yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2006「中国・青島の歴史街区保全を考える」研究会、北京五輪を控え保全的活用を発表

2017年05月14日 | studywork

2006 「中国・青島の歴史街区保存を考える」 青島公開研究会

 2006年2月、中国・青島理工大学を会場として、日本建築学会集住文化小委員会主催の公開研究会「中国・青島の歴史街区の保存を考える」が開催された。これは、平成17年度文部科学省基盤研究(B)(海外)の補助を受け、2005年9月に実施した中国・青島市に残る歴史街区調査の成果に基づく研究報告会である。この調査研究は青島理工大学との共同であり、青島理工大学ではこの研究会を国際学術会議と位置づけ、副学長開会挨拶、青島歴史建築保存協会副会長臨席、青島テレビも取材する盛会になった。
 研究会に先立ち、J教授の案内で青島に残る代表的なドイツ建築「康有為故居」を視察した(写真)。初めての参加者には中国のドイツ建築入門編といったところか。康有為氏(1858-1927)は、清代末期の学者・政治家として知られ、ヨーロッパの実学を学び、日本の明治維新にならった変法運動をおしすすめ、立憲君主制にもとづく清朝の再興を画策したが成功せず、青島のこの建物で病死した。建物は1899年のドイツ時代につくられ、康有為氏が住んでいたことから1999年に故居として改修、公開された。私も初めての見学で、ドイツ風コロニアル様式に中国様式がミックスしているのがよく分かる。
 続いて「迎賓館」を見学した。迎賓館はドイツ時代の総督官邸(1908)であり、ドイツ・ゼツェッションスタイルで中国様式は取り入れられていない(写真)。建築の対外的な位置づけの差であろう。
 そのあと、本題の調査地である歴史街区「向陽院」に向かい、街区の特徴を私が説明した。この間、歴史建築の保存の意義について青島テレビから取材を受けた。これを機に、保存の動きや少なくとも保存の第1歩となる調査について市民の関心が高まることを期待したい。
 昼食後、青島理工大学学苑賓館2階の大会議室で研究会が開かれた。日本側参加者は、I、O先生のほかに、佐賀大学・G先生、大手前大学・K先生、卒業生のT、4年生のM、A、中国人で沖縄国際大学・R先生、中国側参加者は23名余の盛会であった。会場には、歴史街区のうちの7街区の外観立面を1/100スケールで立ち上げた街並み模型、中庭型街区の配置・平面・立面パネルが展示され、研究会を盛り上げた。
 副学長挨拶、Iの主旨説明に続いて、まずIが2004年9月、2005年3月、同9月の実測調査をもとに作図した街区立面の特性について「青島の歴史街区の外観構成」と題し発表(図)、次にO先生が2005年9月調査をもとに、街区を分割した中庭型空間構成の特徴と住まい方について「中庭型街区の空間構成」と題し発表(写真参照)、質疑応答、休憩をはさみ、J・青島理工大学教授「1891-1914における青島の都市計画と都市形成」、C同助教授「中山路歴史建築実測成果」、S同助教授「幼稚園として使われている歴史街区事例」の発表、質疑応答が行われた。青島歴史建築保存協会副会長を始め、歴史街区の意義、保存手法、保全的開発など、活溌な意見交換がなされたが、通訳が入るため気がついたときは6時であった。
 青島は経済解放区として盛んな開発が進んでおり、北京オリンピックではヨット競技会場となるため開発に拍車がかかっている。歴史街区の保存か開発かは緊急課題といえ、今回の研究会で保全的活用の重要性を伝えることができたと感じた。閉会後、学科主任主催の懇親会が開かれ、保全か開発か、議論が続いた。
 翌日に対岸の漁村集落を見て回ったが、漁村は撤去され、大規模な更地整備、高層マンション開発の現状を目の辺りにした。保全的活用提案の重要性を再確認した。翌〃日は、歴史街区の検分を行い、次年度調査計画の資料を得た。(2006.3)

