多くのクリスチャンたちが、キリストは、自分たちは持っていない特別な力を持っておられたので律法に服従することが可能であったのだと信じています。もちろん、イエス様はただ一度も罪を犯さずに、生涯を全うされた唯一のお方です。そして主がそのような完全な勝利の生涯を全うされた秘訣が、ローマ人への手紙8章34節に書かれています。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。
この点を見逃さないようにして下さい。イエス様は人として、律法の義を全うするために来られたのです。肉の体を取られても完全に生きられたことによって、人間性の中で律法を完全に守ることが出来ることを証明されました。上の聖書箇所で用いられた『義』というギリシア語の『ディカイオマ』は、文字通りには『義なる要求』という意味です。ですからこの言葉は、私たちもそのお方が勝ち取られた勝利を、自分のものに出来るように完全な勝利を得られたという意味です。悪魔サタンを征服して、肉の体を持っていても律法を遵守出来るという模範を見せて、キリストが私たちの心の中に入って下さり、ご自身が成し遂げられた勝利の経験を、私たちと共に分かち合いたいと提案されたことなのです。
ただ、主の力と内住して下さる聖霊の力だけが、律法の要求を成し遂げさせて下さるのです。パウロは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)と言いました。誰であれ、人間の意志と能力だけでは十戒を守ることはできませんが、イエス様が与えて下さる力によって、そのすべてを守ることが出来るようにされるのです。主がご自身の清さを、義の衣として私たちに着せて下さり、私たちの生涯のためにご自分の義を分け与えて下さるのです。キリストは私たちと同じ肉体を持って来られましたが、一生の間、天の御父だけを全的に頼って生きる事によって勝利をおさめられたように、誰でも天の父なる神様の恵みだけを頼りとして生きるなら、主と同じ勝利が可能であるという事を示して下さいました。