
『生理ちゃん』生理を擬人化させ共感広がる
「QテレNEWS24」が6月14日にこういう見出しで報じている。
女性の生理を擬人化させた漫画『生理ちゃん』が先日、権威ある漫画賞を受賞した。映画化も決まる話題作、ヒットの訳を探った。
ほほえましい絵であり女児たちを因習から解き放って気楽させるいい意味の擬人化であると感じた。
さて俳句においてわが鷹は擬人法にどう向き合ってきたかというと、藤田湘子は比喩を非常に警戒し、特に暗喩はほとんど使ったことがないと『実作俳句入門』に書いている。
そして暗喩の先にある擬人化を戒めている。
梅雨深き壺は無言を通しけり
寝転んで自然薯は天仰ぎゐる
寝転んで自然薯は天仰ぎゐる
などを、陳腐、低俗、幼稚と唾棄している。これらは初心者のできそこないだが、名のある俳人の擬人法の句にも言及している。
最上川田植を率ゐ田を率ゐ 平畑静塔
春潮に飛島はみな子持島 山口誓子
木の根にも聞耳ありて神楽笛 百合山羽公
白露のやからをはなれ父の露 鷹羽狩行
春潮に飛島はみな子持島 山口誓子
木の根にも聞耳ありて神楽笛 百合山羽公
白露のやからをはなれ父の露 鷹羽狩行
「さすが手馴れたもの、巧いものと思わせる句々ですけれど、擬人法の持つ危うさがまったくなしとはしません。まあ、それほどに擬人法は通俗に堕しやすいということを承知しておくべきです」と釘をさすのを忘れない。
湘子は晩年、擬人法で句を書くことを門弟に禁じた。擬人法のみならず、オノマトペ、比喩の句も低俗なものしかできないと言って禁止した。よって何年か鷹誌にオノマトペ、比喩、擬人法の句はなかったと思われる。湘子や重鎮たちが書いたほかは。
湘子が没し主宰を小川軽舟が継いだ。
新主宰は湘子が禁止していた三つを解禁した。よその結社の人と話して鷹にはその3要素がないことを指摘されてそれでいいのか考えた末の決断であったという。
それで門弟は自由になったのであるが、ぼくは新主宰がいちばん擬人法を使いたかったのではないかと深読みしている。
晩秋の時間が床を踏み鳴らす
覚めてなほ耳眠りをり春の雪
道端は道をはげまし立葵
噴水は冬日貪りやまぬなり
冬の水肩ぶつけあひ流れゆく
スコップにぼんのくぼあり春日影
冬の蠅見れば絶叫してゐたり
首ねつこつよき古釘花曇
枝のさき喰ひ破りたる楤の芽ぞ
川の水うしろ向かざる涼しさよ
につこりと日の差してきし時雨かな
呼ばれし名返事欲しがる桜かな
足許へ波の蹴伸びや秋はじめ
書架の本一つ覚ましぬ巴里祭
覚めてなほ耳眠りをり春の雪
道端は道をはげまし立葵
噴水は冬日貪りやまぬなり
冬の水肩ぶつけあひ流れゆく
スコップにぼんのくぼあり春日影
冬の蠅見れば絶叫してゐたり
首ねつこつよき古釘花曇
枝のさき喰ひ破りたる楤の芽ぞ
川の水うしろ向かざる涼しさよ
につこりと日の差してきし時雨かな
呼ばれし名返事欲しがる桜かな
足許へ波の蹴伸びや秋はじめ
書架の本一つ覚ましぬ巴里祭
以上は小川軽舟句集『呼鈴』より引いた擬人法の句である。彼のいちばんの得意技はこの擬人法ではないかと思うほど頻出する。
これらの句を先師はどのように評価するのか。湘子を黄泉から連れて来たい気さえする。
ぼくは湘子がなんと言おうと軽舟さんは擬人法の名手だと思う。通俗のきわで踏み止まっているように思う。
でも有名な先生方の擬人化を下手に真似てしまったが故にタレントが夏井先生にボロクソ言われてしまうのです。
嗚呼罪深き擬人化よ。
この句は擬人法ではないでしょう。
作者が川の存在を背中に感じながらも、振り向くことなく、それ故、視覚に邪魔されることのない涼しさ。
君と読みはテキストに即していないよ。無理してテキストから横道に逸れるのはよくない。
あるいはこれが擬人法と感じないほどそれに毒されているかだ。
だからわざわざ「川の水」と言っているし、「向かざる」なのか!