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じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

南風の便り 14

2020-02-23 11:49:27 | 南風の便り
  
アポ島 ダイバーとマムサの群れ



   コーストガードとの鬩ぎ合い

フィリピンにも沿岸警備隊がありまして、何を思ったのか、ダイバー相手の対策を盛んに整えている最中であります。
昨年まではちょっと大きなフェリーが・・・フェリーと言っても渡し船程度の大型バンカーボートですが。
そんな船の出る桟橋付近に駐在所を作っていました。
しかし今年はだいぶ奥地まで進出して来まして、とうとうマラタパイまでやって来ました。

そして、おやおやと思っていたら、この春にはなんとアポ島にも駐在所を作ってしまいました。
で、そんな事が何か私に関係があるのか?と言うと、これが大有りなのです。
色々問題はありますが、一番はコーストガードが名簿を提出させる事であります。
名簿には乗船する全員の氏名・性別・年齢・国籍などをを書くのですが、これがとても面倒くさいのであります。
だからいつも名前や年令を適当に書くのですが、最近はそれがバレているようなのです。
それもそのはず、女性はHNAKOと男性はTAROが頻繁に出てくるのですから、敵も変だと思うわけです。
先日、日本人てのは全員が花子と太郎なのか、と尋ねられ、SATOさんとITOさんも沢山いるなぁといわれました。

切羽詰まった問題は、今まで見逃されていたダイビングボートの定員を守らなければならなくなった事でした。
陸を走る軽トラに10人乗っても平気な国が何をしゃらくさい事をと思ったのですが、保険の設定から定員を守らせることにしたようでありました。

また、役に経つかどうかは別にして救命胴衣も搭載が義務付けられました。
私はコーストガードに、ダイバーはBCD(救命胴衣に似たもの)を持っているし、エマージェンシーブイやら海面着色剤やら笛やらと小道具をたくさん持っているので少し多めに乗せろと言ったのですが鼻で笑われました。

しかしいい加減の極みは現地人が船に乗る時であります。
旅客定員10名の船に定員のダイバーが乗っていたとしても、ちょっとアポ島まで乗せくれと言う現地人が現れたとすると、コーストガードは事も無げに「おう、乗せてやってくれ」と言ってくるのです。
私が嫌味っぽく「定員オーバーだろう」と言うと、俺が許可するから問題無いというのであります。

時々コーストガードのオフィサーを酒に誘い面白い話を聞かせてもらっています。
ある日、ミンダナオ海域で銃撃戦の末に海賊船を沈めた自慢話の序でにダイビングボートの定員について話してくれました。
保険の適用はダイビングボートのダイバーに限られるそうで、お前の船はまだフィッシングボートだろう、さっさとパッセンジャーに切り替えないとまずいぞと言われたのでした。
彼が言うからにはそろそろタイムリミットで、小銭を握らせてなんとかなる時期は過ぎたのでしょう。

ある日、アポ島のコーストガードが独りぽつんと詰所の日除けの下で暇そうにしていました。
昼飯時に挨拶に行くと暇つぶし相手に捕まり、あれこれと聞かせてくれました。
先日、島の近くにアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは新人民解放軍の仕業で、そんな事もあって駐在するのだと言いましたが、真相は分かりません。
たぶん、アポ島の宿泊施設が整って欧米人の客が増えたので形だけ用心したのだろうとは思いますが。

今は欧米からのダイバーが少なくのんびりしているアポ島です。

これからがベストシーズンのアポ島に潜ってみませんか・・・お待ちしています。

  では・・・また

     ではまた。

   (2003年 3月27日 書きました)





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南風の便り 12

2020-02-21 09:17:32 | 南風の便り


朝のチャンゲ(市場)前はいつも渋滞
 
 ミンダナオ島へ行ってきました

ミンダナオ島と聞けば一番はじめに何を思いますか?
へっ・・・?・・・なあーんにも?・・・って、まあ、今時の時事で言ったならばやはりアブサヤフとアメリカ軍ではないでしょうか。
もう少しアジアの歴史等に詳しい人なら、戦前の沖縄、奄美の人の移住と開墾。
その後の歴史ならアメリカの大企業の一方的な土地の接収などで日本とも関わりが深く、遠くて近いミンダナオ島なのであります。
しかし、今ではそんな歴史的な背景を伺い知る機会も減り、単にゲリラのいる島として有名になってしまっているのは悲しい事です。

