ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

ついに ティエーネ市との別れ ベニス そして帰国 5/5

2022-07-28 12:36:38 | 視察関係

7月4日(月)

           ホテルの窓からの景色

ついにティエーネを去る日が来た。

ホテルから見た景色は、こんな感じだ。

下に街が広がるが、基本、トウモロコシとブドウ畑、そして、牧草地ばかりである。


人口2万3000人。

私は、テーィエーネ市について聞かれた場合、入間の「元加治」 「仏子」に例えたいと思う。

なだらかな丘陵が広がる田舎であり、低地に少し街がある。

畑地は土ではなく、ぶどうやトウモロコシや野菜が植わっている。そして、それ以外は地面はすべて牧草がおおう。

だから、みどり一面である。

また、丘
陵を自転車を楽しむ人がたくさん走っている。

その点でも ハイキングを楽しめる「元加治」「仏子」っぽいのだ。


初日の朝、窓をあけて眼下を望む。 ほら、「元加治」「仏子」でしょ。


     丘陵中腹のホテルから望む パノラマで撮ってみました


お年寄りがみんな自転車に乗ってました それもマウンテンぽいの
道しるべ もう一歩もう30分行ってみたくなる仕掛け
 

             街中にはまだポスターが

ジャンピ・ミケルージ新市長はまだ当選したばかり。

以前は 前市長の文化面の審議会メンバーを担う一人であり、

昨年のローマ東京間飛行達成100周年記念式典では、所沢市長からのメッセージを読み上げる役も務められた。


その点で、所沢市・ティエーネ市の友好交流の意思はすでに継承されていた。

今回の訪問では、市が用意した行事に加え、

商工業界から「ぜひ日本の市長に見に来てほしい」とオファーがあって、

用意された訪問先も急きょ増えたのだ、と聞く。

文化面で学ぶところ多いイタリアだが、商工業面でも所沢商工会議所とつながれ、発展をみたら素晴らしいと思う。
(イタリアは自転車の国でもあり、だから、三ケ島製作所の宣伝も存分にしておいた。)

もちろん、スポーツ面での交流は今後も続くだろう。
(イタリア国は所沢の早稲田の施設が、縁起がいいと高く評価しているらしい。
オリンピック直後に予定された世界水泳も大阪で開催なのに、練習は所沢を希望された。
残念ながら世界水泳はコロナで中止になったが。)

ただ、一方で、

ティエーネ市も昨年の100周年記念事業と今年の所沢市歓迎で、ほっと一息、という面もあろうと感じる。

これだけの大歓待・・・、きっと大仕事だったに違いない。

だから一息つけば、それで済んでしまうかもしれない。

コツコツと市民レベル、企業レベルの縁を紡いでいかねば、今回の訪問は無駄になってしまう。

アルトゥーロ・フェラーリンの存在が(100周年で)着目され、そこにティエーネ市が関与した。

日本の航空発祥の地としての所沢、いまでもフェラーリンの偉業を展示評価している航空発祥記念館をもつ所沢 として、ティエーネ市も所沢市に縁を感じた。
(到着した代々木でも歓迎会を催した大阪ほかでもよかったはずだが、やはり、「所沢」だった)

さらに、そこに アニメの巨匠 宮崎駿監督作品が大いにそこにかかわっていた。

そして、一方では、東京オリンピックのイタリアチームのホストは、所沢市が務めた。

この奇縁をどう育んでいくのかいかないのか、物語をどう発展させていくのかは、

歴史をどう扱うかの態度に似て、所沢・ティエーネ2つの市ともに今後、
試されることになる。

最終日は、職員たちは市役所を訪問。

私も訪問してしまうと、また大ごとになってしまうので、私は街を散策することにした。

同じ職員として市役所訪問、懇談は有益だったという。

            市職員同士の懇談
私の方は、今日は市(いち)がたつ日であり、旧市街の路上は市でいっぱいになるという。

そういう日が毎週設定されているのだそうだ。

食料品から衣料用品まで何でもそろう市(いち)

ジプシーが出現すると放送でジプシー警報が出るという
(ジプシーは国を流浪する民。幼児から大人まで集団で取り囲んでスリ行為に及ぶこともある。)

マルシェ(市)をもっとやっていこう!

「人を中心にしたマチづくり」、いやそれ以前の市長になったばかりの時から、

掛け声はかけているが、まだまだ、規格化されていない。反省である。 これも進める!


さて、ティエーネ市では、その他、映画祭を公園でやったり、スポーツフェスタをやったり、

小さな街なのにやはりヨーロッパなんだなあ、と思う。

7月17日から8月21日まで連日開かれる映画祭のポスター

   公園にはすでに銀幕が設置され、椅子も用意されていた

   分別箱 半径150m以上一か所 イタリア人の方が辛抱強い
  通訳の川崎さんも、 「分別はいいけれど…遠い!」 と嘆いていた。


           シェアサイクルもあった

  バイオ ヨーロッパは食に対しても有機を追求する力が強い

     今までどおりの飼育の卵

      バイオ のお墨付き たまご    値段は少し高い

なお、ヨーロッパのほかの国に比べればイタリアの環境配慮意識は低い。
                       日本と同じかなぁ、と感じた。

さて、私の街歩き、職員同士の懇談も終わって、再び合流。

現地通訳の川崎さん、コーディネーターの道原さんとは、ここでお別れとなる。

感謝しても仕切れるものでもない、そう思いながらティエーネ市を後にし、

陸路1時間半、飛行場のあるベニスに向かいました。



ベニスのそばのホテルに到着午後3時。 明日早朝の飛行機までが自由となる。さあ、バスでベニスに行くぞ!


    2両連結バスでベニスへ 

まず、バス停がどこにあるか探すことから難儀した。

だが、これぞ、旅の醍醐味(だいごみ)。

ここからは『地球の歩き方』 的になるはず、だったのだが、最近は何でもスマホで調べられる。

若い20代の職員がチャキチャキやる。

私も50歳代職員も、ただ佇(たたず)む。 そして、二両連結のバスを見て 驚く!

JESUS CHRIST! (なんてこった!)

さて、ベニスこそ日本人に最も知られた水の都。 大観光地にして海産物もおいしい都市。

市民友好交流の暁には、ここはセットで訪れることになるでしょう。

コロナ蔓延の最初の年、人間の経済活動が抑えられた時、

ベニス運河の水も澄み、底にいるカニの姿も見えたという。

今はそれもすっかり元に戻り、人でにぎわうベニスであった。

街は運河が網羅され、道は狭く車は通らず、 道は人のため、せいぜい大八車程度が通るだけ。

車よりまちの方が歴史が古く、建物が堅固であれば、

車のための町のつくり、にはならないでしまうのである。

建物は堅牢にして文化財的存在 昔のままの路(みち)になる


      有名な橋 水上バスや水上タクシーが行きかう

まだ、夕ご飯を食べていない。 ベニスの店仕舞いは早いと言う。 そして、今日は最後の夜。

午後10時までスーパーは開いているらしい。

店で食べるのはあきらめて、スーパーで何か買って持ち寄ってホテルでみんなで食べることにする。

夜9時半、ホテル近くでバスを降りた。が、スーパーがなく、

途方に暮れて夜の街を40分近く歩き、へろへろになって、でもさいごはホテル近くのBARがあいていて、なんとか最後の飯を食べた。 

眠ったのは3時過ぎ、もう4時になろうとしていた。 が、それでいいのだ。

日本時間なら朝の10時。なるべく起きておいて、早朝にベニスを発ち、

飛行機は眠りまくって、翌朝9時ころに成田着。  午後2時からは仕事が入っている。

7月5日(火)早朝、飛行機に搭乗。

案の定、私の方は疲れに疲れて、疲労困憊、

機内でほとんど寝て過ごし、(ウィーン経由、偏西風にのって行きより帰路の方が速い)

7月6日(水)朝

あっという間に成田着、となってしまいました。

帰りは本当にあっという間、でありました。

(以上が、ティエーネ市の訪問の記録となりますが、総括については、後日としたいと思います。)


 


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セスナで移動 そして、最後の送別会  4/5

2022-07-27 18:24:40 | 視察関係

7月3日(日)

カプローニ博物館(フェラーリン飛行場からセスナに乗って)

前日の夕方過ごしたフェラーリン飛行場に着く。

ハンガーミュージアム協会の皆さんが、自分の飛行機に乗って我々を山の向こうの飛行場に案内してくれるのだ。

私は、昨日のジョルジョ・ボナードさんが操縦するセスナに乗った。

        4人乗りのセスナ機 みな個人所有である

ティエーネ市を超え、オーストリア軍とたたかった山々を越え、青空の中、トレント市にあるカプローニ飛行場へ着陸する。

その間、30分ほどだったか? (残念ながら疲れていて大半を眠ってしまった)

さて、第一次大戦当時、戦争は塹壕(ざんごう)戦であった。

フランスに味方するオーストリア軍が、山を越えてイタリアに攻めてくる。

山が戦場となる。  山の頂上近くに高原があるとそれぞれ塹壕を掘って敵襲に対して反撃する。

女性も銃後の部隊として料理を作ったり、運んだり参戦した。  多くの命は山の頂上付近で奪われた。

多くの人が戦死し、多くの骨が埋められてその墓標が今もある。

イタリアはいつもフランスと敵対してきたのか!? 