・・・・・・・ 帰国後、T君から感想が届いたので、転載する
中国 青島を訪問して
 私が今回青島に行くきっかけとなったのは、I先生が宮津に来られたときの何気ない一言でした。「今度中国青島に行くんだ、興味があればどうぞ」、屈託のない笑顔でひょうひょうとして海外旅行へ誘う?様子は、10年以上前の卒業した当時の先生そのもので 、妙に懐かしさがこみ上げてきたことを覚えてます。それも手伝って、中国には行ったことがないし、行ってみよう!という気になり、急ぎ「本当にご一緒させていただいてもよろしいですか?」という返事をしました。もちろん快く承諾してくださいました。
 行く前に、先生の研究論文や、各HPで観光情報を出来るだけ集めて調べましたが、青島の情報は本当に少なく、中国のガイドブックを買っても青島はほんの数ページ。また、I先生の論文は当然ですが歴史街区に関するものが主であったので、ミクロとマクロが両極端になり、かえって頭の中がごちゃごちゃになってしまいました。要は自分が青島という街に立って何を感じるかが大切なわけで、あまり気にしないでとにかく行ってみようという考えにすぐ切り替えましたが・・・。
 初日は、夜8時位に現地ホテルにチェックイン。すでに到着していたI先生達と合流し、夕食をご一緒させていただきました。少し戻りますが、青島の空港に迎えに来てくれたのは、なんと10年以上前、当時私が学生だった時、留学生でI研に来たSさんでした。本当に懐かしく感動の再会でした。少しふくよかになられたようで聞けば結婚されて6、7ヶ月のお子さんがいらっしゃるとか。幸せ太りというヤツかも・・・と勝手に想像しました。
 2日目からは本格的に青島の歴史的街区を見学。昨日は夜なので暗くて見えなかった街を見ることが出来ました。一言で言えばかなり都市開発が進んでいて、しかも高層建築物がまるで競い合うように建設されている状況です。ドイツの都市計画のもとに形成された歴史街区は、その都市開発がもうあと何年かで及んでくるであろうという場所にありました。 歴史は繰り返すといいますが、ここ青島の街並みだけを見れば、1900年当時、ドイツまたはその後日本によっての都市計画がなされ、ドイツ風の街並みがおそらく強引に形成された。そして100年たった今、今度は中国自身の都市開発計画により、歴史的街区を含めた古いものはすべて破壊され、おそらく強引に高層建物群を形成していく。この街は100年位のスパンでこんな方法でしか街を変えていく術を持たないのかもしれない。もしドイツ風の街並みを価値あるものと判断するのであれば、早急に専門家による歴史的街区調査研究をふまえた行政による修繕方法等を含めた都市計画が必要であると感じました。
 歴史街区は、たしかにドイツ軍が強引に都市計画をしき、中国であるのにドイツ風の赤煉瓦屋根にアーチ窓といった建物で形成されています。しかし、そこに住み続けてきた人々の知恵によって、所々に中国のデザインを取り入れた手摺りがあったり、また使い勝手をより良くするために中庭や中廊下という空間を最大限に活用して増築等を行っています。ドイツと中国が融合した大変貴重な様式をつくっているといっても過言ではないでしょう。私はいつも建物の保存を考えるときに思いますが、保存=昔のままの形を残す(あるいは戻す)というのはタブーで、その街、その建物に住み続けてきたということに最大の価値があり、人々が住み続けるために行ってきた手法(その時代時代の変化にあわせて工夫されてきた様子)を、専門家の意見と混ぜて形として残していくことこそが、街並み保存と言えるのではないかと考えます。青島の専門家、行政には、良い仕組みは残して、現代の生活様式にあった住宅、街並みをつくるという気持ちを持って欲しいと思いました。
 また何年かして青島を訪れた時、あの歴史街区が人々に愛され住み続けられていることを心から希望して、私の感想とさせていただきます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 五木寛之は「ガウディの夏」... | トップ | 2008「済南・青島のドイツの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

studywork」カテゴリの最新記事