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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第15回

2017年11月05日 | 日記

10、何によって救われたのか?

律法と恵みに関するわかりやすい例話があります。昔、ニュ―オーリンズ奴隷市場でこのようなことがあったそうです。二人の綿畑の農場主たちが、反抗的な声で大きく叫んでいる一人の黒人を奴隷市場で競売していました。ついに一人の農場のオーナーがその競売に勝って。その奴隷を自分の馬車に乗せて農場に向かいました。家に行く間中、その奴隷は反抗的な口調で、新しい主人のために働かないと言っていました。

ところが、農場に到着すると、その農場主は、その奴隷の手から鎖をはずして、このように言いました。「君はもう自由になった。君は二度と奴隷になる必要はなくなった。私は君に自由を与えるために君を買い求めたのだから」。その時、その黒人奴隷は農場主の足元にひれ伏してこのように言ったそうです。「ご主人様、私はあなたに永遠に仕えます!」。

私たちも同じように、罪の定めと死の中に捕らわれた罪の奴隷でした。しかしイエス様は、そのような希望のない奴隷の状態にある私たちに、自由を与えてくださるために、ご自分の命という大きな代価を支払って下さったのです。

主がそのような大きな犠牲を払われたのは、私たちを罪の奴隷から解放させるためでした。その事実を知った私たちの応答はどのようなものでしょうか。神様のあがないの恵みを受けた人々は、そのお方の足元にひれ伏してこのように言うでしょう。「ご主人様、あなた様が私のためにこのようになさってくださったゆえに、私はご主人様を愛します。これからは私の生涯をご主人様のために捧げます」。

次のような問題を考えてみましょう。人間が律法を犯した時、律法はただちに人間に死を要求します。しかしその時イエス様は、人間に宣告された罪の要求を、身代わりとして受けるために十字架の死を選択されました。仮に律法が廃止できるものであったなら、罪の刑罰も廃することが可能だったことでしょう。「律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない」(ローマ4:15)。律法は不変であり、その権威は神様ご自身の権威と同じように高かったために、神様も律法を廃しすることができませんでした。そのために、神様は律法の要求である死を、ご自分の御子であっても免れさせることはなさいませんでした。