今回のイタリア来訪に関しては、飛行機つながりゆえに、市で作成した名刺も アンリファルマン機と若き飛行兵(安彦良和さんによる)を描いた名刺にした。

フォール大佐もフランス空軍、アンリファルマン機もフランスの飛行機だ。

その絵を乗せた名刺を配りまくっているのだ。

大丈夫かなあ? 気づいちゃうかなぁ。 不安が頭をよぎる。

後で、イタリアはフランスは嫌いなのか? 尋ねてみると、「どちらかというと嫌いだねぇ。」 答えが返ってきた。

カプローニ博物館は、イタリア空軍創設に功績のあった航空技師ジャンニ・カプローニに関する展示をしている。

フェラーリンが搭乗したのと同じ型のSVA(ズバ)機も展示されていた。

飛行機の腹のデザインは、どうも『ハウルの動く城』に採用されているようだ、とある人が指摘していた。

             SVA機の腹のこのマーク
『ハウルの動く城』ではこれ。


宮崎駿監督は、風を大事な場面で採用している、と私は思っている。

主人公が心機一転して前を向くとき、ざあっと必ず風が吹く。

『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『風立ちぬ』『魔女の宅急便』『紅の豚』と空を飛ぶ場面も多く、

しかも、風景は屋根の色からもイタリアだったりする。

そして、フエラーリンや飛行機についても、相当に研究されているのだった。

そして、『ハウルの動く城』も・・・。

      飛行機は職人が作る かんなやノミを使って

        展示されているSVA(ズバ)機

ハンガーミュージアム協会の皆さんと(つまり飛行機とフェラーリンを愛する人たちと)

歓迎の昼食会 我々を乗せてくれた飛行機乗りの皆さんと

さわやかな風が吹く。日差しも強い。飛行機乗りの皆さんや協会の皆さんと昼食を飛行場にてとる。

飛行機乗りの方々は、みんないい人である。にこにこしていて半ズボンにポロシャツの、いいおじさんである。

しかし、富豪なんだろうなぁ、と思う。

質問して、飛行機の燃費は、高級車と船の間くらいか、と思ったが、今は詳しい数字は忘れてしまった。思い出した。時速200kmで1時間飛ぶと30リットルつかうと言っていた!

飛行機を所有する皆さんは、普段は仕事で忙しいのだろうか? 険しい表情で仕事しているのだろうか?

あまりにもいい人であって、想像もつかない。


ゴディ・マリンベルニ 邸見学と送別会
(ビラ=中世貴族の別荘)

ティエーネ市としての最後の夕食会が開かれた。

場所は貴族の別荘が多く建てられている地域。   見渡す丘陵地帯には確かに豊かな別荘が点在している。

その中の一つ、1500年代に活躍した建築家アンドレア・パッラディーオの建てた別荘で説明を受け、食事をする。

左右対称を重要な要素とし、3段に分かれた建物の2段目中央に天井高い部屋が設けられ、客人を招いた。

一階にはかまどなど使用人がいる台所が設けられている。

       邸の玄関でみなさまと

若き演奏家による弦楽4重奏を聴く。

その後食事会に入る。

演奏家にはぜひ日本のミューズに来るくらい活躍してください、とお礼を述べた。

食事中は、市長といろいろ話した。

ジャンピ・ミケルージ市長は人口減少問題を喫緊の課題と認識していた。

そのために、給付金などを増やしたりして対応したいのに、政府は移民の流入を無策に認めている。

移民に対する福祉に金が流れて行って、人口減少に充てられていない、と政府を批判していた。

それに比べてマルタ共和国は移民を入れない、身勝手だ! とも。


       通訳を介してだが、結構真剣な話に展開した

私が、別の観点から「イタリアも日本も旧来の家族意識が残っているところが人口が増えないという指摘があるが、
それを知っているか。」と尋ねると、

そんなことはない、金銭の問題である、 と強く主張されていた。

ティエーネ市長も国に唯々諾々としてはいない情熱ある市長なのだ。

我々市長は市民に選んでもらったのだから、そうでなくてはいけない、とあらためて思う。

ジャンピ・ミケルージ市長は、まだ就任一か月もたっていない。 これから組閣に入るという。

市の体制は、市長の私的ブレーンを各分野に招いて、審議会と呼ばれる組織(内閣みたいなもの?)を形成。

その下に、市の公務員が位置づけられる形をとる。

組閣人事がまだであり、だから、今年はまだ忙しくて来日できない、と言われた。

私のほうは、ティエーネ市が秋には来たいので、その前に訪問をしてほしい、と言われたと理解していたのだが、

どうも聞いていたのと事情が違ったようだ。

しかし、市長は、来年の来日に向け抱負を語ってくれた。 

両市長それぞれから交流の意義と抱負を語って送迎会はお開きとなった。 



訪問して、訪問されて・・・互いの訪問を経てやっと、友好関係は緒(ちょ)に着く。 

議会の意思も確認しながら進めていくことになる。

ホテルに戻って
ホテルに戻ったときは、もう零時を回っていた。

最後の夜は寂しく、名残惜しかった。 同宿する道原さんとも今夜でお別れだ。

お土産にいただいたワインをみんなで飲んで打ち上げをしたいと思った。

すでに遅い時刻だが、ホテルの外の椅子に腰かけ、語らう。

道原さんも深い思いをもって、ティエーネ、所沢両市の友好交流をここまで創ってきてくれていた。

道原さんは訥々(とつとつ)とした語り口だが、だから余計に思いが染みた。

     ホテルからの夜景  ホテルは丘陵の上にある

この日の就寝は、荷物の整理など2時をとうに過ぎていた。

なお、最後に記しておかねばなるまい。

これらティエーネ市の宿泊を含めたすべての費用(ベニスに到着するまで)は、ティエーネ市側によって賄われた。
つまり、所沢市としては1人分の通訳費用と記念品代以外、支出していない。


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7月2日(日) フェラーリン家から飛行機三昧(ざんまい)+ ワイン 3 / 5

2022-07-25 12:48:23 | 視察関係

7月2日(土)
アルトゥーロ・フェラーリン中尉の生家訪問


  写真左が アルトゥーロ・フェラーリン中尉

アルトゥーロ・フェラーリン中尉の生家を訪ねる。

フェラーリンの甥(弟の子ども)[兄マリオさん、弟フランシスさん]

とフランシスさんのご子息アレッサンドロさんから説明をいただく。

説明はアレッサンドロさんが中心に語ってくれた。

当時発行された記念地図をもとに説明するアレッサンドロさん (右は道原聡さん)

本当はその姉のバレンティーナ・フェラーリンさんがフェラーリン中尉の研究本も執筆していて、参加するはずだったのだが、ちょうどコロナに罹患してしまい、自宅療養中。彼女とは携帯越しにあいさつした。

  コロナで待機中のバレンティーナさんの書いた本

フェラーリン家は当時より繊維産業で名をはせた名家。

1920年当時も大富豪であり、だからこそ「飛行機乗り」になれたのであった。

そういえば、船舶持ちも、ましてや飛行機持ちなど大富豪しかできない趣味。

もちろん、軍隊に所属していたのではあるが、飛行機を個人で乗り回すのは大富豪の伊達者(だてもの)だということだ。

とてもよく女性にもモテたという。

アルトゥーロ・フェラーリンの偉業についてはここでは詳述はしない。

時代背景としては、第1次世界大戦で勝利したイタリアにおいて勝利に見合う戦利はなく、
国中がわだかまっていた。

ムッソリーニがファシスト党を率いて、力を伸ばしつつあった時だ。

そういう時に、これまた飛行機乗りであり文化人、政治家のガブリエーレ・ダヌンツィオと詩人、日本人下位春吉が東京への横断飛行を企画した。

伊達者たちが計11機挑
戦する中、最後に遅ればせながら参加したフェラーリンだけが、
(機関士も同乗、ジーノ・カッパンニーニ)109日間の飛行を経て、東京まで自分の飛行機のまま到着した、という話である。
(1920,2,14ローマ発⇒5,31東京着 30か所経由(不時着含め34か所)17920km)
(自機は大破したが、新たな飛行機に替えて東京到着した人は、もう一人いる。 マジエーロである。)

日本でも大歓迎を受け、所沢飛行場にも訪問した。

また、東京まであと少しの連絡を受け、所沢飛行場より出迎えの飛行機が2機飛んで、途中で曲芸飛行をしながら代々木飛行場に誘導したという。


飛行機をこよなく愛し、その後も、ブラジルなどへの無着陸飛行記録を打つ立てながら、1941年7月、飛行機事故で亡くなった。

 




さて、本題に戻ります。

アルトゥーロ・フェラーリン直系の子孫は、今はミラノ(フィレンツェ?)に在住とのこと。

ティエーネ市の生家のほうは、その弟さんの息子さんがお住まいになって、静かに確かにひっそりと守っておられた。

歴史を守る、という営みは、決して華やかなものではないのだ。

普段は公開されていない、生家の中を案内される。


            フェラーリン家の皆様と

2020年、ここでローマ東京間飛行達成100周年を迎え、昨年記念式典も催された。

ティエーネ市としてもフェラーリン家も、日の目が当たって誇らしく、面目躍如というところなのだと感じる。

アルトゥーロの甥のマリオさんと マリオさんは90歳を過ぎながらも、
                 その後も歓迎会など多くの行事に参加してくれた


名家というものは、良い意味でも悪い意味でも過去の栄光から眼をそらし、自由の空に羽ばたくことはできないものなのである。
90歳になんなんとする御兄弟は、当時の思い出を語ってくれた。

