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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

マリアとは何か-その3-

2006-09-07 04:51:49 | キリスト教問題

◆マリアについて、カトリック教会が定める教義◆

 マリアについての信仰箇条をもう一度見てみよう。カトリック教会では、聖母マリアについて、次のような教義をもっている。
 マリアはキリストの母にして、受肉した神、御子イエスの母である。
 マリアは聖霊によって処女のまま懐胎し、御子イエスを産んだ後も処女であった。これを「処女懐胎」と呼ぶ。
 マリアは神の母となるという一事のために、人間一般が生まれながらに負う「原罪」をその身に負うことなくこの世に生まれた。これを「聖母マリアの無原罪の御宿り」と言う。 また、マリアはイエスの母としての特別の恩寵を受け、その死に際しては、普通の人間のようにではなく、はじめに神がつくられた「無原罪の人」のように、永遠の肉体を得て天に昇ったとされる。これを「聖母マリアの被昇天」と呼ぶ。イエスは神ゆえに自発的に天に昇ったが、聖母マリアは神によって引き揚げられたのである。このことは、イエスの「昇天」が“Ascention(アセンション)”と、動詞“ascend(アセンド)”=「上る、昇る、さかのぼる」の名詞形から来ているのに対して、聖母マリアの被昇天は“Assumption(アサンプション)”と呼ばれることにもはっきりと現れている。
 もっとも、この“Assumption”の動詞形は“assume(アシューム)”で、「仮定する、想定する」や、「装う、ふりをする」などという意味とともに、「天国に受け入れる」という意味を持っている。あるいは“Assumption”は「仮定」などの意味をその背景に隠しているのだろうか? だとしたら皮肉である。

 くだんの吉山登師の『マリア』では、このようなマリア信仰が、「宗教改革後に起こった啓蒙主義の影響にも屈することなく続き、十九世紀のロマンチスムはマリア崇敬に新しい生命を与えるようになった。」(P95L11~13)と書く。
 つまり、現代に連なる「マリア崇敬」とは、十九世紀に起こったロマンティシズムによるものだ、と言いたいのである。言い換えれば、十九世紀のロマンティックな夢、理想主義、そういったイデオロジカルなものを背景にしているというのである。
 筆者が「ロマンチスム」と呼ぶ、十九世紀のロマンティシズムとはどんなものだったろうか? ちょっと振り返ってみよう。

 ◆十九世紀ロマンティシズムとは◆
 
 いわゆるロマンティシズム(Romanticism)は、ほぼ1740年頃から1850年までの100年あまりの間にヨーロッパで行われたひとつの思潮である。ヨーロッパを覆った主知主義的あるいは理性主義的な啓蒙主義の流れに対する一つの反動ないしは反発のような形で、主情的、主観的な反主知主義とでも言える気分のなかで大きな潮流となった。
 文学運動としては、ドイツのシュトゥルムウントドランク(疾風怒濤)の思潮に始まる。
シラーやノヴァーリス、あるいはヘルダーリンらがその中心となった。さらに、詩や小説から・物理学・生物学と、何でも屋の観のあるゲーテをはじめ、哲学のフィヒテ、シェリング、シュライエルマッハらがドイツロマン主義を盛り立てた。後期にはグリム兄弟が出た。このように、全体的な展開を見せたのは主にドイツであったが、詩の分野では、イギリスにワーズワース、バイロン、シェリー、キーツが、アメリカにホイットマンらが出ている。
 音楽では、シューベルト、ウエーバー、シューマン、ショパン、ベルリオーズらがロマン派と言われる。後期ロマン派にはリヒャルト・シュトラウス、マーラー、ワグナー、ブルックナー、ヴォルフらがいる。美術では、絵画に広範な広がりを見せて、ドイツのカスパー・ダーヴイド・フリードリヒや、イギリスのウィリアム・ブレイク、ターナー、フランスのドラクロア、スペインのゴヤらがいる。
 こうしたロマン派では、レアリスムの立場に対立するように、主情的な想像力をかき立てた幻想、怪奇性、物語性、中世趣味を好んだ。人間の想像力をフルに働かせて、見えない感情や美への憧憬を描いたとも言える。

 ◆「マリアの無原罪の宿り」がロマンティシズムの成果とは!◆

 吉山登師は、このようなロマン主義的な傾向に基づいて、マリア信仰が深まったというのである。それはつまり、幻想としての、想像力のたくましさとしてのマリア信仰のいいではあるまいか。ロマン主義が「現実逃避」であるかないかは、議論の分かれるところであるので、反現実、非現実とまでは言わないが、けれども、反レアリスムであることは間違いない。現実を否定するというより、現実の中に人間の熱情や美意識の反映を見ようとする立場と言えばいいだろうか。つまり、マリアという歴史的な現実在に、人間の母性や聖性への憧憬を投影しようとしたに過ぎない、ということである。
 語るに落ちた、とでも言うべきだろう。一部重複するがその部分を引用してみよう。

