年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

有馬男爵は 虎に翼

2024年05月11日 | 宅老のグチ
虎に翼を何気なくみていて、急に有馬男爵が出てきた。当然ドラマだから、事実のそのままにはならないので何かの意図があると思える。有馬男爵と入力すると、競馬の有馬記念の有馬 頼寧が出て来る。この有馬家は福神漬の文献探しにわき役としてしばしば出てきて気になる人物だった。
 砂糖の日本史を調べていた時、静岡県の.森町出身の鈴木藤三郎の経歴から、彼が晩年住んでいた富士山麓の土地‣不二農園の経緯を調べに、静岡県裾野市の中央図書館というべき鈴木図書館へ行った。この鈴木という名称は鈴木藤三郎と関係ない人で、図書館で郷土資料の所で文献を探した。そこで見つけたのが温情舎小学校の本だった。
 今は聖心女子大系列の不二聖心女子高となっている。あまり気にしなかったのだがある時、地下鉄日比谷線広尾駅で降りると、目の前に学校の広告があって、不二聖心女子高の写真もあった。広尾駅は都立中央図書館への最寄りの駅で良く利用していた。今はシルバ-パスなので、たまに乗るのは広尾からの都バスとなる。
 温情舎小学校を作ったのが岩下清周であった。 彼は大阪の北浜銀行の経営者だった。日露戦争後の不況で失脚し、友人の世話で融資先の不二農園の株を与えられ、不二農園を余生の仕事として経営していた。この農園で働く人の教育のための温情舎小学校を設立した。
 後にキリスト系の病院も関係してくる。この病院はキリスト系の神山復生病院といって、民間のハンセン氏病の人達を受け入れていた。なぜか気になって、この病院の記念館を訪問した。ここはイルミネ-ションで有名な御殿場高原 時之栖(ときのすみか)ホテルに近い所で今は普通の地域病院となり、終末治療のホスピス病院となっている。岩下清周の長男岩下壮一が何代目かの院長をしていて、その時の日本のマリ―テラサといわれた井深八重という看護師が戦後にナイチンゲール賞を受賞している。(貧困や病に苦しむ人々の救済に生涯をささげ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ。)この井深八重は京都の同志社女子を出て、教員になるための時期にハンセン氏病の疑いのある症状が出て、親族からも迫害され、誤診となっても、社会復帰できず、悲惨な状況の患者を見捨てられず神山復生病院で看護師として働いた。同志社女子の同級生が有馬 頼寧の所で行儀見習いの時に見初められ、愛人関係を求められたが、正妻で無いと愛人関係を拒否され、有馬 頼寧がワザワサ御殿場近郊の病院に勤めている、井深八重に会いに行って説得を試みたが、失敗した。この経緯を『恋と伯爵と大正デモクラシー』という本で読んでびっくりした。今は御殿場線は東海道線が熱海のトンネルが出来るまで本線で有馬 頼寧が途中下車して訪問したのだろう。
 虎に翼での有馬男爵はハンセン氏病裁判の伏線の設定になるのだろうか。福神漬の関連の歴史を調べてゆくと脱線調査となって、本筋に行けないこともあるが常に資料・記録がない故、脱線も楽しみとなっている。年末の中央競馬の有馬記念の有馬は有馬 頼寧さんの事をいう。
 静岡県裾野市桃園の不二聖心女子高の前身となる温情舎小学校には校歌があって作詞が小林一三で作曲が宝塚歌劇団となっている。これは岩下清周の部下だった小林一三との関係だろう。小林一三には阪急百貨店の大食堂での福神漬の逸話が残る。当時の下層民の百貨店で贅沢の夢を見て、大食堂で白米のごはソ-ス・醤油をかけ、ただの福神漬で1食する。これを小林一三が容認した。
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