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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

津波の歴史 15 「貞観津波 中編」 じょうがん

2011-05-15 | Weblog
貞観津波は、平成東日本大震災によく似ているようです。青森、岩手および宮城県北部の三陸沿岸部は度々、大津波の被害にあっています。数十年に一度来襲すると言っても、過言ではありません。
 ところが宮城県南部、男鹿半島の西部から仙台平野そして南に続く福島県浜通りにかけては、「大津波が来襲することはない」とふつう言われ続けてきた。だが貞観津波の記録『日本三代実録』や各地の伝承は、この常識に反するものであった。
 そこではじまったのが、1990年からの発掘トレンチ調査である。まず開始したのが東北大学だが、箕浦幸治氏(東北大学大学院理学研究科教授)は「調査の結果、仙台平野が貞観津波に襲われたことは実証された」と2001年、実に10年前につぎのように記しておられる。

 「仙台平野の海岸部で、最大9mに達する到達波が7~8分間隔で、繰り返し来襲したと推定された。福島県相馬市の海岸にはさらに、規模の大きな津波が来襲した」
 災害制御研究センターの今村文彦氏らとの共同研究の地中分析による、客観的自然科学的な研究成果である。箕浦先生が成果を一般向けに発表したのは2001年、すなわち10年も前に、すでに指摘されていたのです。仙台平野のみならず、福島県浜通り沿岸部も、貞観大津波によって壊滅的な打撃を受けていたのです。
 そして土中のトレンチ調査から、過去3千年間に3度、今回の津波が4千年間で4度目ですが、ほぼ千年に一度、巨大津波が宮城や福島などを襲っていたことが、証明されました。

 箕浦先生は10年前、つぎのように記しておられます。
 伝承や文献記録の内容がすべて真実であるとは限りません。しかしながら、1100年余の時を経て語り継がれた仙台平野での津波災害の発生には、幸運にも、津波の科学的研究を通して、文献と伝承の正当性が実証されました。こうした破壊的な災害には数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです。
 そして「貞観津波の襲来からすでに1100年余の時が経ており、周期性を考慮するならば、仙台湾沖で巨大な津波が発生することが懸念されます」

 残念ながら、この警鐘は聴き届けられなかった。多くの人々にも、東京電力にも。あまりにも無念である。

 次回「貞観津波 後編」は、産業技術総合研究所(産総研)の岡村行信氏が、2009年に経済産業省での委員会で述べられた津波の警告を紹介します。
 ずいぶん長いワーキンググループ名ですが「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG第32回」。議事録を検証する予定です。

○参考書 箕浦幸治「津波災害は繰り返す」 東北大学発行「まなびの杜」第16号 2001年
 なお、全文がネット上に公開されています。
<2011年5月15日>

※日本経済新聞5月28日。東北大学の研究チームは、貞観津波で内陸部に運ばれた砂や貝などの分布状況から、仙台平野での浸水域を分析し、海岸線から約 3.5キロまでと算出した。今回の浸水域は最大で 5キロ。当時の海岸線の確定はむずかしいとは思いますが。貞観地震の大きさは M 8.35と推定。仙台平野海岸部の津波高は、約 7mと算出した。<5月29日追記>

※産業技術総合研究所は、5月22日から開催された日本地球惑星科学連合大会で、貞観津波についての調査結果を報告した。産総研は3カ所での土壌から、津波が運んだ堆積物分布を調べた。仙台市若林区・宮城県山元町・南相馬市。堆積物内植物成分の放射性炭素からの年代測定から、4度の津波襲来を確認した。まず紀元前 390年ころ、西暦430年ころ、869年の貞観地震津波、1500年ころの津波。周期は 450年から 800年になる。<6月11日追記 南浦邦仁>


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津波の歴史 13 「貞観津波 前編」

2011-05-09 | Weblog
平安時代のこと、大津波がいまの宮城県と福島県あたりを襲った。貞観地震津波である。西暦869年7月13日(清和天皇 貞観じょうがん11年5月26日)
 当時の史書『日本三代実録』が記載している。原文と現代語訳は、

 廿六日癸未、陸奥國地大震動、流光如晝隱映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城郭倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不辦其涯涘、原野道路、惣為滄溟、乗船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉(「郭」は土ヘン有り)

 五月二十六日、陸奥の国で大地震が起きた。流光が昼のように光り、人々は叫びたて、立っていることができなかった。ある者は家の下敷きとなり、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬が互いに踏みつけあって走り出し、城郭、倉、門櫓や墻壁が無数に崩れた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧きあがり、川が逆流し津波(海嘯)が長く連なって押し寄せ、たちまち多賀城下に達した。海から数十百里の先まで涯も知れず水となり、野原も道も大海原となった。舟で逃げたり山に避難することができず、城下では千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の資産も、ほとんど何もなくなった。

 『日本三代實録』全50巻は、清和天皇天安2年8月(858)より貞観年代、陽成天皇の元慶、そして光孝天皇仁和3年8月(887)にいたる「天皇三代」30年間の記録である。892年に宇多天皇より勅撰の詔があり、編纂者の任についたのは、菅原道真、藤原時平、大蔵善行、源能有、三統理平の5人。完成なったのは延喜元年8月2日(901)だが、菅原道真は同年正月、同書上奏直前に大宰府へ左遷された。そして2年後に大宰府で逝った。延喜3年2月25日のことである。
 「大宰府での生活は貧しくみじめなもので、道真は健康を害したが、天皇に対する忠誠心は失わなかった。ここで彼は念仏、読経を事とした」享年59歳。(志村有弘編『日本ミステリアス 妖怪・怪奇・妖人事典』勉誠出版2011年)

 道真にとってこの史書は、怨念の書であったであろう。完成なった「三代実録」には編纂者として、ふたりの名しかない。道真を偽りの中傷で辺地に追いやった藤原氏のひとりである時平と、大蔵善行だけである。

 ところで、この記録から仙台平野に平安時代、大津波が襲った事実は知られていた。渡邊偉夫氏は各地に残る伝承を収集し、貞観津波の襲来地域を推定された。(「伝承から地震・津波の実態をどこまで解明できるか 貞観11年869の地震・津波を例として」2001)
 渡邊氏が収集した伝承は、つぎの各地に残っている。
 宮城県 気仙沼市・多賀城市・仙台市・名取市・岩沼市
 福島県 新地町・相馬市・いわき市
 茨城県 北茨城市・高萩市・東海村・ひたちなか市・大洗町・大洋町(鉾田市)
 ※福島第1原発はいまは海面より10m高の平らな地に建っていますが、かつて原発建設工事で高さ30mほどの高地・海岸段丘を削り取ったのです。本来は崖地です。後背地が高い岡のように見えますが、40数年前までは急崖の無住地で、貞観津波も30mの高地には、飛沫しか届かなかったはずです。相馬市といわき市に貞観津波の伝承が残っていますから、両市の間に位置する南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町にも大津波が押し寄せたことでしょう。福島第1は、双葉(5・6号機)と大熊(1~4号機)、両町に隣接立地しています。福島第2は富岡町と楢葉町にまたがっています。

 仙台市宮城野区蒲生在住の飯沼勇義氏(80)は津波に被災し、避難所で暮らしておられるが、郷土史家で著書『仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う』を出版された方です。同書は仙台の宝文堂1995年刊ですが絶版で入手不可。避難所でつぎのように語っておられます。
 「仙台地方は、実は世界のなかでも巨大な津波の常襲地帯なんです。仙台には大きな津波が来ないと思っていた人が多いが、私にとってみれば、来るべきものが来たという思いです」
 飯沼氏は津波研究のために、あえて危険な海岸近くに居住したそうです。
 「仙台の歴史を研究すると、人が住めない、歴史がつながらない空白の時代がいくつもあり、調べると巨大な津波が原因だとわかりました」
 大津波は仙台平野、さらには福島県、茨城県までを過去に何度も襲っている。飯沼氏は貞観地震津波では、ほぼ1万人が犠牲になったであろうと推定されている。
 名取の神社に残る伝承記録には「貞観ノ頃ハ頻リニ疫病流行シ庶民大イニ苦シミ」
 「慶長津波」の後、田畑は10年たっても塩害で農を営めず、名取郡の三村は連名で、仙台藩奉行に年貢の申上状を提出している。
 なおこの本を読みたく調べたのですが、アマゾンも日本の古本屋も京都市内の図書館にもありません。ぜひ復刊をお願いします。

 本日は「貞観津波」<前編>とし、次回は発掘調査が示した傷跡と、津波シミュレーションの研究成果を書こうと思っています。ただ長かった連休が終わり、また日々多忙という渦のなかに放り込まれてしまいました。ぼちぼちやります。
<2011年5月9日 南浦邦仁>
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津波の歴史 10 「列島各地 津波の高さ」

2011-05-03 | Weblog
これまでに日本列島を襲った大津波は、数え切れないほどにあります。観測のはじまった明治以降はデータや記録が残っていますが、江戸時代以前は文書などに記された文献のみ。また地震津波考古学が古い痕跡を、発掘で証明しているのが自然科学的貢献です。各地のデータがどんどん蓄積されることが、沿岸部住民の安全のために重要だと思います。日本全国「津波の高さマップ」ができればいいのだが、と思っています。1枚ものの日本地図の海岸部に、過去の津波の高さを記入するのです。
 なお注意すべきは、いくら大きな津波が到来しても、無住地や過疎の地域は、文献に記載されることがまずないということです。現代では、そのようなかつての僻地や湿地帯も開発され、たくさんの住民が暮らしています。しかしどこであろうが、海岸部の低地は、被災の歴史的記録がなくとも「津波てんでんこ」を忘れないようにしなければ。
 今回は「津波の歴史 10」とし、過去に日本列島を襲った大津波の各地の高さ、原則 5m以上の記録を並べてみました。波高はおもに『日本被害津波総覧』第2版 渡部偉夫著 東京大学出版会 1998年を参考にしました。なお 3月11日の高さデータは、さまざまの情報を寄せ集めています。

