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世にも恐ろしい建物

 ガウディが亡くなった1926年から、フランコが独裁政権を確立する1939年までのあいだ、サグラダ・ファミリアもスペイン内戦(1936.7~1939.4)の戦場となり、国家や教会といったすべての権威を否定するアナーキストたちによって数度の襲撃を受けました。特に1936年の襲撃では、生前のガウディが敬虔なカトリックだったという理由で、彼の墓(サグラダ・ファミリアの地下聖堂に埋葬されていました)が暴かれ*01、また今井兼次が1926年に聖堂の地下で見た*02高さ5~6mほどの巨大な完成模型などが粉々に破壊されてしまいます。このとき図面など多くの貴重な資料が失われてしまい、サグラダ・ファミリアの全体像を示すものは、シルエットを描いた一枚のみ(しかも現存するのはそれを写真に撮ったもの)となってしまったのです。
 
スペイン内戦時のサグラダ・ファミリアの状況について、イギリスの作家でジャーナリストのジョージ・オーウェル(1903~1950)が記したものがあります。彼はのちに全体主義的ディストピアの世界を描いた「1984」(1948)で有名になりますが、その着想を得た実体験として、スペイン内戦のルポルタージュ(1936.12~1937.6)を「カタロニア讃歌」*03としてまとめています。彼はその中で、内戦時のサグラダ・ファミリアについて次のように述べています。
 
「バルセロナに来て初めて、聖堂を見に行った。モダーンな聖堂で、世にも恐ろしい建物である。銃眼模様の、葡萄酒の瓶をさかさにしたような形の尖塔が四つある。バルセロナのほかの教会とちがって、革命の時にも破壊されなかった。その「芸術的価値」のために破壊をまぬがれたのだ、と人々は言っていた。アナーキスト軍は、尖塔と尖塔のあいだに、赤と黒の旗を吊しただけで、その建物をこわせばこわせるのに、こわさなかったとは、趣味の悪いところを見せたものである。」03
 
ガウディの墓が暴かれ、完成模型などが徹底的に破壊される一方、オーウェルによれば建物本体は大きな被害はなかった、というのです。他の教会はアナーキストにより焼き払われ、建物の輪郭だけしか残らず、屋根のない四つの壁が瓦礫の山を囲っていた、とオーウェルもその惨状を記しているにもかかわらず、です。
 
オーウェルはサグラダ・ファミリアを、モダンではあるが世にも恐ろしい建物だ、と形容しています。さらにはそこに芸術的価値を認めたアナーキストたちを趣味が悪い、と切って捨てています。なぜオーウェルはそのように評したのでしょうか。
 
オーウェルは、スペインのこの地方の人たちは、ほんとうに宗教心というものを持たないにちがいない、と感じていました。それも正統的な意味での宗教心をもっていない、と。彼は、スペインにいる間に、一度も十字をきる人を見かけなかった、と書いています。それはふしぎなことと彼には思えました。そういう仕種(しぐさ)は、革命があろうがあるまいが、本能のようになっているはずのものだからです。スペイン教会はいずれ復活するだろう。しかし、革命の勃発によって、この国の教会は、亡びかけている英国教会とはくらべられないほどに、すっかり打ちのめされてしまっている。スペイン国民にとって、少なくともカタロニアとアラゴン地方の人にとって、教会はまったく無縁のものであり、ある程度までアナーキズムがキリスト教に取ってかわったいるのだ。そしてその影響力は広くひろまり、それが宗教的色彩をもっている、とオーウェルは断じるのです。
 
この時代に猛威を振るったアナーキズムに通じるものがガウディにはあった。少なくとも当のアナーキストたちはそう感じたに違いない。だからこそ彼らにとっての「芸術的価値」があるとしてサグラダ・ファミリアを破壊しなかったのではないか。そうオーウェルは感じたのです。


Homage_to_Catalonia,_Cover,_1st_Edition

01:気になるガウディ/磯崎新/新潮社 2012.07.25
02:海外に於ける建築界の趨勢(其二)/今井兼次/建築学会パンフレット第一集第一〇号 1928
03:カタロニア讃歌/ジョージ・オーウェル/橋口 稔訳 筑摩書房 1970.12.25

 

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