生きることに疲れました。
私は自由きままに生きたいわけではありません。
ひとりで生きたいわけではありません。
楽しいことがすきです。孤独を好むわけではありません。
いつからひとりぼっちになってしまったのでしょうか。
もしかすると初めからそうだったのかもしれません。
しかし見せかけだけでも温かみは残っていたのです。
けれどもその灯ももう消えようとしています。
私は何をよりどころにして生きていけばいいのでしょうか。
いや、私が何かをよりどころにしようとすると、それは人には
「よりかかり」に見えるようです。むやみにすがりついているように
見えるようです。
よりかかりとよりどころとよりそいは違います。よりかかりは質が悪く見えるようです。
「さみしいなんて口に出したら、だれもみんなうとましくて逃げ出してゆく」のです。
これからどう生きていったらいいのか、もはや私にはわかりません。
以下は村上春樹1Q84の中のことばです。
ある年齢を過ぎると、人生というのはものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなってしまいます。あなたの人生にとって大事なものがひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいにあなたの手から滑り落ちていきます。そしてその代わりに手に入るのは、とるに足らないまがいものばっかりになっていきます。肉体的な能力、希望や夢や理想、確信や意味、あるいは愛する人々、そんなものがひとつまたひとつ、一人また一人と、あなたのもとから消え去っていきます。別れを告げて立ち去ったり、あるいはある日ただふっと予告もなく消滅したりします。そしていったん失ってしまえば、あなたにはもう二度とそれらを取り戻すことができません。かわりのものを見つけることもままならない。こいつはなかなかつらいことです。時には身を切られるように切ないことです。
私はいまそんな気持ちなのです。
去年の7月に私はひとりここに残されて、途方にくれました。
でも希望は残っていたのです。かすかな希望でしたが、生きるには十分でした。
それから日々を過ごすうち、私の中で、私は捨てられたんだという気持ちが
だんだん大きくなりました。実際そうだと思います。
捨てられたと感じた私は、自分をごまかすように働き、本を読みました。
一生懸命生きてみたのです。
頑張ったものの、結果は残酷でした。私は逆向きのベルトコンベアをただひたすら
走っていました。後ろには絶望的な形をした、なんだかよくわからない感情の渦が
手をこまねいて私を待っていました。
私は感情に背を向けてひたすら走り続けました。飲み込まれてはおしまいです。
しかしその距離は少しずつ縮まっていったのです。もう3月にはほとんど
飲み込まれていました。そしてついに力尽きました。
後には何も残っていません。残骸ですらない・・・。
私は死ぬのが怖いですから、死んだりはしません。
しかしこれを今読んでいるあなたと、もういちど会えるかと聞かれたら
私は答えようがないのです。
だから、今日のタイトルを「さようなら」にしてもう私が消えてしまったように
みんなに思ってもらって、私のことを忘れてほしいなとちょっと思いました。
でも「さようなら」が同情を買う言葉でしかないのなら、私はそんな言葉を使いたく
ありません。「さようなら」が脅しでしかないのなら、それは本当に卑劣です。
「さようなら」と私が言えばだれかかまってくれるだろう!なんて・・・。リストカット
と同じではありませんか!