 「十九世紀のロマンチスムはマリア信仰に新しい命を与えるようになった。その一つの現れが、古代教会より受け継いできたマリアの無原罪の神学を、教会が信仰の教義として宣言するに至ったということであろう。」(P95L12~14)

 つまり、想像力や幻想を好む十九世紀の主情的な風潮が、「マリアの無原罪の神学」をカトリック教会の教義とすることに力あった、と言っているのである。その文脈の流れの中で、こうも付け加える。

 「その前後から、マリア崇敬に熱心な信徒に対するマリアの出現が語られるようになり、ルルドにおける出現のように、教会はその超自然的な現実を事実として認めざるをえない場合もあった。」(P95L14~16)

 吉山登師は、これでカトリック教会の「マリア信仰」、「マリアに関する教義」を擁護しているつもりなのだろうか? 「認めざるをえない場合もあった」という表現は、実は認めたくはないことである、と言わんばかりである。あるいはここに、吉山登師の偽らざる本音が垣間見えていはしまいか?
 それなら、このマリア信仰に関する論議の意図がよく納得できる。本当はマリア信仰の現況を否定したいのである。
 けれども、もしそうでないのなら、この論議はきわめて粗雑な、あるいは乱暴なものだと言わざるを得ない。そして、実は、カトリックにはこうした乱暴なあるいは粗雑な主張が多いと言うことも事実だ。彼らにとっては、歴史もへったくれもないのだ。カトリックは空間的にも時間的にもそれらの一切の人間の営為を超越した普遍のものであるから、多少歴史や時代について粗雑な論議をしても、カトリック絶対の事情は変わりようがない、とでも言うのだろう。そのような意識が、時代を無視した、人間性を顧慮しない、でたらめな論議を平気で展開させてしまうのかもしれない。

 ◆「聖母の被昇天」の教義制定は1950年!◆

 「二つの世界大戦を経たカトリック教会においてマリアに対する崇敬は、古代教会の教父たちの教えにある、マリアは死とともに、心も身体も天に上げられたという「被昇天」の教えを、教会の普遍的教義として宣言するほどにまで発展した。」

 「発展した」とある。けれどもその実態は、古い言い伝えにすぎないものを、いわば真偽の判定できるはずもない伝承を、教義として宣言したと言うことではないか。
 もし、マリアの「被昇天」が事実であったとしたら、それほどの重大な出来事を、なぜ『使徒行録』に記さなかったのだろうか? いずれの福音書にも記さなかったのだろうか?
あるいは、多数の偽福音書のどれひとつとっても、マリアの被昇天は記されていない。実際に、この教義が宣言されたのは実に1950年のことだった。おかしな話だ。イエスが亡くなって1900年以上もたった第二次世界大戦後になって、このような教義が宣せられたことの不思議。不思議、と言っても超自然的な不思議ではない。そこに見え隠れする政治的意図の不思議である。

 聖母マリアを「教会の母」と考えることには異論はない。イエスの肉の母であった以上、それは「母」に与えられる特権とでも言うべきものだろう。そして、母なるものの地位が高められることには意味がある。見守り、手助けし、信徒の悲しみ、苦しみとともにあって、神なる我が子にその祈りや願いを取り次ぐ役目、伝奏者としてのマリアの位置も、そのまま認められる。
 確かに「処女懐胎」はすでに『ルカによる福音書』にはその萌芽が認められるから、聖書の記述をもとに、そこまでは認めよう。「聖霊によって」とは、つまりそのようなことをあらわしていると見てよい。けれども、イエスを産んだ後も、処女であったとはにわかには信じることはできまい。信じる必要もない。三つの共観福音書には、ちゃんとイエスの兄弟についての記述があることを見ても、それはない。「イエスの兄弟」をイエスの従兄弟たちだと解釈しようとしたり、ヨゼフがすでに高齢で、前妻の子を数人持っていたという説もまことしやかに語られるが、これも牽強付会である。
 たとえば、イエスの兄弟とされる小ヤコブ。ヨゼフの前妻の子であれば、ゼベダイの子ヤコブよりよほど年上でなければならないのに、なぜ「小ヤコブ」と呼ばれるのか。年上の者が「小」はおかしい。イエスの弟のひとりと考えた方がよほど無理がない。


<この稿続く>

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マグダラのマリアについて

2006-07-23 12:51:31 | キリスト教問題
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      ■マグダラのマリアとはだれなのか?■

 毎年、7月22日はマグダラの聖マリアを記念する日となっている。
 一般に知られているマグダラのマリアは、その淫蕩な生活をイエスに赦され回心をとげて後、イエスへの純粋な愛に生きた、とされる。また、「女使徒」とも「女司教」とも称せられて、南フランス、プロバンス地方にキリスト教の礎を築いたとされる。

 果たして世に伝えられるままに、彼女は生きたのか?
 確かに、「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(『マルコによる福音書』第16章9節)、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(『ルカによる福音書』第8章2節)と説明されるこの婦人は、イエスの最初の小さな教団を支えていた有力な婦人のひとりだった。

 この「マグダラのマリア」を「新約聖書」の他の箇所に出てくるさまざまな「マリア」と結びつけるよすがは、実は何もない。であるのに、カトリック教会は、なぜか、さまざまなマリアを、マグダラのマリアに同一化させてきた。