追記:津波の高さにつきまして、修正版を作成しました。
「日本列島襲来津波高記録 新版」(津波の歴史 29)、2012年1月12日。こちらもご覧ください。


<宝永津波> 宝永4年10月4日 1707 「五畿七道大地震」
 津波が伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大であった。死者は2万人以上。家屋倒壊流出6万、紀伊半島などの波高は10mに達した。土佐の津波被害が最大。遠州灘沖および紀伊半島沖でふたつの巨大地震が、同時に起こった可能性が強いといわれています。
「東京都」 八丈小島6m
「静岡県」 下田6m 湊5m 八木沢8~10m 内浦5.5~6m 三保5m 相良6~8m 白須賀5m
「三重県」 大湊5m 国府7~8m 神津佐5m 五ヶ所浦5m 贄浦7~8m 村上7~8m 神前浦7m 古和浦7m 錦6m 長島5m 須賀利5m 尾鷲8~10m 矢ノ浜6~7m 九木5~6m 賀田8~9m 曽根5m 新鹿8~10m 大泊6m
「和歌山県」 勝浦6~7m 古座5m 串本5~6m 田並5m 和深5m 江住5m 周参味5.5m 新庄6~7m 南部6m 印南5.8~6.3m 比井5m 由良5~6m 広5~6m 湯浅5m 海南5m
(参考:大阪市3m 尼崎市1.5m)
「徳島県」 牟岐6m 朝川6~7m 宍喰5m
「高知県」 甲浦5m 佐喜浜5m 室戸5.5m 安芸5m 岸本6m 由岐~浦戸5.8m 浦戸6m 宇佐8m 宇佐~下川口7.7m 須崎6m 久礼6m 上ノ加江5m 佐賀6m 下ノ加江5m 
「鹿児島県」 種子島6m

<八重山津波> 明和8年3月10日 1771 「先島諸島地震」
 八重山・宮古諸島に巨大津波が襲来し、石垣島宮良で波高85.4m、同島白保では60mに達したと記録されている。石垣島では住民の約半数の8300人が溺死。宮古諸島では2500人が水死。総死者は1万2千人にのぼったという記録がある。波高については学者間で意見がわかれるようです。あまりに高い数字は、遡上高ではないかと思います。いずれにしろ日本列島で記録された最高の波高です。
宮古島20m弱 
下地島15m前後 
伊良部島 佐和田18m 仲地10m 伊良部8m
池間島10m
多良間島20m弱
水納島10m以上
石垣島 東岸北端浦崎約30m 東岸中部15m以上 東部南部30m弱 東岸南西部10m 西岸6m
 (※宮良村85.4m 白保村60m 安良村56.4m 野原崎46.7m 大浜村44.2m 嘉良岳39.8m 伊原間村32.7m 玉取崎32.1m 平得村26m 真栄里村19.4m 登野城村12.2m 仲興銘村10.7m)
西表島 東岸5m
波照間島18m以上
竹富島5m
黒島10m以上

<安政東海津波> 安政1年11月4日 1854 「東海・東山・南海道地震」
 津波が房総から土佐の海岸を襲った。沼津から伊勢湾にかけての海岸被害が特にひどかった。伊豆下田では地震の1時間後に襲来して多数の家屋が流失したほか、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が大破。全体の死者は2千~3千人。住居の倒壊流失焼失は約3万と推定される。震源域が駿河湾深くまでまで入り込んでいた可能性があり、現在すでに100年以上経過しており、次の東海地震の発生、そして浜岡原発事故が心配されている。
「静岡県」 熱海市熱海6.2m/東伊豆町稲取5.4m/下田市下田6.8m/南伊豆町手石6.4m 入間13.2~16.5m 妻良6.5m/戸田村大浦5.1m/沼津市立保5m 重須6.7m 多比7.2m/清水市入江5.7m 三保5.2m/榛原町榛原5.2m/相良町相良5m 地頭方6.2m/浜岡町(注:中部電力浜岡原発)荒井6m 塩原新田6~7m/新居町大倉戸6m/舞阪市舞阪5.6m 本浦5.6m
「三重県」 鳥羽市堅神6m 鳥羽5.2m 安楽島7.8m 今浦5.8m 国崎21.1m/阿児町甲賀5m/大王町名田6m 波切5m 船越5m/志摩町和具7.9m 越賀10.9m/浜島町南張5.4m/南勢町田曽5m 神津佐5.7m 礫浦5m 相賀5m/南島町阿曽浦5m 慥柄6.9m 贄浦10.8m 神前浦6m 方座5m 古和浦6m/紀勢町錦7.3m/尾鷲市尾鷲6~8m 九木7.8m 早田9.3m 三木里5.5m 賀田7~9.6m 新鹿10m 大泊6m 二本島8m 曾根6.4m 梶賀5.5m
「和歌山県」 勝浦町勝浦6m 古座川町古座5.5m

<安政南海津波> 安政1年11月5日 1854 「畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道地震」
 前日に続いて32時間後、日本列島西南部に大地震「安政南海地震」が発生した。大津波は房総から九州まで襲来。死者は数千と推定されている。
また翌年10月2日には「安政江戸地震」が起き、津波はなかったが死者約1万という。大地震は続いて何度も発生することがある。現在の日本も地震活発期に入ったといわれている。貞観のころも活発であった。
「和歌山県」 古座川町古座川口7.5m 田原5.5m 袋6.5~7m 有田5m 江田5m 和深5m 江住5m 周参見5m 跡之浦5.5m 新庄6m 芳養5.5m/南部町植田5m 千鹿ノ浦6~6.5m 東岩代6.2m/御坊市南塩屋6m/印南町切目6m 印南6.6m/美浜町西川流域5m 三尾8.7m/日高町小浦5.4m 津久野浦5m/由良町7.5m/広村田町5m 
(参考:大阪市3m 尼崎市2.5m) 
「徳島県」 由岐町7m/牟岐町6m/海南市浅川7m/宍喰町5m
「高知県」 東洋町甲浦5m/安芸市5m/夜須町手結5m 高知市浦戸5m/上佐市宇佐8m/須崎市須崎5m/中土佐町久礼5.2m/佐賀町伊田7.5m/大方町上川口7.5m/大方町鞭6.4m/土佐清水市広域5~5.6m(下ノ加江 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)

<明治三陸津波> 明治29年6月15日 1896 「明治三陸沖地震」
 三陸地方地上の震度は3程度だったが、大津波が来襲した。津波地震だが、弱い揺れに油断したのが、大被害を招いたといわれている。2万人以上の住民が、ほとんど一瞬のうちに波に呑み込まれ命を失った。死者は、岩手県18158、宮城県3452、青森県343人。
「青森県」 階上村小船渡6m
「岩手県」 種市町川尻12m大浜 12m 八木10.7m 小子内20m/久慈市麦生26m 湊15.7m 二子23m 大尻23m 小袖13.7m 久喜12.2m/野田村玉川18.3m 堀内12.9m/普代村普代15.2m 黒崎18.1m/田野畑村羅賀25.8~29.1m 島ノ越17~23.6m/岩泉町小本5.4~8.2m 下小成20.4m/田老町小林12.9m 乙部8.5m/宮古市白浜8.5m 磯鶏6.1m 堀内12.2m 音部9.2m 千鶏17.1m 姉吉18.3m/山田町本町5.5m 田浜9.2m 船越10.5m/大槌町浪板10.7m 吉里10.7m/釜石市両国11.6m 釜石港5.4m 唐丹本郷14m 小白浜17.1m/三陸町吉浜24.4m 越喜米湾浦浜11.2~13.4m 甫峯15.3m 小石浜17.1m 砂子浜10.9m 崎浜15.7m 白浜38.2m 湊10.7m/大船渡市下船渡5.5m 細浦6.7m 末崎鴨巻13.8m 泊里11.1m 石浜12.8m/陸前高田市小友唯出10.7m 広田泊7.6m 集26.7m
「宮城県」 唐桑町只越8.5m 石浜8.5m 小鯖7.5m 舞根5.9m 大沢6.4m/本吉町大沢8.2m 大谷5.2m/歌津町石浜14.3m 名足9.4m 中山10.8m/志津川町藤浜5.2m 寺浜6.8m/北上町大指5.2m 小泊6.2m/雄勝町荒8.8m
 ※遡上波高: 大船渡市綾里38.2m 陸前高田市28.7m

<関東大震災> 大正12年9月1日 1923
 死者行方不明者は14万2807人。津波も沿岸を襲った。
「千葉県」 洲崎8.1m 相浜9m 布良6m
「東京都」 伊豆大島岡田12m
「神奈川県」 三崎6m 葉山5.4m 鎌倉6m 稲村ヶ崎6m 片瀬6m 江ノ島5m 鵠沼6m 岩村6m 真鶴6m
「静岡県」 熱海12m 下多賀7.2m 網代8m 宇佐美端村7.5m 伊東9m 川名6m 稲取南6m

