湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

信長の遺骨と首・・・歴史の考察

2018-08-06 21:46:40 | Weblog
信長の遺骨と首が本能寺から持ち出されたいきさつを
安部龍太郎氏の著書からまとめてみます

阿弥陀寺の開山青玉上人は
正親町天皇の勅願僧に任じられたほどの高僧でした

信長と親しかった青玉上人は
本能寺で合戦が始まったと聞くと
20人ばかりの供を連れて、本能寺に駆けつけました
信長は、すでに自刃した後でした

近習達は、遺体を敵に渡さぬように、荼毘に付していました
そこにいたのは、いずれも顔見知りの者たちでした
青玉上人は
信長の墓を作って供養すると言って、遺骨を引き取り
本能寺を逃れる僧達にまぎれ、脱出したのです

信長の首は、本因坊算砂(日海上人)の指示により
当日、信長の共をしていた原志摩守宗安が
西山本門寺に運んで、供養しました

変の前日、本因坊算砂と鹿塩利賢は
本能寺において、碁の対局をしたことが知られています
本因坊は、その日は本能寺に泊まり
翌日、変に巻き込まれたのでしょう

さて、ここから先は、私の考察です

まず、庭で信長の遺体を焼いていたということは、ありえません
人間の死体を焼くのは、長時間を要するからです
今にも明智軍が本能寺に突入しようとしている時
そんな悠長なことは、していられません

信長の遺体は、本堂の中で
周囲に可燃物を積み上げて火を付けられ
本堂が焼け落ちるとともに、灰になったのです

青玉上人は、信長の遺品だけを受け取って
ひとまず、本能寺を出て
翌日以降、近習達から聞いておいた
信長の遺体を置いた場所から
遺灰もしくは遺骨を回収したのです

ちなみに、焼かれた信長の遺体には
首は付いていませんでした
信長は切腹しましたから、当然、介錯され
首は胴体から切り離されているのです

信長の首は、けして明智光秀に奪われてはなりません
さらし首にされ、信長の死を天下に公表されてしまうからです
この時代は、大将が死ねば
軍団は、一気に求心力を失ってしまいます
信長の死の証拠は、なにがなんでも、消さなければなりません
しかし、信長の首を焼くことは、誰もが、忍びがたい・・・

本因坊算砂は、何らかの知恵を働かし
信長の首を、無事に外部に持ち出すことに成功し
自分にとってゆかりのある石山本門寺に運ばせたのです
その後、境内に本因坊という坊舎を作り
そこに住み、信長の慰霊に生涯を捧げたのです



コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 信長の首塚・・・歴史の考察 | トップ | 信長の首が消えたマジック・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事