 ◆ベタニアのラザロとマルタの姉妹マリアの福音書記事◆ 

 最も結びつけられて、同一人物とされているのは、エルサレムからそれほど遠くないベタニアという地のラザロの姉妹、マリアである。マリアはマルタの姉妹でもあった。

①マルタの妹マリア 『ルカによる福音書』第10章38節~42節
 忙しくイエスとその一行のために立ち働くマルタ。それをよそに、イエスの足もとに座ってその話に聞き入り、片時もイエスから離れようとしないマリア。マルタが不平を鳴らす。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 主はお答えになった。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

②ベタニアのラザロの死と復活のエピソードにおけるマリア
 『ヨハネによる福音書』第11章1節~44節
 この冒頭の1節~5節にはこう書かれている。

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

③「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった」出来事のマリア
  『ヨハネによる福音書』第12章1節~3節

 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意された。マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

 ②の記述と③の記述とで、時間の前後関係が相互に入れ違っている点に気をつけると、ここには『ヨハネによる福音書』の一つの「?」がつけられる。
 と言うのも、「ひとりの女」(その名は書かれていない)が、イエスに香油を塗るシーンはほかにもあるのだが、その場面設定が違うのだ。
 それは三つある。
 そのうち、『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』とは、ほぼ同じ設定、ほぼ同じ内容。『マタイ』が『マルコ』を下敷きにしていたことが、ここにも現れる。だが、三つ目にあげる『ルカによる福音書』の記述は、他の二つの福音書とは少し異なっている。

④ベタニアの重い皮膚病の人、シモンの家での出来事。
 『マルコによる福音書』第14章3節~9節

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオ以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときには良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 
⑤マルコの記述とほぼ同じことがマタイによっても語られる。
  『マタイによる福音書』第26章6節~13節

 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨していった。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えら得るだろう。」

 引用をマルコ⇒マタイの順序にした。「新共同訳聖書」では、カトリック側の強い意向で、「福音書」はマタイが最初に置かれているが、成立順序で言えば、マルコが最も早い。もっとも、書かれた順序を言い出せば、実はパウロの書簡類が最も早いものとなる(『テサロニケの信徒への第一の手紙』が紀元50年ころと言われていて、『マルコによる福音書』の成立より10年以上早い)。

⑥ファリサイ派の人の家で、「罪深い女」がイエスの足に香油を塗る出来事。長いので途中を省略して引用しよう。
 『ルカによる福音書』第7章38節~50節

 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
          <中略>
 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入ってきてから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 『ルカによる福音書』では、この出来事のすぐ後に、冒頭であげたイエスの教団についての説明が現れる。第七章はこの罪深い女の出来事で終わっている。そして、第八章の冒頭にやってきて、マグダラのマリアの名がはじめて知られる。

 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人にも一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(『ルカによる福音書』第8章1節~3節)

 ここからは、「マグダラの女と呼ばれるマリア」たち、つまり病を癒された婦人たちは、イエスの教団を支える最初の有力なパトロンたちだったと見ることができる。
 その説明の最初に、「マグダラの女と呼ばれるマリア」があげられていることは、彼女がそのような婦人たちの筆頭格、あるいは代表的な存在であったことをうかがわせる。実際、その後のマグダラのマリアの伝承を見ても、彼女が「女司教」とでも言える権威と指導力とをもって、布教の先頭に当たっていたことがうかがわれる。

 ◆イエスの死と復活に立ち会うマグダラのマリア◆

 マグダラのマリアは、福音書の中では、イエスの十字架の刑死に、イエスの母マリアと共に立ち会い婦人の一人とされる。また復活したイエスが最初に現れるのも、マグダラのマリアとされる。次に、その箇所を引用しておこう。

①『マルコによる福音書』の記述から

 (イエスの十字架上の死を)また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上ってきた婦人たちが大勢いた。
(『マルコによる福音書』第15章40節・41節)

 (アリマタヤ出身の)ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。 (同上15章46節・47節)

 もう一人のマリア、「小ヤコブとヨセの母マリア」とは、イエスの母マリアのことである。イエスの兄弟である小ヤコブは後に、エルサレム教会の指導者となって、厳しい律法主義を原始キリスト教団に課す人物。
 安息日が終わって、マグダラのマリア、イエスの母マリア、サロメの三人は、イエスに香油を塗るために、墓を訪れると、墓には「白い長い衣を着た青年」がいて、イエスが復活したことを告げた。さらに、マグダラのマリアには特別な出来事が与えられる。

 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。(同上第16章9節)

 『マルコによる福音書』では、ここにはじめて「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」であることが説明される。つまり、「福音書」では、この箇所と、先にあげた『ルカによる福音書』第8章第2節とに、マグダラのマリアの説明がごく簡単になされていて、やはり、ベタニアのマリアとのつながりは記されていない。もし、このマリアが、ラザロの姉妹、ベタニアのマリアであるなら、そのように書くはずではないだろうか?