<昭和三陸津波> 昭和8年3月3日 1933
 地震の被害は小さかったが、津波被害が甚大であった。三陸沿岸の死者行方不明者3064人。家屋流失4034、家屋倒壊焼失浸水6051、船舶流失沈没破損8078.
「北海道」 広尾町タンケソ6m/襟裳町咲梅6m ドンドン岩9.1m トセップ9.1m ルーラン5m
「青森県」 階上村大蛇6m 追越6m
「岩手県」 種市町川尻7m 大浜7m 八木6m 小子内6.6m 中野7m/久慈市侍浜村10m 麦生6.6m 大尻6.5m 二子6.5m 小袖8.2m 久喜5.5m/野田村玉川5.8m/普代村堀内9.1m 大田部13m 普代11.5m/田野畑村明戸16.9m 羅賀13m 平井賀8.2m 鳥ノ越9.7m/岩泉町小本村小本13m 茂師17m 下小成15.4m/田老町田老村下摂侍7m 乙部7.6m 山老10.1m 小林9.8m 舘ヶ森8m 青砂里5.6m 樫内7m/宮古市崎山村女遊戸7.5m 重茂村音部7.6m 里10.9m 千鶏13.6m 石浜12m 姉吉12.4m/山田町大沢6m/船越村船越6m 田浜6m 吉里6m 浪板5.5m/釜石市鵜住居村室浜5.2m 片岸5.4m 両石6.4m/釜石市釜石町釜石5.2m/唐丹村花露辺8.3m 小白浜6m 本郷6m 荒川7.8m/三陸町吉浜村根白6.1m 本郷9m/三陸町越喜来村浦浜5.6m 崎浜7.8m 浦嶺8.2m 砂子浜7.9m/三陸町綾里村小石浜13.6m 白浜23m 綾里大久保28.7m(※最大の遡上波高 ) 石浜9m 田浜7.7m/大船渡市赤崎村合足7.3m/末崎村舟河原8.9m 門ノ浜6.5m 泊里5.7m/陸前高田市広田村根崎集11.2m「宮城県」 唐桑村只越7m 石浜5.6m/本吉町小泉村歳内7.5m/歌津町歌津村田ノ浦5.4m 石浜7.6m 中山6.1m 馬場6.7m/雄勝町十五浜町荒10m/牡鹿町大原村大谷川5.2m
(参考「福島県」相馬市磯部町1.5m/浪江町請戸村1.5m/富岡町富岡1.2m/広野町久之浜町1.5m/いわき市豊間村1.2m 江名村中之作1.2m)

<東日本大津波> 2011年3月11日
 これまで原則 5m以上を記載しましたが以下、未満もいくらか記しました。これからも数字は続々と発表されます。
 ところで、死者行方不明者は25731人。うち行方不明者は、いまだに10969名(5月1日現在)
「青森県」 八戸港6.2m 八戸港周辺8.4m 八戸白浜海水浴場8.8m/階上町大蛇漁港10.7m/おいらせ町深沢地区8.8m/三沢市三沢漁港7.4m
「岩手県」 久慈港8.6m 宮古16m 釜石9.3m 釜石港9.3m 大船渡11.8m 大船渡港9.5m 陸前高田市民体育館15.8m
 ※遡上波高:宮古市姉吉38.9m(下記 40.5m) 宮古市田老小堀内37.9m 田老和野35.2m 田老青野滝34.8m 宮古市松月31.4m 真崎30.8m/田野畑村羅賀地区27.8m 田野畑村島越27.6m/大船渡市綾里30.1m/野田村37.8m/陸前高田市高田町18.9m/大槌町役場付近11.8m
「宮城県」 女川漁港14.8m 女川町18.3m 女川原発14m 石巻市鮎川8.6m 石巻市15.4m 石巻港5m 仙台港7.2m 仙台新港8m 仙台塩釜港14.4m 仙台空港周辺12m(遡上高:女川町34.7m)
 
「福島県」 相馬港9.3m 福島第1原発14~15m 福島第2原発6.5~14m「茨城県」 平潟7.2m 磯原4.8m 日立4.2m 大洗4.5m 鹿島港5.7m
「千葉県」 銚子3m 外川5.3m 飯岡7.6m 旭市7.6m 太東4.2m 勝浦2.2m 根本2.6m
(参考1m以上 苫小牧2.5 根室2.8 釧路2.1 十勝2.8 東京1.3 横浜1.6 御前崎1.4 名古屋1 那智勝浦1.3 土佐清水1.3 宮崎1.6)
<2011年5月3日 南浦邦仁 記 3・11の津波高はその後も追記しています
<3月11日の津波高について、「津波の歴史23 3月11日津波の高さ」で続報しました。6月19日記。ご参考まで>

 ※日本経済新聞5月28日が、広島大学の調査結果(27日に日本地球惑星科学連合大会で発表)を報じました。
 調査方法は、震災後の衛星写真をもとに、撮影された砂や瓦礫などが漂着した地域を、国土地理院の測量データと照合し、津波の到達した高さを計算した。以下、各福島県下各地の遡上高は推定値。
 大熊町 22m
 双葉町 15m
 富岡町・楢葉町 13m
 南相馬市 18.5m
 浪江町 11m <5月29日追記>

 ※遡上高最高記録。アサヒ・コム5月30日によると、全国津波合同調査チーム(京都大学防災研究所・森信人准教授ほか)は、宮古市重茂姉吉地区で、40.5mと発表した。海岸から520m奥の斜面を、津波は駆けのぼっていた。<5月31日追記 南浦邦仁>
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津波の歴史 1 「日本列島 津波史」

2011-04-16 | Weblog
日本最古の地震記録は、允恭5年(西暦416年)河内国地震です。以降、江戸時代末期までの約1450年間、地震被害記録は262件にのぼるそうです。
「地震史」を取り上げると、膨大な記述になってしまいます。今回は古代から現代まで、甚大な被害を及ぼした日本列島の「津波」記録ダイジェストを試作してみました。本日を連載「津波史」第1回とし、第2回以降は先月「3月11日の大津波」を取り上げようと思っています。

 なお参考図書は、『日本の自然災害』(力武常次・竹田厚監修 国会資料編纂会発行 2003年改訂版)。同書記載には「歴史的にみると、日本のほとんどの海岸が津波に襲われているが、津波襲来が特に多いのは東北地方の三陸沿岸で、地形の関係もあって波高が異常に高くなり、多数の犠牲者を出す場合がある。また、相模トラフや駿河―南海トラフで発生する M 8 級の大地震も津波を伴うケースが多く、房総から紀伊半島にかけての沿岸、四国の太平洋沿岸地帯で大きな津波被害を受けることがある」

 同書監修者のおひとり、東大名誉教授の力武常次先生は、地震予知を人類の平安のために徹底して研究された方です。確度の高い予知が困難な大地震ですが、先生の本を読んでいますと、決して不可能ではないと感じます。いつかこのブログで、地震予知についても触れたいと思ったりしています。以下、日本列島を襲った津波の歴史年表です。


西暦416年 允恭5年7月14日 「河内国地震」 日本最古の地震記録。『日本書紀』に記されている。津波の記事はないが参考まで。

684 天武13年10月14日 「白鳳地震」 近畿から四国にかけて推定 M 8.3 ほどの地震があり、死傷多数。津波が襲来して土佐で船の沈没が続出。1200ヘクタール余の田園が沈下して海になった。最古の津波記録。

800 延暦19年3月14日 「富士山噴火」 富士山が大噴火を起こし、足柄路が降灰砂に埋没したため、あらたに箱根路を開いた。津波は起きていないが、富士山の初噴火記録として参考まで。

850 嘉祥3年 「出羽国地震」 海水が国府から6里のところまで迫った。

863 貞観5年6月17日 「越中・越後国地震」 直江津付近にあった数個の小島が壊滅。

869 貞観11年5月26日 「三陸地方地震・津波」 沿岸各地に津波が襲来し、多賀城下では溺死者1000人。三陸沖を震源とする推定 M 8.3 程度の巨大地震。

887 仁和3年7月30日 「五畿七道地震」 北海道と東北を除く日本全国にわたって大地震が発生。摂津では津波による被害が大きく、溺死者多数。推定 M 8.5。

1096 永長1年11月24日 「機内・東海道地震」 津波が伊勢・駿河を襲い被害甚大。遠州灘沖を震源とする巨大地震で推定 M 8.5。

1361 正平16年6月24日 「畿内・土佐・阿波国地震」 津波が土佐・阿波・摂津の沿岸を襲い、阿波由岐湊では家屋1700が流失、流死60余。難波浦で漁師数百人が溺死。推定 M 8.5か。

1408 応永14年12月14日 「紀伊・伊勢国地震」 紀伊・伊勢・鎌倉に津波が襲来したという。

1433 永亨5年9月16日 「関東南部地震」 利根川の水が逆流したと記録され、津波の発生が推定される。

1498 明応7年8月25日 「東海道各地地震」 伊勢・志摩で波高が6~10㍍に達し、1万人が溺死。伊勢大湊で家屋流失1000、溺死5000。静岡県志太郡で流死2万余。鎌倉では波が八幡宮参道に入り、200人が流死。浜名湖では湖と海との間の砂洲が切れて、湖が海に通じる。津波溺死者数は数万人と思われる。

1520 永正17年3月7日 「紀伊・京都地震」 津波によって南紀の民家が流失。被害規模不明。

1596 慶長1年閏7月12日 「大分地方地震」 大津波が襲来して別府湾沿岸に被害を与え、大分とその周辺ではほとんどの家屋が流失。湾内にあった瓜生島は80%が陥没し、住民700人が死亡。死者総数は不明。

