ひろし君の読書や旅日記

昨日より今日が少しは面白くなるかな て思って

ル クレジオ 黄金探索者 を読む

2017-06-27 14:03:28 | 日記
    言葉は 世界を切り捨てている
ル クレジオ『黄金探索者』で紡がれる多くの言葉は 既に書かれている様に詩的な情景を喚起している。 私たちが読む文章は あくまで翻訳された物なので 原文のもつ情感の世界は分からないが 強い印象を読む者に与える。
例えば こんな感じだ

僕が海に行かない日は一日もない。背中にびっしょり汗をかいて目覚め、簡易ベッドに身を起こし、自分にもわからない気持ちに駆られて不安げに蚊帳を開け、潮の動きを知ろうとしない夜は一夜もない。

まだ少年の不安げな気持ちが現われるが この作品は主人公が青年になつても同じ感覚の表現の形態を持ち続けてる。
それは 世界を過剰な言葉で埋め尽くそうとする事なのだと思う。 特に抒情的言葉の過剰は 事柄の外周を膜の様に覆いつくし 読む者に感覚的同一化を迫るものなのです。
だから 言葉が多く語られる程 選び取られない感覚的領域はその世界から捨象されているのです。
ル クレジオのこの作品を読みながら なぜか戦後直後の詩人鮎川信夫を思い出してしまいました。

    夜と沈黙について
   どの窓にも、沈黙とおなじ大きさの
   町があった。孤独な
   部屋住まいの男にとって
   耐えがたい静けさが
   壁のそとにせまった。 食卓には
   ゆれる燈火と死魚の影があるばかりであった。


だから 作者は読者に 捨てられた物をどうするつもりだ! と迫っているのです。

井上荒野 切羽へ を読む

2017-06-23 13:15:03 | 日記
   井上光晴を つい比べてしまう
先日 井上荒野の『切羽へ』を読んだ。 簡単に言うと「人妻の純愛」とか「自分探しの不安」みたいなものでした。 だから この作品を この作品だけで読み終わり感想を持てば「ああ そうなんだ」て事で終わると思います。
でも いけないことに僕みたいな高齢者は おやじの井上光晴の事を ついつい思い出してしまいます。
井上光晴は 1960年代70年代にかけて 九州を根拠にする谷川雁などと共に 若者に強い影響を与え続けました。
私も 「死者の時」や「地の群れ」などを読み耽りました。

だから 時代は変わったのだから 比べても意味はないな と 思いながら どうせなら 人妻が夫を捨て 島を捨て泥沼の自分探しの姿も見てみたかった などと思うのでありました。


ブログを始めた てのご報告

2017-06-19 15:11:41 | 日記
  久し振りにブログを 再開しました 

以前 『シルクロード』や『舞踏』の事を書いていたのですが もういっぱいいっぱいて感じになって来たので 今回はシンプルに読書感想や 旅のご報告を書きたいな なんて思っています。
5月は 甲府から一般道で 諏訪湖ー松本市ー長野市そして 野尻湖を走って来ました。翌日は上越市を抜けて日本海側を親不知の観光スポットまで行き 白馬を抜けて帰りに向かいました。
全体の走行距離は 560kmで一部高速道路を使いました。まあ 一般道は 変化が有って楽しいですが疲れました。
詳しい感想は また次回に。