②『マタイによる福音書』の記述を見てみよう。
 イエスの十字架の死に、遠くから立ち会っていた婦人たちの中にマグダラのマリアがいる。

 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。(『マタイによる福音書』第27章55節・56節)

 ここでも、婦人たちの筆頭にマグダラのマリアが記される。
 イエスの葬られた墓を見守るのもマグダラのマリアだった。

 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。(同上第27章61節)

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。(同上第28章1節~3節)

 このとき現れた天使は、イエスが復活したこと、ガリラヤで待っておられることを、この二人に告げる。二人は、喜んで、使徒たちのところに知らせに行こうと走り出す。

 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(同上第28章8節・9節)
 
③『ルカによる福音書』では、マグダラのマリアは婦人たちの中に紛れ込む 
 『ルカによる福音書』のイエスの死と復活の場面では、マグダラのマリアの特別な恩恵は示されない。

 (イエスが十字架上で亡くなったとき)イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは、遠くに立って、これらのことを見ていた。(『ルカによる福音書』第23章49節)

 イエスの死の場面では、「婦人たち」と一括される。イエスの葬られた墓で、二人の天使が「イエスが復活したこと」を告げたが、その相手は、かなりの人数の婦人たちだった。また、『マルコ』や『マタイ』に記されているような、マグダラのマリアに与えられた、あの特権的な出会いは見られない。『ルカによる福音書』の意図はどこにあったか。この頃には、あるいはマグダラのマリアの突出した指導力、あるいはカリスマ性のようなものを否定する動きが、原始キリスト教団の中に現れていたのではないかと、推定することができる。

 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。(同上第24章8節~10節)

 ◆マグダラのマリアとは、おとしめられた聖女だったのか?◆

 『ルカ』の書かれた頃には、原始キリスト教団の中で、マグダラのマリアの影響力を排除する動きがあった、と見ることもできる。それは、『ルカ』以降、エルサレムやエフェソ、アンティオキアなど、父権社会が構成されているギリシア、小アジア地域では成功した。
 けれども、辺境の地では、原始キリスト教団の意志も及ばなかったのだろう。今でも、南フランス、プロバンスの守護の聖人として大きな尊崇を受けていることが、その一つの証拠である。あるいは、彼女の在世中から、ユダヤ教の男尊女卑の思想や慣習によって、マグダラのマリアは煙たがられていたのかも知れない。南仏への布教に全力を尽くしたのは、あるいはエルサレムでも、エフェソでもアンティオキアでも、そしてローマでも、彼女はその指導力を封じられたと考える方が妥当だ。
 その封じ手のひとつが、淫蕩の女として彼女に別人格を付与する動きだったのかも知れない。

 そこに、このような人格高潔な女性が、人の上に立つことのできる強いリーダーシップを持った女性が、なぜ淫蕩な生活を送ったとされるのか?という疑問へのひとつの回答があるように思われる。 
 こうしてつくられた伝承は、その回心が決定的なものだったと説明する。あるいはパウロの回心に匹敵するほど、徹底的なものだったと。それによって、婦人たちの教化にも利用されるようになったのは、あるいは世の男たちにはけがの功名だったのかもしれない。

 その伝承はいつか一人歩きし、キリスト教にまつわる一つの美談となった。たしかに、そのような大回心の例は、たとえば聖アウグスチヌスやアシジの聖フランシスコなど、数は多くないが、ないわけではない。
 マグダラの聖マリアが、そのような大回心をとげた聖人の一人として、認識されるようになると、そのテーマは画家たちの恰好のテーマとなっていく。ルネサンス前後から多数描かれるようになった彼女の絵は、妖艶な美しい容姿とともに、この世の快楽のむなしさを象徴するどくろと、高価なナルドの香油の入った石膏の壺をあしらって、その回心を暗示する。
 イタリアでは売春婦たちのための矯正施設や保護施設はいずれも、マグダラのマリアをその守護聖人として、回心した彼女の絵が飾られていたという。

 あるいは男にとって、マグダラのマリアはその二重性のゆえに、女たちの模範とさせたかったのだろうか? よく言うではないか。「夫に対して女は、売春婦のように淫蕩であり、かつ聖処女のように純粋、貞淑でなければならない」と。
 まったくもって都合の良い女性像のモデルが、マグダラのマリアだったのかも知れない。美しく気高く、その肉の快楽にも、霊の愛にも真剣で真っ直ぐだった一人の女性。そのひたむきさ、その徹底の仕方に、人は憧れるのかも知れない。一人の人生でありながら、二つの生を生きたかのような姿もまた。

①「石打ちの刑」を赦された姦通女のエピソード
 これに、もうひとつ、次のエピソードがマグダラのマリアに結びつけられれば、原始キリスト教団の、そして男たちの目論見は見事に完成する。それは『ヨハネによる福音書』第八章にある。

 イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆がみな、御自分のところにやってきたので、座って教えられ始めた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」というと、イエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(第8章1節~11節)

