湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

若き荒武者・松平元康・・・歴史の考察

2017-02-22 13:20:26 | Weblog
今川義元が尾張の織田制圧のために
大軍を率いて、尾張侵攻を決めた時
そして、その先陣が自分であると知らされた時
松平元康(徳川家康)は
つくづく自分の運命を嘆いたことでしょう

幼い頃から、悲しい運命に翻弄された徳川家康です
人質として過ごした少年時代は
記憶の底にある織田信長の面影だけを頼りに
日々の苦難に耐えて、生きてきたのです
信長との再会の日を夢見ながら・・・

それが、なんと!
夢にまで見た信長との再会シーンは
敵味方に分かれた戦場となってしまうのです
しかも、おそらく、生きて帰ることは難しい・・・
仮に自分が生きて帰れるとしたら、味方の圧倒的な勝利であり
それは即ち、信長の死を意味するのだ

松平元康は覚悟を決めました

それなら、それでいい
信長様の前で、あの三河の人質が
立派な若武者になったことを、お見せしよう!

死を覚悟した18才の松平元康は
鬼神のごとき若き荒武者になっていたのです




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家康が胸に秘めた信長への思い・・・歴史の考察

2017-02-21 16:16:47 | Weblog
竹千代(徳川家康)は、人質交換により
駿河に送られることになりました
私は、竹千代が尾張を離れる日のことを想像します

信長は竹千代に別れの言葉を掛けます

「また会おう、必ず、それまで生きているのだぞ!」

涙で潤む目をしばたたきながら
竹千代は、涙でかすむ信長を見て
ただ、頷くしかありませんでした
そして

「また会おう・・・  」

の言葉を、胸に深く刻みつけたのです

駿河での竹千代の人質生活は
豊かな今川義元のもとで
物質的には不自由はしませんでした
駿河から三河まで逃亡するのは困難ですから
監視も、さほど厳しくなかったはずです
しかし、精神的には辛いものだったようです
見下されたり、馬鹿にされたり
嫌がらせやイジメを受けていたのです

気性の激しい竹千代は
悔し涙に枕を濡らして、床につくこともあったでしょう
そんな時、尾張を離れる時の織田信長の言葉を
あの、自分を守ってくれた優しい兄さんの言葉を
じっと噛みしめて、耐えていたのです

そして誓ったはずです
卑屈にならず、自暴自棄にもならず
武術の稽古にも学問にも精を出し

「いつ信長様に会っても、恥ずかしくない武将になろう!」

・・・と

徳川家康は、武術にも学問にも秀でた武将です
そして堪忍(怒りをこらえること)を極めて重視しました
いずれも、人質時代に形成された、能力と思想だったのです



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家康人質時代にできた信長との絆・・・歴史の考察

2017-02-20 14:57:36 | Weblog
織田信長と徳川家康との間に
深い強い絆が存在したことは確かです

私は、家康が尾張で人質として過ごした幼年期に
信長と家康の絆が出来たと考えています

信長は、家康から見ると、8才年上の兄さんです
家康が人質になった6才の時は
この兄さんは、14才か15才です
それから2年間、幼い竹千代(徳川家康)は
ティーンエイジャーど真ん中の
織田信長と過ごしたことになります

この頃の織田信長は

「尾張の大うつけ者」

と呼ばれていて、奇抜な格好をしながら
身分にかかわらず、同世代の若者達とつるんで
バカをやっていたのです

好奇心旺盛な信長は
三河から奪った幼い人質に興味を示し
すぐに見に来たはずです
そして、このチビが気に入ってしまったのです

竹千代は、人質とはいえ、実の母は離縁されているし
父の後妻の父親に尾張に売られてしまったわけで
実際には、捨てられたようなものでした
父の後妻に男子ができれば、竹千代がいない方が
松平家の収まりが良くなるからです
実父は織田側に「殺してもいい」と言っています

