よしだルーム

吉田政勝の文学的な日々

12月12日は「帯広開拓の祖」依田勉三の命日

2014-12-12 09:25:08 | 日記

中島みゆき(歌手)の祖父中島武市氏が勉三像の建造運動に尽くした。禁酒禁煙を断行し、巨額5万円を寄付した。吉田政勝の祖父は中島和一郎で鈴木銃太郎日記に交友ありと記述あるが、武市氏と祖父の中島は血縁あると従兄弟から聞いたが、もしそうなら中島美雪と私は・・・。


依田勉三は、嘉永6年(1853)5月15日、伊豆の大沢の旧家「依田家」の生まれ。
父は第10代善右衛門、母は文。勉三はその3男で、兄弟が11人いた。

勉三は幼いころ両親が亡くなったため、長男の佐二平に養育され、漢学者の叔父土屋宗三郎(三余)が開いていた三余塾で学んだ。

同7年慶応義塾に入り福沢諭吉の薫陶を受けたが、2年後、病気のためやむなく中退した。明治9年、横浜・ワッデルのもとで英語を学ぶ。ここで渡辺勝(晩成社の幹事)と出会った。勉三は兄の創設した豆陽学校(現在の静岡県立下田北高校)の教師となり、勝は教頭となった。
(勉三と晩成社2幹事の出会い・クリックで拡大図に)

やがて勉三は、北海道開拓への憧れ抑えがたく、明治14年ついに単身現地へ渡り、大津の宿で十勝川の上流に農地に適した未開地がある、と聞いて帰郷した。その地こそオベリベリ(帯広)で当時は10戸50人のアイヌコタンがある程度。和人が1戸住んでいた。

翌15年、勝と鈴木銃太郎は「東京一致神学校」で知りあい、勝が銃太郎を北海道開拓に誘った。勉三は銃太郎を連れて再び北海道に渡った。十勝開拓の決意を固め、開墾地をオベリベリに選定し、札幌県庁に「土地貸下げ」の申請を行なった。(銃太郎は越冬した)。そして勉三は帰郷し、晩成社の小作人集めに奔走した。


困難をきわめた十勝開拓

明治16年1月15日、晩成社開拓団26名の出発前夜、依田家では勉三・リク夫妻を囲み、一族による壮行会が催された。(東京の吉沢は後に合流)

こうして27人の小作人一行をひき連れて十勝川上流(現在の帯広市)に辿りついた。さっそく、困難な開墾作業と取り組んだが、最初の年はやっと3町歩の畑ができただけ。
バッタの襲撃、マラリアに感染し、霜害などに見舞われ、食糧にもこと欠く状況だった。
あげくには「故郷へ帰りたい」と脱落者も出る始末。

移住4年目にはオイカマナイ(大樹町晩成)に牧場を開き、育てた牛を函館まで引き連れて、その函館で「牛肉店」を開店した。勉三は病弱なリクと別れ、馬場サヨと再婚した。リクとサヨの嫡男をえたが、いずれも病死した。
 後年は水稲を試作し、水路を設け150町歩の造田にも乗り出した。

だが必死の努力も虚しく、事業としては軌道に乗るものがないままに、勉三は大正11年(1922)中風で倒れ、同14年12月12日歿した。72才だった。


(私が現在編集中の新書サイズの本。文とデザイン編集自らの手による)

 発行を勉三命日に合わせようと努めたが、間に合わなく、先日勉三の墓に(帯広墓地)手を合わせて詫びてきた。遅れた理由は、史実そって描こうと思い、資料の引用に誤謬があり修正があり手間取った。それだけ物語化された勉三伝に誤りが定着しているということか・・・。

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1 コメント

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Unknown (嵯峨山俊幸)
2018-02-23 07:44:13
鈴木銃太郎6月30日命日。臨終間近には、妹の渡辺カネの家に移る。71歳で去る。

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