ひろし君の読書や旅日記

昨日より今日が少しは面白くなるかな て思って

「あった事」を「なかった事」にしたい一群の人々

2019-12-27 15:54:27 | 読書感想
先日、知人と映画を観に行きました。題名は『主戦場』といいます。この映画は先日川崎市の「kawasakiしんゆり映画祭」で、市側からのクレームによって一時上映中断に追い込まれました。しかし、是枝監督などの抗議によって上映を、行うことが出来たという経過を経ています。内容は、従軍慰安婦を巡る日本・韓国そしてアメリカでの現在の論争をドキュメンタリーとして描いています。監督は、日系アメリカ人のミキ・デザキです。この様な政治的に微妙な作品の上映を、山梨市が良く認めたなと、フト思いました。何故なら、山梨市は2014年に上野千鶴子の講演に付いて決まっていたのに、中止させようとした事が有るからです。でも、調べると当時と市長が変わっているから、今回は大丈夫だったのでしょうか?山梨市民会館ホールの440以上の席の8割以上の入りで、かなりの盛況と言えると思います。
     従軍慰安婦なんていなかった、との主張
この映画『主戦場』の主要なテーマは、第二次大戦の日本軍に従軍慰安婦が軍が関与する形でいたのか?ということです。この事に関しての政府の公式の見解は、1993年8月に内閣官房長官河野洋平が次のように述べています。「慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言・強圧による等本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と述べています。現在まで、日本の政府はこの談話を明確には否定していません。しかし、映画の中では自民党の国会議員の杉田水脈や藤岡信勝・櫻井よしこなどは「あれは職業としての売春婦で給料を貰っていた」とか「慰安婦が20万人もいたと嘘ばかり言っている」と、反論して従軍慰安婦の存在を否定しています。
この従軍慰安婦の問題に付いては、是非とも朴裕河の「帝国の慰安婦」をお読み下さい。歴史的な事柄を丹念に検証するだけでなく、現在に至る経過を著者朴裕河の言葉を借りると「歴史歪曲願望」に抗して描いています。韓国内では、この本は2014年に出版差し止め、2015年には名誉毀損の訴えをされて裁判で著者が敗訴しています。右や左と関係なく「歴史修正主義者」は、どこの国にもいて事実を歪曲しようとしているのです。
      事実を言い続けるのは凄い
様々な誹謗や心無い中傷に抗して、それでも事実を言い続けている人を見ると、本当に凄いと思います。最近では安倍のお友達の元TBS社員・山口による伊藤詩織に対するレイプ事件などが有ります。伊藤詩織の口を封じるために、安倍応援団の人々は、「彼女は噓つきの常習犯」とか「山口にハニートラップを」などと攻撃をしています。
歴史的な問題についての解説では、山崎雅弘の「歴史戦と思想戦」がお勧めです。歴史的な事件の現場に取材したり、歴史的な経過を解きほぐして「歴史修正主義」の過ちを正しています。
一本の映画から、色々と考えさせられる年の瀬でした。

近代文学を、山梨文学館で勉強した

2019-12-18 19:51:52 | 読書感想
山梨県立文学館で行われている「年間文学講座」のお勉強会のなかで、今回は「いま文豪の作品を読みなおす」に参加しました。講師は山梨大学の大木志門准教授でした。若い先生ですので声がハッキリしていてとても聴き易く思いました。最初の三回は参加できなかったので、第四回の徳田秋聲「あらくれ」を読む会から参加しました。その後は、林芙美子「放浪記」・宮沢賢治「銀河鉄道の夜」・芥川龍之介「歯車」そして谷崎潤一郎「春琴抄」と続きます。
時代的には、大正から昭和の初め頃に書かれた作品で所謂「近代文学」と呼ばれています。その近代文学の大きなテーマの一つである「私」を、どの様に表現しているかを読み解く作業と言えます。当然の事ですが、大正・昭和初期と現代の「私」観は大きく変容しています。その違いを前提として、今の感覚で読み直す事みたいです。
      著者の伝記と作品を関連してみる
多分、普通の読者は小説を読んでいても、その作品の著者の生い立ちまでも関連付けて考える事はあまり多くはないと思います。芥川や太宰が自殺した事など、大きな事は知っていますが。今回は、それぞれの作家の一つの作品を著者にとってどの様な位置にあるのかを、年譜を参考に見ていき行きました。例えば一つの例として芥川龍之介の作品に、母フクの発狂や義兄の鉄道自殺がどの様に関連するのかなどです。また、谷崎潤一郎の三番目妻・松子が「春琴抄」の春琴のモデルとも言える存在であったとかです。さらに林芙美子が「放浪記」の印税でヨーロッパや上海で遊び、戦争中は従軍作家をしていた町のおばさん的な人だったとかです。この様な作品の見方を、今まではあまりしてこなかったので参考になりました。
      谷崎潤一郎の耽美的世界に参った
今回の作家の中では、谷崎潤一郎の「春琴抄」が私にはとても面白く感じられました。谷崎潤一郎は、初期の「刺青」から一貫して「退廃的」とか「耽美的」と評価されて来ました。その中でも「吉野葛」からこの「春琴抄」に続く時代を「古典回帰の時代」と呼ばれているそうです。大阪の薬問屋の盲目の娘・春琴とその春琴を世話する丁稚・佐助の凄まじい世界を、三味線の音色と世間の好奇の眼を挟んで描いていきます。そして、ある夜春琴の家に入り込んだ何者かによって、春琴の顔に熱湯がかけられ、大火傷を負ってしまいます。その火傷によって醜くなった春琴の顔を見ないで世話をする為に、佐助は自分の両眼を潰してしまいます。読んでいるとこの世界に、グイグイと引き摺り込まれ、空蝉の世を突き抜けて昇華するある種の美しさを感じられると思います。この様な感覚を指して、耽美的と言われるのでしょうね。
そんな訳で、今回は久々に現代作家の作品の読書では忘れていた体験を、色々とさせて頂きました。