僕が3歳の時おじさんの飛行機に乗っけてもらってね、でも、僕は気持ち悪くなって吐いちゃったのさ。
そしたらおじさん、なんで飛行機を汚すんだ、ばかやろうって、ね。


 写真左から
甥(弟)のフランシスさん、女性はマリオさんの奥さん、そして、甥(兄)のマリオさん

ワイナリー見学

ティエーネ市周辺はブドウ畑も多くワインの産地である。

お隣のブレガンツェ市のワイン工場主からの招待で、醸造所に伺う。

ワイン醸造蔵のことを「CANTINA」と呼ぶんだそうだ。

そうか、所沢のイタリア料理CANTINAはそこからとったのか。

伺うと複数の醸造所共同経営者(出資者)が待っていた。

この辺りはローマ時代からワインの産地であり、第二次世界大戦後は教会を通じ、複数の農場主が共同体を作ってワインづくりに取り組んできた。
ベネト州で採れたブドウを使ったワインはプロセッコと呼ばれ人気である。

ベスパイオーロという品種を使ったものは特に名産。

代表で案内してくれた社長さんは、ぶどう農家も後継者が減っていて、ワイン醸造の共同体への参加数が減ってきているといっていた。
(が、別の人いわく「農家も高く買ってくれる醸造所を選ぶんだ」とか。)

社長さんは笑顔を絶やさず、一所懸命ワインの説明をしてくれていた。

所沢のよく知っている事業主の顔が浮かんだ。

日本にも売っていきたい、そういう伝手(つて)はないか? という気持ちであふれていた。
※なお、帰国後、ヤオコーに行ってみるとイタリア直輸入のワインがたくさんあって、ヤオコーなどと醸造所として契約すればそれも大いにあり得るのだ、と知った。)


      新しい樽の前で説明を受ける

その後、今度は、小さなぶどう農家が有機栽培をもって特色を出し、栽培、醸造と販売、レストラン経営の6次産業化している農園を訪ねて昼食をとった。

これなら、醸造所にぶどうの卸値をたたかれることもない。

値段も自分で決定できるし、高い。 好きな人が買いに来る。

日本にも通じる賢いやり方であった。

丘陵にあるブドウ農家     奥に畑 建物はレストラン


イタリア定番 ハムとパン

ジョルジョ・ボナードさんの複葉機製作工場見学


      ジョルジョ・ボナードさんによる熱い説明

ジョルジョ・ボナードさんはローマ東京ハンガーミュージアム協会の会員である。

生業は、アクリル工場を営んでいるデザイナーである。そして、3D複製なども仕事としている。

しかし、飛行機が好きであった。

奥さんはあきれているが、男のロマンはそれに勝って、製作工場では複葉機が昔のままに時間をかけて製作されている。

フェラーリンと同じSVA(ズバ)機を製作中で、それに乗って日本へ飛ぶことが夢である。

今は航空法で低空飛行が許されないが、フェラーリン当時は高度50mほどで海岸線を基本に目視で飛んだ。
大目に見てもいいじゃないか!?

ボナートさんは3年前に所沢の航空発祥記念館を訪れており、その時に、ローマ・東京間飛行の偉業をたたえる展示を見た。

日本でもフェラーリンの偉業を忘れずにいてくれたのか! 

そのことを知って、心底感動する。

ボナートさん製作のSVA式複葉機のパネルは、今、ジブリ博物館にも展示されている。 

ボナートさんも個人でセスナ機を持ち、操縦する伊達者であった。

翌々日には、トレント飛行場まで山越えの飛行に乗せていただいた。


これに乗って東京に飛び立つ! ローマ東京ハンガーミュージアム協会の方々も一緒にパチリ
             写真で私の右がボナートさん


フェラーリン飛行場での歓迎夕食会

ローマ東京ハンガーミュージアム協会による歓迎会。その前に、ミュージアムを見学する。

フェラーリン家が寄付した「フェラーリン飛行場」に併設されている小さな格納庫(ハンガー)。

会員の飛行機の格納庫も兼ねる。そして、ミュージアムも兼ねるのだ。

夕焼け漂う空の中、展示飛行が行われ、日の丸とイタリアの国旗がパラシュートで降りてくる。

夕焼け空に国旗がたなびく。

セスナ機が飛び、日本とイタリアの友好と歓迎をこれでもかと表す。

美しい演出と夕焼け空にここまで歓迎されているのだ、と実感する。

セスナが飛び 2人の落下傘隊員が国旗を持って舞い降りた

昨年挙行された「ローマ東京間飛行100周年記念事業」を紹介したビデオ上映、ジャンピ・ミケルージ市長のあいさつがあり、私も返礼のあいさつを送る。

フェラーリンの偉業とフェラーリン家の歴史を称え、両市の友好を約束した。

今までにお会いした方々が集結し、さらに家族が集まった、そんな感じの盛大なる夕食会である。

ここでは、市長の奥様ともお話しした。

高校からの付き合いだとか。さらに、市長と私はともに1961年生まれの同学年、奥様もということが分かった。

市長の歌がプロ並みにうまく、マイク使いも堂にいって、記念碑のデザイナーと2人で1時間ほど歌いまくっていた。

日本ならマイク泥棒と揶揄(やゆ)されるが、本当にうまいと歌いまくっても文句は出ないのだ。

30分過ぎても歌は終わる気配すらない

三々五々客が帰り始める。皆、歌っている市長にいとまを請い、それぞれ帰っていくのであった。

歓迎会終演は12時近く、我々がホテルに戻ったのはそのあとだった。

私の場合は、シャワーを浴びたり服を洗って干したり、やはり2時ころに就寝する。




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7月1日 訪問最大事業   友好交流の覚え書きへ 2 / 5

2022-07-24 13:52:57 | 視察関係

7月1日(金)

本日が最も大切な1日となる。午後の覚え書き交換があるからだ。

朝は8時に食事

9時15分出発

同じ県のAZという地元企業訪問

市長はじめ社長に出迎えられ、早速部屋にて会社の概要説明を聞く。

我々に気を遣って市長もマスク 「大丈夫ですよ」と返したら、あとはみんな素顔
         イタリアだもの 私もそのほうがずっと自然でよかった

A Zは創業1957年、現社長の叔父が創業した会社だった。

1975年、父がそれを引き継ぎ、今は長女であるアンナさんが、理工系出身ではあるが経営を継いでいる。

下の2人の妹も生産部門、デザイン?広報?部門の代表である。

技術で売ってきた会社共通、最後は人の手による技が勝負を決めている。

この会社は製品を作るための機械を使っている会社。

技術が勝負の会社である。 職人を大切にし、若いうちから生え抜きで育てている。


車のフェラーリの部品をつくるときは、どこの会社の製品かわからないように注文がきた。

飛行機の車軸を作る機械の発注の時は、粉製品を作るための機械を頼む、と製品の設計図は渡されず、車軸を渡された。

発注先にも何のための注文なのか、秘密にしておくのだ。

この会社の経営陣は、長女が社長、次女、三女が各部門の部長を務める。


  左から アンナ社長(長女) 三女 次女 通訳の川崎さん 私

イタリアでは大きな会社でも、家族をもとに経営し続ける会社が多い、と聞く。

まあ、日本でもそうだし、アメリカでもそうかもしれない。

日本でも有名なジョナサン、ネイサン、マクドナルドもみんな社名に実は「’s」がついて、要はJonathan’s=ジョナサンの店、ネイサン家の店、マクドナルドさんの店である。車屋矢次郎商店とおんなじだ。

