~1756)スエーデン、ウプサラ大聖堂司祭長で、リンネが学生になった頃にはウプサラ大学の神学の教授を兼務していた。この息子のアンデルス(Anders 1701~1744)は天文学者であったが、水の氷点と沸点の間を100に分割するという温度表示の方法を提唱したことで知られる。今の「摂氏」の温度はこの「セルシウス」に由来する。リンネはこの息子とは深い友情で結ばれていたという。
*14 ルドベック (オルフ、Olof Rudbeck 1630~1702)スエーデンの医学者、植物学者。1633年にリンパ管を発見している。1658年にウプサラ大学教授。さらにウプサラ植物園を創設するなど多方面で活躍したスエーデンの科学史上に大きな光を放つ人物。このような人物に見出されたことは、リンネの将来を決定的なものとした。
 リンネは後に、北米原産のオオハンゴンソウの仲間に“Rudbeckia(ルドベッキア)”という属名をつけて、敬意と感謝を表している。ただ、オルフの死後、彼の標本や蔵書などを勝手に自分のもののように持ち出して、その子息と悶着を起こしてもいる。これらのことから、彼がどこまでも自己中心的な人物であったことが知れる。もっとも、セルシウスに見出されてからの彼はどこか、自分が神に特に嘉された特別な存在で、世の中は自分を中心にまわっていると信じていたふしがある。
*15 セヴァスチアン・ヴァイアン ⇒*17を見よ。
*16 シーゲスベック (ヨハン・ゲオルグ、Johann Georg Siegesbeck 1686~1755)。ロシアのペテルブルグアカデミー植物学教授を長く務めた。リンネの「性の体系」について、その発表の当初には植物学界からかなりの批判が噴出した。植物を動物になぞらえることに対する反発が主であった。「あまりにみだらで、神を冒?するもの」というのがその理由であったが、批判と言うより非難、抗議と言うべきであった。その最も急先鋒がシーゲスベックであった。それにしてもリンネもリンネである。ほとんどスキャンダラスな話題で自分を売り込んだのだから、これらの反発や非難のあるのは織り込み済みであったろう。
 当時のヨーロッパ社会では、キリスト教的道徳観が生みだす偽善に対して、多くはひそかに、一部ではあらわに反感が現れ出ていた。その空気にリンネは敏感だった。現代で言えば、マイクロソフトのビル・ゲイツのようなものだろうか。リンネは時流にうまく乗ったというところだだった。結局、リンネの「性の体系」もまた人為的分類にすぎなかったのであるから。彼の体系化した「二名法」によって、その名を後世に残した、というところがリンネについての正当な評価であろう。その「二名法」についても、彼の独創ではなかった。人の独創を横取りして名と財をなしたビル・ゲイツを思えばよいだろう。
*17 先人 ここでは二人が意識されたであろう。一人はドイツのチュービンゲン大学の医学の教授、ルドルフ・ヤコブ・カメラリウス(1665~1721)は、1694年の「植物の性に関する手紙」の中で、実験によって雄しべが雄性の生殖器、雌しべが雌性の生殖器であることが確かめられたと主張した。だが、まだ17世紀であった。人々は公の場で「性」について語ることには警戒心が強かったために、ほとんど受け入れられなかった。このカメラリウスの主張を広めるのに一役買ったのが、もう一人の先人である。それが本文にも書いた、フランスのパリ植物園のセヴァスチアン・ヴァイアンである。リンネは直接にはこのヴァイアンの著作からヒントを得ている。
*18 『創世記』における「人間の創造神話」 『創世記』第2章21節~23節にこう書かれている。

 「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところ連れて来られると、人はいった。『ついにこれこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに男(イシュ)から取られたものだから。』
 このことから、長く、人間の男のあばら骨は女より一本少ないとされていた。
*19 第二十四綱 『自然の体系』第一版(1735年)では、このように「イチジク」などのような目には見えないが、隠れて存在する花を考えていたが、後、リンネはこの考えを改め、「隠花植物綱」には、「シダ類、蘚苔類など、現代の隠花植物=花を持たない植物群」が当てられている。
*20 雄しべが5本のツツジと10本のツツジ 雄しべが5本のツツジとしては、ヤマツツジ、レンゲツツジ、ミツバツツジがある。雄しべが10本のツツジの方が種は多く、同じミツバツツジの仲間でも、トウゴクミツバツツジ、サイコクミツバツツジなどは雄しべが10本である。ミヤマキリシマ、サツキ、アカヤシオ、シロヤシオ、ムラサキヤシオなども雄しべが10本である。

[参考文献](前回との重複するものも含む)
○『生物学の歴史』(チャールズ・シンガー著、西村顯治訳/時空出版1999)
○『生物学の歴史』(八杉龍一著/NHKブックス1984)
○『博物学の欲望』(松永俊男著/講談社現代新書1992)
○『ナチュラリストの系譜』(木村陽二郎著/中公新書1983)
○『生物学の歴史』(八杉龍一著/NHKブックス1984)
○『人間悟性新論』(ライプニッツ著、米山優訳/みすず書房2002)
○『リンネとその使徒たち』(西村三郎著/朝日選書1997)
○『花の性』(矢原徹一著/東京大学出版会1995)

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