湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

織田家を乗っ取った羽柴秀吉・・・歴史の考察

2016-06-27 14:11:39 | Weblog
「本能寺の変を」を様々な側面から考え続けています

歴史的意味は極めて重大です
しかし、事変そのものの持つミステリアスな性格も
当方の探究心を刺激する謎です

一番不可解なことは
羽柴秀吉が10日間もかけて
備中松山城から京都まで攻め上ってくる間
誰も、京都の明智光秀を討とうとしなかったことです

信長直属の軍団は何をしていたのでしょう?
信長の長男信忠は、信長と同日、二条御所で自害してしまいましたが
彼は、せいぜい500程度の軍勢を率いていただけです
他の家臣団はどこにいたのでしょう?

そればかりではありません
信長の次男信雄は何をしていたのでしょう?
三男信孝は四国攻めの総大将として
大阪湾に軍船を集結し、すぐにでも進発できる体制のはずでした
彼は、なにをもたもたしていたのでしょう?

私の手元には、そうした謎を解明する資料はありません

はっきり言えることは
羽柴秀吉が織田家の主導権を握って以来
織田家の家臣団は、柴田勝家や滝川一益ら一部を除いて
すべて羽柴秀吉の傘下に入ったということです
羽柴秀吉は、織田信長の強大な権力を
そっくり受け継いでしまったのです

「本能寺の変」と、変後の帰趨は
明智光秀の事前の根回しは、ことごとく裏切られ、失敗し
羽柴秀吉が、秘密裏に行っていた事前の根回しは
どれもこれも、驚くほど上首尾であり
織田家に臣従する者のほとんどは
羽柴秀吉に臣従してしまったということです

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人心掌握が政権奪取の決め手・・・歴史の考察

2016-06-26 09:59:46 | Weblog
明智光秀は、幕府の役人でしたが
信長と将軍の関係が悪くなると
将軍・足利義昭に見切りを付け、織田信長に臣従します

そして、信長とともにやったことが

「比叡山焼き討ち」

です

その後、信長と光秀は、石山本願寺攻めもしています
仏教関係者には、両者とも、許しがたい人物です

そればかりではありあせん
すでに、足利義昭の元で幕府の役人をしている時に
東寺の寺社領を横領したと、訴えらています

さらに言えば
光秀の築いた福知山城は墓石が石垣に使われています
明智光秀もまた、信長とともに
宗教関係者、そして京都に嫌われた者でした

明智光秀の行動をみていますと
自分に人望が無いということに無自覚です
ナンバーツータイプの人間によく見られる性格です
豊臣秀吉の家臣、石田三成も、このタイプでした・・・

サラリーマンにもいます
有力者の腰巾着になって、それなりの権勢を振るうのですが
周囲からは嫌われていて
やがて、その有力者がいなくなると
誰からも相手にされなくなるというタイプです

私が明智光秀の性格を問題にするのは
本能寺の変の帰趨は、つまるところ
明智光秀と羽柴秀吉の性格の違いによって決まったと考えるからです

明智光秀が政権を取れなかったのも
羽柴秀吉が政権を取れたのも
彼らの性格が決定的な要素であった考えられます
羽柴秀吉は人心をつかみ、明智光秀は、それができなかったのです
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人の心が分からない明智光秀・・・歴史の考察

2016-06-25 16:29:37 | Weblog
明智光秀という人物を、どのように解釈すべきでしょうか?

明智光秀は、戦も上手なら、朝廷の儀式にも通じ
何事も段取りよくこなし
織田信長からは、最大の評価を得た武将でした

学者達は明智光秀を”近畿管領”と呼んでいいといいます
そのような名称の役職はありませんが
滝川一益を”関東管領”と呼ぶなら
明智光秀は”近畿管領”と呼ぶに相応しい地位だからです
近畿地方の大名達は、組下や与力と呼ばれ
明智光秀の指揮下に入るとされていたからです

光秀の弱点は、人の気持ちを読めなかったことです

本能寺の変で信長を討つことに成功したにもかかわらず
細川藤孝・忠興父子の支持は得られませんでした
いくら待っても、筒井順慶は、結局、現れませんでした
摂津衆は、高山右近をはじめ、全てが敵に回りました
光秀に従った者は、公家の吉田兼見や近衛前久だけでした
しかし、公家というのは、その時点での有力者になびく者です・・・

そればかりではありません
イエズス会の宣教師オルガンティーノは
明智光秀の家臣に助けられたにもかかわらず
光秀を討つように、高山右近に命じています

光秀がキリスト教に好意的であったことは
細川忠興に嫁いだ娘の玉が、やがてキリスト教に帰依し

”細川ガラシャ”

となったことでもあきらかです

それでも、明智光秀は、イエズス会関係者にまで裏切られたのです

足軽だった明智光秀を足利義昭の家臣として
幕府の役人としての立身出世の道にのせたのは細川藤孝です
その藤孝を与力として、自分の目下に置き
しかも息子の細川忠興に娘を娶らせるという行為を
それが織田信長の意向であったとして
明智光秀は、何も感じていなかったのでしょうか?

