かりんとうの小部屋Z

このブログでは趣味や仕事や生活について、まったりと語っています。

2016年03月26日 16時27分34秒 | 生物
大きくなりすぎたペットショップの犬が、
最近必死にアピールしてくる。
僕を飼ってとアピールしてくる。
私はそれを見ない振りして
小さな子犬ばかり見る。

ウチダ氏のブログとわたくしのブログの内容が似てるので・・・

2016年03月17日 08時16分21秒 | 考えたこと
他の道
2015年07月28日 23時07分41秒 | 考えたこと
震災後、僕たちがほしかったのは穏やかな停滞(下降)だったんだよね。
10年ぐらいかけて震災の傷を癒したかったんだよ、本当は。
2015年になっても、心の傷が癒えてる人はだれもいないと思う。
だけど安倍さんは僕たちに、前に進むことを強いた。
経済を活性化させ、オリンピックを成功させ、軍事的にも強くならなければならないと
日本人に発破をかけた。
みんな心身ともにぼろぼろなのに、「もう動けない、休みたい」と言ってるのに、
僕たちはまた馬車馬のように猛烈に前に進まなければならなくなった。
他の道を選ぶチャンスはあったはずなんだけど、見落とされてしまった。
スクラップ寸前の自転車が必死で坂道を上っている、哀しい国日本。
↓つまり私が言いたかったのはこういうことです
内田樹の研究室2016・3/13
私たちの世界が今求めている言葉はそれである。「止まれ」である。「落ち着け」である。「浮き足立つな」である。停止することが決定的な変化を意味するような局面というものがある。自分たちがこれまで使ってきた度量衡や価値観や効果的なはずのウェポンが無効になる局面になったときには、「どうしていいかわからない」と素直に認めるところからしか話は始まらない。

グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。すべてのステイクホルダーが納得できる対案が出るまで戦い続けるという人たちはどちらかが(あるいは双方が)死ぬまで戦いを止めることができないだろう。
それが世界史的文脈における「停止要請」の実相である。いったん時計の針を止める。そして、「とりあえずこれについては合意できる」というところまで時計の針を戻す。そしてそこから「やり直す」しかない。
国内的にも私たちがするべきことは立ち止まることである。「成長だ、変化だ、イノベーションだ、リセットだ」と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。





予約がとれない

2016年03月07日 11時26分08秒 | 生活のこと
20日に大阪で中国語の試験があるのでホテルを予約しようと思ったところどこもかしこも満室で大阪も兵庫も京都もぜんぜんだめだから岡山で受験しようと思ったけど岡山もいっぱいだからこれはもうだめかもしれんとおもったけど明石で変なビジネスホテルがあいててほっと胸をなでおろした
わたくしでありました。