古代ギリシアの思想はキリスト教以前の多神教時代の学問だ、として東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝ユスティニアヌスによって排除され、閉鎖されたアカデメイアの学者たちは、貴重な書物・資料をもってトルコ東南部のハッラーンやイラン西部のジュンディーシャープールに移り、そこで研究を続けていきました。そこは当時ビザンツ帝国と対立していたササン朝ペルシアの支配下にありましたが、それゆえ亡命者である彼らは積極的に迎え入れられたのかもしれません。
それはこれらの地域が7世紀にイスラームの支配下に入った後も続きました。そこでもギリシア科学の研究は自由に継続されていったのです。
特にハッラーンでは8世紀から9世紀にかけて、古代ギリシア語の天文学・哲学・自然科学・医学の文献をアラビア語に翻訳するということがおこなわれました。それはアッバース朝において、バグダッドが翻訳および学問の中心となるまでの間、古代地中海世界の知識をアラブ世界へと導入する学問の中心地であったのです。イスラーム文明が発展する最初の貢献をなしたハッラーンの学者たちの、世界文明史における貢献は計り知れない*01とイスラーム研究の塩尻和子さんは指摘しています。
アッバース朝(750年-1258年)は、中東地域を支配したイスラーム帝国第2の王朝で、最盛期には西はイベリア半島から東は中央アジアまで及ぶ大帝国を築いていました。その第二代のカリフのアル=マンスール(在位754-775)によって新王朝にふさわしい首都として、ティグリス川とユーフラテス川が接近する交通の要所に建設され766年に完成したバグダッド(アル=マンスールの名付けた正式名はマディーナ・アッリサラーム[平安の都])は、完成後20年足らずで世界最大の都市となった*02といわれています。そして人類史上初めて100万人を超える人口を擁した都市ともなったのです。
バグダッドは、インド洋に通ずる南北の二大河川ルートと東西を結ぶ隊商ルートの交差点に位置していたため、船舶や隊商が毎日バグダッドに集散し、中国、インド、アフリカ、スペインなど既知の世界のあらゆる部分から物資や貿易商が来往し、世界一繁栄した都市でもありました。
このように世界中の物資が集中するとともに世界中の文化や知識もバグダッドに集中するようになったのです。そのようななかで第7代カリフ、マアムーン(在位813-833)は、古代ギリシアの文献を収集し、組織的にアラビア語に翻訳して、バグダッドに「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を建設しました。
この翻訳事業はギリシア語の文献だけに限らなかった*02とアフガニスタン出身で、サンフランシスコ在住の作家タミム・アンサーリーさんは指摘します。サンスクリット語や中国語、あるいはペルシア語の書物をアラビア語に翻訳できる者が高額の報酬で雇われ、各地からバグダッドに集まり、首都や主要な都市の図書館に、さまざまな言語で著わされた古代の文献のアラビア語版を大量に提供した、というのです。そしてムスリムの知識人は史上初めて、たとえば、ギリシアとインドの数学および医学、ペルシアと中国の天文学、さまざまな文化圏の形而上学を直接比較できるようになったのです。
このような「知恵の館」を営むことができたのは、イスラーム社会では、現実的・実践的なものを重視し、人類の福祉に益するものであれば、どこから得たものでも取り入れる、という考えをもっていたからだ*01と塩尻さんはいいます。その結果、イスラーム科学から発展した科学技術は、当時の世界で最高水準のものとなり、医学や哲学、化学、天文学だけでなく、広く生活文化に取り入れられていったのです。今日、料理やスパイス、野菜、果物、鉱物などの日用の語句に多くのアラビア語起源の用語が残されているのも、このためだ、というのです。

アル=マンスールがつくった円形城塞を中心に広がる市街
アッバース朝のバグダッド(767頃-912頃)
*01:イスラーム文明とは何か―現代科学技術と文化の礎/塩尻和子/明石書店 2021-03-20
*02:イスラームから見た「世界史」/タミム・アンサーリー/小沢千恵子訳 紀伊国屋書店 2011-09-07