明智光秀には、細川藤孝の気持ちを忖度した気配がありません
自分のやることには、当然、ついて来ると思っていたようです
実際には、細川藤孝は、光秀からの協力要請を拒否します
その間のやりとりの証拠となる手紙類は、すべて破却しています
現在残っている細川家文書の信用度は
研究者からは、疑問符をつけられています

優秀なはずの明智光秀は
なぜか、人の心をとみ間違えてしまう人間でした



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明智光秀を動かした”甘いささやき”・・・歴史の考察

2016-06-24 17:43:17 | Weblog
吉田兼見は、公家であり、朝廷の武家伝奏であり
そして「吉田神道」の宗主でもありました
「暦」は、自身の権威にもかかわる深刻な問題です
もはや信長を消すしか、解決策は無さそうです

そこで兼見は
明智光秀を利用することを考えます
織田信長との将来に不安を抱く明智光秀の前に
光秀が飛びつく獲物をぶら下げたのです

信長を討ってほしい
そうすれば、ただちに
朝廷が「征夷大将軍」の宣下をする
日本全国に号令し、天下の静謐を取り戻して欲しい
貴殿にしか、それはできない・・・

吉田兼見の甘いささやきに、光秀の心は動きます
自分を、いずれ切り捨てる気でいる信長に
まして自分を足蹴にするような男に、これ以上ついて行く気は無い
必ず倒すつもりでチャンスを狙っていた
しかし、信長を倒しても、その後の展開が読めなかった・・・

それがついに、なんと!
自分が天下人になるチャンスが巡ってきたのだ
光秀の心は、浮き立ちます

もともと
織田信長の本拠地でる尾張一帯は土岐一族の所領でした
土岐一族の血脈である明智光秀には
信長を倒し尾張の支配者になることに特別な意味がありました
さらに、征夷大将軍にもなれるのです
天皇から将軍宣下を受けるのです!

細川藤孝の足軽であった明智光秀は
藤孝が信長の支持を得て足利義昭を将軍に擁立した時
藤孝が義昭に提供した家臣でした
そこから、光秀は、信長の知遇を得たのですが
やがて信長と義昭の関係が悪くなると
義昭を捨て、信長に仕え、立身出世の道を突き進んだのです

明智光秀は”近畿管領”とも呼ぶべき実力者となりました
織田信長の威光によるものとはいえ
かつての主君・細川藤孝をはじめ、近畿一帯の大名達は
与力や組下となって、光秀の指揮下に入ったのです
今となっては、足利義昭などより自分の方が
はるかに、将軍職が似合っていると考えたことでしょう


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朝廷の権威を否定した信長・・・歴史の考察

2016-06-23 15:47:26 | Weblog
天正10年3月、武田氏を亡ぼすと
もう、織田信長には怖いものはありませんでした
信長の根拠地を直接脅かす勢力は
日本国内には存在しなくなったのです

越後の上杉、小田原の北条、中国の毛利・・・
いずれも遠国の大名であり
強大になった織田軍団に、攻勢をかける力はありません
彼らを屈服させるのは、時間の問題でした

織田信長は、朝廷に対し傲慢な要求を突きつけます

「三職推任」

太政大臣、関白、征夷大将軍
この三つの地位のすべての推薦状を出せ
好きな地位を俺が選ぶ・・・というわけです

朝廷にとってみれば、耐えがたい屈辱です
近衛前久にとっては、信長に太政大臣の地位を与えるためには
自分が、その地位を辞任する必要さえありました
さらに、信長は天皇後継問題にまで、口を挟むようになりました

もはや、朝廷にとって我慢の限界でした
しかも、さらに切実な問題が発生したのです

「暦」

をどうするかです

織田信長が領国の尾張で使っていたのは「三島暦」でした
三嶋大社が発行しているもので、源頼朝より発行を命じられた木版の暦です
三島暦という言葉には、木版の暦という意味もあるほどで
それだけ広く普及した暦だったのです

旧暦では
29日の小の月と30日の大の月が交互に続き
12ヶ月が354日になります
月の満ち欠けは、だいたい29、5日周期ですから
月を基準に暦を作ると、こうなるのです

このままにしておきますと、月がだんだんずれて
正月が夏になったり、8月が真冬になったりしてしまいます
そこで約3年に1回”閏月”を入れ、調整するのです
閏月を何処に入れるのかは、天体観測によって決めるため
計算や文書による明確な基準がありませんでした