1605 慶長9年12月16日 「東海・南海・西海道地震/慶長地震」 津波が犬吠埼から九州にいたる太平洋沿岸に襲来して大きな被害があった。浜名湖近くの橋本では100戸中80戸が流され死者多数。伊勢の沿岸各地では地震後数百㍍まで潮が引き、約2時間後に津波が襲来。高さは4~5㍍。紀伊西岸広村で1700戸中700戸が流失。阿波国鞆浦で波高10~30㍍と記録されているが、死者200余。同宍喰で波高6㍍、死者1500余。室戸岬付近で死者約400。推定死者数万。

1611 慶長16年10月28日 「三陸・北海道東岸地震」 陸中小谷鳥(現・山田町)で波高15~25㍍。南部津軽で人馬死3300余。伊達領内で死者1783。三陸沿岸で家屋の流失多数、海水が阿武隈川を遡上し陸前岩沼周辺で家屋が多数流失した。

1640 寛永17年6月13日 「北海道駒ケ岳噴火・地震」 駒ケ岳が大噴火し、火砕流とともに山頂崩壊による泥流が発生して内海湾(噴火湾)に流れ込み津波が発生した。津波は津軽海峡や十勝にも押し寄せ、溺死者700余。昆布取りの船100余が流された。原因は地震だけではなく、火山の噴火による津波もある。

1677 延宝5年10月9日 「磐城・房総地震」 津波のために磐城領で家屋倒壊流失約550、死者130余。水戸領で倒壊189、溺死36。房総で溺死約250、奥州岩沼領で死者123。波高は外房4~8m。

1703 元禄16年11月23日 「江戸・関東地震」 地震後に津波が銚子から伊豆半島にかけて襲来。特に南房総の被害が大きく死者約4000。総死者は約5200、家屋倒壊流失二万戸。波高は房総南部や伊豆大島で10m。

1707 宝永4年10月4日 「五畿七道大地震」 津波が伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大。少なくとも死者2万、家屋倒壊流失6万。紀伊半島東岸波高8~10m。

1741 寛保1年7月19日 「日本海沿岸各地津波」 北海道渡島半島西岸から津軽・佐渡地方に津波が襲来。渡島半島西岸で波高8~15m、死者1467、家屋損壊729、船の破損1521。波高は津軽西岸で4~8m。津波は能登・若狭から朝鮮半島東岸にも達し、被害を与えた。

1771 明和8年3月10日 「八重山地震津波/先島諸島地震」 八重山・宮古諸島に巨大津波が襲来して、石垣島宮良では波高が85.4m、同白保では60mに達し、同島では住民の約半数の8300人が溺死。宮古諸島では2500人が溺死。総死者は1万2千人にのぼったと記録されている。

1792 寛政4年1月~4月 「雲仙岳噴火地震/島原大変」 普賢岳噴火から始まった溶岩流出、火砕流、山崩れ。海に流れ込んだ大量の土砂と岩石は、島原湾や有明海に9㍍の大津波を引き起こした。噴火・地震・津波が重なった大災害となり、死者は島原で約1万人、対岸の肥後で約5000人。別名「島原大変・肥後迷惑事件」ともいう。

1833 天保4年10月26日 「越後・出羽地震」 津波が庄内地方から佐渡、能登輪島、隠岐島さらには北海道の渡島半島南部の福山にまで及んだ。家屋の倒壊流失数千、死者総数不明。

1835 天保6年6月25日 「東北地方東部地震」 仙台湾にも津波が襲来。数百の民家が流失、溺死者多数というが、詳細は不明。

1854 安政1年11月4日 「東海・東山・南海道地震/安政東海地震」 津波が房総から土佐の海岸を襲い、伊豆下田では地震の約1時間後に襲来して多数の家屋が流失したほか、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が大破。全体の死者は2000~3000、住家の倒壊流失焼失は約3万と推定される。推定 M 8.4。波高は熊野灘岸6~10m、駿河湾奥6~7m。

1854 安政1年11月5日 「畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道地震/安政南海地震」 上記大地震の翌日、再び日本列島西南部に大地震が発生。大津波は房総から九州まで襲来。波高は紀伊半島串本で15㍍、土佐久礼で16㍍、牟岐9㍍。和歌山領だけで家屋全壊破損1万8000、死者約700。全体の死者は数千と推定される。地震と津波被害の区別は困難 M 8.4 級か。
 参考までに、翌年10月2日「安政江戸地震」では、死者約1万、大火災のために倒壊焼失家屋2万近いと思われる。津波はなかったが、幕末の安政年間は実に不安不穏であった。

1896 明治29年6月15日 「三陸沖地震/明治三陸地震津波」 三陸沿岸地上の震度は3程度だったが、地震後約35分で大津波が来襲。波高は20㍍以上に達した。綾里湾奥で最高38.2m、吉浜24.4m、重茂18.9m、田老14.6mが確認されている。2万人以上にのぼる人たちがほとんど一瞬のうちに波に呑まれて命を落とした。全半壊流失家屋1万以上。津波によるMは8.5と推定される。

1923 大正12年9月1日 「関東大震災」 死者行方不明者14万2807人。津波は熱海12m、三崎6m、洲崎8.1m。鎌倉で海水浴客多数が溺死。

1933 昭和8年3月3日 「昭和三陸地震津波」 地震の被害は少なく、津波被害が甚大。三陸沿岸の死者行方不明者3064、家屋流失4034、家屋倒壊焼失浸水6051、船舶流失沈没破損8078隻。波高は綾里村白浜23m、田老10.1m。「岩手県下閉伊郡田老村(現・田老町)の場合は500余戸のうち、高所にある10戸余りを残しただけで、死者行方不明者1000人を数え、特に田老地区では戸数362のところ358軒が流失、住民1798人中763人が死亡するという、ほとんど全滅に近い状態になった」

1944 昭和19年12月7日 「東南海地震」 熊野灘を震源とする地震。津波はハワイやカリフォルニア、南米沿岸にも到達。熊野灘沿岸で波高8~10m、溺死者多数。

1960 昭和35年5月 「チリ地震津波」 はるかかなたの南米チリで起きた地震M9.5により、22時間後に日本の太平洋沿岸各地に大津波が襲来して、三陸沿岸を中心に甚大な被害を与えた。波高は三陸沿岸で5~6m。全国の被害合計は死者行方不明者142(内沖縄3)、負傷者872、家屋全壊流失3830、半壊2183、浸水3万。津波の時速は600㎞以上。ハワイでも死者61人。当然だが、同地も日本列島でも有感地震はなかった。
 チリ M 9.5とされ、20世紀最大の地震。同国での死者は約2000人。巨大なマグニチュードが、必ずしも正比例的に被害を増幅する訳でもないようだ。

1983 昭和58年5月26日 「日本海中部地震」 秋田県北部海岸で特に波高が高く(峰浜村11~14m)、男鹿半島で遠足の学童など100人が死亡。津波は韓国にまで及んだ。

1993 平成5年7月12日 「北海道南西沖地震」 波高は奥尻島西岸で特に高く(藻内12.4m、青苗11m)、同島の死者198人の大半は津波による。

<2011年4月16日 南浦邦仁>
※今回の連載タイトルは本来「< 3・11 日本 > №7 津波の歴史 1」でした。その後、「津波の歴史○」に変更。
 本日改題し< 3・11 日本 >を消し、<津波の歴史>に1本化します。5月17日。
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京出町「餃子の王将」

2010-07-15 | Weblog
 出町の餃子の王将。以前に書きましたが、いい店です。フランチャイズの店主は井上定博さん。ところが突然、先週の月曜日から店は臨時休業でした。玄関ドア張り紙に、「店主入院のためしばらく休業いたします」
 常連客はみな心配していました。そして今日、店に井上さんの姿がみえました。10数日ぶりのことです。
 「どうしたのですか?」と聞くと、
 「実は店の中で、夜なかに肩を骨折してしまって…」
 まだ痛く、完治していないのに、明日から店を開くといわれる。心配ですが、エールを送ります。

 以前に書いた王将出町店のブログ「島耕作の皿洗い」
 http://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/8b6f225dfa4afdccf410ccb5f2dccb1c

 とりあえず、心配していたみなさん、よかったですね。ただ井上さんはまだ完治していないようです。ぜひ応援に行ってくださいね。
<2010年7月15日>
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6歳の6月6日

2010-06-06 | Weblog
当然ですが、今日は6月6日。昔から習い事はじめの日とし、6歳の幼児たちがたくさん、親に連れられ、お師匠さんの玄関をくぐりました。祇園など花街の女の子は、この日からたいてい舞、踊りの稽古けいこをつけてもらいます。ただ数え6歳は幼すぎる。現在の満4歳か5歳です。
 
 六歳の六月六日。正式に入門するのやのうて、遊びみたいにして、御師匠(おっしょ)さんの家に伺うと「ほな、ちょっと、おさらいしてみまひょか」という具合どした。
 
 祇園に生まれ育ち、舞妓そして芸妓の道を長年歩んだおばあさんの、思いで語りです。気に入った話なのでノートにメモしていたのですが、どなたが何に記されていたのか、わからなくなってしまいました。すみません。いつか確認します。
 