そして、どこもみんな事業承継が課題となるのだ。

AZは優秀な娘さんがそれぞれエキスパートな旦那さんと結婚して、トロイカ体制で事業を進めて安泰である。

日本にもエージェントが2か所ある。

右から3番目の女性がAZの社長さん その右は商工会議所会頭と、さらに副会頭
         M40とあるのは、航空機の一部品

その後、商工会議所(経団連と訳されていた)へ伺う。
    (スキオ市・ビツェンチア県の商工会議所)約1600企業が所属。

シルビア・マルタ会頭からこの県域の工業的状況の説明を受ける。

マルタ会頭はスポーツウェアなどを作る会社、副会頭のダニエラさんはケースを作る会社の社長だ。

私は所沢の三ヶ島及び柳瀬の産業団地と併せて県が誘致している圏央道沿いの産業団地への進出などを説明した。

外環、圏央道、関越、東北道などの物流の良さもアピールした。そして、三ヶ島の人材供給の安定性も。

     シルビア・マルタ商工会議所会頭からの説明


             真正面は副会頭のダニエラさん

その後、その場で歓迎の軽食会

外国を訪問すると、スナックとハムとコーヒーで軽食の歓迎が多い。

イタリアの場合はワインとなる。

自分としては、きちんと昼飯(庶民食)を食べたいので、ひそひそと相談したら、

通訳が堂々と「この辺に食事できるところはあるか?」と経団連に聞いてしまい、急きょ、否定した。

「そうではなくて夜飯のことだ。」と。

午後:市役所訪問 

                            ジャンピ・ミケルージ市長の出迎えをうける

歓迎式典と覚書に署名する。これが今回訪問の一番のメイン事業だ。

市役所正門にはイタリアと日本の国旗が掲揚され、市長はじめ多くの人に出迎えられる。

庁舎内の教会の中のような会場に案内され、さっそく式典に入る。

  EU 日本 イタリア この地方の昔からの旗



ジャンピ・ミケルージ市長のあいさつ、ティエーネ飛行場協会会長、ローマ・東京ハンガージアム協会会長のあいさつの後、私のあいさつとなった。

会場には、制服姿の空軍関係者も数人来ていた。

私は所沢市を代表して、招待への感謝、イタリアと所沢市、ティエーネと所沢の縁、文化、商工業ほかの国際友好を期待する旨のあいさつをした。

実際には、ティエーネ市長のあいさつも重厚で、非常に格調高く行われた。

だが、所沢市側として用意してきた挨拶は、A4一枚半の非常に簡易なものであり、どうしても釣り合いがとれぬと感じた。

そこで、その場でどんどん紙に書きなぐって内容を追加していった。

イタリアのホストタウンとしての所沢市の光栄、三ヶ島ふれあい祭りへのコーリ騎士団の登場、陸上競技の練習見学会、競歩選手と子どもたちとの交流、寄せ書きが寄せられたイタリア国旗を背負ってのウィニングラン、そして、イタリアチームの歴史的大躍進。
ティエーネ市からの交流の打診、ティエーネ市を故郷に持つアルトゥーロ・フェラーリン中尉の偉業と航空発祥の地としての所沢、宮崎駿監督のアニメ『紅の豚』とフェラーリン氏、

これらすべてが所沢市とティエーネ市を結び付けていた、という「不思議な縁」を指摘して、

今後、飛行機のみならず文化、商工業など様々な分野で交流を深め、仲良くなれれば
と思う、

というような挨拶をした

即時通訳ができたかどうか、通訳さんの川崎さんには迷惑をおかけしたと思う。

なお、日本語としては話し方も使う単語も重厚にしたつもりである。(通訳入れて15分以上話した。)


   今回の訪問は友好 いつもよりずっと 挨拶は笑顔を心掛けた

その後、覚書(姉妹都市でもないし、協定締結でもない。それは議会の賛同を得てからの話だ。)に署名し、

握手をして、まずは大役を果たした。そして、記念品の交換などをした。


      覚書に署名する両市長(覚書は協定の前段階のもの)

市役所を出ると晴天が私たちを待っていた。なんという鮮やかな空。空の青、湧き上がる雲の白。

広場の向こうに続く旧市街の通りには、イタリアと日本の国旗が爽やかにたなびいている。

我々は本当に歓迎されているのだ。

式典中にとおり雨が降ったらしい
(旧市街の石畳に EU イタリア 日の丸 がたなびく)

ティエーネ城見学

旧市街は市役所、教会(ドーモ)、ティエーネ城、美術館を中心とする半径200m(勝手に想像)の一体である。

そこは石畳の道が連なり、建物はみな古い。1500年ころにできた、建物もたくさん? ある。

市役所の斜め前が城であり、(といっても当時からの貴族の住まい、建物である。)

案内されて門を入ると、ボランティアさんが当時の衣装を着て歩いている。

これは我々のためにそうしてくれているのだろうか? なんかそんな感じである。

私の左は前市長ジョバンニ・カーザットさん、右はジャンピ・ミケルージ新市長)
      当時の衣装を着けて貴族に扮する市民のみなさんと

建物に入って説明を受ける。ゴシック様式の建物は中が装飾されて、絵の説明を受ける。

窓の形に様式が表れているらしい。2代目館主が馬好きで、馬をテーマにしたサロンやよく考えられた馬小屋があった。

しかも、家紋は○玉が3つ描かれた家紋 勢(性)力の象徴か?

こういう場所は説明を受けながらゆっくりゆっくり歩くので、疲れも出てきた。

また、気候は日本ほどでないが、それでも気温も30数度で「こんな事初めて!」とか。

基本、西洋は湿度は日本より低い。 建物も文化財を兼ねる。 ゆえに、エアコンなどない。

ネクタイ背広姿で歩き回るのは、室内はけっこう蒸し暑くて、やはり苦しい。


  やあ、あんたは日本から来たのかい? 市民からも握手を受ける

大聖堂(ドーモ)付属美術館

大聖堂の横の建物が、大聖堂にあった美術品が集められて美術館になっている。

アルプスの少女ハイジのような風貌の学芸員さんが説明をしてくれる。
     (その方は最終日に市役所におられた。つまり市職員なのだった。)
大聖堂は1700年代、ネオクラッシック様式で建てられ、1999年から美術館としての機能も持たせるようにした。

美術品の多くはナポレオン侵攻時に教会内に隠され、守られたもの。

テキスタイルや聖杯、聖遺物入れなどが展示されている。

イタリアは、フランスとは敵対関係であることが多いのだと改めて知った。

学芸員さんの説明は詳細丁寧であった。

が、申し訳ないのだが、

ネクタイ、背広姿の私としては、もう暑くて暑くて、足も棒のようで、早く屋外の風に当たりたい。座りたい、

のでありました。 学芸員さん、スミマセン。

ハイジのような学芸員さんの説明を聴く、前市長と現市長
(この写真をとっているのが私。
つまり、もうへとへとで説明を聞いても細かい歴史は分からないので、少し離れているのだった。)

屋外に出た。風が顔をなでる。すでに7時近くであるのだが、日はまだ高い。
(こちらでは9時くらいにならないと夜にならない。)

歓迎夕食会

庶民的なBARのようなほうが良い、という私の執念にも似た願いが伝わっていたのだろうか、

夕食会はBARだった。

さて、歩いて石畳を行く途中、バレエ集団が路上でパフォーマンスをしていた。

企業も市民もお金を出し、市も補助金を出して支援している『芸術祭』の一つで、市内各地で開かれており、今日も何か所かでパフォーマンスが行われているという。

目の前の道路にも、石畳の上にマットが敷かれ、青年男女20人ほどの集団が演技している。

その向こうには折り畳み椅子が50脚ほど並べられ、満席の市民が鑑賞していた。

演技を終えて一人の青年が涙を流していた。 それを皆が祝福していた。

この日のために頑張ってきたのだろう。それが報われたのだ。

こういう光景は本当に貴い。

さて、ブラチスラバ(スロバキア共和国)を訪れた時も遭遇したのだが、

こういう路上でのプチ芸術(行為)祭が旧市街の各所でヨーロッパではよく行われている。

今回、ティエーネ市の関与について市長に質問したのだが、記録をとっていないので正確ではない。

が、市の関与は前述した感じなのだ。 芸術に関して、市民が寛大で常に応援しているのだ。

それがヨーロッパのすごいところだ。

「音楽のあるまちづくり」を謳う所沢市も、ストリートミュージシャン支援から始めたいと、就任当時願っていたのだった。改めて、初志を思い出し、貫徹せねばと思う。

    石畳の路上でパフォーマンス その向こうに観客が座っている

BARに入った。ネクタイもはずす。

ビールも、飲んだ気がする。 が、イタリアは基本ワインなのだ。

ハムとワイン。この記憶が鮮明で、あとは最後にグラッパだったか。コーヒーはエスプレッソ。

ジャンピ市長さんはじめ、つい、数日前まで市長だった、ジョバンニ・カーザロット前市長さんほか多くの方とお話ができ、親交を深められた。

私の左横にジャンピ・ミケルージ市長 右斜め前に直前市長ジョバンニ・カーザットさん
前にはアレッサンドロ・フェラーリンさん

写真に写っているのはほんの一部の方々。そのほか、商工会議所、ワイン関係、飛行機関係、軍隊?関係、フェラーリン家

多くの方が入り混じって、話して飲んだ。 終わったのはたぶん11時ころ。


いずれにしても、今回の訪問のメインイベントを終えることができてホッとする。

現地マスコミの取材も受けた。

長い長い一日であった。

その日の就寝も、2時ころであった。


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さあ、イタリア ティエーネ市へ  1/ 5

2022-07-23 15:59:02 | 視察関係

6月30日から7月6日早朝まで、5泊7日でイタリアの北部にある飛行機のまち、ティエーネ市を訪問してまいりました。所沢市は東京オリンピック・パラリンピックでイタリアチームのホストタウンとなり、早稲田大学と協力しながら、イタリア選手団の練習、滞在地としてお世話をしてまいりました。
コロナが蔓延して計画通りの交流はできなかったけど、それでも、多くの交流を何とかもつことができました。 イタリアチームは過去最高の成績を残し、所沢も早稲田も大変感謝をされました。選手団が去るときも、団代表から「この交流をこれからも発展的に続けてほしい!」と感謝され、同時期には、丁度、1920年、ローマ東京間を初飛行した英雄アルトゥーロ・フェラーリンを生んだ都市、ティエーネ市から飛行達成100周年なので同じ航空関係の都市として、交流しないか? との要請もあり、本市からもそれに応えて「100周年記念式典」での祝福メッセージを昨年お送りしたりして、ついに招かれ、今回の訪問となったのでありました。行く末は姉妹都市交流なのかと思いますが、それは議会の承認など作業を経ねばなりません。
この度はその先遣(せんけん)団として、市長が訪問、することになりました。
訪問においては、まさに大歓迎を受けました。 まずは、その訪問報告をしてまいります。
参考までに)
オリンピックホストタウンとしての、
秋草高校生他との交流、ワイン対決などイベント、コーリ騎士団三ヶ島へ、練習見学会などイタリアとの交流
https://blog.goo.ne.jp/zenntatosannpei/e/3c5156646003fc92af882a2387f38e72


競歩チーム優勝選手 子どもたちが寄せ書きした国旗でウィニングラン

なお、訪問に際しては、私は友好に徹し、メモなどもとっていませんので、随行職員のメモを参考にしながら、私が感じ、考えたことを中心に報告させていただきます。


1.6月30日 出発 12時間半の飛行へ

朝9:30羽田出発

12時間半の飛行はアンカレジの上を飛び、グリーンランド、ノルウェー、コペンハーゲン近くを飛んでミュンヘンへ。

グリーンランドの上では、雪が解け湖のようなところがたくさんあった。

そこは青い湖で美しく映じたが、これも温暖化なのか? 要は氷が解けてできたものなのである。


      青く見える湖のようなものがたくさんあって・・・

予定通り6月30日15時ミュンヘン着。(日本時間22時)

ここで、16時40分ミュンヘン発ベニス行きに乗り換えのはずだったが、掲示板を見るとその便は飛ばないことに。

なんと飛行機が飛行場に来てないんだそうだ。(Oh,my God!)