もし私がそのような意味で使わなくても、人は誤解するものです。
誤解されたら生きていけません。
だから私は今日は何もいいません。死んだり消えたりすることなく、人生を生きて
いきます。それが美しさとは程遠いものであっても、もはや仕方がないのです。
傷ついて孤独になった分だけ、やさしくならなければならないのですが、私は冷たく
なるばかりです。人が寛容になるには、そうなる環境が必要なのです。
それが得られない私は、ずっと非寛容で冷淡な人間として生きなければなりません。
毎日心痛む出来事が続きます。もう桜は散るでしょうか。冬に生きる私には、春の
暖かさがつらいです。
あなたも日々を懸命に生きてください。
今日は読んでいただいて、ありがとうございました。
私は自由きままに生きたいわけではありません。
ひとりで生きたいわけではありません。
楽しいことがすきです。孤独を好むわけではありません。
いつからひとりぼっちになってしまったのでしょうか。
もしかすると初めからそうだったのかもしれません。
しかし見せかけだけでも温かみは残っていたのです。
けれどもその灯ももう消えようとしています。
私は何をよりどころにして生きていけばいいのでしょうか。
いや、私が何かをよりどころにしようとすると、それは人には
「よりかかり」に見えるようです。むやみにすがりついているように
見えるようです。
よりかかりとよりどころとよりそいは違います。よりかかりは質が悪く見えるようです。
「さみしいなんて口に出したら、だれもみんなうとましくて逃げ出してゆく」のです。
これからどう生きていったらいいのか、もはや私にはわかりません。
以下は村上春樹1Q84の中のことばです。
ある年齢を過ぎると、人生というのはものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなってしまいます。あなたの人生にとって大事なものがひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいにあなたの手から滑り落ちていきます。そしてその代わりに手に入るのは、とるに足らないまがいものばっかりになっていきます。肉体的な能力、希望や夢や理想、確信や意味、あるいは愛する人々、そんなものがひとつまたひとつ、一人また一人と、あなたのもとから消え去っていきます。別れを告げて立ち去ったり、あるいはある日ただふっと予告もなく消滅したりします。そしていったん失ってしまえば、あなたにはもう二度とそれらを取り戻すことができません。かわりのものを見つけることもままならない。こいつはなかなかつらいことです。時には身を切られるように切ないことです。
私はいまそんな気持ちなのです。
去年の7月に私はひとりここに残されて、途方にくれました。
でも希望は残っていたのです。かすかな希望でしたが、生きるには十分でした。
それから日々を過ごすうち、私の中で、私は捨てられたんだという気持ちが
だんだん大きくなりました。実際そうだと思います。
捨てられたと感じた私は、自分をごまかすように働き、本を読みました。
一生懸命生きてみたのです。
頑張ったものの、結果は残酷でした。私は逆向きのベルトコンベアをただひたすら
走っていました。後ろには絶望的な形をした、なんだかよくわからない感情の渦が
手をこまねいて私を待っていました。
私は感情に背を向けてひたすら走り続けました。飲み込まれてはおしまいです。
しかしその距離は少しずつ縮まっていったのです。もう3月にはほとんど
飲み込まれていました。そしてついに力尽きました。
後には何も残っていません。残骸ですらない・・・。
私は死ぬのが怖いですから、死んだりはしません。
しかしこれを今読んでいるあなたと、もういちど会えるかと聞かれたら
私は答えようがないのです。
だから、今日のタイトルを「さようなら」にしてもう私が消えてしまったように
みんなに思ってもらって、私のことを忘れてほしいなとちょっと思いました。
でも「さようなら」が同情を買う言葉でしかないのなら、私はそんな言葉を使いたく
ありません。「さようなら」が脅しでしかないのなら、それは本当に卑劣です。
「さようなら」と私が言えばだれかかまってくれるだろう!なんて・・・。リストカット
と同じではありませんか!
もし私がそのような意味で使わなくても、人は誤解するものです。
誤解されたら生きていけません。
だから私は今日は何もいいません。死んだり消えたりすることなく、人生を生きて
いきます。それが美しさとは程遠いものであっても、もはや仕方がないのです。
傷ついて孤独になった分だけ、やさしくならなければならないのですが、私は冷たく
なるばかりです。人が寛容になるには、そうなる環境が必要なのです。
それが得られない私は、ずっと非寛容で冷淡な人間として生きなければなりません。
毎日心痛む出来事が続きます。もう桜は散るでしょうか。冬に生きる私には、春の
暖かさがつらいです。
あなたも日々を懸命に生きてください。
今日は読んでいただいて、ありがとうございました。