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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

これが真の福音です ソン・ケムン 第13回

2017年11月28日 | 日記

 聖霊による誕生

キリストは堕落した私たちの本性をそのまま取られましたが、聖霊によって生まれました。つまり神様の霊に満たされて生まれたのです。「そうであれば、我々とは違うのではないですか?」と言うかもしれません。たしかに、肉の勢力の支配下にいる、生まれ変わっていない人たちとは違います。

□ローマ人への手紙8章7-9 節

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」。

□「肉にある者」とは生まれ変わる前の状態です。すなわち、意志が肉の勢力に屈服した状態を意味します。この状態では人は神様に服従することができません。「 神の御霊が宿っている」人は誰ですか? 「人の欲によらず、神様によって」生まれた人です。

皆さんの中で生まれてから今までずっと聖霊に満たされている人はいますか? いませんね。では、これからずっと聖霊に満たされることはできますか? できます。しかし、「聖霊に満たされて」いたとしても「生まれ変わった」としても、私たちの本性そのものは変わりません。それらは私たちの本性に関係する問題ではなく、品性に関係するものです。 それで、イエス様と人間の違いは本性にあるのではなく、品性にあるのです。この地に人間として生まれたすべての人類は同一の本性、つまりこれまで話してきたように、罪の弱さを持つ感情や考え方、理性、良心、意志、本能を持っています。それはイエス様も例外ではありません。イエス様も遺伝の法則が及ぼしている罪の結果を受けられました。

生まれ変わったのは私たちの本性ではなく、品性の部分と関係があるのです。では生まれ変わったらこれ以上の誘惑はなく、試練はありませんか? 違います。誘惑と試練は私たちの本性から来るものなので、あります。いくら人格が立派で品性が成長してイエス様に似たとしても、私たちの本性は消えません。私たちの本性はイエスが再臨される時、最後のラッパで瞬く間に変化するとコリント人への第一の手紙15章で使徒パウロは言いました。 その時まで私たちは罪を犯す本性と戦わなければなりません。それで使徒パウロは「わたしは日々死んでいる」と言いました。私たちは過去には誘惑と試練に屈服し、罪を犯しましたが、生まれ変わった人は罪に屈服するのではなく、神様に屈服するので勝利の生涯を生きることができます。

 

 


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