②福音史家ヨハネとマグダラのマリアの特別な縁
 姦淫の罰を赦された女こそが、マグダラのマリアだというのだ。けれども、それを示す何のよすがも、ここにはない。けれども、それとは裏腹にも、あまりにもまことしやかに、マグダラのマリアの淫蕩な生活の理由までがひとつの「聖人伝」として伝承される。
 ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』によれば、その心理的理由として、こんなことが語られていたと言う。

 マグダラのマリアは福音史家聖ヨハネの花嫁であったと主張する人たちがいる。その説によると、二人が結婚式をあげようとしていたとき、主は婚礼の席からヨハネを使徒として召された。そこで、マリアは、良人をうばわれたことを恨みに思い、その場を去って、あらゆる快楽に身をもちくずすようになった。しかし、ヨハネの召命が堕地獄の一つの原因になるというようなことがあってはならない。キリストがマグダラのマリアをたいへん憐れまれて、彼女に悔悛の秘跡をさずけられたのは、そのためである。そして、彼女を最高の肉の快楽から引きはなされたから、かわりにほかのすべての愛にまさる最高の霊の愛、神の愛でもって彼女をみたされた、というのである。(『黄金伝説』第2巻P490L3~10/平凡社ライブラリー)

 さて、これらのことをすべて結びつけて、カトリック教会のように、マグダラのマリアを、忌むべき淫蕩な生活からの悔悛を遂げた、たぐいまれな女性、高潔な女性と見るのか?
 それとも、『ルカによる福音書』第8章1節~3節にあるように、その説明を素直に受け取り、むしろ、いくつも悪霊によって、その体をむしばまれ、苦しみ続けてきた女性が、イエスによって救われた、その恩恵の大きさに生きた教会の指導者の一人と見るのか?

 あるいは、福音史家ヨハネとマグダラのマリアは因縁浅からぬ関係にあったのか? それゆえ、『ヨハネによる福音書』に描かれるいくつものマリアが、あれほどにマグダラのマリアと結びつけられてしまうのだろうか?


③『ヨハネによる福音書』におけるイエスの死と復活の場面
 『ルカ』では多数の婦人たちの一人にされたマグダラのマリアだったが、『ヨハネによる福音書』では、再び彼女の特権的地位が復活する。

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。(『ヨハネによる福音書』第19章25節)

 (マグダラの)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだと分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(同上第20章11節~18節)

 この記述の詳しさは、マグダラのマリアがいかにイエスに愛されていたかを示すものだが、この『ヨハネによる福音書』記者のマグダラのマリアへの関心の並々ならぬことをも、また同時に現していると見ることができる。
 一説によれば、『ヨハネによる福音書』第2章に現れる「カナでの婚姻」は、実は使徒ヨハネとマグダラのマリアとの結婚式だったとも言う。そこでは、水がぶどう酒に変えられるという奇跡が描かれているが、その背景には、そのような事実が隠されていたというのだろうか? 今となってはだれも確かめようがない。


 ◆「福音書」には書かれざる物語がいくつも隠れている◆

 『ヨハネによる福音書』が、あの十二使徒の一人、福音史家と呼ばれるヨハネによって書かれたものでないことは、最近の研究で明らかになっていると言う。だとすると、ヨハネの直系の弟子たち、ヨハネの身近にいたエフェソの教会の長老たちが、ヨハネの言行録を編集してまとめたか、あるいはヨハネの口伝をもとに「神であるイエス」を描こうと、新たに書き起こした、というようなことだったのだろう。
 だとすると、老いた使徒ヨハネが、その弟子たちに、若き日の想い出を語ったのが、あの「カナの婚姻」だったと考えてみることもできる。あるいは、使徒ヨハネはマグダラのマリアとの思い出を、彼女も自分もイエスに特別に愛されたことも含めて、時折、弟子たちに語って聞かせていたかも知れない。

 福音書もまた、人知れぬ愛や、人知れぬ悲しみ、人知れぬ痛み、それらの隠れたエピソード、隠れたヒストリーを担っているのだろう。


マリアとは何か? その2

2006-07-07 08:48:39 | キリスト教問題

●イエスの母マリアは崇敬の対象たるべきか?●

 カトリック教会では、聖母マリアとして、その聖性を強調する。そのため、マリアに関するさまざまな信仰箇条がカトリック教徒に強制される。その最初が西暦431年にエフェソで行われた公会議だ。このとき、マリアは「神の母マリア」として公式に宣言された。
 「神の母」か? 単に香油をぬられた者=王たる者=キリストの母か? という論争が続いていたのだが、さかのぼること百年、西暦325年に行われたニカイア(ニケーア)公会議の席で、「三位一体の神」という教義が確定した。つまり、神は「父と子と聖霊」という三つの位格(ペルソナ)をもって、なおひとつに統合された超越存在であることが、このとき宣言されたのだ。
 「三位一体」にはギリシアに根強く存在した「聖数=三」という信仰が背景にあると考えてよい。たとえば直角三角形における「ピタゴラスの定義」で名高いピタゴラスは、「三」を至上の聖数と崇めるピタゴラス教団を形成していた。ピタゴラスらにとっては、正三角形は最も完全な形だった。世界の基底にこの三角形があるとされた。
 このようなギリシア思想を背景にして、キリスト教の教義は固められていった。マリアについても同じだ。
 

