やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】169 ⒄ 日朝関係(明治-戦前)の描き方 その16 <ⅳ 日露戦争・日韓併合 7(まとめ3) >

2017年05月03日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

■「ⅳ 日露戦争・日韓併合」のまとめと考察 3

・まとめ表→<167

3 「1910(明治43年)併合のしかた」の描き方 その2

ⅲ 「植民地」という表現について

・併合後の朝鮮を「植民地」と表現しているのは・・・東京書籍、教育出版、日本文教、清水書院。

 

<ウィキペデア:植民地>より

・「植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。

 古くはフェニキア古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。
 近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもあるが、以下では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。

 近現代においては本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。」

 ※日本の場合は微妙・・・全部じゃなく部分的に、というところが…

 

<ウィキペデア:韓国併合>より

「植民地」という呼称が使われることについて

・「植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない。

 ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。」

 

・「なお、実際にはいくつか勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。

 

  • 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている。
  • 1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている 。
  • 1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている。

 

 また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太関東州南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。

 

 また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守の論壇誌などでしばしば論じられる。
 欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。

 のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。
 この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。」

 

・「戦前から在野の学者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があった。

 憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないとしていた。
 民本主義を最初に主張したとされるジャーナリストの茅原華山は、1913年の著書『新動中静観』の中で、台湾及び朝鮮を日本の「投資的植民地」であり「生産的植民地」であると述べたものの、その意味で朝鮮は大きな価値が無いとした。
 経済学者の福田徳三は、朝鮮の人口が既に過密なことから、「民を植(う)える地」という「植民地」及び「民を殖(ふや)す地」という「殖民地」という単語は不適切だとした。

 全国経済調査機関連合会は、朝鮮を「各般の事情が植民地乃至それに準ずべき立場に在る」としながらも、朝鮮の財政は地方財政(府県財政)と同様の地位にあるとした。

 戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(大日本帝国)臣民の権利に国籍条項など制限があったことをもって、植民地であったとする主張がある。

 

 小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。

 また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっていると理解するのが一般的である。

 これに対して(終戦記念日の村山談話、及びそれを踏襲した政府見解における)「植民地支配」とは、朝鮮統治そのものについて言ったのではなく、戦争行為にもとづく満州政策などについて言ったもので、満州を植民地にするための拠点として朝鮮半島を利用した、という意味との解釈もある。

 

 

 要するに、《併合時の朝鮮を「植民地」と呼ぶかどうかについては当時から現在まで多様な見解・意見があるが、現在の日本政府は「植民地」を公式見解としているとみなされている》ということだろう。

 

 蛇足だが、上記4社以外は、「植民地とよぶにはその定義(概念)上不適切」という見解を採っているか、「保守派」の主張(≒欧米列強の植民地運営のやりかたと日本の実態はちがう)を是として(中学生の誤解を避けて)いるかのどちらかなのだろう。

 確かに、欧米列強は、19世紀以降のアジア・アフリカにおいて、《収奪的な鉱業や、「原住民」の低賃金労働(あるいは奴隷的労働)を前提にしたプランテーション農業》は盛んにおこなったが、日本のような《その地域を豊かにする「殖産興業」政策》や、《現地人(外地人)の識字率向上などをめざす(義務)教育的政策》は実施していない。

 そのちがいの要因としては、《有色人種への当時の白人の強烈な人種差別意識》や、《日本における「(汎)アジア主義の存在》が考えられるが…

 

~次回につづく~

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