この可哀相な子供の人質に
若き信長は、興味を示し、可愛がったのです
おそらく、殺されることからも
いじめられたり、粗雑に扱われることからも、守ったのです

8才離れた二人の少年の間に、心の絆が生まれました
ティーンエイジャーの信長は、幼い竹千代(徳川家康)の中に
自分と共通する何かを、感知していたのです

織田信長と徳川家康という二人の英傑が
このタイミングで出合っていたことは
その後の歴史に、決定的な影響を与えました
私はこれを”歴史の奇跡”だと考えています



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信長と家康の間には謎の関係があった・・・歴史の考察

2017-02-19 13:57:23 | Weblog
戦国時代のことを学び始めて
実に解せないことが、織田信長と徳川家康との関係です

この二人は、信長が「本能寺の変」で亡くなるまで
一度として、戦ったことは勿論、裏切ったこともありません
若い時に同盟を結んで、それがずっと守られたからです
所領は地続きで、祖父の代からの仇敵同士だったにもかかわらず・・・

当時の同盟は、簡単に反古にされてしまいました
人質を取るのは当たり前ですが、信長は、それもしていません
後に、家康の長男と信長の娘が結婚しています
この結婚は、不幸な結末になりましたが・・・

「桶狭間の戦い」で、織田信長が今川義元を討った時も
今川方の最前線は松平元康(徳川家康)でした
信長は、最前線の家康とは戦わず
迂回して、今川義元の本陣を狙い、義元の首を取りました

従来の歴史解釈では
大軍の今川に対し、寡兵の織田信長が取った
見事な奇襲作戦だと考えられてきました

その通りだとは、私も思うのですが
もしかしたら、信長は、家康と戦うのが嫌で
いろいろ悩んでいるうちに
この作戦を思い付いたのかもしれない・・・
とも、考えたりするのです

なぜなら
織田側は、丸根砦を家康に落とされているにもかかわらず
反攻もせず、さらに
三河に逃げ帰った家康を、追撃してもいないのです

おかしな点は、まだあります

岡崎城に戻った家康は
まだ、妻子を駿河の今川の元に残した状態で
もう、反今川の姿勢を明らかにしています
これには、善元の後を継いだ今川氏真も驚き

「松平蔵人逆心」、「三州錯乱」

などと言っています
「気でも狂ったか!」といった感じです

三河から、東の今川領を攻めるには
西の尾張の織田から、攻められる心配が無いことが条件です
まだ「清洲同盟」は結ばれていません
家康が岡崎に戻るとすぐに、事実上
信長と家康の間には、盟約関係があったとしか考えられないのです



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不幸な家康の幸運な復帰・・・歴史の考察

2017-02-18 17:11:09 | Weblog
桶狭間で今川義元が討たれた時
徳川家康は、当然自分も討たれるものと覚悟し
自害しようとしました
当時の常識では、当然、そうなるのです

元々、三河の松平家の家臣団は、まとまっておらず
家臣の半分は、尾張の織田家に与したいと考えていました

家康の祖父も父も
織田家に通じた家臣の裏切りにより
殺害されたと言われています
家康の実母も、父親が織田家側についたので
家康が3才の時に、離縁されているのです

そもそも、家康自身が
6才の時に、駿河の今川家に人質に送られる途中で
同行した松平家の家臣の裏切りにより
尾張の織田家に運ばれてしまったのです
その事実を織田家から知らされると
家康の父親は

「殺すなり、なんなり、勝手にしろ」

と返事をしています
家康は、6才にして
父親からも捨てられてしまったのです

尾張で生かされていた家康は
それから2年後、人質交換で
織田家から、駿河の今川家に送られました

今川義元が討たれると
岡崎城にいた今川の代官は、駿河に逃げ帰り
空になった岡崎城に、家康は入ったのです
自害しないで正解でした
あっけなく所領に復帰し、岡崎城主になりました
そして何故か、織田の軍勢の攻撃はありませんでした


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「清洲同盟」・・・歴史の考察

2017-02-17 16:25:29 | Weblog
織田信長のイメージとして
革新的で戦に強い武将というものがあります
その通りなのですけれど
もう一面として、経済政策に強い行政家という面もあるのです