朝廷の暦の”天正11年1月”は
織田信長の使う三島暦では”天正10年閏12月”となっていたのです
信長は、朝廷にも、この暦を使わせようとしました
「暦」は朝廷の権威の最後の拠り所です
これを否定されては、もはや朝廷の権威の消滅です

これが別の月ならまだしも
1月と12月の違いでは、年度も変わってしまいますし
それよりなにより、朝廷は
半年先の正月の行事の予定も立てられなくなってしまったのです
これは実に切実な問題でした・・・





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京都に殺された信長・・・歴史の考察

2016-06-22 12:46:19 | Weblog
織田信長は
日本における最大のキリスト教庇護者でした
事実上のキリシタン大名でした
織田信長自身は、キリスト教徒ではありませんが
彼は、大量の鉄砲と弾薬を維持するため
キリシタン擁護政策をとったのです
そして、比叡山焼き討ちや石山本願寺攻撃を仕掛けたのです
やっていることは、キリシタン大名そのものでした

京都の人々
仏教・神道関係者
そして、その頂点に位置する天皇と朝廷にとって
織田信長は、好ましからざる人物の最たる者でした
誰もが、彼の滅亡を望み、彼の死を祝福したのでした

おそらく
最初に信長暗殺を考えたのは、京都の人々でした
その代表が。吉田兼見や近衛前久だったのです
彼らは、信長に服従するふりをしながら
密かに、信長暗殺のチャンスを狙っていたのです

京都で
神官や公家が、織田信長の所行を苦々しく耐えていた頃
織田家内部からの不協和音が聞こえてきました
織田信長を支えた有力武将達が
将来に不安を持つようになっていたのです

苦悶する京都の人々にとって
京都と関係の深かった明智光秀は
信長暗殺計画を実行する上で
抱き込むべき、最も身近な存在でした
光秀を抱き込み、彼らは、信長暗殺を実現したのです

日本における伝統宗教とキリスト教の対立
これこそが、本能寺の変の要因であり、本質でした
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キリシタン大名・・・歴史の考察

2016-06-21 16:19:09 | Weblog
織田信長は、足利義昭の後援者として
彼を将軍職に就けてから、事実上の、京都の支配者になりました

そして、そこで信長のしたことの中に
京都におけるイエズス会のキリスト教布教の許可があります
京都には教会も建てられました
京都は、日本におけるキリスト教布教の中心の一つとなったのです
イエズス会側から見れば、織田信長こそ
日本におけるキリスト教布教の最大の擁護者になったのです

このことは、日本の伝統的宗教関係者
仏教や神道、そして天皇と朝廷にとっては、由々しき事態でした
彼らは、イエズス会とキリスト教宣教師達が
日本で何をしているのかを知っていました

九州においては
イエズス会から援助されたキリシタン大名達が有力となり
仏教徒を迫害し、寺社を破壊し
キリスト教に改宗しない者達を殺したり
奴隷にして、外国にに売り飛ばしたりしていました
東南アジアでは、そうして売られてきた日本の娘達は
裸のまま、檻に入れられ、商品として並べられていたのでした
当時の日本人の感性では、正視できない光景でした

キリシタン大名達は、火薬の原料である硝石を買うため
日本の若い娘を奴隷として売っていたのです
自動車も半導体も無い時代、輸出品は人間しかありませんでした
イエズス会の宣教師が日本に渡ってきた時代は
世界は、植民地化と、奴隷貿易の時代でした
日本もまた、例外ではなかったのです

当時、銃は日本で国産できました
日本製の銃の性能は、ポルトガル銃よりも優れていました
しかし、日本には火薬の原料となる硝石が無かったのです
キリシタン大名達は、日本人を売って硝石を買い
その火力によって、権力を手にし
神社仏閣を破壊し、日本の伝統的宗教を弾圧したのでした

キリシタン大名といっても
キリスト教に帰依した者と言うよりも
イエズス会から武器や資金の援助を受けた者達と言うべきでした
それは、現代の世界で、共産ゲリラと呼ばれる連中が
カラシニコフを持っていても
マルクスやレーニンを読んでいるかどうかが
問題にならないように・・・

京都の仏教・神道関係者は
イエズス会やキリシタン大名達の所行を
十分承知していました
彼らにとって、信長は、事実上キリシタン大名でした
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京都の意味・・・歴史の考察

2016-06-20 19:09:16 | Weblog
カトリックの総本山バチカンは
不滅の生命力を持っているように見えます
何故でしょうか?

