よしだルーム

吉田政勝の文学的な日々

ついに370枚の物語を描く!

2018-09-15 07:01:57 | 日記

★銃太郎とコカトアン(あらすじ)

 明治15年の夏、牧師を断念した鈴木銃太郎と教師を辞した依田勉三は、より困難な開拓農民を志した。開拓地選定の踏査に北海道に渡り、札幌から徒歩で大津村に着いた。そこからアイヌの川舟で、十勝川を上り内陸地に着いた。その広い平原に瞠目し、帯広村を入植地と決めた。 
 そこは、川沿いにアイヌ村があるのみの道路もなく郵便局もない未開地だった。勉三は「晩成社」移民団結成のため伊豆に戻り、銃太郎は一人残って越冬することになる。
 近隣のアイヌたちに山菜や魚をもらい、銃太郎は米や味噌を返した。先に入地した和人の大川宇八郎と親しくなった。大川は半農半商でアイヌと交易し、信頼されていた。大川を通じて、地域を治める酋長やアイヌ青年のタカサレと知り合った。そのタカサレの妹がコカトアンであった。
 暑い日、銃太郎はマラリアに罹患し寝込んでいた。大川やタカサレが、心配して訪ねてきた。それを知ったコカトアンの手厚い看病で、病いは癒えた。銃太郎はコカトアンの優しさに次第に惹かれていった。
 翌年の春に、晩成社移民たち27人が到着した。畑にはまだ野菜はなく、アイヌから山菜を教えてもらい食料とした。
  明治17年の秋に、大津村の和人娘との縁談が、銃太郎に持ちかけられた。それを耳にしたコカトアンの心はゆれ動く。銃太郎は縁談を断わり、気持ちを告白する。
 しかし、父と妹は、先住民族であることを理由に2人の結婚に反対、母も異をとなえた。銃太郎は苦悩し孤立無援の中で周りの人々と折り合いをつけ、ねばり強く結婚の決意を伝え、明治19年婚姻に至った。コカトアンは鈴木常盤と改名した。これは史実にそった物語である。

晩成社にちなんだ「ひとつ鍋」と大平原。わたしの気持ちを託して「おかげさまで」。

墓誌で銃太郎と常盤夫人の年齢差がわかる。常盤さんは夫より10歳若い。 

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