戦闘員たる武士を城下に集め

「兵農分離」

を、しました

これにより、機動力がある軍団ができたばかりでなく
農民は、農作業に集中することができ農業生産が増えました
さらに、城下町が形成されて商人が集まってきたのです

城下に集まる商人達に自由に商売をさせるため
織田信長は、閉鎖的な商業集団を廃止します

「楽市楽座」

です
現代で言う「規制緩和」あるいは「規制撤廃」です

織田信長の統治下にある尾張では
誰もが自由に商売ができるため、人が集まり
経済が発達し、とても豊かだったのです

この経済的豊かさを後ろ楯として
信長は、大量の鉄砲など、軍備を整えることができましたし
幕府や朝廷のスポンサーになることもできたのです

尾張の隣にある三河は、とても貧しい地域でした
尾張の織田と駿河の今川に挟まれて、内紛が絶えず
しかも、事実上、今川の植民地として搾取されていました

人質とはいえ、駿河の今川の元で、裕福な生活を知っていた家康は
所領の三河に戻って、その貧しさに唖然としたはずです
それに比べて、隣国の尾張の豊かさは何でしょう!

尾張の指導者は、若き織田信長です

平和とは、ただ戦争が無いだけではいけません
人々が豊かで、幸せに暮らせる社会でなければいけません
真の平和を求める徳川家康には、迷いはありませんでした
「織田信長様について行こう!」と考えたのです

こうして、信長の死まで守り続けた

「清洲同盟」

が結ばれたのです

祖父の代から争った隣国尾張の織田家ではありますが
松平(徳川)家康は、織田信長に対し
全面的な忠誠を誓ったのでした


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徳川家康の夢・・・歴史の考察

2017-02-16 18:48:55 | Weblog
徳川家康は「姉川の戦い」の時には、すでに

「厭離穢土、欣求浄土」

の旗印を掲げています
(おんりえど、ごんぐじょうど)
と、読みます

「汚れた地を離れ、清らかな地を求める」

と言う意味であり

「戦国の世を終わらせ、平和の世にする」

という意味になるのです

家康は、独立した小大名になって
織田信長と同盟を結んだばかりの頃から
平和の探求こそ、自分の使命と考えていたのです

「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長に討たれると
今川軍の最前線にいた家康は
三河の菩提寺、浄土宗・大樹寺に逃げ込み、自害しようとします

大樹寺の住職・登誉は浄土三部経からの一節

「厭離穢土、欣求浄土」

を示し、家康に自害を思い止まらせたのです

織田信長と同盟を結んだことも
織田信長を助けるために命懸けで戦ったことも
徳川家康にとっては”平和の探求”だったのです

戦国大名は”血に飢えた殺人鬼”だと思っている人がいます
事実、彼らは多くの人を殺し、見せしめの残虐行為もしています
徳川家康も、織田信長も、この点では例外ではありません

にもかかわらず、実際は
徳川家康は、一貫して、平和を求めていたのでした
そして、家康にとっては、織田信長こそは
命に代えても守りたい”平和の創造者”だったのです



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織田信長の言動・・・歴史の考察

2017-02-15 16:46:03 | Weblog
「小牧山城」

は、織田信長が最初に築城した城です
この城を造る前に
小牧山よりも標高が高く、清須から遠いところに
城を造る予定が発表されました
家臣達の引っ越しは、なかなか進みませんでした

それが小牧山に変更され
家臣達は大喜び、引っ越しも一気に進みました
小牧山は清須に近く、標高も低く
清須からの水運の便もあったからです

織田信長は、家臣達の苦労を慮って
計画を変更したのでしょうか?・・・そうではありません
戦略上の要衝を、そんな理由で決めるわけが無いのです

信長は、初めから、小牧山に城を築くつもりでした
しかし、山城への移転を
家臣達がすぐに同意しないことが分かっていたのです
そこで、わざと、より困難な場所を指定して
家臣達を困らせたあげく
小牧山なら何とかなると、家臣達を誘導したのです

「長篠の戦い」

は、歴史的な戦いです
織田信長の勢力が武田を圧倒する契機となった
日本史上の重要な戦いだからです
別の意味では、歩兵の鉄砲隊が騎馬軍団を圧倒した
人類の戦術史に残る画期的な戦いでもありました

この戦いの時、軍議の席で、酒井忠次は
自分が囮になって、武田の軍勢をおびき出す作戦を提案します
騎馬軍団をおびき出し、銃撃で壊滅させるための
織田信長の狙いに沿った、見事な作戦でした
しかし信長は、その場で却下します
そして、その夜、信長は密かに酒井忠次を呼ぶと
この作戦の実行を命じたのでした

