ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

敬老のお祝いにうかがって 人生を学ばせていただきました

2021-09-19 14:51:06 | 行事を見たり聴いたり活動

本日、所沢市では、今年度100歳になられる市民へ、ご長寿のお祝いの品を贈らせていただきました。
これは総理大臣から贈られる表彰状と銀杯を総理に代わってお持ちするもの。
コロナもあって、いつもは数名にお渡しするのですが、今年は3人の方にお渡しすることができました。

いつも思うことは、家族の温かさが大切、ということです。

100歳なので、もう親しい友人、あの日あの時を共に語る仲間もほとんどいない。
だから、人生の濃く、熱い時期を語ることも少なくなる。
そういう日々の中で人は何を思い、どうしていくか、と考えます。

『昔のことはよ~く覚えてるんだけど、最近のことはねぇ。』
とは、ご本人も家族の方も自嘲気味におっしゃいますが、
それは人生の濃い時間を過ごした時こそ鮮明に刻印されているのですから、当然です。

夫婦や子育てでいえば子どもの小さい頃、

人生でいえば野原を遊びまわっていた少年時代から自我に葛藤する青年期。
私の場合は、そのころのことが鮮明です。
(もちろん、教師のころ、市議、県議、市長としてモミクシャの今も鮮明ですが、

          最近の歌やCMや流行の数々は、さっぱり頭に入ってきません。)

所沢市では、今年は、69名の方が、100歳になられました。(うち男性は10名)

市長の私は、100歳になる方々のうち、もっともお元気で立派な方を
(語弊があるかもしれませんが、私はいつもそう感じる)

訪問させていただくのですが、
その方を囲む周囲の温かさをまず感じ、ご本人の人生を伺い、その人生の分厚さに圧倒されて、
私の背筋はすっと伸び、感動して帰途に着くのです。

今年もやはりそうでした。

「あ~、今年も うかがえてよかったねぇ~。」

帰途に就(つ)く車中で、腹の底から感慨が漏れます。

同行する職員もそれに呼応してうなずきます。

フロントガラスを見つめながら、皆 うんうんとうなずきます。

いつのまにか雨もやみ、遠い空には陽の光まで射し始めました。

本当に今日一日、先輩方に何かを教えてもらい、私たちはとても幸せでした。

ご長寿をことほぎ、さらなるご健勝をと心から祈ったのです。

ということで、お伺いさせていただいた時の話題から。(聞き書きにより不正確な箇所もあります。)

荻野皓一郎さん

1921年、三ヶ島村に生まれる。
現、自転車のペダルで世界に名を馳せる「三ヶ島製作所」会長。

戦時中は、日本で兵隊として勤務。
今の三ヶ島製作所(三ヶ島ペダル)ペダルは、昭和24年に興(おこ)した。
はじめはペタルの芯を作った 宮寺に行った兄弟の本橋さんが腕がよく技術力があった。

以来、値段は高くてもよい品、良い仕事をしてきた。
自転車のペタルを作る会社は、当時は何十社もあったが、いまは島野製作所と三ヶ島製作所だけ。
戦後、電話が要り用だったが、当時は宮寺の電話線とつながって、豊岡局の管轄。
東京とつながるまで間に交換手を通すのだが、二時間もかかる時があった。
そこで、所沢局に線をつなぐため、山口六郎次、大野伴睦に掛け合い、
「分かった。でも、あなたが全部やるならいい。」
自費で200万円かけて三ヶ島まで電話線をつなげたこともあった。
仕事の関係で、戦後すぐにNYやカナダに行った。
あちらには、戦後米国軍人と結婚し無碍(むげ)にされた日本女性が多くいた。帰国時にその一人に「一緒に日本に連れて帰ってくれ」とすがりついて泣かれた。
今も毎日出社している。工場にも顔を出すが、社員を見ていて手先が器用な子、飲み込みの速さなどもすぐにわかる。
コロナにあって、電動自転車など新たなニーズが出てきた。

まだまだやることがある。


三ケ島製作所には7年前訪問しています。こちらの記事の方がより正確ですので、よろしければ。https://blog.goo.ne.jp/zenntatosannpei/e/d34c0f61a227a4b4366636f9c65ef98d


北田喜一さん


1921年、所沢町に生まれる。
喜一さんだけど次男である。お兄さんは南島で戦死された。

私にとっては川中(現川越高校)の先輩。
いつもは電車通学だが、学校のグランドに砂を集めるため、自転車で動いたことがあったね。
明治薬科大に進み、出兵してスマトラの本部に所属。その医局に勤める。当時はデング熱などがあった。

野戦病院には、ものがなかった。
捕虜となり24年に帰国。
爾来、アニメ『となりのトトロ』の七国山病院のモデルとなった保生園(現新山の手病院)に35年間勤務し、
薬材科のトップとして務められた。
奥様も96歳、お達者でいろいろにエピソードを紹介される。
北田さんはゆえに静かに微笑んでいられる。

お爺さんに当たる方は、旧所沢銀行の出資者の一人。(灰や薬局の向かいにあった)
北田さんは金山町会長ほか、地域の重鎮として数々の役目を歴任され、現在に至る。
ゆえに3年ほど前までは、神明社の節分会でも、地域を代表して裃(かみしも)をつけて豆撒きをされていた。

そこで、「来年の神明社の豆撒きにはぜひご参加されて、一緒にやりましょう!」と私から懇願。
これぞ本当の福豆である。



中山キンさん

1922年、羽田生まれ。
第一声をきいて、しゃきしゃきしていて、江戸っ子だな、とすぐに分かった。
聞くとやっぱり、羽田生まれ。実家は屋号をろうそくやと言い、氷やアイスクリームを扱っていた。
現在は、そこに羽田空港ができ、第一ターミナルのある場所が実家のあったところだ。
今、親類は、レストラン?「ろうそく屋」を経営。

小さい頃は、アサリをとったり、海苔も流れてきて、それで食べ物はあった。
羽田の人は、川崎(大師?)までは途中からみんな船でお参りに行き、帰りに穴守稲荷神社で遊んで帰ったもの。
漁師が多く、海で遠くから会話するため皆声が大きい。 腹から声を出す。
戦後、結婚して三鷹に住まう。
所沢米軍基地には、当時4000人もの労働者が勤務していたが、そこに組合を作るべく、旦那さんが専従として派遣され、所沢に。それが35歳の時。当時は北所沢駅だけがあった。

その後、宮本町1丁目でたばこ屋を営む。専売免許を取るのも根気良く何度も懇願して努力した。
たばこやは、ある時には最も売り上げを挙げて表彰も受けたほどだった。
今、中山さんは股関節を悪くして、自由に動くことができない。が、とても声が大きく張りがあり、トーンが明るい。
中山さん曰く、腹蔵なく話すことが大事。
当時、青少年指導(相談)員をしていて、各地の刑務所にも行ったが、やはり
家庭が全て。
奥さんがしっかりすること。出しゃばるなではなくしっかりすること。
今は御幸町住まい。

娘さんとはよく話すし、口げんかもする。腹にしまってられないからね。でもあたしゃー幸せだよ。



お伺いさせていただいた皆様、本当にありがとうございました。
今日の自分は幸せでしたし、これからも頑張んなくちゃっ、って思わせていただきました。
人生の大先輩。こういう風に歳とりたいなという憧れの存在として、
これからもお元気でいらしてください。

受け入れていただき、本当にありがとうございました。

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1 コメント

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Unknown (竹内剛直)
2021-09-19 16:34:42
素晴らしい文章投稿です!感動しました!

三ヶ島の荻野さん、地域貢献も多々伺っています。