今日の写真はイランのマハーンのシャー・ネエマトッラー・ヴァリー聖廟です。
2002年の春、マハーンから20分離れたケルマンへの帰り道、ひたすら「カネが欲しい。もっとくれ。カネが欲しい」とダイレクトに求めてくるタクシーの運ちゃんと僕は戦っていたました。
「いくら欲しいんだ?」と聞くと「お前が持っているカネ全部」
カネの亡者とは彼のような人をいうのでしょう。まさにイランのカネゴンです。
値切り上手は旅上手なんて本気で思っていた頃もあったけど、今の僕はそれほどケチではありません。
でも約束は約束、乗る前に4万5千リアル(500円)で交渉が成立したのなら、それは守ってもらわなければいけません。
それでも
「私は7人の子供がいて大変だ」
「私の一番の友達はカネだ」
「私はカネを愛してる」
とマシンガンのようにしゃべり続けるイランのカネゴン。
僕が半ばあきれ果て「もうフィニッシュだ」と強く言うと、ようやくあきらめたようで、「もうカネが欲しいとはもう言わないよ。でも日本人はカネ持ちだからみんな幸せだろう」と難しい質問を僕に投げかけてきました。
確かに11時間走るデラックス夜行バスが300円の国で、20万前後はする航空券を買ってやってきた僕たちは大富豪です。
でも毎年、3万人が自殺をする国。。。
日本人は本当に幸せなんだろうか???
こみ上げてくる疑問。
「日本はお金を手に入れたけど、代わりに失った物もたくさんある。お金だけじゃ幸せにはなれないよ」そう答える僕。
高度成長時代、そしてバブル。
日本人は、たくさんの日本の、そして日本人の美点をも切り売りして、それをお金に換えてきたような気がします。
全てを売り飛ばしてしまったとき、いったい何が残るのでしょう。
売ってしまった幸せは、お金で買い戻せるのでしょうか?
答えはきっとNoでしょう。
でもお金が無かったら今の世の中では生きていけないというのもまた真です。
イランのカネゴンとの戦いが、いつしか社会派トークに変わり、結論が出ぬままケルマンに着くタクシー。
僕には運賃を受け取って「ありがとう」と言って走り去っていった彼の顔が最初のカネゴンでは無くなっていたように見えました。
時は流れて2004年の夏
今日も僕は働きます。
お金無しでも幸せになれるなんてキレイ事は言えないけど、お金だけが全てなんて思ってしまうのは悲しすぎます。
今日も僕は働きます。
カネが無くて、自分が哀しいカネゴンになってしまわないように。
それでいいんじゃないかなって、そう思うんです。