言葉は 世界を切り捨てている
ル クレジオ『黄金探索者』で紡がれる多くの言葉は 既に書かれている様に詩的な情景を喚起している。 私たちが読む文章は あくまで翻訳された物なので 原文のもつ情感の世界は分からないが 強い印象を読む者に与える。
例えば こんな感じだ
僕が海に行かない日は一日もない。背中にびっしょり汗をかいて目覚め、簡易ベッドに身を起こし、自分にもわからない気持ちに駆られて不安げに蚊帳を開け、潮の動きを知ろうとしない夜は一夜もない。
まだ少年の不安げな気持ちが現われるが この作品は主人公が青年になつても同じ感覚の表現の形態を持ち続けてる。
それは 世界を過剰な言葉で埋め尽くそうとする事なのだと思う。 特に抒情的言葉の過剰は 事柄の外周を膜の様に覆いつくし 読む者に感覚的同一化を迫るものなのです。
だから 言葉が多く語られる程 選び取られない感覚的領域はその世界から捨象されているのです。
ル クレジオのこの作品を読みながら なぜか戦後直後の詩人鮎川信夫を思い出してしまいました。
夜と沈黙について
どの窓にも、沈黙とおなじ大きさの
町があった。孤独な
部屋住まいの男にとって
耐えがたい静けさが
壁のそとにせまった。 食卓には
ゆれる燈火と死魚の影があるばかりであった。
だから 作者は読者に 捨てられた物をどうするつもりだ! と迫っているのです。
ル クレジオ『黄金探索者』で紡がれる多くの言葉は 既に書かれている様に詩的な情景を喚起している。 私たちが読む文章は あくまで翻訳された物なので 原文のもつ情感の世界は分からないが 強い印象を読む者に与える。
例えば こんな感じだ
僕が海に行かない日は一日もない。背中にびっしょり汗をかいて目覚め、簡易ベッドに身を起こし、自分にもわからない気持ちに駆られて不安げに蚊帳を開け、潮の動きを知ろうとしない夜は一夜もない。
まだ少年の不安げな気持ちが現われるが この作品は主人公が青年になつても同じ感覚の表現の形態を持ち続けてる。
それは 世界を過剰な言葉で埋め尽くそうとする事なのだと思う。 特に抒情的言葉の過剰は 事柄の外周を膜の様に覆いつくし 読む者に感覚的同一化を迫るものなのです。
だから 言葉が多く語られる程 選び取られない感覚的領域はその世界から捨象されているのです。
ル クレジオのこの作品を読みながら なぜか戦後直後の詩人鮎川信夫を思い出してしまいました。
夜と沈黙について
どの窓にも、沈黙とおなじ大きさの
町があった。孤独な
部屋住まいの男にとって
耐えがたい静けさが
壁のそとにせまった。 食卓には
ゆれる燈火と死魚の影があるばかりであった。
だから 作者は読者に 捨てられた物をどうするつもりだ! と迫っているのです。