カトリック信者は、全世界に散らばり
しかも上流階級から、貧しい庶民にまで至ります
その広範な人々が、信仰心に支えられてバチカンに送る情報は
極めて確度が高く、信用のおけるものです
この情報により、バチカンは世界情勢を正確に認識し
それへの対応もまた、的確となり
不滅の政治力を発揮するのです

京都とは何でしょうか?
日本の仏教徒のバチカンです
各宗派の総本山、もしくは、それに匹敵する寺社が集まるところです
そこには、日本各地の各階層から集まる情報が集約されます
明治維新の神仏分離までは、日本は神仏習合ですから
当然ながら神社関係の情報も集まります
その頂点に天皇がおり、朝廷があったのです
京都は、日本全体の情報中心だったのです

戦国時代の末期、そして幕末
京都は、政治的蠢動の中心となりました
日本全体が大きく変わろうとする時
京都は、なぜか、変革の渦の中心になるのです
権力の中心でも、経済の中心でもないのに・・・
その理由こそ、京都の本質
日本の情報中心としての機能を持つことなのです

遠い九州の出来事であっても、それは京都に伝わります
イエズス会の宣教師達がしていること
キリシタン大名がしていること
すべて、京都の宗教関係者は知っていました


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京都に嫌われた織田信長・・・歴史の考察

2016-06-19 16:45:16 | Weblog
私が本能寺の変に関心を持ったきっかけは幾つかあります
その一つが、NHKテレビの

「その時歴史が動いた」

です

番組の中で、松平アナウンサーは

「信長が討たれると、京都全体がお祝いの様になった」

と言う意味のことを語っていました

織田信長は京都の人々に嫌われていたのです
なぜ、信長は京都の人々に嫌われていたのでしょう?
私は、その点に興味を持ちました

京都とは何か?
天皇のいる政治の中心でしょうか?
しかし、戦国時代も、現代も
天皇に政治的権威はあっても、権力はありません

特に、本能寺の変の前は
織田信長にすべての権力が集中しようとしていた時です
信長は、望めば
太政大臣、関白、征夷大将軍の、いずれにもなれたのです
朝廷は、どんな地位でも、信長に差し出す気でいました
このことを歴史学者は「三職推任」と呼んでいます

ひとたび、信長が上洛するとなれば
主だった公家達は、ただちに、信長の元に参上したのです
信長は、すでに京都では、絶対の権力者でした
京都ではなく、信長こそが
信長のいる場所が、権力の中心だったのです

京都の人々は、信長の何を嫌ったのでしょう
そして、京都とは?
もし、政治の中心でなければ、何だったのでしょう?




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黒人奴隷を解放した織田信長・・・歴史の考察

2016-06-18 18:17:42 | Weblog
織田信長には
弥助という黒人の小姓がいました
弥助について、少し書いておきましょう

弥助は、奴隷として
イエズス会の宣教師が日本に連れてきました
当時の日本人は、黒人を見るのは初めてです
人々は大変な興味を示し、大騒ぎになったのでした

信長も、大変な興味を示し、すぐに引見しました
信長は、わずかな日本語しか解しない弥助ではありましたが
互いにコミュニケーションが可能なことを見出すと
イエズス会から引き取り、自分の小姓としました

小姓というのは、現代で言えば秘書官のような立場です
武家社会では、小姓になることは、側近として、立身出世の早道です
小姓に取り立てられるのは
武家社会のエリートコースに乗ったことを意味します

弥助は、奴隷の身分を離れ
武家社会のエリートコースに乗ったのです
信長のしたことは
近代における、最初の”奴隷解放”だったかもしれません

弥助は、当時20代の半ば
188㎝の長身と、十人力と言われる体力の持ち主でした

本能寺の変の時は
信長の命により、二条御所に移った弥助は
そこで、明智方と戦い続けました

最後に弥助と対峙した武将は
おそらく、剣の達人だったのでしょう
剣を持って恐怖におののく弥助に対し

「恐れることはない、剣を捨てろ」

と言う意味のことを伝え、無事、弥助を保護しています

弥助は、片言の日本語と、表情や仕草だけで
相手の真意を読み取ることができたのです
弥助の身柄は、明智光秀の指示により、イエズス会に引き渡されています

イエズス会に保護された弥助は
信長が、明智光秀を足蹴にしたことや
本能寺で明智の軍勢の抱囲された時に

「こうなったのも自分に原因がある」

と語ったことを伝えました

そして、その時、信長は自分の唇を指さしたことも・・・

弥助とコミュニケーションをとる時に
信長は”自分”を意味する時
唇のあたりを指さすようにしていたことが
このエピソードから分かります

本能寺の変の後
羽柴秀吉は、イエズス会に対し
弥助の身柄の引き渡しを要求します
そして、弥助の身柄は秀吉に渡されました
以後、弥助に関する情報は消えます
秀吉は、本能寺の変の真相を知る者を消したのです




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