あの街は天国である・・・金さえ有れば、だが。
そんな街が世界には・・・いや、自分は東南アジアしか知らないが、貧困の国はある種の男にとって天国なのだ。
嘘だと思うなら行ってみるが良い。
産業などほとんど無く、農業や漁業とて自分らの腹を満たすのが精一杯で売り物になる作物など作れない、貧困国の田舎へ行ってみるが良い。
気の毒になるほど純真な娘が春を販いでいるから。
昔、自分が暮らしたフィリピンの街の近くでこんな農村の姿を見た。
そこは電気も水道も無く、携帯電話の電波も届かない山の中だった。
村というほどの集落も無く、急傾斜の山を切り開いた農地で主にバナナを栽培して暮らしていた。
水は雨季に降る天水をコンクリートで作った大きなタンクに貯めて凌いでいた。
電気は、大型のバッテリーを街で充電して使う人もいたが大半の家の明かりはケロシンランプだった。
煮炊きは竃で燃料は薪だから生活に光熱費は掛からない。
たいていの家は豚と山羊と鶏と水牛を飼っていて、水牛は畑の動力として使い、その他は換金ように育てていた。
その山の集落へは車やバイクが通れる道はなかった。
集落の子供らは片道5キロ以上も歩いて下の村の学校に通っていた。
学校で使うノートや鉛筆を買うくらいの収入はバナナや山羊や豚を商って十分得られていた。
だから集落の子供らは街場の貧困層よりも就学率が高く小学校を卒業すると大抵は高校へ通った。(小学と中学が一緒で上は高校)
山の集落は決して貧しくはなかったのだ、が、それは道ができるまでだった。
道ができたら生活が便利になる。
便利というのは無料では無いのだ。
道ができたら交通手段が欲しくなる。
山間部の集落にもバイクが走り出すのだ。
バイクを買うには金が要るし、走らせるのにはガソリンも買わなくてはならない。
バイクは豚や山羊を売っても容易には買えない。
そこで販売店に行って長期のローンを組む羽目になる。
さて、道路ができると電信柱が経ち電気が通る。
電気が通ると明かりを点けたくなるのは道理であるし、テレビだって見たくなる。
程なくして携帯の電波が届くと携帯電話だって欲しくなるのが人情である。
今まで固定費としての生活費がかからなかった集落の人たちは光熱費や携帯の費用やガソリン代やらで定期的に現金が必要になる。
この集落の収入源は農産物である。
バナナは年中収穫できるものでは無いし、手入れをしてから収穫するまでにはそれなりの期間もかかる。
鶏だって山羊だって毎月売れるほど育てられるはずも無い。
もう書かなくても察してもらったことと思うけれども、山の民は文明の語る「便利な生活」の罠に絡め取られたのである。
かくして長閑に何の憂いも無く暮らしていたはずの農民が現金に追い立てられ「労働」をしなくてはならなくなるのだ。
屈託無く5キロの道を歩いていた山の子供たちだって俄かにできたバイクタクシーで学校に通うようになり、毎日いくばくかの小銭を持たなくてはならなくなった。
現金の無い暮らしは不可能になったのだ。
末路というのは気の毒だが、働ける人は男も女も街に出るしか無くなる。
さて、元々産業に乏しく貧乏な国である。
昨日まで山でバナナを育て山羊と鶏を飼って暮らしていた農民に何ができるのか。
気の毒だが街に降りても仕事は無いのである。
それどころか山に居れば食うには困らなかったのに、街では雨風をしのぐ場所にも不自由し、食べるのも侭ならないのだ。
少し単純に荒っぽく書いたがこれが街に溢れるスクオッターや最下層の民の始まりの一つであるのは間違いない。
街に出て仕事も無く荒んでゆく男は山に帰らず刹那の快楽に走り、また悪事に走るものも多い。
そして山に戻って農業をする気力も失せた人は街の隙間に住み着き、最下層の民が拡大再生産されるのである。
これは山の人を書いたけれども海の人だって同じである。
そして、ここで表題の意味に戻るんだけれども、男に天国の夢を与える女もこんなところから始まっているのだ。
今でも田舎から出で来ては歓楽街に身を置き僅かな現金を得て親に仕送りをする娘は後を絶たない。
娘は生まれた時から貧困だったかもしれないが、その始まりはそんなに古く無い昔に、現金に追われて農民や漁民をやめたところから始まっているのだ。
だってフィリピンの街に電気が普通に通ったのは僅かに30年前で、山間部となるとここ十年の話なのである。
携帯電話も然り、家電製品も言わずもがなである。
と、単純に自分の見た状況から書きましたけれども、東南アジアでは戦争や内戦が原因のことも多く話は単純では無いのであります。
しかし、それとても根底は同じだと思うんであります。
貧困の素は物質文明なんであります・・・と。
おおっと、風呂が沸きましたので、尻切れですが、このへんで。
そんな街が世界には・・・いや、自分は東南アジアしか知らないが、貧困の国はある種の男にとって天国なのだ。
嘘だと思うなら行ってみるが良い。
産業などほとんど無く、農業や漁業とて自分らの腹を満たすのが精一杯で売り物になる作物など作れない、貧困国の田舎へ行ってみるが良い。
気の毒になるほど純真な娘が春を販いでいるから。
昔、自分が暮らしたフィリピンの街の近くでこんな農村の姿を見た。
そこは電気も水道も無く、携帯電話の電波も届かない山の中だった。
