ひろし君の読書や旅日記

昨日より今日が少しは面白くなるかな て思って

山梨県立文学館「年間文学講座」で金閣寺の燃やし方を学ぶ

2021-01-31 17:27:23 | 読書感想
昨年の「文学講座」についても、以前に報告させてもらいましたが今回は令和2年度の報告です。この年度は、コロナ感染状況の中で開催が危ぶまれていたのですが、8月より5回の予定で開催されました。今回のテーマは「作家たちの一癖ある名作・幻想を描く、現実を描く」と言う内容で作品が選ばれてらしいです。私は都合があって、全5回のうち3回しか参加できませんでした。講座の講師は、東海大学の大木志門教授で昨年と同じ先生です。先生は、まだ40代の若い方なので話を聞いていても歯切れがよくて分かり易い感じです。

私の参加した3回の内容は、「泉鏡花・外科室」「三島由紀夫・金閣寺」「井伏鱒二・黒い雨」でした。どの作品も確かに一癖有ると言うか、読み様を考えさせられると思います。どの作品も、人の死という状況に関連させられています。私は、この中で三島由紀夫の「金閣寺」が興味深く感じられました。ご存知の様に、金閣寺の放火・炎上は現実の事として1950年7月に起こります。そしてその事を題材としてこの作品は書かれています。問題は、現実に起きたことを題材にして金閣寺の炎上をフィクションとして描くのか、ノンフィクションとして再構築するのかです。三島由紀夫が描く金閣寺は、彼の唯美的な志向に合わせて「美の象徴」として金閣寺が炎上して行きます。この様な描き方に対して、「飢餓海峡」などでの作品を書いた水上勉はノンフィクション的な手法で「金閣炎上」を書きます。金閣寺の放火犯・林養賢と母の関係や、共同体との確執などを掘り起こして描きます。この三島と水上の金閣寺の描き方の視点の違いを、日本人の感性の有り様の差異として書いたのが酒井順子「金閣寺の燃やし方」です。更に近年では犯人と三島の精神分析的な視点で書いたのが、精神科医内海健「金閣は燃やさなければならぬ」があります。この様に見ていくと、この金閣寺の炎上が物質としてではなく想念の側に投げ出されているのが良く分かります。
時間が有るときに「金閣寺の燃やし方」を妄想するのは、案外健全な事かもしれませんね。