 東京浅草の下町に育った沢村貞子さんは、
 「六才の六月六日に、芸事のお稽古を始めればきっと上達すると、いうのは、下町だけの言い伝えだったのだろうか。/浅草では、表通りの金持ちの呉服屋も、裏街のその日暮しの職人も、自分の娘がその年になると、それぞれ、踊りや三味線のお師匠さんのところへ連れて行った。きまりの<おひざつき>入門料を、ちゃんと包んで……。/子供たちは、小さな膝にのりきらない三味線に、身体からだごと、よりかかるようにもたれて「ヨーイーヤーマーチー」(宵は待ち…)などと、意味もわからず口ずさみ、踊り舞台の上で、お師匠さんにうしろから抱かれて、しなをつくり、首をふって、藤娘の真似ごとをしていた」<私の浅草>
 
 京も江戸・東京も同じでした。しかしなぜ親たちは、乏しい財布のなかから、やりくりしてでも幼児に遊芸を習わせたのか? 沢村さんは、
 この娘が嫁に行っても、亭主に死に別れるかもしれない。また相手がひどい浮気者で、捨てられるかもしれない。そんなときに、女ひとりが身をたててゆくためには…。いまからせっせと習わせておけば、踊りや三味線の師匠にもなれる。それとも芸者になるにしても、芸が達者なら分ぶがいいだろう…
 
 明治から戦前まで、尋常小学校入学は数え7歳でした。その前年のしきたりです。なぜ6歳なのか? 作家住井すゑは、1年生のとき、ふたりの姉のみよう見まねで編み物をはじめる。彼女の師匠は、姉だったのです。明治41年1908、7歳のころでした。
 そして編み物は、住井にとって一生の趣味になります。大作『橋のない川』の主人公、畑中孝二の祖母は「ぬい」、母の名は「ふで」。縫いと筆、住井自身を象徴しています。
 
 司馬江漢は六歳にして雀の絵を描き、画にたけた伯父に見せたといいます。最初の画の師匠は、伯父だったのでしょう。
 
 美人画の上村松園は京都四条で生まれ育ちましたが、小学校に上がるころ、本好きの母が貸本屋から借りた「馬琴の著書など多くて、里見八犬伝とか水滸伝だとか弓張月とかの本、なかでも北斎の挿絵がすきで、同じ絵を一日中ながめていたり、模写したりしたもので…」<青眉抄>。幼い松園さんは、北斎を師とした独習でした。
 
 作曲家のショパンは今年が生誕200年だそうですが、6歳にしてピアノの師匠につき、翌7歳ではじめて作曲。楽譜がまだ書けぬので、ショパンが弾く曲を、師が譜面におとしたといいます。
 
 どうも数え6歳か7歳のころ、人間はやっと芸事、習い事を受け入れる歳になるのかもしれません。男女を問わず。
 
 さて江戸時代の画家・伊藤若冲ですが、58歳のときに黄檗山万福寺に住持の伯旬を訪ねます(旬は略字で、左に王がつきます)。和尚が若冲に与えた書には「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」
 若冲が画を習い始めたのは、ふつう20歳代後半からとされています。果たしてそうでしょうか。この「五十年」から差し引くと、8歳ほどからということになります。
 やはり若冲も、六歳六月六日に、狩野派の画師に入門したのではなかろうか。そのように思えてなりません。
<2010年6月6日>
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石峰寺過去帳 <若冲連載49>

2009-11-29 | Weblog
 ところで若冲の過去帳のことは、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺のものがよく知られているが、石峰寺にも新旧二冊がある。古い冊には、寛政十一歳次己未初冬再[改]之と記されている。若冲没の前年である。十日の欄に「壽八十八歳/寛政十二庚申/斗米翁若沖[居]士/九月入祠堂」とある。なお[改]と[居]字は旧字。
 若冲の命日には、十日と八日の二説があるが、彼が住み土葬された石峰寺、また前年に新帳なった過去帳の記載であることをみても、やはり十日に入寂したに違いない。なお当時の住持は、密山和尚である。「八十八歳」は若冲が最晩年に度々、款記している。
 新冊には「昭和二十四巳丑年九月再改/百丈十二代龍潭誌」と記され、「寛政十二/斗米翁若沖[居]士/庚申九月/十日/八十八才/長澤ゆき」と書かれている。これまで、長澤ゆきという女性について語られることが、ほとんどなかった。不思議な女性である。彼女はかつて同居していた妹か妻らしき、心寂あるいは眞寂であろうか。寺にはもう一冊、この記載のもとになった古い過去帳があったはずである。しかし石峰寺は昭和五十四年に再度の火難に遭い、本堂を焼失した。たぶんその時に、失われたのであろう。
 ところで若冲の妹であるが、いたとする証拠は、平賀白山の記述以外、何も残っていない。若冲は二十三歳のときに父を喪っている。そのとき母は三十九歳であった。この翌年に妹が生まれていたと仮定すれば、年齢は若冲よりも二十四歳若いということになる。しかし蕉斎平賀白山が石峰寺に若冲を訪ねたとき、若冲七十九歳であった。妹は五十五歳以上の年齢である。彼女に小さな子がいるのは不思議だ。清房は五歳であった。
 長澤という姓であるが、若冲が生きた時代を追ってみて、ただひとりだけ、気になる同姓の人物がいる。画家の長沢芦雪である。『平安人物誌』天明二年(一七八二)版に名がある。「長澤/字/御幸町御池下ル町/長沢芦雪」と記されている。正確に書けば長澤蘆雪であろうが、ゆきとの関係は一切、不明である。芦雪は若冲より三十八歳年少であったが、寛政十一年(一七九九)、若冲没の前年にわずか四十六歳で急逝する。法名は南舟院澤誉長山蘆雪居士。本名は上杉政勝、幼名を魚といったようである。

 石峰寺過去帳の記載をみて思うのは、まず「斗米翁」であるが、若冲は斗米庵、米斗翁と書くのを常とした。また若冲の「冲」字であるが、墓も過去帳もともにサンズイを使っている。石峰寺墓表は「斗米菴若沖[居」士墓]とサンズイであり、若冲生前に相国寺に建てた墓碑・寿蔵も同様である。ニスイとサンズイの考察も面白いテーマだがいまは措いて、結論だけをいえば、冲は沖の俗字である。この世の俗を離れて、正すなわち聖に帰ったということであろうか。仲字なども散見するが、それらはいずれも誤記である。それから相国寺と石峰寺の墓石の筆跡は、まったく同じ大典筆である。
 なお「若中」印の作品がこれまで2点発見された。驚くべきことに、いずれも真筆である。中字の画、売茶翁を描いた一幅はいま信楽のミホミュージアムに展示されている。彼は若冲を名乗る前、おそらく三十歳代前半の一時期、最初は「若中」と称したようである。多分、売茶翁からニスイが正しいと指摘され、あらためたのであろう。
 いずれにしろ、若冲は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。

 これまでみてきたように、彼は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁・高遊外のように、晩年の彼も、勧進のためとはいえ、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺像園への勧進であった。
 伯の蓮の例えを再考してみよう。蓮は俗の泥から芽を出し、水中を伸びる。そして水面から空中に抜け、美しい蓮華を咲かす。しかし当然ではあるが、根はあくまで俗泥のなかにある。また蓮の根は、レンコンである。青物問屋の倅だった若冲には、こころに響く何かがあったのではなかろうか。晩年、大火以降の作品には、蓮の絵が極端に増える。豊中の西福寺屏風絵は「蓮池図」。売茶翁の出身地も、肥前蓮池である。

 黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧・月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2009年11月29日> [191]
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唐のポロ <古代球技と大化の改新 8>

2009-11-28 | Weblog
中国唐代、ペルシアからチベット経由で伝えられた馬打球が盛んだった。馬打球は、ポロ・撃毬・馬球・打球・撃毬とも記されたが、わたしは「馬打球」とよぶ。
 騎乗で激しく走り、球を追って擬似戦闘を行う。このスポーツは唐代の皇帝や貴族、将校たちに好まれた。本来は武技としての騎馬訓練である。
 1956年のこと、西安の唐代大明宮遺跡から石碑が出土した。「含光殿および球場など、大唐大和辛亥の年乙未月に建つ」と記されている。大和辛亥は西暦831年である。この球場は宮殿の敷地内にあった。馬打球専用の宮廷競技場である。
 当時の球場は、砥石の平らなるごとし、油をひいて毬場を造る、とか記載されている。風塵防止のためであろうか。しかしこのような地面では、馬が滑って転ぶのではと、心配になる。
 
 近年発掘された章懐太子李賢墓の壁画、西暦706年ころの画には、競技者が馬に乗り、球を追う姿が活写されている。騎手の数は20数名にのぼる。文献記録は各種あるが、壁画として中国最古の馬打球像である。なお章懐太子李賢は、唐皇帝・高宗と則天武后の次男。若くして30歳で亡くなった。
 この壁画の騎手は、それぞれ色とりどりの筒袖の袍を身に着け、黒い靴をはき、頭巾をかぶっている。中央部分には騎手が懸命に毬を追っている場面が描かれ、その内5名が馬を走らせて毬を争っている。前端の者はマレット(打球杖)を手に、身をそらして毬を打とうとしている。そのフォームはみるからに見事で、美しい形をみせている。先頭のプレイヤーは、おそらく墓主である章懐太子の姿であろう。
 
 692年に亡くなった韋洞の墓からは、88点の騎馬俑が発掘された。その多くに撃毬図がある。韋洞は唐の中宗韋后の弟。彼はかなりの撃毬狂であったのだろう。現代日本のゴルフ狂のようなものか。
 