そーです、もはや私の記憶も薄れたあの事件・・・若王子さんの誘拐などもミンダナオ島でしたね。
少し前、大企業の社員などはミンダナオに行く時には予約してある乗り物には絶対乗らなかったと言われています。
名簿から誘拐が計画されるからだそうですが・・・ほんとーですかね?

そんなミンダナオにはドゥマゲッティーからフェリーに乗ってDAPITANまで4時間の船旅であります。
私の目的は、農地を買う事とミンダナオのダイビングスポットの下見と、なんと「松茸」の発見であります。
松茸は実は噂では大量に有ると言う事を聞き付けていました。
そして、日本から写真を持参して見せたところ、こんなものは犬の糞よりたくさん有るとの事で、もしも本当ならひと財産確保と躍起になったのであります。
そんなわけで「松茸」発見がミンダナオ行きの最重要目的となっていたのであります。

結果を先に報告しておきますと「松茸」に似たキノコはありました。
しかし、ひと財産どころか食べるのがはばかられる代物だったのであります。

第一目標が消えたとなれば、次は農地の確保であります。
私BOMBEE、将来はフィリピンの大地で土に返りたいと思っております。
なので老後は農業などを営んで余生を送ろうと考えているのであります。
そんな私の耳に、えらく良い条件の出物があると吹き込む人がいたので出かけて行ったのであります。

しかしそこはやはり、熱帯はフィリピンの熱い風が吹いまして、聞くと見るとは大違いでありました。
日本人はすべての事物に完成度の高さを要求し、物の価値観がフィリピン人とは違い過ぎるかも知れませんが、それを割り引いても原野にしか見えない土地がフィリピン人にはすばらしい農地に見えるようです。
ちなみに私が農道だと思った道路はナショナルハイウェーだと言うし、ちょっとギャップが有り過ぎました。
そんなわけで、農地の下見もあえなく頓挫でありました。

3大目的の2つがあっと言う間に消えてしまった後は気持ちが萎えてしまいました。
しょーがねぇなぁ〜 んじゃぁゾートすっかぁ? で、3~4年前までは高級リゾートとうたわれていた「ダカクビーチリゾート」に行く事にしました。

繁盛していた当時は1泊130ドルと言われたこのリゾートも今では近所の青年団の会議が開かれる地域密着型のホテルに変身し、私の宿泊費もぐぐっとリーズナブルで、2食付きで1200ぺソ・・・約3000円で納まりました。
これでもフィリピンではけっこう高い方ですが。

では・・・脈絡の無い書き方になってしまいましたが、ここからがミンダナオ島へ船旅のご案内です。

8時発のフェリーでミンダナオ島の北の船旅の玄関口、DAPITANに向かいました。
チケットは当日港で買う事も出来ますが、個室などの良い部屋は予約が必要な事が多いようです。
私は、日本式に言えば2等の雑魚寝を選びましたのでチケットは当日買いでありました。

フィリピンも基本的にはベットで暮らすので、雑魚寝も畳部屋ではなく、2段ベットです。
切符にはベットの番号が指定されています。

出港前の港にはDAPITAN行き他にセブ行き、マニラ行きなどのフェリーが停泊していました。
港に居ると本当に頻繁に船が出入りするのに驚きます。
さすがに7000以上の島からなる島国で、交通の要は今も昔も船なのです。
埠頭は大きな荷物を持って船に乗り込む人で混雑しています。
隣の桟橋からは同じ8時発のセブ行きのスーパーキャットが出発して行きました。