 ◆「神の母」マリアの教義はエフェソで決まった◆

 エフェソの公会議で決まったことに、何かを感じないだろうか? エフェソはパウロがアルテミス女神の信者たちによってリンチを受けかけた都市だ。そのことは前回に書いた。繰り返すが、その事実は『使徒言行録』第19章23節~40節に明らかに記されている。
 小アジアに位置するエフェソは、当時最も崇敬を集めたアルテミスの大神殿のある町だったのだ。この大神殿の跡に、エフェソのバジリカがつくられていることを考えれば、マリアを「神の母」と規定することによって、人々の心に残るアルテミス信仰を吸収する目的があったと推定される。

 実はエフェソの公会議のときまで、二つの定義が互いに火花を散らしていた。ひとつは、このとき定義として採択された「神の母マリア」、もうひとつは「キリストの母マリア」というものだった。どう違うか? イエスが神であることを前提にするのが「神の母マリア」という定義。イエスは神ではなく、人間界に遣わされた最も高貴な人、つまり人間の王(キリストは「香油を注がれた者」の意味で、つまり「人々の上に立つ者」、「指導者」、「王」)ということになる。
 
 エフェソの公会議では、こうなった。
 「『神の母』にして、『キリストの母』でもある聖マリア」。
 これは何を意味するか。マリアは肉によるイエスの母ではない、と言う意味を表す。マリアはたしかに人である「王たるイエス」(つまりキリスト)の母ではあるが、けっして人の肉の営みによって受肉したのではない、と言うことである。聖霊の力で人の肉体を得た。そして受肉したのは「三位一体の位格のひとつ、御子なる神」であった、と言うのだ。
 このことが、マリアの「処女懐胎」の論拠となる。
 このことが、「汚れなきマリア」の論拠となる。「汚れなきマリア」とはつまり、人間がすべからくその魂と肉に負っていた「原罪」を、ただひとり免れているという意味だ。

 マリアの「処女懐胎」の根拠は、『ルカによる福音書』ただひとつ。その第1章26節から38節に記されている記事だけだ。この記事は、大天使ガブリエルによる「受胎告知」としてよく知られている。この場面はルネサンス以降の画家に好んで取り上げられたテーマでもある。その「受胎告知」の最初は「天使祝詞」として名高い。
 「めでたし 聖寵満ち満てるマリア! 主御身とともにまします!」
「共同訳聖書」ではこうだ。
 「おめでとう、恵まれた方、主があなたともにおられる」(第1章28節)
この部分を冒頭に置いた歌が名高い「アヴェ・マリア(Ave Maria)」だ。多くの作曲家によって曲をつけられたこの「天使祝詞」は、キリスト教にとって、「聖母マリア」あるいは「清浄なマリア」あるいは「処女マリア」というイメージは、天上の女性のイメージとなったことを証明する。プラトン流に言えば、それは女の「イデア」だった。古来、人間が女神に仮託してきた、女がもたらすすべての「善きもの」の理想となった。

 ちなみに、このとき、けっして「神の母」という称号をあたえてはならないと頑強に主張したのが、ネストリウス派で、異端とされた後も宗派を形成している。中国で漢の代に伝わった「景教」と呼ばれるキリスト教がこれだった。

 ◆史実に目をつぶろうとするカトリック神学◆

 けれども、先に挙げた『マリア』にはこう書かれている。

「イエスが真に人、真に神である救い主という長い論争を経たキリスト論的真理をまったく疑いのないものにするために、その母マリアを神の母と呼ぶことにしたのである。」(P88L14~16)
「キリストが正しく認められたことを表徴するために、マリアを神の母と呼んだのであるから、したがって、教会がこの公会議をもとにマリアを神格化したというのは大きな誤りである。」(P89L1・2)
「現代のマリア信心研究家や、また、プロテスタントの中に、これをマリアの神格化の始まりのように誤った解釈をするものがあるが、教会史の客観的な研究からはそのような解釈は起こりえない。」(P89L5~7)

 ここで言われる「教会史」とは何だろう? 「教会史」とは「教会というものの歴史的変遷」を言うのではないのだろうか? 「歴史的変遷」であれば、「公会議」の決定にも歴史的バックグラウンドが考慮されなければなるまい。「三位一体」という神の定義も、それに基づく「神の母マリア」という定義も、実はこれらの歴史的背景、歴史環境の中に置き直してはじめてその真の姿が見えてくるのではないか。
 ここで言う「教会史」とは、まったく歴史的環境から「教会」だけをくくりだし、ぬき出して、時代背景、時代の風潮、時代の人々の心情をまるで無視して、「教会、我一人孤高を行く」とでも言わんばかりの「教会史」だ。どこに「客観的な研究」があるというのだろう。
 「カトリックによる主観的な教会史」と呼ぶべきだろう。