 また唐代以降、女性も馬打球を楽しんだ。「唐代撃毬図銅鏡」では、4人の女性騎手が馬を駆って毬を打っている。10世紀の記載には「宮女に毬あそびを教えたが、はじめて鞍にまたがる宮女の柳腰のしなやかさ。貴賓席には天子が観戦しておられ、たまたま彼女が打った毬はみごとに得点した」。また『新唐書』巻133には「ロバに乗る撃毬技を舞伎に教える」とある。
 
 唐の宣宗のころ、来訪した日本の王子が囲碁の対局を、国手の顧師言と行ったという言い伝えがある。もしかしたら、馬打球でも、また歩打球でも遣唐使たちは、唐人らと競ったのではないか。日本でも盛んであったからである。
 
参考:邵文良編著『中国古代のスポーツ』ベースボールマガジン社 1985
   守屋美都雄訳注『荊楚歳時記』平凡社 東洋文庫 1978
 
<2009年11月28日 南浦邦仁> [190]
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「あれれっ?!」 若冲とマイクロソフト <若冲連載48>

2009-11-23 | Weblog
 若冲連載は終盤に入っているのですが、先日ふと「おかしい」と気づきました。かつて一昨年に萬福寺刊『黄檗文華』126号に「若冲逸話」として掲載していただいたときの文と、最近このブログに連載している文章とは、なぜか大幅に異なるのです。
 活字版の方が、ブログ版よりかなり長く、見出しも多いのです。抜け落ちている見出しは「天恩山五百羅漢寺」「霊鷲山」「蝶夢と九鬼隆一」など。ハードディスクに残っている項目はあと、「石峰寺過去帳」と「もうひとりの蝶夢―雨森菊太郎」のみ。
 なぜパソコン文が、このように短くなってしまったのでしょうか。原因のひとつは、活字になるとき、校正を三度までやったということ。それも手書きで、ゲラにどんどん書き足したのです。編集者の和尚から「好きなようにやってください。いくら文字数が増えても大丈夫ですから」。この言葉に甘えて、かなり書き加えて行ったのです。初稿、再校そして三稿。ゲラの余白が足りず、次頁に別紙を付けたほどでした。当然、すべて手書きです。
 それとパソコンの識字能力の限界です。古い漢字が出てこないという大きな問題です。江戸期以前や中国のことなどを書くとき、キーボードに頼らずに、手で書くのが便利で気楽なのです。マイクロソフト「ワード」と漢字、大きな問題だと思います。パソコンはあまりにも字を識らな過ぎます。

 諸橋『大漢和辞典』の収録字数は約5万字。最もたくさん収めているのは字書『集韻』で5万6千字ほど。しかしいずれも特殊な異体字を相当数含んでいます。諸橋大漢和をみていると、複雑な漢字の説明に「この字は○○書にのみ記載されている。□字の書き誤りであろう」などと出てきます。
 白川静先生は「社会生活に必要なものとしては、まず7千か8千字ほどあれば十分で、今喧しく言われております情報機構(PC)に組み込む場合は、1万字くらいが限度のようですけれど、1万なら必要な字を網羅できると思います。ただ、非常に特殊な文字だけは、また何か考えなければなりませんけれども」
 常用漢字はわずか1945字。パソコンは一体、いくつの字を覚えているのでしょうか。4千か5千? その程度ほどに感じます。
 それにしても、白川先生の卓見は見事としか、いいようがありません。

 さてこれからの若冲連載ですが、短文のままで終了させようと思っています。追加入力作業と、漢字問題のクリアのことを考えると、正直なところ気後れしてしまうのです。それと近ごろ、古代の球戯史をやり、また中途半端になっている千秋萬歳のこと、「ぎっちょう」から左義長に行くはずだったのが腰折れ状態。また「バンザイ」の詰めもおろそか。また萬歳(まんざい)から入った門付け・民俗芸能そして声聞師のことも放置しています。……。
 若冲に終止符を打たないことには、次の一歩二歩が困難になってきたように思えます。若冲談義はあと二話か三話ほどで、ひとまず休業にしようと思っています。ただ還暦を前にした若冲が、錦市場存亡の危機を救ったという、新しく発見発表された驚愕すべき事実があります。この件だけは解明したく、宿題として暖めておこうと考えています。興味ある方は、近江信楽で開催中の若冲展図録「若冲ワンダーランド」解説をご覧ください。
<2009年11月24日> [189]
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日本の「蚩尤」と、世界のブランコ <古代球技と大化の改新 7>

2009-11-23 | Weblog
中国古代の王・黄帝がその頭骸骨を足蹴し、棒で打った宿敵「蚩尤」(しゆう)球のことは、日本では『源平盛衰記』や古伝承に残っています。
 まず『源平盛衰記』24巻では、憎き平氏のことを「法師の首をつくって、打毬の玉を打つがごとく、杖をもってあち打ち、こち打ち蹴りたり。踏んだりさまざまにしけり。大衆児とも態に、この玉は何物ぞと問えば、これは当時、世に聞こえたまう太政入道の首なりと答う」。南都の大衆が、打毬を平清盛の首に擬えて打った。黄帝の蚩尤故事に習っての打球・蹴球です。
 『義経記』でも、牛若丸が毬を作って、これを清盛、重盛の首に擬して打つ。
 『袖中抄』に漢文での記載がありますが、読み下してみます。「彼の例(蚩尤)を以って、漢土(中国)は年始の件事に用いる。よって国中、凶事無し。すなわち日本国もその例を学び、年始に毬杖を行う」
 江戸時代『絵本束わらべ』では、「唐土黄帝のとき、蚩尤というもの悪行ありければ、これを退治したまうに、その悪霊疫鬼となりて、人民を害す。黄帝おおいに怒り、毬をつくり蚩尤が頭になぞらえ、あるいは蹴り、または地に投げて、はずかしめたまう。疫鬼恐れて逃げ去りし吉例なり」「黄帝は逆臣の蚩尤を滅ぼし、その眼を抜き、眼玉を的(まと)として、諸臣に命じて射させたまう…破魔とは鬼を破るの文字にて、いとも目出度き吉例なれば、男子の初正月には必ず破魔弓を贈りものとし、祝いたまうべきなり」
 ここでは話は少し変化しています。それにしても、賢帝の代表人物かと思っていた黄帝ですが、ずいぶん執念深く残虐だったようですね。
 
 中国では六世紀の『荊楚歳時記』にはじめて「歩打球」と「ブランコ」が記載されました。正月立春に「打毬とシュウセンの戯を為す」。シュウセンは秋遷ですが、両字は正確には、左に革偏がつきます。字がPCで出ませんので、これからは「秋遷」と略字で表記します。
 ところで、1998年のことでしたが、仲間と韓国東岸の江陵に旅しました。有名な端午祭を見学するためです。日本にもかつて残っていたであろう民俗芸能や、さまざまの行事に感動したものでした。その内のひとつに、ブランコがあります。
 現代の日本では、ブランコといえば近くの公園や小学校の校庭にある、子どもの遊戯具ほどに思われています。しかし本来は、太陽と響感しあう、神聖な行為であったようです。
 まず二本の高い柱を南北に建て、上に梁を渡し門型に構える。二本のロープの下に座板を結び置く。本来は娘がこれに乗り、大きな半円弧を東西に描く。乗り手は当然ですが、東面する。これが典型的なブランコ[秋遷]シュウセンの形です。
 ブランコ運動のそもそもの意義は、太陽の軌道軌跡を象徴することです。東西の軌跡は太陽の軌道で欠落している、下半分の円弧を意味しているはずです。太陽は東から出、大きな半円形の軌跡を周り、西に沈む。ですからブランコの半円弧は、沈んでから日の出までの、欠けている軌跡を描いているわけです。
 天空の太陽の半円弧、そしてブランコの下半分の円弧。ふたつが合体することによって、太陽の完全なる円弧が完成すると考えるべきです。
 また乗る女性は、座板の太陽男神と交接し大地に繋ぐ。この行為によって、完全なる太陽は大地と交り、作物食糧の豊穣が約束される。古代のひとたちは、世界中のいたるところで、そのように考えたとわたしは信じています。本来は冬至や夏至、また初春などの節々に演じられた、神事聖婚遊戯です。
 古代インドでは、4000年前から記録がある。座板は太陽男神を象徴した。祭官は顔を東に向けて乗り込む。その折、すばやく地面と座板に触れ「太陽男神は大地女神と交わりたもうた」と宣言した。天父地母聖婚儀礼である。
 ヨーロッパ地中海域でも古くから冬至祭(後の聖誕祭)には、必ず女性がブランコをした。バルト海域では、夏至にのみ娘が行っている。ヨーロッパ内陸部では、スラブ系住民は春の復活祭を、ブランコ祭とよぶ。アメリカ大陸の原住民たちも古くから行っている。
 
 ところで「踏」トウの正字は、足の右上に日を書き、その下に羽。足・日・羽の構造は、実に象徴的です。また踏トウは、蹴字と同じく、「踏む」「蹴る」の意味です。
 打毬・打球にも、大地とぶつかりあう、地を叩き打つという、ブランコの足先蹴り、あるいは手による座板と大地の交接と同様、豊穣を祈る神的効果を認めたことに違いないと、わたしは信じています。初春の候、まだ眠っている大地を刺激し、目覚めさせる運動であると、解釈できるのです。
 『荊楚歳時記』が、初春に「打毬と秋遷の戯を為す」と、ふたつを併記した理由は、ここにあると確信しています。
<2009年11月23日> [188]
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古代中国の球技 <古代球技と大化の改新 6>