フェリーが出航すると右手にネグロスオリエンタル州のシンボルCuernos de Negros 1904mが大きく迫って見えました。
ネグロス島はこの山ともう一つ北に有る2465mのKanraonの影響で乾期と言えども雨が多く水がきれいです。
高地が有るので野菜の種類が豊富で、南国なのにキャベツやハクサイ、レタスなどの葉ものも豊富です。

出航してしまうと船の中の探検が愉しみです。
船中をうろうろして色々面白いものを見つけました。
この船は日本生まれの船で「大雪」と言う船名で青函航路で活躍した船だったことが記されていました。
青函連絡船だったのが退役して長崎かどこかで余生を送り1997年にフィリピンに渡り、今ここで最後のお勤めを果たしているのことでした。
だから船内にはいたるところに日本語のプレートが残っています。

船が出航してしまうと何もする事が無い人々はベットで寝ています。
青函連絡船の時の売店はそのまま健在でパンやジュースや少しのおかしを売っていますが誰も買う様子がありませんでした。
私はデッキにでて見ました。
柵もロープも無いデッキを歩く事など日本では考えられませんがこの船ではどこでも歩き回る事ができました。

1時間以上も走ってやっとアポ島が近付いて来ました。
こうしてフェリーで近付いてみると、アポ島が海のまん中にぽつんと浮かぶ孤島である事が実感できました。

船内をじっくり見て歩くと時間の流れを感じさせてくれる物がたくさん有りました。
デリッククレーンも赤錆て役目はなさないでしょうが、定位置でじっと潮風に吹かれていました。
救命ボートの中にベニヤ板やら空き缶がゴミのように投げ込まれていました。
あれまぁ、と思ったのですが、すぐにそのベニヤ板がボートを漕ぐ為のパドルであり、空き缶はアカ汲み(船に溜った水をくみ出す事)に使う物であると合点。
質を問えばきりが有りませんが一応の備えはされているのだと、納得であります。
自動膨張式のライフラフトもありました。
それには「昭和50年2月三菱電機製造」と記されているのが読み取れました。
となりの救命ボートは藤倉ゴム製で、次回の点検が2003年になっていましたので、メンテナンスも受けているのが分かります。
これと同形式のもので隣にはブリジストンの物とオカモトラバーの物がありました。

船内探検も飽きたころ、到着予定時間より30分早くDAPITANに入港しました。
私はてっきり予定より早く到着したものと思っていましたがそれは大きな間違いでした。
小さな岸壁に船尾から槍付けするのにはなかなか難しいようでたっぷり30分、張り綱の具合で船をつけると言う芸当を演じていました。

DAPITANは田舎の港町でした。
ほとんど荷役ようの波止場といった感じで、コンテナが野積みされ、セメント袋が積み上げられ、ほこりを舞い上げて旧型のフォークリフトが走り回っていました。
未だにラワンの材木が切り出されているらしく、私の背丈をこえる太さの大木が船積みを待っていました。

DAPITANの港の外に出ても何も有りません。
観光客などほとんどいない事を示す街の様子に少し驚きつつ、食堂の前で手配したあるはずの車を待つ事30分、
やっと車を拾って農地の下見に出発したのでありました。

さて、諸般の事情から思惑は全てハズレ、他にすることも無いので今夜の宿であるダカクビーチリゾートへむかいました。
道路沿いに小さなリゾートホテルが見られましたが、営業している気配が無く、今はオフシーズンなのでしようか?それともやはり昨年のテロの影響で暇なのでしようか?。

ダカクビーチリゾートはフランス人の建築家のオーナーが自ら設計して建築したと言うだけあって随所にフィリピン人では考え付かない仕掛けとデザインが凝らしてありました。
しかし、全体がくたびれていて、今は昔の感がしました。
自慢のネイティブスタイルのコテージも半分は使用でず手入れもされていませんでした。
しかし最大の売り物である全長750mにおよぶ白砂のビーチは今でも美しく、これを見ているだけでも来る価値は有ると感じます。

