©下田昌克

「母はよく、水を沸騰させることができたら、スープを作ることができると言っていた」

 スープという料理を語るうえで、これ以上の言葉はないと思う。『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(キャスリーン・フリン・著 村井理子・訳 きこ書房)を読んでいて出会った。

 ほんとうにその通りだ。むずかしいことは何もいらない。水さえ沸騰させたら、あとは鍋まかせ。火にかけた鍋のなかで起きるなりゆき次第のすてきな出来事の名前を、スープという。

 ぐんと冷え込んできた。飲むと身体の内側から温まるから、熱いスープだけは欠かせない。ハナ水たらしながら一杯のスープ(味噌汁もスープの仲間です、もちろん)を飲み干すと、さっきまで冷えびえしていた背中とか指先に血が通い始めるのがわかるから、その威力は絶大。自分で作ったのに、お母さんありがとう、という気持ちになる。

 しょっちゅう食べたいので、ちゃちゃっと手を動かしただけで作りたい。だいいち、構えると疲れるし、けっきょく面倒になるのが悲しい。だから、「水を沸騰させることができたら」。キャスリーンのお母さんは、だいじょうぶ、ありあわせの材料だけでスープは何とでもなるのよ、と言っている。

 私のスープにしても、自慢じゃないがそのときどきの事情次第、ローリングストーン。今朝作ったのは、白菜、えのき茸、ねぎ、豆腐のスープだ。ピンとくる方もおられると思うのだが、これぜんぶ、きのうの夜の牡蠣鍋の残りです。牡蠣以外の野菜が少しずつ中途はんぱに残ったので、すかさず。

“鍋の翌朝は、おいしいスープにありつける”という冬場のルーティンを定着させるべく、鍋物のときは野菜を多めに切っておいたり、わざと余らせておいたり、ちゃっかりやっています。豚しゃぶなら、残しておいた豚肉を刻めば豚汁っぽくなるし、豆腐だけ残ったら、細かくあられに刻んだり、ぽろぽろに潰したり、浮き実に化けさせる。大根おろしで作るみぞれ鍋の翌朝は、大根おろしの味噌汁だ。

 転んでもタダでは起きないのが、スープという料理の基本精神だ。

 わざわざ用意したのではない、ありあわせの材料だからこそ、「水を沸騰させることができたら」オールオッケー。そこへ貪欲という味つけをほどこす。強引にでも偶然を味方につけ、どうせならうまいスープを飲みたいという野望、欲望。

 今朝は、スルメと昆布をハサミで細く切って入れてみた。乾物箱のなかにスルメの端切れがたしか残っていた、アレをだしに動員しようという魂胆だ。チョキチョキ細く切れば水で戻す手間もいらず、鍋に放りこむだけで自動的に柔らかくなるし、だしも出て一挙両得。昆布とスルメが合うかどうかは微妙かもしれないが、えーいままよ。

 スルメをスープのだしに使うのは、香港で覚えた。干しエビ、干し貝柱、干し牡蠣、エビの卵などがスープのだしになるのと同じく、スルメも寸胴鍋のなかでだし要員になっていた。以来、だし用に買い置きしている。

 二十分ほど煮ただけなのに、おいしいスープになった。白菜、えのき茸、ねぎ、豆腐、スルメと昆布、醤油、酒。胡椒とごま油という欲望もたらり。ふうふういいながら二杯飲んだら、ハナ水だらだら。やっぱり今朝も、お母さんありがとう、と思った。