2009-11-22 | Weblog
唐代では打毬といえばふつう、ポロを指す。ポロはペルシャに発祥し、東西に伝播した馬打球です。七世紀のはじめころ、西域から唐、あるいは隋に伝来した競技。唐の球技には歩打毬・騎打毬(馬打球)・驢打毬(ロバ打球)、そして踏毬(とうきく)すなわちフットボールの別があったようです。打毬競技は寒食の日に、いちばん盛んに行なわれたという。
 寒食とは、冬至から105日目にあたる日。この日には煮炊きをしないで、冷たいものを食べる。晋の介子推が山で焼け死んだ日を、後の世のひとたちが悲しんで、この日は火を用いないという。
 この行事は本来、太陽がもっとも弱る冬至に想いをいたし、家々の竈の火を消す。そして新しく、神聖な火種を翌日に起こす。太陽再生を願う、火改めの風習であろうといわれています。また大地を棒と球で叩き打ち、その豊穣の力を揺るがし目覚めさせるとも考えられます。
 また『人勝』の710年正月7日の項に、唐の中宋皇帝が打毬を観る記事があるそうです。これが正月人日・七日の年中行事として定着したものであるかどうか、専門家の意見はわかれています。
 
 向達氏(1957)と羅香林氏(1955)の研究によれば、馬打毬の源流はペルシアのポロであり、これが西はコンスタンチノープルへ、東はトルキスタンからチベット・インド・唐・高麗、そしてわが国ヤマトあるいは日本国へ伝来した。
 馬打毬と、中国固有の蹴鞠とは別のもの。両氏は蹴球を歩打足【足易】(テキ:足偏に易・蹴るの意味・ほだそくてき)とし、打毬は馬に乗って杖撃するものであるとする。かつ打毬が中国に伝わったのは、唐の太宗のときであるという。その証拠に封演『封氏聞見記』の打毬の条に「太宗かつて安福門に御して、侍臣にいった。西蕃(チベット)人は好んで打毬をなすと聞く。このごろまた習わせて、一度これを観んとす。さきごろ昇仙楼、群蕃街裏で打毬あり。朕をして見せしめんと欲す」。これはポロ・ポーロの馬打球です。
 また後の『金史』では「毬を撃つ。おのおの習うところの馬に乗り、鞠杖を持ち、杖の長さ数尺、その端は弓張り月のごとし。その衆を分かち二隊となし、ともに争って一毬を撃つ。まず毬場の南に雙桓を立て、板を置き、下に一穴を開いて門をつくり、網を加えて袋とし、よく奪いて鞠するをえて、撃ちて網袋に入れる者を勝ちとする。あるいはいう。両端に二門を対立させて、互いに相排撃し、おのおの門より出すをもって、勝ちとなす。毬は小さきこと拳のごとし。軽籾木をもってそのなかを空しくし、これを朱にす」
 
 唐以前にも、中国には実は打球・蹴球があった。古くから行われていた「歩打球」と、フットボール型の「蹴球」と、唐代から大流行したポロ「馬打球」と、この三者を区別しないがために、古代球技の解釈に混乱が起きたようです。
 唐より数百年も前の『史記』によると、漢代・衛青伝には「【踏】鞠(とうきく)す」(【踏】トウ:正しくは足偏の右に日、その下に羽。踏の正字。以下[踏]と記します)
 また衛青伝の索隠に引く蹴鞠(しゅうきく)書域説篇には「杖を以て打つ」。これは打球に違いないはずです。ただ「杖毬」とは記されていないようですが。唐代の正義の解釈によると、衛青の記したルールは「蹴鞠書に域説篇あり。すなわちいま(唐代)の打毬なり」。これは歩打球と思います。
 
 古くは『史記』蘇秦伝に「踏鞠せざる者なし」。紀元前の戦国期には、ボールを蹴っていた。激しく走行するフットボールです。
 『漢書』東方朔伝には、「郡国の狗馬・蹴鞠・剣客…蹴鞠の会を観…上、おおいにこれを歓楽す」。同書芸文誌・兵家条には蹴鞠流行を反映して、「蹴鞠二十五篇」が記載されているそうです。これも「ケマリ」ではなく、激しいスポーツ・フットボールでしょう。馬術と剣術に並んでの兵家の記述です。
 『西京雑記』に、「成帝、蹴鞠を好む。群臣、蹴鞠をもって体を労するは至尊のよろしくするところに非ずと為す」。体を労するとは、疾走と考えるべきです。これも激しいフットボールのはずです。
 『十節録』では、伝説上の王「黄帝」は宿敵だった蚩尤(しゆう)を倒し、「蚩尤が頭を取りて之を毬とし、眼を取りて之を射る」。『別録』では、「蹴鞠は黄帝のつくるところ、もと兵勢なり」。球を蹴って走り回るフットボールは、二千年以上前から軍事教練のひとつでした。
 
 六世紀の『荊楚歳時記』では「又た打毬・秋【遷】の戯を為す」。「蹴鞠」の語は中国に古くからありますが、ここでは明らかに「打毬」と記されています。
 また[秋遷](シュウセン)はブランコのことです。正確には【遷】は革偏に遷の字。ブランコも「打毬」も、これが文献上初記載です。シュウセンと日本の蚩尤のことは、次回に書こうと思っています。
 さて、騎乗打球・ポロは唐代にはじまるスポーツですが、歩打球と歩蹴球は、その数百年、あるいは千年ほどの昔から、中国では盛んだったのです。
 唐においても歩打球と歩蹴球は、馬打球盛況のなか、決して衰退はしておりません。
 蹴球(蹴鞠)表記ばかりですが以下、参考まで。王維『王右丞集』では「蹴鞠屡々過ぐ飛鳥の上、秋【遷】(ブランコ)競い出づ垂楊のうち」。李白『李太白集』には「鶏を闘わす金宮の裏、蹴鞠す遥台のほとり」。白楽天『白氏文集』で、「蹴鞠塵起らず、発火雨あらたに晴る」
 
 今後は、ポロ型騎乗打球を「馬打球」、棒を使う歩行打球を「歩打球」、杖を使わないフットボール型を「歩蹴球」、また本来の蹴鞠(けまり)を「ケマリ」とよびます。四者を言葉で区別しないと、混乱が起きてしまうからです。
<2009年11月22日 南浦邦仁> [187]
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♪ 西に連なる東山~

2009-11-21 | Weblog
東山三十六峰は有名ですが、東山は洛中からみての東の山。連峰を越えた地域、山科区住民にすれば、西山のはずです。ところが山科でも東山とよびます。どう考えても、変な話です。
 山科区内のどこかの学校の校歌に「♪西にみえるは東山~」という歌詞があるらしい、と片瀬ブログで書きました。そして一年半ほど後に、「のりっく」さんからコメントが寄せられました。
 「わたしの母校・花山中学校の校歌です。♪西につらなる東山~。中学生のわたしは校歌合唱のたびに、西か東かいったい、どっちやねん!! いつも思っていました。」
 大きな謎のひとつ「校歌東西山疑問」がこれで解け、本当にわたしは胸をなでおろしたものです。ところで同じ問題について、京都新聞に大提案が載りました。いつも楽しみに拝読している連載「中村武生さんと歩く洛中洛外」。2009年11月20日朝刊、見出しは「東山、山科からは西野山」。要約でご紹介します。
 
 「東山」という表現には、ちょっと待って、という思いがあります。以前、親しくしている山科区の小学校教員に、「『なぜ西の方向にある山を西山ではなく、東山というのか』と児童から質問されたことがある。が、答えることができなかった。残念だ」といわれたことがあります。
 気持ちはわかりますが、答えは簡単です。「東山」という名称は、いうまでもなく洛中からの視点によります。山科が京都市に編入されたため、そんないい方が押しつけられているだけです。当然のことですが、山科からは「西山」というべきです。
 児童に対し、「君のいうことは正しい」といってほしかった。そんないい方はない? いえいえ、ほとんど意識されていないようですが、類する地名があります。「西野山」です。
 地名はただの記号ではありません。意味があって存在するのです。いま平気で「東山」といっている山を、過去の山科住民は「西野山」といっていたわけです。
 山科のアイデンティティーを維持したい方は、本日より東山というのをやめて、西野山とよぶべきです。
 
 パチパチパチ! 拍手です! 大賛成です。山や川などの名称は、生活者の呼称であって行政地名は無視すべきです。たとえば桂川は南で淀川。上流では大堰川、その上流では保津川、さらにたどると桂川。丹波で桂川とよぶのもいかがなものでしょう。桂離宮の近くのみが桂川でいいと、わたしは思います。
 いずれにしろ、山科住民の方たちが、歴史的に意味をもつ「西野山」と、東山をよぶことに、この山の西に住むひとりとして、大賛成です。稜線の西が東山、東は西野山。わかりよい理屈です。
 呼称変更の運動を起こされるなら、喜んで署名簿にサインします。また花山中学校の校歌も「♪西につらなる西野山~」に変更をお願いしたいです。在校する生徒たちのためにも。
 
 さて片瀬のブログでは、東西の山問題を二度書いています。
「東川と東山」2008年1月20日
「西にみえるは東山」2009年7月25日
 東西問題解決のためにご笑覧まで。
<2009年11月21日> [186]
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坂本龍馬の受難

