玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

もう自民党はいらない

2019-04-25 14:51:23 | 政治

最近は自民党がすべて悪い。むかしは金がなくても幸せな人もいた。今は、みな疲れていて、楽しみもなく、やっとスマホで時間を潰している、そんな感じだ。まして、民主党から政権を奪い返した後の自民党は、別な党のような気がする。品がないし、幼稚だし、何よりも攻撃的だ。それは指導者である三□□大将の所為だろう。

不思議なことに、この三人は、みな学歴が良くない、それを全く気にしていないのは、立派なことだと思うが、最近は本気で自分たちが東大出の官僚より優秀であると自惚れ始めたことが顔に出てきた。実は、狡すっからい官僚がただ人事権に頭を垂らしているのを、自らの人徳や力量だと誤解しているようだ。

自民党は55年体制を作って、労働運動を社会党と共産党に封じ込め、旧体制を守るための安保条約改定を行い、日本をアメリカの従属国家にした政党ではないのか。もう、とっくに役目は終わった筈である。

政党にも消費期限、通用期限があるはずだ。既に、陳腐化した社会党、民主党も潰れた。なのに、まだ「自民党」は残っている。しかし、名前が同じなだけで、これは全く別の中身をもった政党に変わろうとしているのではないか。

今の自民党は百害ばかりで一利がない。「利」は財界の輸出型産業や既存大資本の一部にあるだけだろう。それをただ傍観して、一般庶民の支持を集められない野党はもっといらないというべきだろう。

ここまで来ると、政治家という存在が無駄なんだね。ともかく議員多すぎる。国も地方もひっくるめて、「議員1/2法」を作るべきだ。

まだ、長いトンネルの中。

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時代劇は自由

2019-04-20 22:20:56 | 芸能

最近、韓国ドラマが不調なので、日本の時代劇を見るようになった。きっかけは、先日ケーブルTVで見た「椿三十郎」だった。むかし『椿三十郎』を映画館で見た時、つまらなかったことだけ覚えている。また、見直してみるとやはりつまらない。

黒沢明でも才能が枯れていた時期があったのだと思った。まったく『用心棒』の焼き直しだ。当時から、最後の斬り合いが、ホースから血しぶきが出たようなに過剰な仕掛けだけが売り物だった。改めて見てみると、あの黒沢にして時代考証は随分と無視していた。

時代の背景を変えると、かくも、作者は自由な発想になるのが面白い。かと言っても、未来だとこうは行かない。単なるSFなのだ。不思議だね、過去の方が自由だとは。

時代劇は、時代考証に忠実過ぎるとつまらなくなる。いいぐあいの嘘がないとドラマにならないのかもしれない。事実と嘘の配分が心地よかったのが、浅田次郎の『一路』だった。

今は『仕掛け人 藤枝梅安』と云った再放送の時代劇ドラマを見ているが、この分野では、日本は韓国にまだまだ追いつかれていない。しかし、このドラマも終わるというから、次は何を見ようかな。

Samurai in Japanese village

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ゆとり教育の限界と罪

2019-04-14 20:45:21 | 雑感

「ゆとり教育」の真の狙いは「勉強のできない子供には実直な精神だけを養わせ、浮いた労力を一部エリート候補に振り向けることである」と、ジャーナリストの斎藤貴男はそう認めた三浦朱門(当時の教育課程審議会会長)を追求している。

三浦氏は「芸術家という者は生まれもった才能が総てであり、努力は全能ではない」という世の中に認められた芸術家がよく口にすることの延長線で云った程度のことだろう。 

国や公共団体の設置する審議会は、官僚がこの人を委員にすれば、自分たちの求める方向に賛成、或いは協調する人ばかりを基本的に選んでいるのである。だから、審議会答申の根幹の政策案は、実際は官僚が作っていると言っていいだろう。

最近、森友・加計問題で有名になった文科省次官だった前川さんを擁護する寺脇研氏(元文科省審議官)が「ゆとり教育」の推進した担当者だったとか。 

ちなみに、前川氏と寺脇氏の学歴を調べると、当然東大であるが、高校以下は麻布とラ・サールだった。言わずもがな、エリート・コースそのものである。自らの経験則に則って「ゆとり教育」の根底がなりたっているのだろう。しかし、官僚だけで政策が決定されるのではない。政府・財界がその裏で暗躍しているのは言うまでもない。 

「ゆとり教育」の結果、財界は労働現場において、もの言うインテリ労働者を排除し、労働条件や賃金を下げて国際価格競争力を得たが、今度は知的エリートの絶対量が不足し、世界の知的産業の潮流についていけなくなっている。 

政府は、もの言えぬサイレント・マジョリティーを増やし、いわゆる選挙におけるB層を増産し、情報操作で簡単に選挙で勝てる仕組みを作ったが、時にネットで火が付けば、いつでもポピュリズムが高まって、流動化する危険性が増した。これらの責任は誰がとるのだろうか。

暗闇のトンネルへ入る・・・


 

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戦前と戦後の教育

2019-04-09 14:51:55 | ブツブツ

『昭和天皇独白録』を座談会形式で解説した四人の歴史家たちの共通項は全員戦前生まれということである。一応、調べると、秦郁彦(一九三二年)、児島襄(一九二七年)、伊藤隆(一九三二年)、半藤一利(一九三〇年)である。

そこには、「菊の壁」「菊のカーテン」の忖度があるような気がしてしまうのである。 

また、戦時下の教育として、1941(昭和16)年四月に小学校は「国民学校」に改められた。その国民学校を経験した人たちがいる。

例えば、「国旗国歌法」を国民的論議をせずに多数決で制定をした小渕恵三、「神の国」発言の森喜朗、等。入江曜子氏は最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより「刷り込まれた」世代と評している。入江曜子『日本が「神の国」だった時代』岩波新書〕

尤も、戦前の皇民教育の最たるものである「教育勅語」を礼賛する首相夫婦も現代にいるのであるから、一概に、戦前と戦後というふうな教育の分け方で一線を画すのは難しいかもしれない。

昭和は遠くなりにけり、「令和」、なんか古く冷たい感じだね。

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近現代史の欠落

2019-04-02 21:45:20 | 近現代史

4 歴史家の忖度

『昭和天皇独白録』には、巻末に歴史家たちの座談会が載っている。

秦郁彦は「この記録は東京裁判対策のために作成されたのではないか。マッカーサー司令部に提出するためのものじゃないかと思う。英文もあるかもしれない」と言った。

伊藤隆「考えられない」児島襄「疑問だ」半藤一利は「提出しないまでも…寺崎は局外者として確認したのではないか」と返した。

そして、伊藤は「これは楽しく読んだ方が宜しい、詮索しないで」と云った。また、伊藤は「英文が出てきたらカブトを脱ぎます」(笑)児島は「せいぜい秦さんに探してもらいましょう」(笑)ともいう。

H・ビックスによれば、「天皇の口述記録から重要部分を抜き出し、英訳したうえで、要約書を作り、フェラーズ准将に提供した。…マッカーサーが読んでいる可能性は高い」*と書いている。

結論から言うと、英訳は提出されていたのである。戦前生まれの大歴史家たちは、我々に何を教える気なのだろうか。

【*出典:ハーバート・ビックス『昭和天皇(下)』講談社学術文庫2006289頁】

昭和天皇(下) (講談社学術文庫)

 

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