リゾート内のダイビングサービスを探してみました。
もう午後4時を過ぎていたので帰り支度をしていたダイブマスターに話しを聞く事ができました。
彼曰く、わざわざAPO島をメインに潜っているDMGTから何しにこんな所へ来たの?と言う感じでした。
ここもやはり昔は凄かったんだがの話しになって、今は近場で潜っても魚が出なくなったと嘆いていました。

結局第3の目的だったダイビングの新ポイント開拓も敢え無く頓挫となりました。
もはやリゾートを満喫するしかないと開き直ってはみたものの、せいぜいビールを片手に夕日でも眺めるしか手は無く、他にすることが無くなってしまいました。
しかも、頼みの綱のビールの値段だけは一丁前にリゾートしていて高いので気楽に酔うことも許され無いのであります。

ボーリング場が有ると言うので、それでは一発と腰を上げてました。
しかし、ピンを並べるのが人力でして、どうにも間延びしたゲームになりそうなので止めました。
さてさて、ますますやる事がなくなってしまいました。
リゾートもこうしてみると何にもすることないねぇ。
翌日は早々にチェックアウトし、この地方の中心地となるDIPOROGの街へ行ってみました。

街へ行く途中に片側交互通行の橋が有り、信号機によって整理されていました。
セブシティーからドゥマゲッティーに来てしまうと信号機を全く見なくなるのでかなり新鮮な光景でした。
しかも、フィリピン人が皆して信号を守っているから不思議です。

DIPOROGの街に入ってドライバーに、記念のモニュメントなどは無いのかと尋ねましたが、なあーんにも無いとのことでありました。
通りすがりの旅の者の勝手な感想ではありますが、珍しく活気が無いと感じる街でした。

仕方が無いので街一番のデパートの前で降ろしてもらいましたが、これがまた観光土産になるような物が全く無い、実用品と日曜雑貨の店でありまして、ものの5分で出て来てしまいました。
スーパーキャットの出港は14時ですからあと3時間、どうやって暇をつぶすか困り果てました。
結局チキンバーベキュー屋に入って早い早い昼飯を食べながら時間を潰すしか無く、ビール2本で2時間も粘ってしまいました。

まだまだ早いと分かっていましたがDAPITANの港へ戻りぶらぶらしていて面白いポースターを見つけました。
それは貝類の採取、持ち出し、売買を禁止したポスターでした。
しかし、私が知る限りではこのポスターに掲示されている貝は全部簡単に手に入れる事ができるのであります。
バリカサグで出会うお土産売りは堂々度この手の貝を売っていますし、それを日本に持ち帰って咎められたという話も聞いたことがありません。

待ち合い室兼チケットオフィスになっている港の建物の中は乗船券を求める人でごった返していました。
チケットを買う時は行き先と氏名、年令、性別を書いた紙を差し出しますが時間が早いと窓口が開いていません。
良く見るとベニヤ板にくぎを立てたホルダーにその用紙が刺してありました。
これで並ぶ必要が無くなるのかと思い感激しました。
合理的と言う考え方から程遠いフィリピンでこれは画期的なことだと感動しました。

私は3つの目的を持ってミンダナオ島に上陸したのでありますが、その総てがあっという間に意味を失ってしまったのには驚きました。
恐るべしフィリピンの風、であります。

ミンダナオ島には北緯10度のドゥマゲッティーよりさらに暑い熱帯の太陽が照りつけていました。
フィリピンで何かをしようとしてもほとんど思ったようには事が運ばないのにはもう慣れっこですが、今回の畑を買う話はかなり真面目に考えていたので落胆は否めません。
しかしまあ、やっぱりフィリピンでありました。

外では土産用のフルーツが沢山売られていました。
ミンダナオは他の島に比べてフルーツの種類が多くすごく安いのです。
特にセブシティー等の都会へ向かう人は某かのフルーツを買っていました。

疲れたなぁと思って座る場所を探していたら、毛糸の帽子をかぶりジャケットを着たフルーツ売りのおばあちゃんが目に入りました。
私はおばあちゃんに「上着を着て毛糸の帽子をかぶって暑く無いの」と問いかけました。
するとおばあちゃんは「暑いよ」と答えてにこりと笑いました。