 さらにこの著者は続けて、こう書く。

「神の母マリアの呼び名によるマリア崇敬は、このように古代教会のキリスト論に基づいたものであり、後の教会はこのマリア崇敬をさらに深めていくことになった。それは、例えば、イエスの受肉の神秘をさらに深く信仰することから起こっていくマリア崇敬である。」(P89L11~13)
「しかし、キリスト論的真理がマリア崇敬に反映するということは、教会そのものがいかにマリアと深い関係にあったかということをも裏付けている。それはすでにヨハネの福音書が明らかにしている。共観福音書には十字架の下におけるイエスの母マリアの姿は明らかにされていないが、二世紀の初めに書かれたと推測されているヨハネの福音書には、十字架に掛けられているイエスの言葉をもって、マリアと教会の関係が明らかにされている。」(P89L14・15)

 ここで引用されるのが、『ヨハネによる福音書』の19章だ。引用は「新共同訳聖書」に基づいているので、そちらから引用しておこう。

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(19章26節・27節)

 ここにマリアと教会との関係が明らかにされていると、著者は言う。けれども、ここにもひとつ、著者が口をぬぐって言わない事実がある。ここに現れるのは、十二使徒のひとりのヨハネだが、このヨハネは、実はマリアとともに、エフェソに渡って、そこで亡くなったとされていることだ。ここにもエフェソが顔を出す。マリアとエフェソは、あるいはエフェソの教会とマリアは切っても切れない関係にあるのだ。
 2世紀初頭のキリスト教の様子を見てみると、各地の有力な教会がそれぞれ司教座を持って分立していたことが知られる。イスラエルはイエスの兄弟の小ヤコブによる律法主義的キリスト教を受け継ぐ原始共産制のキリスト教団として、頑迷なユダヤ主義をもっていた。また、エフェソはヨハネが教団をもったところで、独立していた。さらに、アレキサンドリア、アンティオキア、さらにはローマがそれぞれ「司教」あるいは「主教」を置いて、それぞれが教勢拡大をはかりまた全キリスト教会の中での教権のイニシャティブを争った。
 いわば、ニケーア公会議、エフェソの公会議というのは、この教権の闘争とも言うべきもので、ここで互いを異端呼ばわりして、それぞれが主張する教義をたたかわせたのだ。

 ◆マリアの両親について語るジェームスの「原初福音書」?◆

 著者はこのように書く(P92L1)。ジェームスの「原初福音書」とは、日本では通常、「ヤコブ原福音書」と呼ばれているものだ。「マリアの両親について語る」と書くが、実際はマリアのおいたちの記とでも言うべきものだ。
 ここではマリアがどのように清浄無垢に育てられたかが克明に語られ、なおかつ、マリアの「処女懐胎」だけでなく、イエスの出産直後にもなお「処女」であったことが語られる。そのための証人として、サロメという女性まで登場させるのだ。

 著者は、日本で、「新約聖書外典」の」ひとつとして知られているこの「ヤコブ原福音書」を、「ジェームスの」と呼ぶ。確かに英語読みでは「ジェームス」だが、日本ではプロテスタントの研究者に「ヤコブ原福音書」と呼ばれているものを、わざわざ別の呼び名にしてしまう。プロテスタントの言い方は避けるのだ。
 それはともかく、この外典のひとつは、「ヤコブ」という名は立てられているが、書かれたのは2世紀末とされているから、聖書に現れるヤコブではあり得ない。イエスの兄弟、小ヤコブになぞらえているらしいのだが、この著者はユダヤ教の習慣を知らない。実際、幼い女性が、神殿に預けられ、そこで養われるという習慣は、ユダヤにはあり得ないものだという。ユダヤにおける女性の地位の低さを思えばよい。想像を絶するほど地位が低い。今のイスラム原理主義のなかの女性たちは、社会的に、人間的に男尊女卑の被抑圧状態にあるが、それに近いものと考えればよい。
 それらの事実を言わないで、こうした事例をもって、原始キリスト教会がマリア崇敬を強め、深めていったという。そして、これらのいわば物語とも伝説とでも言えるようなものについて、こう書くのだ。

 「ただし、聖書の教えに反することがないかぎり、教会は信徒のマリア崇敬を豊かなものにするものとしてこれらの文書を保ち、マリアの母アンナ、父ヨワキムを聖人として尊び、その祝日も認めている。」(P92L4~6)

 このような不確かな伝説に基づくものでも、カトリック教会はそれを認めて、聖人にまでしてしまう。となると、カトリック教会の認める正典「新約聖書」がどれほど信憑性のあるものか、帰って疑わしくなると言うものだ。
 不誠実かつ無責任な言というほかない。

<この項続く>

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マリアとは何か? その1

2006-07-04 18:46:39 | キリスト教問題

●カトリック教会のマリア崇敬・マリア信仰●

 ここに一冊のマリアについて書かれた本がある。その名も『マリア』(清水書院刊1998)。カトリックのレデンプトール会の神父が書いたものだ。よく書かれているが、カトリック神学に伝統的なキリスト教護教論的な性格が強い。つまり、カトリック教会のマリア崇敬がいかに正統なものかを、論拠なく示そうとするものだ。
 例えば次のように。

