やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】175 ⒄ 日朝関係(明治-戦前)の描き方 その22 <ⅵ 関東大震災3:まとめと考察2>

2017年05月09日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

■評価基準について

 このシリーズでは、《ある歴史事象(過去のできごと)についての学問的知識》についての基準は、原則としてウィキペデアに依っている。

1 真偽

 8社とも検定済みの合格教科書なので、《あきらかな嘘(100%のねつ造)》は見当たらない(ようだ)。

 

 しかし、以下のような基準のもとで、それを無視した場合は、世間一般では、「ごまかし」や「印象操作」、あるいは(広い意味での)嘘」と言われることもある。

2 公平さ

 事実認定(や解釈)について定説がなく、複数の学説がある場合、公平な表現とは、《①すべて採りあげる》か、《②すべて採りあげない》のどちらかということになる。

公平な表現

・①の場合は「○○についてはこのように複数の説がある。(+定説はない)」のようになるだろう。

 ※この項では、学び舎の下記資料がその例。

 

・②《すべて採りあげない》場合は、その歴史事象については記載しないということになる。つまり、はっきりしないことについては言及しないという選択。

 

不公平な表現

A 複数の有力な学説が現存している場合に、片方だけ紹介すること。

 《大東亜(太平洋)戦争の沖縄戦で住民による「集団自決」があったこと》は事実(定説)なので各社とも言及しているが、その動機については2つの説がある。※①日本軍の命令(強制)説、②住民の自発説

 しかし、東京書籍、教育出版、日本文教、学び舎の4社は、①の説だけを紹介している。

【中学歴史教科書8社を比べる】127 ⒂ 「琉球・沖縄」の描き方のちがい <その27 ④沖縄戦:ⅵ 集団自決5 まとめと考察1>

 

B 最新の学説が以前の学説を否定しているのに、過去の(あるいは、まちがった)学説だけ紹介すること。

 水田稲作の伝来で↓

【中学歴史教科書8社を比べる】12 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その2 まとめと考察①>~

【中学歴史教科書8社を比べる】13 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その3 まとめと考察②>~

【中学歴史教科書8社を比べる】14 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その4 基礎知識:ウィキペディア>~

【中学歴史教科書8社を比べる】15 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その5 まとめと考察④>~

【中学歴史教科書8社を比べる】16 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その6 まとめと考察⑤>~

【中学歴史教科書8社を比べる】17 ~⑶水田稲作の伝来  各社ばらばら! <その7(この項完)まとめのまとめ>~

 

3 客観的な妥当性=その事象を過不足なく描いているか?=全体像をバランスよく描いているか? (※「諸学説を過不足なく」、ではない。)

 ある事象についての表現が妥当であるか、についての評価に客観性をもたせるのはとても難しい。
 (※原理的には不可能だと思う。ある筆者個人は、知らないことについては《知らないことを知らない》のだから。)

 実際に妥当性について評価するには、《自分がその事象をそれなりに過不足なく認識・理解している(と思っている)》ことが前提条件になるのだから、そんな大それたことはしたくない。

 ただし、便宜的に、《ウィキペデアを(ほぼ絶対的な)基準としてかまわない》のなら、できないことはないと思う。

※ウィキペデアは、完全に公開で、全世界から監視されているし、不備があれば(すぐに)修正される仕組みになっている。おそらく、現代の「百科事典」としてはもっとも客観性が保たれていると思う。
 さらに言えば、最大の利点は、知識を得ようとする者にとって、インターネットの世界に入りさえすれば、いつでも、すぐに、無料で利用できることだろう。

 

◆妥当な表現・・・上記のとおり

妥当でない表現

 ・(多くの人々に知られている、あるいはウィキペデアで描かれている)事象の一部しか描かれていない。 重要な部分が省かれている。

 ・一部が強調されすぎている。 重要な一部が軽く扱われすぎている。

 この妥当でない表現は、一般的には「偏向表現」と呼ばれている。

 現代日本だけでなく、世界中のメディアで多用されている手法。

(※1 「偏向表現」、特に政治的偏向表現は、中共やロシアなどの独裁(的)国家ではない、「西側自由主義諸国」では、「言論の自由の権利」によりしっかり守られている。)

(※2 そもそもその表現が偏向しているかどうかの判断は、上記しているようにかなり難しいこと。だから、実際的には、世にある「偏向批判」の多くは、私のも含めて、《自説と比較すると偏向している》と評価・批判しているのだ、というふうにつつましく謙虚に理解しておくのが賢い態度なのだろう。)

 

 しかし、日本国の公的な義務教育の教科書ということになると、《偏向してはいけない》と、ほとんどの日本人は考えているだろう。(日本では、学問的客観性や学問的良心はまだまだ健在だと思う。)

 とても手がかかる評価作業になるが、近現代史になると、”偏向についての評価”も避けられないようだ。

 

~次回、まとめと考察3~

<全リンク⇒> <日朝関係(戦前) 1521153154155156157158159160161162163164165166167168169170171172173174175176177178179180(この項完)>