帰りは高速船のスーパーキャットで1時間30分、で料金はフェリーの一番安い席の2.5倍です。
冷房の効いた船室の椅子は快適で、寝ていたらあっと言う間でした。

  Kapoy kaayo ko・・・とても疲れました。

・・・では また

   ではまた

 (2002年 9月27日 書きました)


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南風の便り 11

2020-02-20 17:13:32 | 南風の便り
ベルタワーを左に曲がるとチャンゲへ

数日前、バヤワンと言うところに「ワニや猿が群れている」から見に行かないかと誘われたのでした。
私はワニやサルが群れるフィリピンの秘境に迫れるものと信じネグロス島の南へドライブすることに決めたのでした。

バヤワンへは、日本からスクラップで輸入されセブで組み立てられた「スズキキャリー左ハンドル仕様」で南へおよそ150キロです。
ハイウェイとは名ばかりの酷道を往復300キロも走るのはドライブ好きの私でもけっこう疲れます。

地図があれば詳しく説明できるのですが街で探しても州単位の詳細地図は見当たらないのです。
まあ、自分で書けなくも無いくらい単純な一本道なのでドライブに地図は不要なのですが。

走り始めて30分位でダイビングのベースになるマラタパイを通過すると私には未知の地域へのドライブとなりました。
マラタパイを過ぎると平地が少し開けて道路が海沿いでは無くなります。
水田が目立ってきて、田舎の農村の風景が広がります。
この辺りはまだドゥマゲッティーの経済圏で街へ行くジプニー(ローカルの乗り合いバス)も走っています。
田舎とは言ってもどんな集落にも日用品が間に合う程度の店は有り、意外に生活には困らないのです。
コカ・コーラの配達も毎日やってきます。

単調な道を走って行くと山に向かってのぼり始めました。
登っている間はドゥマゲッティー付近の市街地では見る事の無かった素朴な、しかし決して貧しくは見えない農家の家が見られました。
牛を飼いとうもろこしやバナナを育て、現金はあまり必要無い生活だと想像しましたが、どうでしょうか。

いつもの事ですが軽トラの荷台には近所の子供とその付き添いが乗っています。
この日はバヤワンから来ている近所のおばさんが里帰りと称して便乗したので軽トラの荷台は満員でした。
子供と大人が総勢で9名乗りました。
この人数を乗せて峠を登る軽トラはさすがに苦しそうでしたが、ジプニーやトラックは黒煙を吐きながら喘いで亀のような速度で登るのでした。

余談ですが・・・フィリピンは昔の日本がそうであったように交通ルールが厳しくありません。
定員が有るのかどうかも定かで無く、私の車の登録証に乗車定員の記載は無いようです。
スピードリミットも怪しく、交通標識はたまに見ますがその看板や指示標識はどこまで有効なのかは判断できません。
私の家のパーティーには警察官もやってくるのですがパトカーで乗り付けて酒を飲んで帰りますから多分飲酒運転はお目こぼしなのだろうと思います。

峠を下る頃から海が見えていました。
方角から言ってその海はスルー海でしょう。
水平線のはるか向こうにはパラワン島があるはずです。
ネグロス島を北に走って見える海は、漁船やフェリーボートや時には大型の貨物船等が見えてけっこう混んでいます。しかしこの道沿いから見える海には漁師の小舟がたまに見えるだけで静かです。

バヤワンはネグロスオリエンタル州の州都ドゥマゲッティーとネグロスオキシデンタル州の州都バコロドのほぼ中間に位置します。
どちらに向かっても大きな街までおよそ3時間~4時間で公共の交通手段はバスになります。
のんびりした空気を感じるこの辺りは都会の影響をあまり受けていない地域なのかと勝手に想像しました。
同じ田舎でも北に向かっては常に対岸にセブ島があって幾つかの街から簡単に渡れます。
だから距離は多少離れていても大都会セブシティーの影響を強く受けていると感じるのですが、どうなんでしょうか。