何が何だかわからない乗り継ぎの乗客が、列を作る。列は全く動かない。

私は勝手に、素知らぬ顔してビジネスクラスの窓口で次の便を予約。(我々はエコノミー席であるが)

他の2人まで大丈夫そうだが、あと1人はわからないとの窓口の答えに狼狽(うろた)える。

また、預けたトランクが明日の朝の便で来ることになりそう。
(乗るか乗らないのかわからない人の荷物をその飛行機に載せるはずない?)

明日は正式な会合だ。 (背広、ネクタイはトランクに)

もし服装が間に合わなければどうすべきか、など迷ったが、腹を決める。(この格好でしょうがない)

3席の予約に成功し、あと1席は運に賭ける。

ゲートで待つ。

チケットを持っている客が全員乗りきるまで固唾を飲んで待つ。

列が機内に吸い込まれていく、我々だけが残った。が、結局、席は空いていて、1人乗れることになった。

ホッとする。ただし、荷物はわからない。


席は空いているのだろうか? 1人乗れずにミュンヘンに残るとすれば誰か?
                 心配しながら待つ市職員(左のほう)

10時半過ぎにベニスに到着。機中は爆睡していて、着陸の振動で起きた。

幸運にも、荷物も一緒に載っていた。

出口には道原(どうばら)さんが待っていた。

一時間、タクシーに揺られティエーネのホテルに着く。

今日1日が終わった。明日が、大切な日である。 午前2時就寝。


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NPO法人「フードバンクネット西埼玉」 にうかがう!

2022-04-28 17:15:40 | 視察関係


      代表の 丸茂さん と私 (元町の事務所にて)

市内、いや、県西部でフードバンク活動をされている「フードバンクネット西埼玉」に伺いました。


フードバンクネット西埼玉についてhttps://www.fb-kyougikai.net/fbn-nishi-saitama


世の中には、経済状況から日々の生活で食料に困っている人が たくさんおられます。

そういう人に食糧を支援し、同時に、もったいない(食品ロス)の解消も目指した活動で、

6年前? に発足しました。


いまは、善意で集まった食品を

・連絡してきた方に直接

・こども食堂へ(それが食料配布に変化したフードパントリーへ)

・社会福祉協議会など食料配布しているフードパントリーへ

配送、郵送しています。


            こういうしくみ

正規職員さん3人に多くのボランティアさんが加わって、何とか成り立っている活動ですが、

事務所も倉庫も必要で、さらに食品の履歴管理(食品を誰からいただいてどなたに支援したか)も必要で、

倉庫の管理、整理整頓、梱包作業、履歴作成、配送作業、配送手配など活動内容は複雑で多岐にわたっています。

この3月は、3858,2kgの食品を寄付いただいて、フードバンク、地区民生委員、こども食堂、

教会、社会福祉協議会・・・そして個人宅に配ったそうです。

食料を捨てずに寄付されたことで、CO2も3240㎏分削減になったとのこと。
(この量は、飲料のご寄付がたくさんあったことが大きい、ふだんは、1000kgくらいか )

ネットワークが広がり、扱う量が増えれば増えるほど、郵送費、倉庫代はじめ費用も必要に。

そういう意味では、活動を支えるための資金も必要で、それも助成金とご寄付に頼っています。

市としては現在、「こどもと福祉の未来館」と「上下水道庁舎」で食料を集める場所を提供して協力

していますが(フードドライブ)、この活動は、今後も必要とされるので、

市としてもより協力をしていきたいところ。考えてまいります。


        みなさんと (東狭山ヶ丘の食品保管室で)

なお、活動の話をすべて聞いた後、帰る間際にボランティアさんの一人が

「私は所沢中の生徒でした。」

と吐露してくれて話は急展開。

名前を言ってくれて、おおっ、Mさんだったか! じゃあ、国語を教えたではないか! ということで

森の石松 的展開に。

いやあ、えんじジャージで、担任はN先生で、野球部には誰々がいて・・・と一気に30年前にさかのぼり、

うれしく楽しい時を過ごしたのでありましたぁ、   メデタシメデタし。

それとも担任は M先生だったかしら?(3-1はM先生、3-2はN先生だった)


   こんな風に寄付された食品が記録され


     行き先をこのように記録していく

        寄せられたお手紙から



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大阪にセールス 企業誘致

2021-11-22 14:19:12 | 視察関係

11月17日(水)

埼玉県 と りそな銀行による 「県内産業用地への関西企業へのセールス」に日帰りで行ってまいりました。


コロナなので参加企業もいつもよりは少ないようでしたが、

それでも、4人一組のテーブルを市長が回ってプレゼン、アピールすることは目いっぱいできました

14社の方々とお話しして、三ケ島工業団地のアピールをいたしました。

県が施工する圏央道周辺の田園産業団地はに比べると、平米単価が高いのですが、

雇用の安定的供給、土地の安定、東京に最も近いなど


所沢市の特徴を伝えてきました。

人口が減少に転じ、少子高齢化が進む中、年金収入者の増加、福祉費の増大、環境、教育などの経費の増加、

などが確実である未来をいかに渡っていくか、の解の一つとしての 「雇用の場の創出」でありました。


三ケ島工業団地の拡張面積は約17ha。


産業系に転換する面積は、来たい企業の求める面積と一致するよう常々注意してきました。

そして、今までも調査を重ねてきました。

よりよい企業の進出を期待するところです。





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サントメ・プリンシペ写真展 写真家 小澤(こざわ)太一さんとお会いして

2019-07-06 13:27:28 | 視察関係

サントメ・プリンシペ民主共和国の領事さん が先週来所されたことは既報のとおり。

その後、市民の前で話す機会もあって、こういう国の方々がいらしたんですよ とご紹介するとみんな満面の笑みを浮かべて聞いてくれる

やっぱり気になって仕方ない

そこで、実は体調がイマイチだったが、

もしかしたら新たな展開があるかもしれない

市民にとってプラスになることかもしれない

と考えて、

ちょうどサントメ・プリンシペにて写真を撮り、出版記念を兼ねた写真展を今日からはじめられた

写真家 小澤太一さんの作品とお話を聞きに、港区外苑前まで行ってきました。



サントメ・プリンシペについてググっても、外務省の記事以外何にも出てきません。

それほど情報がないんです。

でも、小澤さん(こざわさん:日大芸術学部出身で所沢をよく知っておられましたし、芸術総合高校に講師で行くこともあるそうです)は、

すこぶる元気でパワフルな方。https://ameblo.jp/kozawataichi/ 小澤さんについてはこちら

写真の紹介、その時のエピソードなど大きな声で紹介してくださいます。


       元気あふれる写真家 小澤(こざわ)さん の身振り手振りの解説

私が伺ったこと、その不思議な縁にとても喜んで下さり、さらに、唯一の在日サントメ・プリンシペ人もこられえ、

さらに、先日来所された秘書の山之内さんも加わって、会場の皆さんと盛り上がり、

遂にはサントメ・プリンシペを尋ねる企画も持ち上がりました。

いずれにしても体をおして行った甲斐あり。

写真集も買って参りました。

これから市の職員に見せます。


山之内さんと う~ん、名前を迂闊にも忘れてしまった・・・たった1人の日本滞在者 大学生 サントメ島がふるさと。

しかし、プリンシペ島には行ったことがないという。






 


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「喫茶ランドリー』(墨田区) に伺う

2019-06-07 14:41:49 | 視察関係

公共 をになう場が 昔はあったという。

公共とは、多種多様な人が出遭い、憩い、ときに論じ合い、つながったり一人を楽しんだりできる場所である。

今は、すべての場が 私化し 使う人、目的、用途が決められ、禁止され管理されて、万人に対して閉じられている。

それでよいのだろうか?!

