嶺野氏の投稿記事にはいくつかの誤謬がある。
リクは明治18年に病気療養のために伊豆へ帰郷したが別れてはいない。
明治27年に函館でリクと別れ、2人の子連れのサヨと再婚した。
大正3年に勉三を看病していたサヨが倒れ亡くなる。10月にリクが
伊豆から帯広にきて勉三の看病をする。
勉三の病室で口論になり部屋を出て、リクはそのまま伊豆に帰った。
したがって勉三が亡くなった時「リクは勉三の傍らにいない」という記録が散見される。
本当にリクが最期の勉三を看取るで「正しいのか?」。研究の余地あり~。
リクは勉三の葬儀にやってきて、その後、オイカマナイで暮らし、豊似で暮らし生涯を終えた。
函館でリクの伊豆療養をすすめた勉三。それが別れることになるとは勉三も予測できなかった。
リクは明治18年に病気療養のために伊豆へ帰郷したが別れてはいない。
明治27年に函館でリクと別れ、2人の子連れのサヨと再婚した。
大正3年に勉三を看病していたサヨが倒れ亡くなる。10月にリクが
伊豆から帯広にきて勉三の看病をする。
勉三の病室で口論になり部屋を出て、リクはそのまま伊豆に帰った。
したがって勉三が亡くなった時「リクは勉三の傍らにいない」という記録が散見される。
本当にリクが最期の勉三を看取るで「正しいのか?」。研究の余地あり~。
リクは勉三の葬儀にやってきて、その後、オイカマナイで暮らし、豊似で暮らし生涯を終えた。
函館でリクの伊豆療養をすすめた勉三。それが別れることになるとは勉三も予測できなかった。
リクは伊豆で勤めていた店の若番頭と逃げた・・・、
とか、再婚したとか・・・、それなりに伊豆は
リクにとって居心地悪い古里なのかもしれない。
勉三は「晩成社」の株券集めて、1度きりの配当で
松崎周辺では悪評があったのではないかと想像する。
株主だますつもりがなかったが、事業赤字ばかりであった。気の毒である。開拓の初期は厳しいのである。事業の需要は「遠くにあるせいだ」と思う。
「リエンシタ、セキヌケ」である。
その前年の夏、馬場サヨと勉三は同棲生活に入っている。これは2人の子づれ(トシ・ヨシ)のサヨが、勉三の世話でおしかけた格好だった。
リクと勉三の別れた原因は・・・心臓弱く、厳寒な北海道では体がもたなかった。開拓事業で外出する勉三は妻を1人にして出かけられなくなった。養子の美重を介護役に期待したが、大津に帰ることになり養子解消した。
仕事を使命にする勉三についてゆけなくなったと想像する。勉三自身も半病人でもあった。
萩原実氏は「十勝開拓史」の著者で、勉三礼賛派。ほぼそれを継承したのが、棚瀬善一氏、田所武氏。
一方、晩成社の事実探求派では井上寿氏(編纂した加藤公夫氏)などがいる。この両派はスタンスが違うので、相手をけん制したり批判したりした過去があるらしい。
また、研究者同士、誤謬や引用の誤りもあり異なる見解で対立もありえる。私は相互批評は歓迎だが、妬みや持論のおしつけは遠慮したいので研究者同士の付き合いは避けている。
異論に対しては、謙虚に邪な嫉妬や感情を交えないで
相互批評すればいいのだが。現実に難しければ「適当な距離を置いて、それぞれが論理的に論駁するしかない。
できるだけ多くの資料を把握して、合理的な論を展開すべき。
1つの出典や引用で、優位を主張するのは一知半解であやういと思う。