さて、延々3時間、ほとんど止まる事なく運転し続けバヤワンの街はずれに来た時です。
私は動物園の看板を発見しました。
その看板にはワニと象の絵が描かれていました。
まさか、と思った私はバヤワン出身と言う彼に「ワニは動物園にいるんじゃ無いだろうな」と問いかけると、Yes!!!ワニも猿も亀もニシキヘビもいるよ、と笑うのでした。
薄々感じては居ましたがワニの話は私を誘い出すための嘘だったのでした。

小さな漁村の小さな船が浜に並ぶ風景は子供の頃の日本の漁村に似ているような気がして、思わず車を停めてしまいました。
しかし村を外れると道は単調で海沿いを走ったら山に向かって上り、坂を下ればまた海沿いです。
最初は感激した景色もすぐに飽きて思わず居眠りしてハッとします。
自分の眠気覚ましと退屈していた子供らに、道端のアイス売りを探し1コ6ペソ(15円)のアイスクリームを買いました。
発泡スチロールの箱にドライアイスを入れて一日売り歩くのですが、35度を超す気温の中で全く溶けずに保存されているのには驚きます。

アイスクリームでは無くシャーベットです

アイスはどこで買っても値段も味も一緒、と言う事はたぶん製造元は同じなのででしよう。
バニラとマンゴーとグレープとウべのような物がありました。

バヤワンで昼飯を食べた後、荷台に乗っていたおばさんの家へ行ってビールをごちそうになり、皆の用事が終わるを待っていました。
竹でできた壁の家は風通しが良く涼しいのでぐっすり寝てしまいました。

どうも一行はブラックマジックの祈祷師の所へ行っていたようでした。
そうと知っていたら見に行ったのですがレッドホースの大瓶を2本も飲んでしまったので一眠りが正解だったのでしょう。

帰り道、私以外の全員が寝ている車を運転してまた150キロ帰りました。
行きに窮屈だろうと思った荷台にまた二人乗り込んできたのには驚きです。
後ろがぎゅうぎゅうなので軽トラのフロントにも3人掛けです。
いやいや、ベイビーが抱かれているのでフロントは4人です。
なんとも恐るべしフィリピン人の窮屈好きであります。
フィリピン人の窮屈好きは面白いので別の機会に是非書きたいと思います。

  ・・・では また

      ではまた。

(2002年 8月24日 書きました)
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南風の便り 10

2020-02-19 14:12:05 | 南風の便り


 祭りの支度

昨日と一昨日は「ローカルホリデー」でした・・・(これは私が勝手にそう呼んだだけです)・・・正式には、Dumaguete city fiesta でした。
一昨日は日曜ですから異存は無いのですが、翌月曜日をローカルホリデーと称して連休にしてしまう辺りが良くわかりません。

告知も無しに役所も銀行も電話会社も水道屋も休みになってしまうのです。
私は電話会社に料金の支払いに行って会社が閉まっていることで「市民まつり」を知ったのです。

フィリピンの祭りでは豚の丸焼き・・・レチョンバボイを食べます。
とは言え丸焼きで祝えるのは一部のお金持ちで、ほとんどは業者が焼いて売っているブロックを買うのですが。

この二日間で何頭の豚が食べられたのでしょうか。
河原と言っても日本の穏やかな風景とは違いドブ川の脇の原っぱなのですが、そこで大量の豚が焼かれたのでした。
青竹に串刺しにした豚を横一列に並べ、20頭位を一度に焼いていたのです。
さらに、次に焼かれる豚の串刺しがずらりと立て掛けてあり、その様は少し異様でした。

9月の私の誕生日にレチョンをやったので今回はやる気はまったく無かったのですが、今日もやるんだろうと周りから言われて引くに引けなくなり、クリスマス用に飼っていた豚を潰してしいました。