織田信長は、目的を達するためには
家臣や味方すら欺き、情報を隠したり
違う情報を流したりします
戦略思考と目的合理性に徹した言動をするのです

徳川家康に、所領を平和的に放棄させるために
逆らえば、明智光秀を使い家康を討たせるという偽情報を
光秀だけに信じ混ませるために
信長は、手の込んだ大芝居をしたのでした

明智光秀は、有能な武将でした
有能なだけではなく、信長の言いつけを守る忠実な家臣でもありました
まさか光秀が、自分に対し謀反を起こすなど
織田信長には、まったく考えられないことでした

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策に溺れた織田信長・・・歴史の考察

2017-02-14 19:00:37 | Weblog
天正8年8月
織田信長は、旧臣の佐久間信盛をリストラしています
同じ頃、何人かの旧臣がリストラされています
このことが織田家臣団にリストラ不安を与えたことは確かです

しかし、佐久間信盛をリストラした時は
明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家の働きを評価した上で
それに比べて、お前は無能であると、リストラの理由としています
明智光秀がリストラに怯える必要は無さそうです

ここで私には思い出すことがあります
営業会社で、営業成績の悪い社員を辞めさせるために
締め付けを厳しくすると
何故か、営業成績の良い社員までが辞めていくのです

もしかしたら、織田軍団の武将達にも
同じような心理作用があったのかもしれません

それはともかく
明智光秀が、リストラの不安に怯えていたことは確かです
信長の演技が迫真的であったからでしょう
これが結局、信長自身に不幸をもたらしてしまいました・・・

冷静に考えれば、明智光秀には、分かるはずでした
天下統一が確実視できるようになったこの時期に
よりによって、織田軍団の結束を弱めるようなことを
信長がやるわけが無いのです
無能な旧臣をリストラしたのも
むしろ、軍団の結束を高めるためのもののはずでした

ただし、徳川家康も
織田信長の命令で妻と長男が命を失っているわけで
明智光秀の言い分も、それなりに理解できます
この時期の織田信長は、明らかに驕慢になっていました
家康の気持ちが理解できなかったように
まさか光秀が、自分に対し
謀反を起こすなど、考えもしなかったのです

家康にとっては、信じがたいことではありますが
現実問題として、明智光秀の謀反の意思は硬そうです
これには細川藤孝も、筒井順慶も困ったしまったはずです
家康は、羽柴秀吉に、この情報を流し
打てるだけの手は、打っておいたのです

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徳川家康の勘・・・歴史の考察

2017-02-13 18:41:59 | Weblog
武田を亡ぼした後の織田信長は
徳川家康に対し、ほとんどストーカーです

信長は、富士山見物と称し
家康の領国である駿河、遠江、三河を案内させています
その後は、安土城に呼んで、饗応し
さらに、京都、本能寺で茶会を開くからと
京、大坂に家康を留め置いたのです

つまり、武田の滅亡から本能寺の変に至るまで
織田信長は、徳川家康に関わり続けているのです
ちょっと、異常な感じを受けます

富士山見物は、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶を伴い
極めて少人数で、武装せず
家康を信じきって、物見遊山をしたのです
ただし、明智光秀は、常に、信長の隣に部屋を取らされていました

一体、織田信長は、何を考えていたのでしょう?

おそらく、毎晩のように
信長と光秀は、その日見た地形や砦について話し合い
家康領の攻略方法を検討していたことでしょう

明智光秀は、自分が総大将となり
細川藤孝と筒井順慶を率いて
家康領に攻め込む未来を考えたことでしょう
まさに、そう思わせるのが、織田信長の狙いでした

一方の、徳川家康は
まことに奇妙な感じを受けていたはずです
自分の所領を検分されるのは気分がいいものではありません
しかし、それにしては、信長一行は丸腰の少人数です
殺そうと思えば、いつでも簡単に実行できます
信長は、完全に自分を信じ切っている・・・どうしたことか?
こんな変な戦の下見があるだろうか?
家康は、考え込まざるを得なかったはずです

徳川家康は、独自の勘により
織田信長が自分を殺す気が無いことを分かっていました
明智光秀が必死になって送ってくる信長情報を
醒めた気持ちで受け止めていたのです
だからこそ、信長の命に従い
わずかな人数で、堺で遊んでいられたのです
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