真如堂参拝後、
吉田神社近くにある話題の茂庵でお茶をしようと歩いていると、
陽成天皇 神楽岡東陵を発見。
<陽成天皇 神楽岡東陵>
所在地:京都府京都市左京区浄土寺真如町5-6
陵印:月輪陵墓監区事務所
【陽成天皇】
第57代天皇。
清和天皇第一皇子、母は藤原基経の妹高子。諱は貞明。
藤原良房の邸染殿第に生まれ、3か月にして皇太子となり染殿第で育った。
9歳で清和天皇の譲位を受けて即位し、基経が前代に引き続いて摂政となった。
しかしその後数年にして天皇は乱行多く、881年(元慶5)ころから基経と対立が続いた。
883年には天皇の乳母紀全子の産んだ源益を殺したり、
馬を愛好して宮中でひそかに飼わしめるなどのことがあった。
ここに至って天皇と基経との対立は極に達し、翌年2月天皇は自ら病気を理由に譲位した。
<後一条天皇 菩提樹院陵>
所在地:京都府京都市左京区吉田神楽岡町1-25
陵印:月輪陵墓監区事務所
陽成天皇 神楽岡東陵からすぐ近くにもう一つ天皇陵を発見。
こちらは後一条天皇と第一皇女章子内親王の天皇陵です。
【後一条天皇】
第68代天皇。
一条天皇第2皇子母は藤原道長娘の彰子。諱は敦成。
一条天皇が位を三条天皇に譲る時、皇太子に第1皇子敦康親王を擬そうとしたが、
道長をはばかりその外孫敦成親王を皇太子にたてた。
この敦成親王が1016年(長和5)9歳で即位。
道長が短期間摂政となった後、その男頼通が摂関となり執政した。
この朝において太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮妍子)、
皇后(後一条天皇中宮威子)の三后がともに道長の女で栄華を極めた。
道長が「この世をば我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしと思へば」と詠んだのは、
威子立后の日であった。
【第一皇女章子内親王】
第68代後一条天皇第一皇女。
母は藤原道長女・中宮藤原威子。
第70代後冷泉天皇中宮、女院。
治暦4年(1068)皇太后、その2日後に後冷泉天皇崩御。
延久元年(1069)落飾、太皇太后となり、同6年(1074)院号宣下を受けて以後二条院と称する。