西洋なら広場 日本なら境内、または 路地 道 が公共、その役割を果たしてきた。

人によってはそれは「原っぱ」だったという。

いずれにしても、いろんな人が無目的に、出会いつながる空間、開かれた場が必要なのではないか。

そういう意識をもって、オープンスペースを利用し、開かれた公共を創造する人々がいる。

その一人、田中元子さんは「1階づくり」を軸に、アクティブな建築やまちをつくる株式会社グランドレベルを設立された。

そして、来る人が能動的に使えるように、喫茶ランドリーは意図して設計された。

僕はそれを見てみたくて、勇んで墨田区両国付近に探しに出た。

到着したのは午後7時半 きょうはあと30分で閉店だ なお、外と中の境は外してあって、誰も出入り自由だ。
そんなところからもコンセプトがうかがえる。


さて、行ってみて、確かに幼なごが遊んでいた。カップルが懇談し、離れたところにぽつんと女性が一人を楽しんでいた。

それぞれの人が勝手に場を共有し、それぞれに意識しあいながら、それぞれの時を楽しんでいた。

こういう場が必要だ。

少子高齢化で空きスペースが活用できる今、少子高齢化で人々のツナガリが求められる今、

あえてこういう公共を作って、意図的に配置していくことがこれからの街づくりに求められているのだと思う。


         コインランドリーの並ぶ部屋では子どもが遊んでいた


     喫茶でありランドリーだが、人はそれぞれ気ままに過ごしている


            コーヒーを注文する大人


一段下がったスペースの床には。手前で子どもが一人ままごとをして奥ではカップルが談笑していた

考えてみれば、今はすべてが「施設」と化している。

施設とは管理され、用途が決められ、時に使用する人々をも排除する。

そんなこと人々は求めていたのだろうか? それを幸せと呼ぶのだろうか?!

僕は、それを、今どきの子どもの過ごし方に重ねてしまう。

せっかく「ゆとり」を設けたのに、そのゆとりに習い事やスポーツや・・・大人の管理が入り込んで、

子ども時代特有の「自由で気ままで限りない時の過ごし方」は今の子どもに許されてはいない。

僕は、子どもたちに、もっと自由な、大人に管理されない豊かな時間を過ごしてほしい、とずっとずっと考えてきた。

それは、殊(こと)街づくりにおいての「公共」を確保しようとするその視線、と同じ視線(考え方)なのかもしれない。


      6日は午後8時閉店だったが、15日はこんなことも。

ほかの国の国民に比べ、日本人は社会的孤立感が断然強い、という結果もあるらしい。

日本は無言社会だという指摘もある。

確かに、お店に行っても店員から声をかけられるが返事はしない、電車の中でも、バーに行っても見知らぬ者同士は話もしない。
(アメリカでは通勤電車でも知らない者同士でおしゃべりしていたし、飲み屋は食べるところではなく、飲んで話すところだった。)

そういう点でも、みんなが顔を合わせてしまう、おおらかな空間、場、時が大切に思えるのである。




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地域サロン ふれあいの家 わかさ を訪ねて

2018-12-06 16:27:33 | 視察関係


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「今日は、昼食会があるから、ぜひおいでくださいな。」

ということで、三ケ島は和ケ原の地域サロン「ふれあいの家 わかさ」に伺いました。

場所は、和ケ原商店街より50mほど東へ行ったところ、セキ畳屋さんの近くの年季の入ったアパートでした。



「北秋津 ふれあい会 の次に、私たちの ふれあいの家 わかさ が始まったのよね。」

と代表の山根さん(昭和8年生)。(北秋津ふれあい会 もそんなに昔からの活動だったのか! とビックリ)

昭和55年から活動をされていて、空き家を貸していただいたり、アパートに引っ越したり。

この場所で3か所目となるそうだ。

(地域サロンの制度は県が補助を作ってまだ日が浅いh21~だ。昼食会は1回につき2000円(上限×4回/月まで)市から。
総活動費補助は社会福祉協議会から2/3支給(上限20万円)されている。
もちろん、昭和57年ころは制度もなかった、が、市から家賃は全額補助で援助されていたと聞いた。
まず市民の活動があり、自治体にもそれを支える力があり、制度もないし、普及もしていなくとも、
そういう世の中のいろんな面での豊かさが、まだ昔はあったのだろう。)

支え手の方々も亡くなった方もおられるし、また、お体を悪くして引退された方々もおられるという。

メンバーも拠点も変遷しながら38年間地域のお年寄りのよりどころとしてみんなで活動されてこられたのだ。

(活動拠点の変遷 和ケ原→若狭→和ケ原)

さて、

玄関に入るとすぐ台所で、その奥の南に面した2つの居間にはおいしそうなお料理がならべられ、

参加者の皆さんが15人くらいだろうか? いただきますを待っておられた。 

早速仲間に入れていただき、

楽しく話しながらおいしいお昼ご飯を頂いた。

「みんなで食べるってのは、やはりいいものですね。」

参加者の皆さんも普段はきっと、おひとりでの食事でしょうから このひとときを楽しんでおられるよう。

参加者のお一人、紅一点ならぬ唯一の男性、伊藤さんにうかがってみると、

昔は男性二人で来ていたが亡くなられてしまった、 伊藤さんは昭和8年生まれの86歳、戦争時は満州の牡丹江に住んでいて、家族ばらばらで九州まで帰ってきた(親は子供2人までしか帯同できないきまりだったので、4人兄弟の上2人は、別に帰らねばならなかった)、兵隊さんのほうが先に逃げてしまった、今日は午後からは東京まで社交ダンスに行く。

周りの女性陣からすかさず 「 伊藤さんはいつもおしゃれなのよね 」と言われる。

確かに皮の上着にマフラーを施し、オシャレである。

「 プロではないが プロに近い腕前には違いないねぇ。」

ふっと笑みがこぼれた。

美容師をされていた女性も来ていて、これからここで参加者のおひとりのヘアカットをして差し上げるのだそうだ。

この方60歳代とのことだが、どうも40歳代にしか見えない。

前に美容室を経営していたが、今は閉めているとのこと。

美容室を改造してボランティアでカットなどするように場所にできないかしら、との相談を受けた。

そりゃいいわね~、とみなさん。

代表の山根さんいわく「昔は週一回昼食会を開いていたけど、今は月1回。みんな年取って無理がきかないの。」

(ここでもボランティアの高齢化が問題になっているのだ。どこも同じだ…)

すかさず参加者の方が、それに補助金も減っているんでしょ、と弓を弾く。

うわっ、矢がこちらに来るぞ! 補助金減ったんだっけかなぁ、と考えていると、山根さんがそっと話題を変えてくれて、助かった。

美容師さんは「後継者って言ったって、60歳台はみんな働いているのでねぇ。」と付け加える。

そうだ、そういう理由で、今、

子育ても、地域育て(自治会など)も、ボランティア活動(福祉団体など)も、みんな後継者不足であえいでいるのだ・・・。



楽しい会話の中にも身につまされる話題ありで30分、あっという間に時間は過ぎて、役所に帰らねばならない時刻になった。

帰り際に東狭山ヶ丘にお住いの参加者から

「できれば近くにもこういう取り組みがあってほしい。

こういう取り組みをみんなに知らせ、行ってみたいな、やってみようかな、

という人を増やしてほしい。」

と要望を受けた。(そうしたい)



ふれあいの家 わかさ  温かい人とおいしい食事と楽しい会話、そして、あたたかなアパートで、

自分は久しぶりに親に遭ったような気持ちになって 幸せに包まれたのでありました。

皆さんお元気で。健康で! 


今日の食事は ごはん けんちん汁 酢豚風肉団子 ポテトサラダ 卵焼き 黄金キウイ入りヨーグルト

食べ終ってからハイ、ポーズ。(お料理が写ってなくて、スミマセン!!)


                 参加者やボランティアさん

                   参加者の皆さん

              こちらはみんなボランティアさん

    私の隣が現代表 山根さん 来年3月には引退されて代表はそのお隣(奥)の方に







 


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株式会社ホロンHOLON 世界の携帯は南永井に通じていた❗

2018-11-30 13:27:11 | 視察関係


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  精密機械をナノの単位でさらに測る(保証する)装置を作るのだから、クリーンルームも厳重である

株式会社ホロン をおたずねしました。

所沢の南永井に、世界を股にかける、こんな会社があったとは❗

株式会社ホロンは、携帯電話等に入る基盤、半導体を生産するための型の正確性を測る装置を作る会社です。 

そして、この基盤製作が、世界でも限られた会社で独占されており、

ゆえにそれをチェックする装置を作る会社も限られておるのです。

ナノメートルの正確さを測る装置で、そんじょそこらの会社には作れません。ゆえに、今大忙し。

 

この装置、一台数億円する貴重さで、台湾はじめ世界中から受注が集まってきていて、緊急に対応が望まれているのでした。

携帯を売る会社は有名ですし、作る会社も有名です。

しかし、作られる部品を作る機械を作る会社も、それをチェックする会社も、私たちには馴染みがありませんでした。

なんか、世の中の様を表しているみたいです。 私たちは心しなければなりませんね。

しかし、私たちの持つすべての携帯電話に株式会社ホロンは関わってきたのでした。

世界の携帯は南永井(所沢)に通ず。

なんかよい響きでありますね。


                   張社長はじめ皆様と


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韓国の安養市と姉妹都市締結20周年 で訪問してまいりました。

