年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

港区・三田会館内友愛労働歴史館へ

2021年04月24日 | 宅老のグチ
叔父の軍歴と福神漬の関連で野田市のキッコ-マン本社の歴史を調べることがあって、その中で福神漬の歴史と関係なく、戦前の最長の野田労働争議が記録にしばしば出てくる。これは知れば知るほど戦争の前の日本の翼賛体制確立の争議だったように思える。前後、左右・赤白などのレッテル張りでライバルの陣営を叩いていた。そして関東大震災で治安維持の行動によって、選別された労働運動弾圧で昭和に入ったようだ。このことで叔父が野田市の野田農工学校で学んでいた時、昭和12年から13年頃の野田の町の労働争議による市内の重苦しい雰囲気があったと思われる。
 この争議の件は戦後の文献でも野田市民は語りたくないことのようだ。野田市の重要産業で今でもキッコ-マンの城下町であって、市民の対立となった争議はどの立場に立っても苦しかった様だ。最後は小学生の同盟休校まであって、地域の住民まで対立してしまった。
 醤油樽の製造加工労働者へ外部からの労働運動指導者が入り、争議の主導権を取って、企業城下町の争議が全国争議となった。樽から争議が始まったのはキッコ-マンが従来の問屋を通していたのを瓶詰にして、直接小売店に販売する時期となった。同時期に酒の販売が瓶詰になり、樽で販売し、小売店でとっくり容器に詰め替えることが消えつつあった。
技術革新と経営改革を進める会社と従来の労働者の既得権を守ろうとする危機感は外部の左派系洗脳者によって対立が増幅した。
 芝の友愛労働歴史館の展示はこの野田争議に活躍した人物が多く展示されている。
 松岡駒吉・渋沢栄一・鈴木文治・矢次一夫・吉野作造・安部磯雄・賀川豊彦・添田敬一郎・甘粕正彦・堺利彦・赤松克麿・大川周明・新渡戸稲造等の多数の戦争前の歴史を作った人がこの争議に参加していたことを知ると驚く。
 争議が終わると地域の融和を図る施設が次々と野田の街に出来て、比較的貧しかった叔父が野田の街の図書館等で勉強し、地域の農業指導の先生になることを目指し、埼玉師範学校へ行った。経歴から軍人になる話はなく、農産加工を目指していた気がする。しかし時局はその自由を奪った気がする。
 
コメント
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