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「文化の翻訳」の大いなる失敗

 ウィトルウィウス的な「建築」という概念は、新たな翻訳語としての「建築」という言葉とともに、明治になって初めて日本にもたらされました。伊東忠太が「アーキテクチュールの本義を論じてその訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」01と題した論文を発表し、その三年後の明治三〇年に造家学会が建築学会と改称されたことが、美術的要素が含まれた「建築」という言葉が一般に認知された時だったといわれています。
 
伊東はこの論文の冒頭、「アーキテクチュ-ル」の語原は ギリシアに在り、正しくは「大匠道」、ないし「高等芸術」と訳すものだと述べ、「アーキテクチュール」はFine ArtであってIndustrial Artではない、と位置づけます。そして「建築の文字は 未だ適当なる訳字にはあらざるなり」としながらも「アーキテクチュ-ル」の語は、「これを我が国語に翻訳することあたわざるも、強いてこれを付会すれば、則ちこれを建築術と訳するの尤も近きに如くはなし」として「建築」という言葉を前面に押し出したのです。
 
これ以後「建築」という翻訳語が一般化するのですが、建築家の神谷武夫さんによれば、これは、明治以降、それまでの日本にはなかった概念を輸入するときの、いわば「文化の翻訳」の過程における伊東忠太の大いなる失敗であった02といいます。それはその後の「建築」をめぐる言葉の混乱ばかりでなく、世の中の「建築」にたいする理解にとっても、「建築家」の仕事にたいする理解にとっても、大きな障害になった、というのです。
 たしかに「建てる、築く」という意味の「建築」なる語は、「コンストラクション」の訳語ではありえても、「アーキテクチュア」とイコールで結べるわけもなかった02のです。


伊東 忠太(1867.11.21 – 1954.4.7
01:伊東忠太「アーキテクチュールの本義を論じてその訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」
『建築雑誌』一八九四年六月号、伊束忠太建築文献編纂会編纂『伊東忠太建築文献』、龍吟社、一九三七、第六巻、『論叢・随想・ 漫筆』、所収
02文化の翻訳―伊東忠太の失敗/神谷武夫/デルファイ研究所刊『at』誌、1992 11月号

 

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