2009-11-15 | Weblog
11月15日は龍馬の命日です。慶応3年のきょう、河原町通に面す土佐藩用達の醤油商「近江屋」の二階で、同志の中岡慎太郎、従者の山田藤吉とともに、刺客に襲われました。龍馬はほとんど即死。もと相撲取りの藤吉は翌日、慎太郎は翌々日に絶命しました。
 この日は新暦換算表でみると、1867年12月10日火曜日にあたります。ずいぶん凍てついた、言葉通り京の底冷えの夜でした。
 ところで、近江屋のあった位置をみてみましょう。石碑が立っています。「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地」。京都市が建立したものです。京都いちばんの繁華街、四条河原町の交差点を50米ほど北に行ったところ、コンビニ・サークルKの玄関左脇に立派な説明板とともに立っています。
 このコンビニは、近江屋跡地であることを宣伝材料として使っておられるようです。チラシ「幕末・維新マップー龍馬が駆けた河原町」も店内で無料配布しておられる。商魂たくましいのですが、「日本一有名な龍馬のサークルK」で、いいのだと思います。
 ただ、この石碑は昨年まで、数米南に立っていました。いまはもうない京阪交通社と、南に隣接するパチンコ・キングの北境にあったのです。旅行社が閉店され、間口の広かった跡地の北側にコンビニができ、南側に宝飾店「I-PRIMO GINZA」が開店。それに伴い、石碑は北に移動してしまったのです。本来は宝石屋さんの玄関左脇にあるべきなのですが、お店の間口とショウウィンドウの設計の加減で、北に移さざるを得なかったのだろうと思います。
 しかしもともとの石碑の位置が受難の地点であったのか、これも疑問です。河原町通は大正15年、市電開通のために大幅に拡幅したのです。もとの道幅はわずか二間。4米足らずしかなかったのです。それも道路の西側、すなわち近江屋のあった側を軒並み削り取ったのです。ですので龍馬たちが急襲された近江屋二階、奥の八畳間は、サークルKから数米ほど南に下がった、歩道の上なのです。歩行者は、龍馬が倒れた位置の真下を行き来しているわけです。
 それと、宝石屋のすぐ前の歩道上かというと、これも少しずれています。近江屋は、実はパチンコ・キングの位置にあったのです。最初に石碑を建立するとき、本来の地点に立てたのか、あるいは元京阪交通社のあった地に建てたのか。また二度移動した可能性も捨て切れません。
 この謎は、来年の命日までには調べてみようと思っています。蛇足ですが、京都河原町通あたりをご存知ない方にとって、言葉で位置を知ることは、きっとしんどいと思います。矢印で記してみます。左が南で、右が北にあたります。
 四条河原町交差点→40㍍ほど→パチンコキング→隣接:宝飾屋→隣接:サークルK
 一層、混乱されたかもしれませんが…。老婆心でしょうか。
 
 さて、このブログで龍馬絡みの作文をかつて三度、書いています。いずれも2007年。
「坂本龍馬とノロウィルス」 11月3日 
「幕末の<金玉>三話」 11月11日 
「金玉余話」 12月2日
 どれも結構おもしろい噺ですので、ご笑覧ください。自画自賛そのものですが。
<2009年11月15日 南浦邦仁>
 
追記:四条河原町交差点から、パチンコ・キングまでの距離ですが、どうも気になるので、つい先ほど歩いて足幅で測ってみました。ざっと200歩。おおよそ100mです。訂正します。それと、サークルK玄関先の石碑と高札風案内板は、木組垣に囲まれ、両側には石作りの花生けと供具置きがしつらえられていました。ごく最近の造作です。活けられた花は、何かを語っているような風に感じました。その風は一体、何なのでしょうかね。<2009年11月18日>
 
追記:サークルKはその後閉店し、建物は取り壊されてしまいました。宝石屋も閉まっています。来月12月21日からコンビニ跡に回転寿司屋がオープンするそうです。どのお店も受難の地のようですが、今度こそ繁盛を祈ります。碑は健在です。<2013年11月22日>追記:同所はいまはジャンカラになっています。<2025.1.31>
 
 
 
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唐・長安の春 <古代球技と大化の改新 5>

2009-11-14 | Weblog
古代から、日本で盛んに遊ばれた球技の多くは、主に唐から伝わったものといわれています。『長安の春』(石田幹之助著・昭和16年初版)から、当時の唐での流行振りをまずみてみましょう。

 漢・魏・六朝を通じて、徐々にシナに入ってきたイラン方面の文化は、隋(581~618)と唐(618~907)の時代におよんで、一層いちじるしい流伝をみるにいたった。外国文化との関係史をみると、この国の隋唐期、まさにイラン文化全盛の時代といえる。
 ただ後年、13世紀から14世紀にかけて、蒙古支配の元朝時代には、イスラムの陰に隠れ、イラン文化の東漸はかなり盛んであった。隋唐時代だけが絶後の全盛期ということはできないけれど。
 隋唐時代の興隆の原因は、中央アジアや近東地方との交通がますます盛んとなり、北は陸路により、南は海路により、イラン系統の諸民族が、前代よりはさらに多く、シナ各地に入ってきたこと。またアラビア人など、セム系の民族が、商人・貿易商として、イスラム教の伝道師とともに多数が、隋唐にはるばる遠来したこともある。
 ペルシャないしアラビア方面の商人が来住、あるいは往復して、貿易に従事するものはすこぶる多かった。また西方諸国より、その国使に随伴して入朝するもの、長安や洛陽の大学に来たり学ぶものなども、相当の数にのぼった。
 隋唐時代に西域の文物、特にイラン地方のそれが、シナに盛行するにいたったのは、まったくそれらの事情によるものと思われる。
 伝来したスポーツ遊戯に打毬(だきゅう)<注:騎乗打球・馬打球>がある。これはペルシアの国技ともみるべきもので、もっともイラン的な遊戯である。原名を何と伝えたかはよく分からぬが、いま広く東西の世界でこれを、ポーロ(Polo ポウロウ)とよぶのはチベット語らしいので、シナへは唐のはじめに吐蕃(とばん・チベット)から伝わっており、太宗(たいそう)皇帝のごときはおおいにこれをたしなんだという。最初は武人のあいだでとうとばれ、後に文官や女子のあいだにも行われ、その流風は、宋・元・明の時代にもおよび、海をこえて高麗(こうらい)に伝わり、日本へも平安朝に伝わっている。
 ただし近ごろ、打毬(注:馬打球)は「大化の改新」以前に伝わっているという新説もあるが、平安期なのかあるいはもっと前の時代なのか、いまはしばらく深く触れぬこととする。
 その唐代にポーロが盛んであったことはよく詩文に残っており、遊戯法は宋代の文献からさかのぼって知ることができる。

 当然ですが、唐にはスポーツだけでなく、さまざまな文物が遠来のひとびとによってもたらされた。宗教では、ゾロアスター教(ケン教:ケンは示偏に夭)、マニ教(摩尼教)、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラム教(回教)…。
 弘法大師・空海は804年、31歳のときに遣唐使に従って、伝教大師・最澄らとともに入唐した。
 学者の馬総ははじめて逢って空海の才能に驚愕し、詩を寄せた。意訳ですが「驚くほどの大秀才のあなたが、なぜ万里の波濤をものともせず、わざわざ大唐国にいらしたのですか。まさか自己の傑出した学識才能をみせびらかすためでは、決してないでしょうが。折角唐まで来られたのですから、どうかより研究して唐国の学問を深めてください。世界をみわたしてもわたしの知る限り、本当にあなたのような秀才はめずらしい…」
 781年には長安のキリスト教寺院・大秦寺に石碑「大唐景教流行中国碑」が建立された。碑銘の撰者はアダム・スミス、唐名を景浄という。後に空海が師事した般若三蔵が胡本『大乗理趣六波羅蜜経』を翻訳したとき、アダム・スミスは三蔵の助手をつとめている。大秦寺は東ローマ教会系ネストリウス派の教会であって、長安に波斯胡寺として677年にまず建立された。そして745年に大秦寺と改称されたものである。
 空海は9世紀早々の都・長安で、師の般若三蔵から、景教すなわちキリスト教のことなども、きっと教えられたに違いない。そう思う。

参考資料
『長安の春』石田幹之助著 講談社 学術文庫
『空海入唐』趙樸初ほか編著 美乃美 
<2009年11月14日>  [184]
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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №4 <若冲連載47>

2009-11-11 | Weblog
伯と聞中と若冲

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持・伯照浩(はくじゅんこうしょう)に会ったのは、安永二年(一七七三)夏のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(一七七二)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中の手引きで、若冲は伯浩照に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらうと聞く。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名・雪舟について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動・静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は、寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。
 若冲も伯から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られたのである。一部を意訳するが、内容には大典が若冲の寿蔵に記した文と共通するところが多い。やはり聞中がかかわった文なのだろうか。
 「これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。黄檗賜紫八十翁伯書」
 若冲の出家を意味しているのであろう。多分このころに、若冲画「猿猴摘桃図」に伯の賛も得ている。「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。この言葉にも、若冲は感動したであろう。彼が石峰寺門前に居を構え、妹か妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。
 「動植綵絵」の完成後から、五年以上の長きに亘って彼を苦しめ続けた気鬱も、やっとこのときに晴れたであろう。
 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯から出されたのではないかと想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(一七七二)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。
 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶の実質開創であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。
 伯が石像五百羅漢造営を、それも石峰寺に望んだとしても不思議ではない。 <2009年11月11日 南浦邦仁> [183]


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