たかが豚の丸焼きですが、ちゃんとしたレチョンの作り方と言うのはけっこう大変なようです。
まず道具一式と材料を揃える所から始めなければなりません。

例えば、鍋は大きい物が二つ必要で、一つはお湯を湧かして豚の毛を抜く下ごしらえの為の物です。
もう一つは絞めた豚の血を溜め、その後血を煮て固まらせる為の鍋です。

かまどは最低でも3つは必要ですが、メインの豚を焼く場所はかまどとは呼べない大きいものです。

豚をさばく為の道具はたいてい自作されていて、各自が使い勝手を自慢します。
そのなかでも極め付けは豚の頸動脈を切ってなおかつそこからスムーズに血を抜き取る為に使う細長いナイフでしょう。

レチョンを焼くとき、大きな豚だと前日から準備しなければ間に合いません。
下処理が終わり火に架かってしまえばあとはほぼ半日ゆっくり廻し続けるだけの退屈な作業になります。 
焼き手の他に内臓の処理をする人などの裏方も必要です。
内臓の中でも大腸は中身が入っていますので上手に処理をしないと大変な事になります。
あれは腸の中に入っていれば大して臭わないのですが、処理に失敗して空気に触れると途端に臭気を発します。
下手な人が処理して破いた腸はお湯で洗ってもどこか変な匂いがするのは気のせいでしょうか?

レチョンはパリパリの皮が美味しいと言われますが、私の周りの男達が一番好んで食べるのは血を煮たもので、次が内臓の煮物です。
レチョンの皮が美味しいと言われ私も最初はそう思って食べていましたが、今では旨い場所が他に有る事を知ったので、あせって皮を食べる事はしなくなりました。
肉で一番旨いのは後足の前の腹の肉です。
そこはハーブの匂いがしみて最高に旨いのです。

私は今回のフェスタのためにビールを3ケースとスプライトを2ケースとロングネックを3本用意しました。
またスパゲッティーやラザニアやケーキも準備しました。

フェスタの日には大勢のお客さんが来てくれたのですが顔を知っている人は少なく、どんな関係なのか皆目分かりませんでした。

いちいち挨拶するでもなく、にこにこと笑顔でやって来てはさっさと食事をし、顔見知り同士が少し話して帰っていくのです。

先日の誕生日も今回のフェスタも私の役割はお金を出すことだけのようですが、たぶんそれが大切なんだろうと思います。
勝手な思惑ですが、こうして多くの人に顔を知ってもらう事が私の暮らしやすや安全につながるのだと・・・そうでも思わないとやっていられない心境なのです。

 ・・・では また。
 
    ではまた。

   (2002年 11月に書きました)

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南風の便り 9

2020-02-18 12:21:50 | 南風の便り


6月13日か14日だったと思いますが、ドゥマゲッティーから家に電話をした時に仙台も梅雨入りした事を聞きました。
その前日の夕方、タリネス山にかかる雲の流れが少し変わっているのに気が付きました。
風向きが変わるのかなと思ったら翌日から南南東が吹き、ビサヤで言う「ハバガット」が吹きはじめました。

前々から気になっていたのですが、日本の天気が思わしく無い時にはここも良く無いなぁ、と思うのです。
ドゥマゲッティーの天気は仙台でもわかる!!!
若しくは、仙台の天気はドゥマゲッティーでも分かると・・・・?。
いやしかし、笑えませんよこの話しは・・・アジア天気図で見ると意外と近いんですから、フィリピンは。

風向きが変わる数日前から前兆はあって、毎晩強い雨が続いていました。
バケツをひっくり返した程度の雨から、ドラム缶をひっくり返したような強い雨と、はたまた、消防車の放水も真っ青と言うくらい強い雨が長く続いた夜もありました。
そんな時、我が家のトタン屋根は雨粒のドラミングでぐっすり寝込んでいても叩き起こされます。
それでも雨は朝には確実に上がっていて、日中は強い日射しが照りつけ気温は35度を超える事もしばしばです。