村というほどの集落も無く、急傾斜の山を切り開いた農地で主にバナナを栽培して暮らしていた。
水は雨季に降る天水をコンクリートで作った大きなタンクに貯めて凌いでいた。
電気は、大型のバッテリーを街で充電して使う人もいたが大半の家の明かりはケロシンランプだった。
煮炊きは竃で燃料は薪だから生活に光熱費は掛からない。
たいていの家は豚と山羊と鶏と水牛を飼っていて、水牛は畑の動力として使い、その他は換金ように育てていた。
その山の集落へは車やバイクが通れる道はなかった。
集落の子供らは片道5キロ以上も歩いて下の村の学校に通っていた。
学校で使うノートや鉛筆を買うくらいの収入はバナナや山羊や豚を商って十分得られていた。
だから集落の子供らは街場の貧困層よりも就学率が高く小学校を卒業すると大抵は高校へ通った。(小学と中学が一緒で上は高校)
山の集落は決して貧しくはなかったのだ、が、それは道ができるまでだった。
道ができたら生活が便利になる。
便利というのは無料では無いのだ。
道ができたら交通手段が欲しくなる。
山間部の集落にもバイクが走り出すのだ。
バイクを買うには金が要るし、走らせるのにはガソリンも買わなくてはならない。
バイクは豚や山羊を売っても容易には買えない。
そこで販売店に行って長期のローンを組む羽目になる。
さて、道路ができると電信柱が経ち電気が通る。
電気が通ると明かりを点けたくなるのは道理であるし、テレビだって見たくなる。
程なくして携帯の電波が届くと携帯電話だって欲しくなるのが人情である。
今まで固定費としての生活費がかからなかった集落の人たちは光熱費や携帯の費用やガソリン代やらで定期的に現金が必要になる。
この集落の収入源は農産物である。
バナナは年中収穫できるものでは無いし、手入れをしてから収穫するまでにはそれなりの期間もかかる。
鶏だって山羊だって毎月売れるほど育てられるはずも無い。
もう書かなくても察してもらったことと思うけれども、山の民は文明の語る「便利な生活」の罠に絡め取られたのである。
かくして長閑に何の憂いも無く暮らしていたはずの農民が現金に追い立てられ「労働」をしなくてはならなくなるのだ。
屈託無く5キロの道を歩いていた山の子供たちだって俄かにできたバイクタクシーで学校に通うようになり、毎日いくばくかの小銭を持たなくてはならなくなった。
現金の無い暮らしは不可能になったのだ。
末路というのは気の毒だが、働ける人は男も女も街に出るしか無くなる。
さて、元々産業に乏しく貧乏な国である。
昨日まで山でバナナを育て山羊と鶏を飼って暮らしていた農民に何ができるのか。
気の毒だが街に降りても仕事は無いのである。
それどころか山に居れば食うには困らなかったのに、街では雨風をしのぐ場所にも不自由し、食べるのも侭ならないのだ。
少し単純に荒っぽく書いたがこれが街に溢れるスクオッターや最下層の民の始まりの一つであるのは間違いない。
街に出て仕事も無く荒んでゆく男は山に帰らず刹那の快楽に走り、また悪事に走るものも多い。
そして山に戻って農業をする気力も失せた人は街の隙間に住み着き、最下層の民が拡大再生産されるのである。
これは山の人を書いたけれども海の人だって同じである。
そして、ここで表題の意味に戻るんだけれども、男に天国の夢を与える女もこんなところから始まっているのだ。
今でも田舎から出で来ては歓楽街に身を置き僅かな現金を得て親に仕送りをする娘は後を絶たない。
娘は生まれた時から貧困だったかもしれないが、その始まりはそんなに古く無い昔に、現金に追われて農民や漁民をやめたところから始まっているのだ。
だってフィリピンの街に電気が普通に通ったのは僅かに30年前で、山間部となるとここ十年の話なのである。
携帯電話も然り、家電製品も言わずもがなである。
と、単純に自分の見た状況から書きましたけれども、東南アジアでは戦争や内戦が原因のことも多く話は単純では無いのであります。
しかし、それとても根底は同じだと思うんであります。
貧困の素は物質文明なんであります・・・と。
おおっと、風呂が沸きましたので、尻切れですが、このへんで。
ある文章を書いているところですが、
彼女の闘いは、文明との闘い、近代化との闘いなんですね。
文明社会の中心ではなく、その周りにいるものだけが、
警鐘をならせることが出来るのかもしれません。
にんげんのこころはやはり柔らかいのだと思います。
いつの時代も為政者は無知な国民を騙して一部の企業を成長させてきました。
工場で働いて生活が成り立っている反面、あの時代は影で公害の垂れ流しで悲惨な事になる訳です。
貧困・・・この大問題は格差を伴って未来永劫解決される事は無いのだと思います。
格差も貧困も「文明」と呼ばれる搾取のための経済システムが生むとは思うんですけど、ボンクラな私にはその先が読めません。
少し余裕のある日本の貧乏人と貧困国の本物の貧乏人では明らかに貧困国の人の方が笑顔で暮らしていると思います。
物質文明の中で物に囲まれると心が硬くなるような気がします。
世の中には素晴らしい人がたくさんいて危うい状況に警鐘を鳴らしているんですけれども、その声は小さく、広くは届かないんですね。