2018-10-24 17:01:00 | 視察関係


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★姉妹都市交流は、挨拶と交流の連続で非常に神経を使う。

また、お酒の交流も重要で、乾杯を繰り返すので体力勝負でもある。

そうした中で、チェ・デホ安養市長始め安養市議会、行政の皆さん、キム・ギウォン会長始め韓日親善協会の方々

が、これでもかこれでもかというほど熱烈に
我々を歓迎して下さった。

まさに、歓迎するとはこういうものなのだ、という最高例を示していただいた感じ。


我々日本人は、こんなにも歓迎の意を表すことは、気質として国柄として、難しいのかもしれない・・・。

それほどまでに歓待を受け、姉妹都市交流20周年 の実りを感じた訪問となったのでした。



所沢市は、1966~アメリカイリノイ州のディケーター市、1992~中国江蘇省の常州市、1998~韓国京畿道(キョンギド)安養市と姉妹都市になっています。

市民同士の交流はアメリカとは高校生の相互訪問を、中国、韓国とは不定期に市民・議会訪問団が行き来をし、草の根の親交を温めてきました。

行政としては、中国、韓国とは市長を団長として5周年ごとに訪または来訪しています。(アメリカからは2016年、50周年で来日していただきました。)

今年は、安養市との20周年。

この20年間に訪韓、来日あわせて124団体、計1449人の人々が親交を温めてきました。

それだけの先人の歴史を背中に感じて、安養市を訪ねました。

今回は、行政訪問団、市民訪問団が一緒になって、10月17日~20日の3泊4日間の訪問でした。

安養市はソウルから電車で40分ほど、所沢市と東京のような関係で、ベッドタウン的に発展してきた市です。

人口は約60万人。(所沢市は34万4千人、面積72km2)

面積は所沢より狭い約59km2であり、三方を山に囲まれ、平地部は高層ビルが建ち並んでいます。

韓国と日本とは、新しい文化、芸能の面では互いに好きな関係ですが、政治的には常に問題を抱えている関係です。

最近でも、慰安婦像の設置の問題や艦隊式でも旭日旗を拒否され自衛隊が参加しないなどありました。

国と国は互いに主張すべきこと、譲ってはいけないことがあります。

しかし、市民と市民は、人間同士の関係になって、互いに尊重し親しみを持つ間柄を保っていくのが肝要と、私は考えています。

それが最後の砦になって、国同士の反目を柔らげることができるのかもしれません。

いや、きっとそうであり、そうでなければ姉妹都市を結ぶ意味もありません。

安養市の公園には慰安婦像が市民団体により設置されてしまいましたので、

その像を見てしまったら、市長として国の立場も主張せねばならない、

との覚悟を左胸に、

市民同士の関係はあくまで人と人、姉妹都市を結ぶ意義は国の関係を超越したところにある、

という認識を右胸に、それぞれ抱いて、

緊張して安養市を訪ねました。

(大阪市はサンフランシスコ市との姉妹都市関係を慰安婦像設置を理由に解消しようとし、
同じく安養市と友好都市の愛知県小牧市も、安全を考慮し児童の相互交流事業を昨年より中止しているそうですが、
所沢市はそれは取らず、きちんと友好を深めていくことを選んでの訪問でした。)

さて、訪韓した結果は、熱烈な歓迎を受け、親交を深め、学ぶべきを学んで、知るべきを知って、姉妹都市周年交流の成果を十分に感じて

帰国した次第でありました。

10月17日(水)

朝5時所沢発。 14:30安養市着。昼食は安養市韓日親善協会の皆様の歓待の中いただく。

16:30 安養市長表敬訪問 17時 安養市の産業振興策を説明いただきながら、インキュベーションセンターやIT再開発地区を歩く。

18:30 20周年記念式典 歓迎会 22時 2次会 韓日親善協会の皆様の大歓迎を受ける 3次会 同左

10月18日(木)

9:30 安養市庁舎にて 記念植樹 10:30 安養市浄化センター視察(地下化して地上部は公園に。メタンガスバイオ発電、生ゴミは燃やさない)
12:30 昼食 13:40 安養市市場視察 15:00 海外姉妹都市作品交流展開幕式 18:40 文化芸術財団による歓迎会

10月19日(金)

ソウルから60kmほどにある第3トンネル、都羅展望台、都羅山駅視察。

第3トンネルというのは、北朝鮮から極秘に掘られたトンネル。今までにソウルを狙うトンネルは4つ見つかっており、
3番目に発見されたので、第3トンネルと呼んでいる。ソウルに一番近いところへ出るトンネル。
全長1635m、地下73mに掘られてあり、幅2m、高さ2mのトンネル。北朝鮮部分は1200m、韓国側に435m
掘り進められた時点で発見された。今は、4枚の壁で塞いである。
韓国が発見して、韓国側から斜めにトンネル地点まで掘り、今は観光施設として活用している。
南北が融和ムードになっていた1978年に発見された。1時間に1万人の兵士が移動でき、貫通すればソウルは
一瞬にして戦場になっていたかもしれない。

都羅山駅は南北を結ぶ鉄道の、境界線から韓国側へ2駅目にある駅。
友好ムード(2000~2008)の時は北朝鮮との行き来も試され、北の金剛山観光や家族面会なども進められたが、
2008年、事件が起きて、中止された。
なお、今年9月南北首脳は金剛山観光と鉄道の行き来を再開することを決めた。
鉄道が再開すると日本海からヨーロッパまで旧満州鉄道を通ってつながることになる。

10月20日(土)

江華島を見て回る(平和展望台、支石墓群コインドルなど)

成田着、所沢着。

以下スナップ


      まずは、インチョン空港で市職員、韓日親善協会の皆様から出迎えられる


             チェ・デホ安養市長表敬訪問 挨拶


  既存ビルを使って企業にリノベーションさせた、インキュベーションセンター
若き企業家が創業していて、このビルの中に60以上の企業がある。成長した後、ソウルに引っ越してしまう企業があるのが課題。


 IT関連企業をトップセールスで集め、一体を再開発し、企業を優遇して誘致する代わりに建物も提供させ、
           若手起業家を支援し・・・説明を受ける。


    歓迎式典 所沢市を代表して挨拶


     記念品の交換 所沢市からはお雛様を贈る

           安養市からは太鼓を贈られる


         市川友好委員会委員長 金安養市議会議長 私
安養市議会からは、議長始め、副議長、各委員長が出席。議会から市へということで贈り物を頂いたが、
本当は所沢市議会へ用意したものだったと思う。 市議会欠席により、急遽、市への贈り物 に変更したに違いない。


韓日親善協会歴代会長 朴さん、現会長 金さん、安養市長、 友好委員会前会長 武藤さん、市川現会長


       安養市韓日親善協会会長 キム・ギウォンさんに感謝のしるしを贈呈


所沢市で1年間、働いてくれた 安養市職員キム・ヨンクォンさん 


              130名の大勢から歓待された(写りきれません)


          市庁舎前の庭に姉妹都市締結20周年記念植樹


        安養市長と韓日親善協会の皆さん 所沢市市民代表団
     木の根元に20周年で記念植樹したことが両市長の名前とともに石に彫ってある。


              地下の浄化センター内 で説明を受ける 


安養市場視察 写真は、リヤカー一つで何十年も市場で働いて 貯めて買った家を市に寄付したおばあさんと


            姉妹都市作品交流展 にて挨拶


     安養市関係、所沢市関係の芸術家代表者のみなさまと記念写真
                 所沢市からは5名の芸術家の作品が展示され、招待された。

写真の指のポーズは、ハートをかたどったもので、愛してるよ~という意味。「サランヘヨ~」と言ってポーズ。


               作品展開幕のテープカット


        所沢市から戸谷さんの作品


            椿山荘を彷彿させる庭を持つ美術館にて レセプション
安養市は何代か前の市長の時、文化芸術で市を特色付ける、と発起。企業の撤退した土地を買って美術館を
建て、元あった建物をリノベーションし、財団を起こし、長には有名な建築家を起用。美術館の維持費は2億円くらい。


           歓迎会にて 記念品を送られる  右奥は市専属アナウンサー


             芸術家交流に対しての感謝と乾杯


             展望台から北朝鮮の工業地帯を望む。 
軍事境界線を真ん中に置いて南北それぞれ2km幅が、警戒区域となっていて、出入りするときは軍隊の検問を
受ける。      写真の手前側の山は韓国領。街と田んぼは北朝鮮領。(韓国人は北韓国と呼ぶ)
          38度線と韓国の首都ソウルが近いため、韓国は常に警戒を怠らない。
なお、我々がここを訪れている時、板門店付近では境界線付近の地雷の撤去作業が始まっていた。


        都羅山駅の先、ソウル方面を望む





 

コメント (2)
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給食牛乳パックリサイクルの視察に北野小1ねん1くみを訪問

2016-11-29 17:42:16 | 視察関係


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心が洗われるとはこのことである。

北野小学校1年1組のみんなと一緒に給食を食べました。

いろんなお話をしてくれて、純真な心に接していると、自分もいつのまにか良い大人になっていました。

松居和先生がよく言われている

「自分もよい人間だったんだということを子どもたちが気づかせてくれる。」

ということです。

だれだれ君はじゃんけんが弱い、とか、明日は給食を残さない日なの、とか、

いつまでいるの、掃除も見るの、とか…。

何で大きいんですか? とも聞かれました。「大人だからね。でもたくさん食べたからだよ。」

とも答えました。

私と話して、その子ははにかんでいました。

はにかむ、という気持ちと態度 このころはあるんだなぁ、と胸が熱くなりました。

 
給食はしっかり残さず完食していました。

お替わりしたい人はじゃんけんで決めていました。

牛乳パックはバケツの水で洗い、乾かしてから、翌日にちぎって平らにしていました。

小さい一年生でもできていました。

「何してるの?」と聞くと、「リサイクル」と答えます。

「リサイクルしてどうするの?」と聞くと「トイレットペーパーになる。」と教えてくれました。

頼もしい限りです。

この牛乳パックリサイクル活動。

容器包装リサイクル法ができたころの平成8年6月議会、

学校給食の牛乳が瓶から紙パックになってしまうのに対し、私は市議会議員として 

・牛乳瓶を残してほしい

そして、平成9年9月議会 ・それが無理なら、パックをリサイクルしよう! 