毎日客もなく暇なので「マサブロド・ノルテ」に潜りに行きます。
タンクを2~3本持って午後からぶらっと出かけます。
先日は一日中潜って浅場から深場まで、ガイド用のネタ探しと、ばれたら大変だけど、漁師が仕掛けた魚捕りのカゴの撤去をしました。
カゴは枝サンゴの群生の上に落とされていたものと、つぼ海綿に乗っ掛かっていたのを、ちょっとはじっこに移動させたのでした。
ここでも漁師とダイビングポイントの管理者がせめぎあっている様子がうかがえます。
漁師は少しでも禁漁区を狭めようと働きかけ、ポイント管理者はそれに対抗する為にポイントへの入海料やらの料金を上げて、ダイビングが儲かる事を示そうとします。

アポ島も最近はダイバーから金をむしろうとする話ばかりです。
マラタパイのダイビングボートを一手に引き受けているホアンも客が少なくて困っているのか、ボートの値上げをしてきました。
ホアンのボートのペンキが剥げたままになってから久しいですが、彼は船を塗る量のペンキは買えないが、看板なら書き換えられると料金表を書き換えたのでしょう。

アポ島のポールダイバーズは繁昌している様子で、増築をくり返してキャパはますます大きくなっています。
最近ではスーパーキャットの中で見られる映画の合間にCMを流している程です。

小さな島に滞在する人が増えると必ず水の問題が起こります。
水不足と雑廃水の二つの問題です。
島で生れ育った人は少ない水を上手に利用しますが、水道の発達したところから来た人は大量の水を必要とし、廃水も沢山出します。

廃水が原因とは言い切れませんが、私はかなり関係が有ると思っているのがアポ島のサンゴ死滅問題です。
アポ島のエダサンゴがかなりの勢いで死滅していっています。
例えば、サンクチュアリの水深2~3メートルで見事なテーブルサンゴを見て感動した人は多いと思いますが、あれも死にかかっています。
わずかに色の残っている部分も有りますが、ほとんど白化しています。

数年前、海水の異常な高温化で沖縄やフィリピンのボラカイなどでサンゴの白化現象が言われましたが、その時でもアポ島は無事でした。
アポ島では昨年も今年も海水温はさほどの変化は見られません。
それでもサンクチュアリの枝サンゴは急速な勢いで白化しています。
そして気になるのは、白化したサンゴの上に、すぐ堆積物が溜まる事です。
私は知識が無いので本当の原因は分かりませんが、なんとなく、海が死んでいってるなと感じるのです。

とは言え、アポはまだまだ実力有りです。
マムサに2本入って2本とも見事なロウニンアジ会いました。
真っ黒な体にまるで刀傷のような銀色のしま模様が入った、これこそがロウニンアジと言う風格の魚でした。
最初に強い流れに逆らって優々と泳いで来たのが見られ、次は水深が36メートル、いつもハタが潜んでいる棚の中から飛び出したのが見られました。

サンゴやソフトコーラルに関して言えば、サンクチュアリよりもロックポイントやマムサのエントリーしてすぐのサンゴが見事です。
ここいらは白化もなく、活き活きしているのが分かります。

そうそう、ドゥマゲッティーで唯一安心して刺身が食える「ラブ・アス」へ行って鰆(サワラ)の刺身を食べました。
お客さんのおごりなのですが鰆は本マグロのトロ真っ青と言うくらいに脂がのっていました。
SBわさびもきっちりと利いて、いやあ、旨いのなんの、馬鹿ウマでした。
そしてその料金が安いのに驚きでありました。

エアコンの効いた店内と自然の風に吹かれる外のテーブル席が有る店ですが、この約20人は全員店内の席でした。
ラブ・アスは海沿いの店で、食事をしながらセブ島のリロアンの灯や漁り火が見えます。
店内の席ではあまり上手とは言いがたいけれど、ピアノの生演奏が聞けます。

もしも貴方がラブ・アスで食事をするとしたら、どちらの席にしますか?

私は外の席でワインなど片手に漁火を眺める方をお勧めします・・・あっ、虫除けをお忘れなく。

・・・では また。

    ではまた。

(2002年6月20日に書きました)



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