復活

2017年04月14日 | 日記
新年度の授業が始まって1週間が過ぎました。今年は大学の授業を月・木にほぼ固めたので、この2日間は完全に大学オンリー。その方が疲れにくいことがわかりました。今年度は2年生の既習外国語の受け持ちの方が多いので、1年生のクラスのように90分喋りっぱなしでなく、学生さん主体でやってもらえます。その点もラクです。仕事が楽しいのは幸せなことだとつくづく思います。ヴォイトレもそうですが、やる気のない生徒さんや学生さんがいない、ということの何という有難さ。中学校や高校で教えていた頃を思うと天国です。意欲的で理解力のある人たちが相手だと当然ながら何の苦労もありませんが、意欲はあるが理解するのに時間がかかる、というタイプの人がいると燃えるんですね、私は。自分がそうだったからかもしれません。昔の自分のような苦労は決してさせないぞ、とスイッチが入ります。
さて、最初の1週間が過ぎた今日は、熊本地震からちょうど1年目。県立劇場でマーラーの「復活」の演奏会がありました。チケットは販売開始後あっという間に完売したという話ですが、私は運よく3階席が手に入りました。うちの生徒さんたちやお知り合いの方たちが合唱に参加していることもあって、楽しみに聴きに行きましたが、オケも合唱も渾身の演奏でした。開演前のプレイヴェントで県知事や熊本市長の挨拶もあり、報道陣もたくさん。ロビーには震災関連の写真や記録がパネル展示してありました。終演が前震発生時刻の直前になるよう計算してあり、終演後、客席も全員起立して1分間の黙祷を捧げた後、万雷の拍手とブラヴォーの嵐。祈りと感謝と希望と覚悟が混然一体となった、感動的なフィナーレでした。
マーラーは長くて大規模なので、演奏される機会もそんなに多くはありません。私もナマで「復活」を聴いたのは初めてでした。もともとマーラーが大好きというわけでもないからですが、一緒に聴いたIさんはマーラーフェチなので、スコアを見て予習して行ったそうです。「マーラーが歌いたくなった」と言っていました。Iさんの極太の声帯にはマーラーはよく合うと思います。今日のソプラノとメゾのソリストも、太くてつややかで、日本人離れした質感の声でしたね。
立派な声帯を持った人は訓練次第で重い曲も軽い曲も何でも歌えますが、私のように薄い声帯だと、軽いものはよくても重いものを歌うと声帯を傷めます。そんな具合にレパートリーが制限されるという憾みはありますが、面白いことに、人間は自然と自分の声にあった曲が好きになるようなのです。また、自分に似た声の歌い手さんを好きになるようなのです。W先生もよくそう仰っていました。だから、好きな歌い手さんのCDを繰り返し聴いていると喉の調子がよくなってくるんですね。もちろん、発声の良い歌い手さんに限りますが。それから、人間の声の周波数に近いのでしょう、ヴァイオリンの演奏を聴くと声の調子が整うのですが、ヴァイオリンも奏者によってやはり音色や表現が違いますよね、それがやはり面白いことに、自分の声の質感と似た音を出す奏者の演奏が好きになるんですね。不思議なものです。自分とは違うものを聴くと疲れやすいです。
マーラーのような濃厚な音楽は、本来は私の領分ではないので、今回のような機会がないとなかなか聴かないのですが、地震の後まもない頃にピアノのコンサートを聴きに行った時は、選曲もタッチも割と私の好みに近かったにもかかわらず、自分の回りにバリアが張り巡らされているかのように、なかなか心にすんなり入ってきませんでした。1年たって、県立劇場でマーラーを聴けるようになっている自分に、やはり時間が必要だったのだなあとしみじみ思いました。今日のご挨拶の中でも、「東日本大震災の時は、自分たち音楽家に何ができるのかと半ば絶望的な気持ちだった。しかしいずれ音楽が力になる時がくる、という確信もあった」というお話がありました。心を癒し、鼓舞し、どんな人にも内在する「生きる力」を引き出す音楽の役割はやはり大きいです。

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