と提案しました。

平成13年には既にリサイクルをしていた草加市の谷塚小に視察し、三度、議会で要望をしてきました。

http://www.asahi-net.or.jp/~rb9m-fjmt/guts/gijiroku/g-0209.htm

その時は、試行的に三ケ島小と和田小がやってくれましたが、その後立ち消えになってしまいました。

平成28年度から 機会を得て、市内で45校が牛乳パックリサイクルを始めてくれました。

いま、20年越しで当時主張していたことが、達成されたのです。

「マチごとエコタウン所沢構想」の心が諸施策に浸透し、にじむようにして実践されていく。

市職員にも子どもたちにも感謝の気持ちでいっぱいです。

そして、子どもたちのためにも 善い心で頑張っていきたい、と心から思いました。

たくましく伸びよ! 子どもたち


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芸術と所沢とまちづくりと ところざわ文化創造会議 に 文化芸術シンポジウム

2016-10-13 17:54:45 | 視察関係

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所沢市民は文化的な素養のある人が多い と感じている。

そこで、

文化の風 薫(かお)るマチ 所沢 を標榜(ひょうぼう)し、

文化的な人々の素養を生かして、気品と誇りの厚みのある都市 も目指して5年。

まずは、音楽のあるまち から始めているが、なかなか一足跳びにはいかないものだ。

でも、気持ちも確かに、いろいろと観て、学んで、花開かせよう、と今は活動しているところ。

日大芸術学部、埼玉県立芸術総合高校

こんな宝も活かせないか。互いの存在をWINWINで伸ばせないか。

何とか所沢の街のために活躍してもらえないか?



現代美術に属するのかしないのか、それは私にはわからないが、

このところいくつかの芸術展を見学している。



さいたま市が行っている さいたまトリエンナーレhttps://saitamatriennale.jp/














日大芸術学部による 柳瀬荘アート教育プロジェクト「間の共振」



岡山芸術交流 http://www.okayamaartsummit.jp/

こと所沢に目を転じてみても、実は

引込線 郷土美術館 長屋門能面美術館

小野家 斉藤家 秋田家 の住宅、蔵

重松流祭りばやし保存会 と ところざわ祭り

演劇でも

銀杏の会 おしゃれ大学 にこっと茶 演劇を見る会 こども劇場  もちろん 美術連盟

など多様にして多才である。

まずは、文化とどう関わるか?

ビジョン策定に向けて

11月12日(土) 午後1時より ミューズを会場に

『文化芸術シンポジウム』を開く。

基調講演は あのオリンピックメイン会場を設計し、KADOKAWAのサクラタウンを設計する

建築家 隅研吾氏 分科会も3つ開催。 以下是非ご参加いただきたい。


 
 
さらに、KADOKAWAとのクールジャパンフォレスト構想実現のための

『文化創造会議』10月22日(土)午後1時より

くすのきホールにて(所沢駅東口前)



(株)KADOKAWAの角川会長  (㈱)西武H.D.の後藤社長 ご参加のもと

台湾、中国、韓国から有名なブロガーや声優の白石稔さんもお招きしての

発表やパネルディスカッションになる。

あっ、イイとこTVの仁科美咲ちゃんも出演される。

皆様ぜひおいでください。

以上、
そんなわけで、所沢市は 文化 について 今 模索中なのであります。


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全国都市問題会議に参加して 岡山

2016-10-08 08:49:47 | 視察関係

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この3日間、岡山に都市問題会議に行ってきた。

印象に残ったことをメモとして記録しておきたい。あくまで自分用に。



ドイツと日本は似ているが、違いを言えばそれは戦後20年たって、ドイツはホロコーストの罪を自ら裁き始めたということ。また倫理的か否かで判断する嫌いがある。福島の震災を受け、ドイツは首相が倫理委の指摘を重く見て、廃止を決めた。
との指摘あった。
まず前者について。
だから日本はよくない、とは自分は思わない。
それはナチスの罪、とするのでなく、日本人は指導者層と自分を一体化して背負うから今がある。思考の仕方の違いではないか。
後者について。
とは言いつつも、戦後帰還した兵隊さんを悪者扱いし、アメリカに焦がれて平気な日本もあるのだから、日本人は流れ易く、うつろい易すぎる国民性だ。
確かに、過度に経済を優先してはいないか。もっと倫理というか生き方を問うべきだと思う。


ドイツは記憶のまち。「なになに通り」と通りに名前をつけて記憶にとどめようとする。街の統一感も大切にし、公共を優先する。しかし、それは窮屈でもある。バカンスを一ヶ月は取ること、と義務付けてしまうのは日常に溢れる縛りから解放されたいからかも。 以上の指摘も面白いと感じた。

もっと街をオープンにしたい。 水辺の活用をめざす人・街が「水辺リスト」という仲間作りをしているらしい。http://mizbering.jp/archives/author/mizberingtokyo



芸術祭などは定期的に続けてなんぼ。
トリエンナーレ、ビエンナーレと3年や2年に一回やる。芸術祭は評価は半々。みんな歓迎にはならない。街歩きをさせてしまうような会場設定が良いだろう。会場も音楽などはオープンを目指したい。10月9日から始まる岡山芸術交流32カ国?から作家を招いた。チケットは1800円。
なお、イベントとしてはスポーツイベントのほうが金がかかる。イタリアでは文学イベント、哲学イベント、科学イベントもある。いずれも街の広場などを会場にしている。
地元の金融機関(信用金庫)と企業に頼るところ大きく、市の補助金など使わない。

国立「くにたちはたけんぼ」・アスカデザインウィーク・TOKYO DesignWeekあり。
http://hatakenbo.org/



岡山の「桃チャリ」は面白い。所沢でもできるが、道が狭くてどうなのか。桃チャリは1時間以内100円。車で回収して回るのに金が掛かっている。
ひたちなか市は3世代同居の改修に補助中。親か子どちらかが岡山に転入した時に限っている?年に50数件。所沢の実績は?
鈴鹿市でも障がい者と農業のコラボを進めている。所沢も高齢者と畑、障がい者と畑を目に見えるよう進めたい。

HALという器械。障害を持った手足などに装着。脳からの意思を伝えて動く。器械が動くことで体が動かされる。そうやって訓練しているうち自らの意思と肉体がつながっていく。自分で動けるように変わっていく。再生医療(幹細胞)の技術を伴うことで、さらに自らの力を高めていく。

HALの開発、そして実用化。未知のことは行政は前例なく、法令なく、進められない。時間がかかりすぎる。

公共施設の活用は、切り売りしているだけではジリ貧。 縮小でなく活用。 民間に活用させて、地代を取る。稼ぐ。そうすればその周辺の地代も上がる。補助金なくても利用する民間はあるはず。既存施設で1年後、新規で10年で元を取るようするのが方針。儲かり始めても規模を広げないことも肝要。
thinkしないthink tank(シンクタンク)に任して調査したりする傾向あり。それより成功した自治体に聞け。職員を呼べ。そのほうが本物、そのほうが早い、安い。

民間にも 劣悪な民間 と そうでない民間あり。補助金頼みは劣悪の部類。 今も儲かっている企業はたくさんある。 確かにそうだ!

プロスポーツチームはベンチャー企業の側面あり。雇用を増やしている。 負けても子供のいるチームなら応援する。 だから好きになってもらうこと、目標1回の来客数1万人を決めて、地域を説得している。 来客数の目標を決めて、それを市民と共有するのはいいのかもしれない、と感じた。
学校などを回って教育もする。だから、チームは全員黒髪。茶髪にはしない。

地域愛という点で埼玉県民は所沢市民はどうだろう。地域愛の薄い地域のスポーツチームはたいへんだろう。

最もすごい企業はジャニーズ事務所。嵐だけでも年間80億円?のファンクラブ代が入っている。というのも年会費4000円強なんだとか。
会員数は200万人。好きになるとは凄いことだ。貴重なことだ。 
 
その他、気づいたこと、確信したこと、所沢に生かしたいこと、ありました。

それをまた、所沢市の施策に生かしてまいります。

なお、岡山といえば我が「坪田譲治」の故郷である。 卒論制作時に訪ねた島田本町2丁目にも 初日の夜と最終日の昼、寸暇を惜しんで行ってみた。
生家は跡となり、楠の木と記念碑のみがあった。 周囲も随分と家が建ち、新幹線の線路ができたり、色々と変わっていた。32年前に訪ね、市議か県議時代にも訪ねた坪田譲治のふるさとは、本当に随分と変わっていた。



有名な小説に『風の中の子供』『善太と三平』などがある、豊島区雑司ヶ谷で
「びわの実学校」を開いて、子どもたちに教育しておられた。



 


 


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