 いずれにしても、マリア崇敬は福音書にすでに見られ、神学的起源は聖書の神の旧約・新約を通して一貫している神の人間尊重、人間愛にその根拠があるが……(P85L7・L8)

 けれども、福音書のマリア崇敬の根拠とされているのは『ルカによる福音書』の天使によるマリアへのお告げ(第1章26節~38節)を中心とする箇所だけと言ってもいいほど、マリアに関する記述はここに集中している。わざわざ、洗者ヨハネがイエスの親戚であることまで、ここには記されている。それは、洗者ヨハネの父であるザカリアの記述(第1章5節)から始まり、マリアへのお告げの場面では、天使ガブリエルに「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。」(第1章36節)とわざわざ言わせているところにある。この年とって身ごもっているエリザベトは、ザカリアの妻なのだ。
 こうして、ルカは、イエスの家系と洗者ヨハネの家系とが、神に祝福されたものであることを、描き出そうとする。カトリック教会はここから、書かれていること以上のもの巧みに引き出し、カトリックのマリアについての信仰箇条を正統なものと強弁しようとする。けれどもたとえば、「処女懐胎」にしても、どこにもその記載はない。ルカにおいては、マリアが処女のまま懐胎したかどうかは、関心の外だ。そして、ルカ以外の残りの三つの福音書のどこにもマリアの処女懐胎については記されていない。

 実は、マリアが処女のママ懐胎したと言うことがはっきりと書かれているのは、『ヤコブ原福音書』なのだ。これには副題が添えられていて、それは「いとも聖なる、神の母にして永遠の処女なるマリアの誕生の物語」とある。けれども、八木誠一氏の解説によると、成立年代が2世紀末と推定されること、処女が幼いときから神殿で養育されるというようなユダヤの習慣とは異なる記述があるなど、その著者は十二使徒の一人、ヤコブではあり得ないとある(『新約聖書外典』解説P474 講談社文芸文庫版1997)。
 カトリック教会のマリアの永遠の処女という教義は、ほとんどここから得られていると考えてもいいほどだ。けれどもこれは、初期キリスト教文芸のひとつと見るべきだというのがおおかたの説であり、ギリシアや小アジアでの評価とは裏腹に西方教会での厳しい論難によって、結局キリスト教の正典には認められなかった。ヒエロニムスも批判している。

 マリア信仰は、東方教会の伝統だとされる。東方では、キリスト教の入る土壌に、根強い女神信仰があったとされる。たとえば、エフェソに宣教を行ったパウロが、エフェソのアルテミス女神信者に囲まれ、リンチまで受けかけるというエピソードが『使徒言行録』(新共同訳聖書によるタイトル。もともとは『使徒行伝』またはカトリック教会では『使徒行録』と言われてきたもの)に記されている。長くなるがここに引用しておこう。

 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなりの利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなど神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく。偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうはさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえわからなかった。
 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、かれは手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめていった。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。けっして無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
(第19章23節~40節)

 この場面のポイントは、キリスト教の教えと従来から地元やアジア州の人たちが広く信仰してきたアルテミスという女神の信仰と真っ向から衝突したということだ。女神信仰は根強く、パウロによってキリスト教の信仰に入った人たちは、その頑強な抵抗にあって、難渋を続ける。そのアルテミス信仰に覆い被せるようにして、現れたのがマリア信仰だった。こうして東方教会では、キリスト教の布教には、マリア信仰が必須の要素となった。
 このことは、「神の母マリア」という信仰箇条が明確に取り上げられることになったのが、エフェソ公会議(431年)だったことにもよく現れている。「神の母マリア」という信仰が、根強い女神信仰を凌駕したということになるだろうか。このことは「神の母マリア」という信仰箇条の定まった最初から、マリアの神格化の危険をはらんでいたと言うことだろう。

 けれどもカトリック教会はその事実に口をつぐむ。そして、こう言うのだ。先の『マリア』から引用しておこう。

 カトリック教会が教会の歴史を通してマリアへの崇敬を深めてきたのは、人となった神である救い主イエス=キリストに対する信仰とその理解が深まったからで、マリアをイエスから切り離して崇敬したり、神格化したからではない。ローマ帝国の中で発展した古代キリスト教会は、ローマ人の宗教にあった女神信仰に対しては信徒への影響のないように警戒を怠らず、常に新約聖書の信仰に基づいたイエスの母マリアへの崇敬を深めた。(P87L8~12)

 「信徒への影響のないように」と書くが、たとえばエフェソやアンティオキアに建てられた司教座聖堂(当時は「バシリカ」と呼ばれた)は、もともとアルテミスの神殿のあったところだった。ローマ帝国内で同じようなバシリカがいくつもつくられていることを見ると、当時のキリスト教団が、明確な意図を持って、在来の女神信仰を利用したことは明らかだ。そのことをまったく無視して、このような説明をするのは、まったく無責任、不誠実と言わざるを得ない。カトリック教会のこの事実隠蔽体質こそ、最も排除すべきものだと言うのに。

 <この項続く>

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