natureという英語の訳語として近代以降に用いられるようになった「自然」という言葉は、それまで中国や日本で使われていた「自然」という言葉と、同じ漢字が使われていながらその意味には大きな違いがありました。翻訳語研究の柳父章さん*01によれば「自然」とnatureの意味の共通点は、「人為」と対立する、という意味をもつことにありますが、一方「自然」とnatureとの意味の対立点はいろいろある、といいます。一般にこの対立点は無視されがちで、まさにそのことが翻訳語の問題として大きい、と柳父さんは指摘するのです。
たとえば文法上の面ではnatureは必ず名詞であるのに対し、「自然」は、名詞でもあり、副詞でもあり、かつては形容詞や動詞でさえありました。今日でも形容動詞の語幹として使われる場合が少なくありません。このことから、natureはいつもある実体、実質的なものを指していて、その輪郭ははっきりしているのに対して「自然」は、むしろある「状態」であって、その輪郭を明瞭に捉えにくい場合が少なくない、といいます。
意味の面でnatureは、物質界、物質的存在を意味している場合が多く、人間の精神や意識と対立する意味をもっています。ところが「自然」には、このような意味はもともとありません。「自然」という言葉は、むしろこのような「意識的な区別」を拒否する意味だ、というのです。
natureは人間主体と対立する客体的な世界を意味する場合が多いのに対し、「自然」は、いわば主客未分の状態、境地を語っている、といいます。natureは知識の対象と考えられる場合が普通ですが、「自然」はむしろ知識を否定します。natureは、主観に対する客観、人間主体に対する客体世界、という意味の場合が多くあります。
人間自身もまたnatureと捉えられることが多く、特に生物として、動物としての人間という捉え方をされます。これに対し「自然」にはこのような意味はありません。主客未分の「自然」における人間は、「無為」であり、動物的に対して、いわば植物的ともいえる、というのです。
natureに対する人間主体とは、すなわち「人為」、あるいは、「人工」とか、「作為」の主体です。したがって、natureは、「人為」と対立しつつ、「人為」を不可欠の対立者として持っている、ということになります。すなわちnatureは「人為」と対立しますが、必ず両立するのです。
これに対し「自然」では、「人為」と対立するという意味は「人為」を全く否定する、という意味なのです。すなわち「自然」は「人為」と対立し、これと全く両立しないのです。
natureは、「人為」、「精神」、「意識」などと対立するとともに、他方natureを「超えた存在」に対しても対立します。natureが、「人為」と対立しつつ両立するように、また natureを「超えた存在」とも、対立しつつ両立します。これに対し私たちの「自然」は、「自然」を「超えた存在」を、何ら前提とせず、また認めないのです。
Physis(Greek: φύσις phusis )is a Greek theological , philosophical , and scientific term usually translated into English as " nature ".
*01:翻訳の思想-自然とNATURE/柳父章/平凡社 1977.07.05